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第二章:千日紅の虚偽を暴く 2


 なにこれ。
「お、美味しいんだけど!」
「絶品って言ったでしょ」
 サンドイッチを齧る妹尾さんのしたり顔が小憎たらしい。けれど私はそんなことも気にならないほど、このサンドイッチに夢中だった。
 狐色の表面が香ばしい食パン。季節の果物、つまり苺だとか木苺だとかがごろごろ入っていて、クリームはカスタードだかホイップだか得体の知れない、けれど仄かにヨーグルト風の酸味あるクリームだった。
 妹尾さんに許可をもらって、バラエティと呼ばれていた方のサンドイッチにも手を出したけれど、そっちもそっちで頬が蕩けて落ちそうなものばかりだった。コーヒーも豆から引いているのか、凄く香りが香ばしい。駄目だ。これはハマる。もっと早くにこのお店に来ていればよかったと、私は本気で後悔していた。
「そんだけ美味しそうに食べてくれよったら、こっちも嬉しいわ」
 伝票を置きに来た昌穂さんが言った。
「棗もそれぐらいいうてくれたらえぇのに。あ、隻さんあいつにこっちにもたまには顔出せゆーといて。最後に見たん正月やし」
「いいけど、棗最近忙しいみたいで、東京とこっち往復する毎日だし」
「棗先輩仕事できるから、東京の本社が引き抜きたいみたい。こっちも後任が決まらないから無理やり引き止めてるみたいで、棗先輩いっつも愚痴ってるし」
 人材溢れる大手メーカーにあるまじき采配だ。死ぬ死ぬと棗先輩は常に呻いている。
「森宮さんが後任候補なんじゃないの?」
「私?」
 私は自分でも素っ頓狂だと思う声を上げながら、自分を指差して首を振った。
「まさかぁ」
 棗先輩には毎日叱られている。アレだけ叱られて、よく仕事辞めないね、と周囲から言われ続けているほどだ。それでも私は棗先輩がとても面倒見のいい人だということを個人的に知っているし、叱られる理由も理解していて、更に言えば全て棗先輩に失態をフォローしていただいているので、ぐうの音もでないのだ。
「隻さんはこの棗から可愛がられているらしい後輩さんを、どないして紹介してもろたん?」
「紹介してもらったわけじゃないよ。たまたま知り合う機会があって、今日初めてお昼ごはんに誘ってみた。何せ毎日毎日、朝も昼も夜も男と顔を突き合わせて食事をとっているもんだから、たまにはこんな風に別嬪の女の子と食事してもいいんじゃないかと思って」
「宝石店の仕事って、女の人と係わらないの?」
 宝石といえば、女性というのは私の先入観だった。不思議に思って、私は尋ねてみた。
「お客さんは確かに女性が多いし、取引先にはそういう人もいるけれど、俺の仕事相手は男が多くて。店内も男ばかりだし」
 言われてみれば、確かにキャラメルボックスの店員さんたちは、皆美丈夫ばかりだった。女の人は客以外一人も見なかった。
「ユトちゃんも東京の大学いってしもうたもんなぁ」
「そうだよ。棗は除外して、叶と集と俺じゃ、家に花がない。仕事も家も男男男だとね」
 聞きなれない名前がいくつも上がって、私はサンドイッチをもふもふ齧りながら思った。ご兄弟の名前かな。
 棗先輩から、兄弟が多いのだ、ということを聞いたことがあった。どんなご兄弟ですか、と訊いたら、皆そっくりと棗先輩は言っていた。性格がそっくりなのかと思ったら、顔らしい。全員この目の前で昌穂さんと談笑している人みたいに、美人なのだろうか。
 お客さんの居なくなったテーブルの片付けに戻った昌穂さんの後を引き取る形で、私は会話に口を挟む。
「でも、女の人にはモテるでしょう?」
 いくつかの仕草から、妹尾さんは押し付けがましくない形で女性をたててくれるのだということを、私はなんとなく気取っていた。先ほど、戴きますを先に口にしていながら、私の準備が整うまで待っていたのもそうだし、歩いているときも車道側をさりげなく確保していた。愛想も悪くないし、話し上手だ。立ち姿や振る舞いも人目を引いて洗練されている。
 これでゲイです、なんていったら、私はよほどそういう道の人に縁があるのだと思って、笑えてしまうけれど。
「この年になると、寄ってくるのは旦那もちとかね。モテても嬉しくない相手ばかりだよ。一生に一度の恋愛を求めてすげなくお付き合いを断っていたら、今の年齢まで独り身に」
 おどけてそう言う妹尾さんからは、少し苦い恋の気配がする。
 私は棗先輩を知っている。大学時代、あの美貌に引かれてちょっかいを掛ける男は沢山いたけれど、ろくでもない男ばかりだった。堅実な男は、大抵自分のプライドをくすぐるような、平凡で優しい女を相手に選ぶのだ。
 妹尾さんもおそらく、と予想して、私は知らん振りを決め込んだ。彼のおどけにのって、そうなんですかぁ、と大仰に声を上げてみる。
「うわぁ信じてないって言い方」
「いやいや信じてる信じてる。一生に一度のホンモノの恋愛、あこがれますよ女なら。……男でも」
 にやりと笑って、私は言った。妹尾さんは信じてないよなぁこの口調、とぼやいて、それでも笑った。私も釣られて笑い、コーヒーにミルクを入れて、カップに口をつけた。
 それから、当たり障りのないことを話題にして、サンドイッチ片手に大騒ぎしていた。静かだったのは私がお手洗いに立った間と、休憩時間をオーバーするからといって、お店の電話を妹尾さんが借りていたときぐらいだった。キャラメルボックスに電話を入れようとしたら、携帯電話を忘れてきたみたいだと、妹尾さんはオオボケをかましていたのだ。隙のない棗先輩と違って、少しぼけたところのある人だと私は思った。
 一時間もするころには、サンドイッチは綺麗さっぱり平らげられていた。食が細めの私にしては、よく食べたと思う。もし残っていたのなら、お土産に持って帰りたかった。
「眠れないのなら、たくさん食べることだよ」
「はぁぁ?」
 昌穂さんが持ってきた食後のコーヒー、つまりお替りのコーヒーに口を着けながら、妹尾さんが言う。唐突な内容に、私はヤクザっぽい、あぁん、的な声で応じてしまった。
「ナンですか、突然」
