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第二章:千日紅の虚偽を暴く 1


 宝石店キャラメルボックス。
 名刺に印刷された店舗の名前は私だって知っていた。通りこそ違えど、雪ちゃんと華ちゃんの呉服屋と同じ繁華街の中にある宝石店だった。ただ、直線距離で一番遠いところにあったけれど。
 レンガ造りの瀟洒な建物。ショーウインドウに並ぶ装飾品は、私の目からみてもとても趣味のいいものばかりだった。値段も、目玉が転がってしまうようなものから、とてもお手軽なものまで様々だった。
 翌日の日曜日、私は天気が良いのに、傘を抱えてその店舗の前にいた。私を横切って、高校生ぐらいの女の子達数人が店に入っていく。高校生、もしくは大学生だ。どちらにしろ、そんな若い子たちにとっては見るからに敷居が高そうなんだけど、彼女らは慣れた足取りだった。
 大型ショッピングモールに客層を取られることが多い今の時代に相反して、私たちの暮らす商店街はとても賑やかだ。人目が気になって、私は意を決して足を踏み入れた。さっさとこの傘を返して、家に帰ってのんびりしたい。昨日は身体的にも精神的にも、疲れることが多すぎたし。
「いらっしゃいませ」
 輪唱のように、店員から歓迎の声。店内も外見と同じように瀟洒で、とても雰囲気のよいものだった。正面に大きなショーカウンター。両サイドは壁面の窪みに綺麗にアクセサリーが並べられている。若い女の子たちは、その一角にある棚の前に群がっていた。そこにはクリスタルビーズをあしらったアクセサリーが並べられていて、皆そこに並ぶ品物が目当てみたいだった。ちらりと値段と品物を見たけれど、うん、確かにこの値段なら、その辺りの雑貨屋さんで売っているものよりは少し割高だけれど、とても品がいいし価値がある。女の子たちも心得たもので、静かな店内にあわせるように息を潜めて、用意されたビロード張りのトレイを片手に、真剣に品物を物色していた。
 私は傘を抱きしめたまま、うろうろと店内を見て回った。思いのほか、可愛らしくて、そして艶のあるデザインばかり。中にはアンティークの物もあって、私はこの店がすぐ好きになった。
 このお店の雰囲気は、雪ちゃんたちのお店のそれにとてもよく似ている。
 そして、店員の人たち。
 カウンターの席で老婦人の相手をしているお兄さんも、黙々と硝子を磨く少年も、店内を見張るようにお店の中央で背筋を伸ばしているおじ様も、皆眉目秀麗な人たちばかりだった。ミーハーな友達を連れてきたら、うぉおおいい男がたくさん、とか叫んで、暴走してしまいそうなほど。
「何か、お探しですか?」
「え?」
 いつの間にか、傍らに立っていた店員の人が、私に微笑みかけていた。
 二十歳前後の綺麗な男の人だ。雪ちゃんに雰囲気が少し似ている。
 ミーハーでない私も、なんだか緊張してしまった。見るからに年下の子相手なのに。
「あの、妹尾さんっていらっしゃいますか?」
 名刺に書かれた名前は、妹尾隻といった。せき、と読むのだろうか。珍しい名前だなというのが私の抱いた感想だった。
 私の仕事の世話をしてくれた先輩も、恐ろしいほどの美人で妹尾という。妹尾という苗字の人には、美人が多いのだろうかと、私は思った。先輩は女の人だけれど。
「はい。失礼ですが、ご用件をお伺いしてもよろしいですか?」
「先日、傘を借りたので返しに来たんです。こちらにいらっしゃる、ということをお伺いしましたので」
 ブランド物の傘を握り締めながら、冷や汗だくだくの私の返答に、店員のお兄さんは柔らかく微笑んだ。
「かしこまりました。ではそちらの席におかけになってお待ちください」
 そうして指し示されたのは、小さなテーブル席だ。ホテルのコーヒーラウンジにでも置かれていそうな、一人掛けのソファーが二脚、テーブルを挟んで置かれている。所在無く私はそこに腰を掛けて、あまりの座り心地のよさに、どこでこのソファー売っているんだろうと思わずタグを探した。
「お待たせいたしました」
 うわ、こいつデンマーク製だよ、と、布に刺繍された見知ったブランド名に舌打ちした私の頭上から、聞き覚えのある穏やかな声がした。私は慌てて居住まいを正した。かたん、と音を立てて、目の前のソファーが後ろに引かれる。続けて腰を落としてきた人は、あの雨の中、私に傘を手渡してきた人と相違なかった。