「金曜より顔色悪く見えたから。ストレス性の不眠症なら、食べて食べて、そして眠ってしまうことが一番いいよ」
 妹尾さんとの会話は、何の気兼ねもなく楽しかった。人との会話がこんなに楽しいと思えたのは久しぶりだった。雪ちゃんと華ちゃんとの会話もお腹を抱えられるぐらい笑えるけれど、病んだ私を知っている彼らとの間には、そうしなければならない[・・・・・・・・・・・]ような空気がかすかにある。
 綺麗さっぱり、全てを失って日本に帰ってこなければならなかった私は酷く陰鬱で、華ちゃんはからかって茨姫と私を呼んだ。茨に包まれた城の中で、王子が来るまで眠り続ける姫君。
 けれど私は王子が来るまで眠り続けているわけにもいかなかったし、たまたま呉服屋に来ていた棗先輩と再会して仕事を紹介してもらってからは、仕事に没頭することで欝を振り払っていた。楽しい何かを見つけに自ら外へ出かけられるほどの気力は、まだ私になかった。
 だから久しぶりだった。
 こんなに純粋に、気兼ねなく、楽しかっただけの時間。
 その最後に、不意を突かれた形での一言だった。
「俺の気のせいなら、ゴメン」
「いや。大丈夫デス」
 眠れていないのは確かだった。華ちゃんの好意も、雪ちゃんの言葉も、和三盆やあったかいお茶も、やっぱり私を眠らせるには十分ではなかったのだ。
「今日は眠れるよ。お腹一杯だし。今から眠りたいぐらいだもん」
「それは牛になるって。まぁもう少し太ったほうがいいとは思うけど。ぽっちゃりしたほうが好みだし」
「なんで私が妹尾さんの好みに合わせなきゃなんないの。セクハラだセクハラだ」
 かえろーっと、私はそそくさと身の回りのものをまとめて立ち上がった。もちろん、先に帰ったりはしない。傘のお礼に、この昼食は私が奢る心積もりだった。けれどなんとなく、この人を先にいかせると、私の分まで払われてしまいそうな気がしたのだ。伝票はしっかり握り締めて、昌穂さんに差し出した。
「あ、何をしているんだこの子は」
 悪戯を咎める子供のような声がした。追いついてきた妹尾さんは、しっかり財布を握り締めていた。
「遅かったね。私もう払っちゃった」
 コーヒーが二杯もついた豪勢なランチ二人前の割には、千円冊二枚でおつりがあるという、大変懐に優しいものだった。
「あのねぇ。ここは普通男を立てておこうよ。昼食に誘ったのは俺だし」
「普段なら、わぁありがとうございますぅ! って猫撫で声つきで妹尾さんの立場を立ててあげるんだけど、今日は傘のお礼のつもりなので却下。またにしてクダサイ」
 もう払ってしまったし、と私は財布を入れて、鞄の留め金を大きく響かせた。妹尾さんはきょとんとして、そして何が可笑しいのか忍び笑いを漏らしていた。
「わかった、そうする。……ご馳走様昌穂。敦基にも宜しく」
「棗に伝言よろしゅうな。そっちの朔ちゃんも、また来てよ」
「はい」
 言われなくても絶対にここにくる。ショーケースに並んでいるケーキも見るからに美味しそうで、涎が零れそうだ。猫アレルギーさえなければ、雪ちゃん華ちゃんと連れ立ってくるのに。
「それじゃぁ俺は仕事に戻るから」
「今日と先日は、ありがとうございました」
 猫招館の前で、私は妹尾さんに頭を下げた。本当に楽しいひと時だった。それは本当だった。
 これから私は商店街を迂回して家に帰る。調味料を切らしていたから、今特売をしているスーパーに寄っていきたかった。妹尾さんはお仕事だ。宝石店が支店を出すので、その準備に忙殺されているということを、さっき食事の席で聞いたばかりだった。
「お礼はいいから、携帯電話出して?」
 色男におねだりされるのも悪くはなく、棗先輩の兄という縁のせいもあって、妹尾さんに対する警戒心はすっかり緩んでいた。
「仕事場に電話?」
 今から帰ります、とでも連絡するつもりかと、私は素直に自分の携帯電話を手渡していた。ピンクがかったメタリックシルバー。キャリアーは元電電公社。
 ところが私の予想に反して、妹尾さんは胸ポケットから自らの携帯電話を取り出していた。
「携帯、忘れたんじゃ?」
「と、思ったらあった」
 鼻歌を歌いながら、妹尾さんは手早く私の携帯電話と彼の携帯電話の両方を操作していた。
 この人は、もしかして電話を忘れたことを私に印象付けるために、わざと店の電話を使ったのではないだろうか。思わずそう邪推してしまった。そうでなければ、いくら妹尾さんが棗先輩の兄だとしても、私は彼に携帯電話を手渡すことを渋っただろう。
「はい。ありがとう」
 私は戻ってきた携帯電話に視線を落として、妹尾さんに尋ねた。
「何をしたの?」
「赤外線通信」
「赤外線通信?」
「知らないのか。道理で、自局番号しか登録されていないはずだ」
 自局番号って、メニューでゼロを押したら出てくる自分の電話番号のことだろうか。赤外線通信だなんて、私が米国にいた頃使っていた、フィンランドの某メーカーの古い機種にはついていなかった。頭上に疑問符を浮かべている私に、妹尾さんはまぁいいよ、と嘆息した。
「その携帯電話に、俺のアドレスと番号登録しておいたから、また都合のいいときに連絡クダサイ」
「え」
「次回は奢らせてくれるんだよね?」
 甘い毒を含む笑顔を浮かべる妹尾さんが指し示すところは、先ほどの料金精算のやり取りが関係しているようだった。確かに私は、無意識のうちに「またにして」と口走っていた。
「あ、あと俺のことは隻でいいよ。棗とも知り合いなら、ややこしいから」
 妹尾さん、って呼ばれるのはどうにも慣れない。肩をすくめた妹尾さんは、展開の速さについていけず呆然となっている私に、じゃぁ、と手を振って踵を返していた。
「またね、朔ちゃん」
 柔らかく呼ばれる、名前。
 馴れ馴れしいなとは思ったけれど、不快ではない。あまりに鮮やかな手並みに、女の子とのお付き合いを断り続けていたということは嘘だな、と私は確信していた。女慣れしていなければ、こんな真似ができるはずがない。
 楽しかったことは確かだ。否定できない。
 私は隻さん[・・・]の背中を見送ったあと、嘆息して、携帯のフリップを開いていた。


From timberyardXXXXX@XXXX.ne.jp
Subject 森宮朔です。
『今日は有難う。電話番号は080XXXXXXXXです。とっても美味しかったし、楽しかった。お陰でいい日曜日でした』

From 妹尾隻
Subject いい日曜日でしたって
『このメール送ったとき、まだお昼だったでしょう。仕事終わってメール確認したら、思わず噴出したよ。最終的にはどうだった?』

From 森宮朔
Subject Re 今日は
『ご飯は美味しかったし、お昼寝は沢山したし、今本読んでるんだけど、それが面白くて、いい日曜日だったと思う』

From 妹尾隻
Subject Re 本って
『今日買ってたハードカバー?』

From 森宮朔
Subject Re そうそう
『ミステリーで、凄く面白かったの。今最初から読み直してるところ』

From 妹尾隻
Subject Re また
『今度内容について教えて。でも今日はそろそろ寝ておきなよ。鏡で目の下に出来てる隈、確認しておいたほうがいいしね』

From 森宮朔
Subject Re Σ( ̄Д ̄)
『うわぁ本当に隈ができてる! ナニコレ知ってるんだったらお昼に教えておいてよ』

From 妹尾隻
Subject Re だから
『疲れた顔しているって俺言った』

From 森宮朔
Subject Re くそぅ
『大人しく、ご忠告の通り、今日はもう眠ります。おやすみなさい』

From 妹尾隻
Subject Re はいはい
『おやすみなさい』


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