「まさか本当に返しに来るとは」
 妹尾さんは、苦笑しながらコメントした。
「返しに来ますよ。借り物ですから」
 私はすまし顔でそう言って、傘を妹尾さんに差し出した。
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそありがとうございました。助かりました。とても」
 この傘には本当に助けられた。大きめの傘は、私の買ったばかりのスプリングコートをしっかりと守ってくれた。あのスプリングコートは高かったのだ。降ろしたばかりのコートが、雨で汚れてしまうところだった。
 私が頭を下げると、妹尾さんは困惑の表情を浮かべて手を振ってきた。
「いいですよ、それぐらい」
「でも助かりました」
 妹尾さんが嘆息して、手元の傘に視線を落とす。何か違和感があるのだろうか。ずっと握り締めていたので、汗で湿っているかもしれない。私は胸中でこっそりと謝罪しておいた。
「今から、暇ですか?」
 面を上げた妹尾さんは、唐突にそんなことを尋ねてきた。私は何の話だ、と眉間に縦皺二本を刻んで、首を傾げる。
「……は、い?」
「もうすぐお昼休憩なので。もしよければ、お昼でもご一緒に、と。昼食はもうとられましたか?」
「いえ、まだですけど……」
「忙しいですか?」
「暇、なことは暇ですが」
 何度も繰り返すが、私は家でごろごろしたい気分で一杯だった。今日は天気もいいし、ぽかぽかと日のあたるあの部屋で、毛布に包まってお昼寝したい。
「もし、よろしければ」
 妹尾さんはそういうが、傘のこともあるので、半ば強制みたいなものだった。私はその雰囲気に気圧されるように、はい、と頷いていて、そうすると彼はあまりにも子供っぽく破顔した。
 私が、呆気に取られるぐらいに、なんだか可愛らしかった。


 それから仕事の残りを済ませるために戻った妹尾さんとは、近くの本屋で待ち合わせした。時代遅れの瓶底メガネを掛けたぼさぼさ頭のお兄さんが店番をしている古いお店。古本ばかりだけど、立ち読みし放題だ。
 ――貴方が殺したのね。何を言っているんだ。そんな探偵面をして。あいつらを殺したのは僕じゃない。他でもない、君じゃないか。もう一つの、君の……――
 没頭しながらミステリー小説のクライマックスを読んでいたところで、背後からお声がかかった。
「お待たせ」
「ひゃぅ!」
 あまりにも小説の世界に没頭していた私は、ぽん、と肩に置かれた手に、なんともいえない間抜けな声を上げていた。店番のお兄さんがばさりと本を落とし、周囲の人々の驚きの視線が私にざくざく突き刺さる。
 振り返ると、妹尾さんが口元に手を当てて笑いを堪えていた。
「……妹尾さん」
「いや、ゴメン。なかなか可愛い声だった」
「茶化さないでくださいよ」
「ゴメンナサイ」
 なおも笑い募る妹尾さんに、私は嘆息した。ひとまずこの本は買いだ。本当は新品の単行本を買いたかったけれど、これだけ人の注目を集めておいて、今更すごすごと退散することはできなかった。私は小心者なのだ。今私の手の中にある本が、比較的綺麗なハードカバーであることに感謝しなければ。
「お代払ってきますんで、外で待っていていただけますか?」
 妹尾さんは頷いて、本屋の外へ出て行った。私は慌てて店番のお兄さんの前に駆け込んで、精算を済ませる。
「お待たせしました」
「いえいえ」
 にこりと微笑む妹尾さんは、嫌味のように男前だ。今日もスーツを隙なく着こなしている。
「少し歩きますけど、大丈夫?」
「えぇ。どこにいくつもりですか?」
猫招館[しゃおへいかん]っていう喫茶店。知ってます?」
 私は頷いた。知ってるも何も、この辺りに住んでいれば有名な喫茶店だ。食事も内装も最高級。値段は庶民的。飲食店だというのに足元をうろつく猫がなければ、テレビがこぞって紹介したくなるような。
「行ったことは?」
「ありません。家族が猫アレルギーなので」
 家族、というか雪ちゃんが。猫の毛が駄目らしい。猫を飼えないから朔ちゃんを飼っているんだよ、とは華ちゃんの弁。
「あ、猫駄目でしたか?」
「私は好きです凄く」
 凄く、に力を込めると、妹尾さんはまた噴出した。私は、彼の笑いのツボを突いたのだろうか。
「そうか。でもご家族がアレルギーなら、いかないほうが良いですかね」
「家に帰る前に毛取りしますし。大丈夫です。一度行ってみたかったので」
「よかった」
 あそこのサンドイッチは絶品ですよ、と妹尾さんは笑って言った。
 猫招館は商店街から外れた、住宅街の入り口にある。駐車場には車が数台停まっていて、窓から見える店内も賑やかそうだった。丁度お昼時だし、席は埋まっているのではないだろうかと懸念する私を他所に、妹尾さんはすたすた入店していく。
「おぉ。ニーサン待っとったよ」
 からころというドアベルの音に混じって、店内から関西弁が響いた。
「席取ってくれたよね?」
 奥のカウンター席から顔を覗かせた店員さんに、妹尾さんは声をかける。ギャルソンの制服を着た、やっぱり三十代前後のお兄さん。常連なのかもしれない。顔見知りらしい気安さがそこにある。
「もちろんやって。急に電話くれるからビックリしたわ。席とれーなんて今までないやん」
「今日は俺一人じゃないから、奥の居間で食べさせてもらうわけにもいかないしね」
 そういって、妹尾さんは私の身体をぽん、と前に押し出した。サッカーのラジオ中継が、低いヴォリュームで流れる店内。この近所に住むと思われる妙齢のご婦人や、ご老体の方々がそれぞれ食事を挟んで談笑している。誰一人私に注目しているとは思えなかったけれど、少し気恥ずかしいものがあった。
「なん、別嬪さんつれて。そなん早くいいないな。席はあっちの奥やで。窓際の」
 妹尾さんは店員さんからメニューを受け取って、私の肩を叩いた。行こう、ということらしい。
 窓際の席は暖かく、けれど太陽の光が直接飛び込んでくるまでもないので、日差しが気になる年代の私としては、それがとてもありがたい。
「なんか、あの人勘違いしてますよね」
「君が彼女だとかそういう関係だと、彼は思っていませんよ。……名前も、まだ知らないのに、こっちも冗談でも彼女ですなんて紹介するようなことはできませんよ」
「あぁ……そうでした」
 名刺をもらったので妹尾さんの名前だけは知っている。けれどお互いに自己紹介も済ませていないということに、私は今更気がついた。
「では改めて。妹尾隻です……そろそろ、敬語でなくともかまわないかな。仕事でもないのに敬語を使うと、肩が凝る」
「いいですよ」
 私は笑いながら頷いて、あぁやっぱりあの名前はセキと読むのだ、と思った。敬語は、営業用らしい。
「森宮朔です」
 私は、思いついて、鞄の中から名刺入れを取り出した。ほとんど使うことはないにしても、大手企業勤めともなると、私も一応持っている。自分の名刺を差し出すと、どうもどうも、と、営業のやり取りっぽく妹尾さんは受け取ってくれた。
「朔って、珍しい漢字だね……あぁやっぱり、あの会社の子だったのか」
 私の名刺を眺めて妹尾さんが言う。その後、彼はそれを丁寧に、あの皮の名刺入れに仕舞い直した。
「やっぱりって」
「鞄から覗いていた茶封筒のロゴに、見覚えがあったから。俺の妹がそこで働いてるし」
 あの日、持って帰っていた茶封筒。確かにあれは、私が勤める会社のもの。
「妹……?」
 私は、妹尾さんの茶封筒発言もそうだし、後半の部分も気になっていた。
 妹尾妹。つまり、妹尾の、女の方。
 もしかして。いや、もしかして。冷や汗をかきながら、私はお世話になりっぱなしの、女王様と呼びたくなる美貌の女性を脳裏に浮かべた。少し身を乗り出し、躊躇いがちに尋ねてみる。
「妹尾、棗さん……?」
「知ってるの?」
 ぱちぱち、と目を瞬かせて妹尾さんが声を上げた。私は頷いた。
「私、大学の後輩なんです。その会社に今勤めているのも、先輩のお陰で」
「うわぁ……」
 世界は狭い、という言葉を、妹尾さんは飲み込んだ。私もそう思った。
「注文決まったかー?」
 伝票が挟まったクリップボードを持って現れたお兄さんの一言に、私は慌ててメニューを見直した。お昼ごはん、まだ何も決めてない。
「俺はいつもの。ねぇ聞いてくれる昌穂。この子、実は棗の大学の後輩なんだって。仲良しみたいだよ棗と」
「うわそらまたごっついなぁー!」
 マサホ、と呼ばれた店員のお兄さんは、私と妹尾さんの前に、ナプキンとナイフとフォークを丁寧に並べながら、とても派手なリアクションで驚きを表現してくれた。
「こっちは昌穂。この店の店長。棗の高校の頃の同級なんだ」
 先輩の、同級!?
 それこそこっちもビックリだ。会話の内容から、棗先輩とは親しいことが窺える。あの気性の先輩と、長く付き合える男の人がいるだなんて。
「てか隻さんやばいんちゃうんか。棗の後輩に手ぇ出したりして。こんなところでデートやなんて、バレたらシバキやで絶対」
「うわー嫌だ。それは凄く嫌だ」
「ちょ、私この人と付き合ったりしてないんだけど!」
 会話の流れがさっきの妹尾さんの発言とあまりにも違っていたので、私は思わず声を上げていた。素が出た。しまった、と顔をしかめる私とは対照的に、妹尾さんと昌穂さんは笑い声を立てていた。
「なん、知っとるよ。気に障ったらゴメンナサイ。お詫びにドリンクおまけしておくわ」
 注文は、と悪びれず言うお兄さんに、私は釈然としないものを覚えながらも、コーヒーと、絶品だと妹尾さんが主張するサンドイッチを注文しておいた。種類が色々あったので、私はひとまずフルーツサンド、とか書かれている奴を選ぶ。
「すぐ出来るから、ゆっくりしとって」
 笑いながら注文を控え、昌穂さんはカウンターに戻っていった。
「それにしても、奇遇だった。目立つだろうから、顔ぐらいは知っているとは思ったけど。まさか大学の後輩とは」
「本当です……顔そっくりですよ」
 私の先輩兼、目の前の人の妹である妹尾棗先輩は、何度も繰り返すようだけれど、同じ女として鳥肌が立つような美人だ。実際比喩ではなく、大学時代、先輩と初対面のときに総毛立った。ありえないと思ったのだ。先輩は単なる美人ではなく、頭もよかったし、スタイルもよかった。その凡人とは一線を画す、なんともいえないオーラが、妹尾さんと同じだ。
「敬語はなくていいよ」
「でも先輩のお兄さんってことは、妹尾さんは要するに凄く年上じゃないですか」
「凄くっていうのは傷つくな。俺と棗は年子だよ。棗が大学の先輩なら、大して年が離れてるわけでもないでしょう。話しにくいならそのままでもかまわないけれど、俺個人としては敬語で話しかけられるのは苦手かな。棗がこの件を知ったら、俺を指差して、コイツに敬語を使う必要はないって絶対言い放つよ」
 その様子が、容易に想像できてしまって、私は思わず笑ってしまった。棗先輩は、オニイサンという存在に対して、遠慮があるようなタイプじゃない。
「判りました。でも、生意気だっていう苦情は受付不可だから」
 ちょっとぎこちないタメ口で、私は言った。了解、と彼は軽快に笑い、この人懐こい笑みが、棗先輩を連想させなかったのだと私は納得した。
「はいおまっとう」
 程なくして昌穂さんが運んできたのは籐の籠。目を丸くする私に、昌穂さんはウインク一つ。葡萄の柄がプリントされた紙ナプキンが敷き詰められた籠の中には、表面をかりかりに焼いたサンドイッチがみっちり詰まっていた。
「お姉さんから見て、右っ側がフルーツサンドな。今日のフルーツはベリー系三種類と柑橘系四種類やから。左が隻さんの頼んだバラエティ。卵サンドと海老マヨネーズサンドと、鳥のささみとレタスとカマンベールを挟んだ奴。コーヒー二つ、とりあえず今持ってきたけど、食後もサービスで持ってくるし」
 とんとんとん、と、取り皿とコーヒー、ミルクピッチャーと、小さな陶器の壷を置いて昌穂さんは手早く説明していく。たかがサンドイッチの癖に凄い手の込んだものなのだということは判った。一つ一つは確かに赤ん坊の手のひらぐらいに小さいけれど、量が量だ。こんなに一杯、食べきれるかな。
 陶器の壷の蓋を開けると、中には茶色の宝石屑みたいなコーヒーシュガーが入っていた。
「それじゃぁ食べようか。時間もあまりないし」
 戴きます、と手を合わせる妹尾さんを見て、私は思い出した。私はとても暇だけれど、この人は午後からまた仕事があるのだ。
 私は鞄からハンカチを取り出して、スカートの上に広げた。今身につけている春もののスカートはお気に入りの品だ。私はあまり綺麗にものを食べられるほうじゃないので、パン屑をぽろぽろ落として汚してしまうのは嫌だった。
 私も戴きます、と手を合わせた。妹尾さんは私が手を出すのを待っていてくれたらしく、さりげないレディーファーストっぷりはさすがと思ってしまった。


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