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第一章:千日紅の虚偽との再会 2


 私が案内されたのは、小奇麗なアパートの一室だった。大学時代の優奈の部屋はいつも片付いていたと記憶している。けれどそれにしては、1Kの部屋は片付きすぎていた。
 端的に言えば、ものがなさすぎた。
「優奈、引越しでもするの?」
 そんな言葉がついてでたとしても不思議なことではない。私の唇から滑り落ちた問いに、優奈は小さく頷く。
「うん」
「どこに?」
「実家です」
「石川の?」
 石川県の片田舎にある、優奈の実家を一度訪ねたことがある。優奈の母親は、彼女がそのまま優しく年老いたかのような人だった。私達に時折野菜を送ってくれていた、彼女の家族。
「引っ越しました」
 優奈は決して饒舌なほうではない。けれど、今日はいつもにも増して口数が少ない。
 優奈はテーブルを挟んで私の前に腰を下ろしかけ、あ、と口元を押さえた。
「お茶、出してませんでした。すみません今」
「そんなの、いいから」
 腰を上げる優奈の手首を取り、私は嘆息した。茶なんていい。それよりも、彼女を取り巻く鬱屈とした雰囲気が何よりも気になる。
「……話って、一体何なの? この様子じゃ、結婚式の二次会の相談、とか、そういうのじゃ、ないんでしょ?」
 歯切れ悪く問いかけながら私は部屋を見回した。
 今日一日買い物に付き合っていたというのに、百花も拓海も、優奈の引越しについては何一つ言及していなかった。体調が悪いらしく、最近付き合いが悪い。そればかりだった。あの様子では、優奈が引越しをしようとしているなど知りもしないのだろう。もし知っているのなら、引越しで忙しいのだろうという推測一つ、会話に上ってもおかしくはないはずだから。
 ぺたん、と座布団の上に腰を落とした優奈は、虚ろな眼差しで私を見上げてきた。まるで助けを請うような彼女の眼差しに、思わずたじろぐ。せんぱい、という震えた呼びかけが優奈の唇から零れ落ち、みるみるうちに彼女の瞳に涙が溜まった。
「……ゆな?」
「……せんぱい」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしはじめ、せんぱい、と繰り返すばかりの優奈に、私は当惑しながら下唇を噛み締めた。白い肌に朱が差し、透明な雫が滑らかな彼女の頬を伝う。
「泣いてばかりじゃ、わからないでしょ」
「私、あかちゃんがいるんです」
 ほら、と促しかけた私は、驚愕に身体を硬直させ、優奈を見据えた。
 紅を差したように頬を赤くして、ぽろぽろと雫を零す彼女は、濡れた睫毛を震わせて私を見上げてくる。
「……赤ちゃん?」
 優奈の手首を握りなおし、私は呻きながら、彼女の腹部をテーブル越しに一瞥した。シフォンのスカートに覆われた薄い腹部には、彼女が意図するところの妊娠の兆候は一切見られない。
 信じられない思いで、優奈を見つめる。彼女ははっきりと、こう継げた。
「拓海の、赤ちゃんが」
 いるんです、と。
 語尾は、蚊の鳴くような声だった。
 拓海?
 優奈が発した言葉の意味を、正確に咀嚼するには数秒要した。私は呆然となりながら 唇を動かす。いくつかの言葉が喉元まで上がっては音もなく虚空に溶け、深いため息とともに吐き出された呟きは、なにそれ、の一言だった。
 拓海、というと、あの、拓海に、他ならない。
 他に、拓海と呼ばれる優奈と親しい男を、私は知らない。
「ちょっとまって拓海って、百花と結婚する、あの、拓海よね?」
 混乱する意識を落ち着けるために額に手をやりつつ優奈に尋ねる。白い頬に涙を滑らしながら、彼女は静かに、しかし明確に首を縦に振った。
「い、一体、なんでそんなことになってるわけ?」
 混乱の極みに達した私は、項垂れながら呻く。優奈に対しての問いというよりも、確認の為の自問に近かった。
「私、ずっと拓海のこと、好きだったんです。……先輩なら、わかってたでしょう?」
 鼻をすすりながらの優奈の呻きを否定できず、思わず私は口を紡ぐ。確かに、優奈の拓海への仄かな恋情を、知らなかったわけではなかった。
 この三人を傍で見つめてきて、全く気付かなかったわけではない。気付かなかったはずがない。
「それでも」
 それでも、私が口を閉ざし続けてきたのには理由がある。
「それでも、優奈は」
 私は下唇をそっと噛み締め、後に続く言葉を飲み込んだ。
 優奈は確かに拓海を好いていたが、それでも彼女はひっそりと笑うことを選んだのだ。あの二人の傍で、友人であることを選んだはずだった。
 拓海に恋し、それと同時に、百花も至上の友人として、大切にしていた少女が優奈だったのだから。
「ふっ、ふたりの、結婚が、決まって」
 頬を滑る涙を手の甲で拭いながら、優奈は口を開いた。
「いったんです。好きでしたって。じょ、冗談で、終わらせる、つもりで。お、お酒の席で。ももか、よっぱらって、もう、いなくて。そしたら、雰囲気で、そういう、ことに、なって」
「お酒」
「お酒です……」
 ひっく、としゃくりあげながら私の言葉を優奈は反芻する。私は彼女の言葉に耳を傾けながら、意識の隅で瞬く記憶の破片から目を背けた。
 グラスから滑り落ちる、赫い雫。
 理性を取り去る、魔法の水。
 空になったグラスを、私は覚えていない。
 優奈はしゃくりあげながら、言葉を続ける。
「で、でも、一回だけだったんです。一回だけ、これで、おもいでに、できるんだって。そう」
「……百花への裏切りだって、思わなかったの?」
「思ったけど。でも……でも!」
 拓海と百花の傍で、ずっと微笑んでいた分の、重み。
 叶わない恋ほど、想いは重みを増すだろう。
 酒が理性の掛け金を外してしまった。そういうこと、だろうか。
「まさか、こんなことに、なるなんて、思わなくて……!」
「……拓海はなんて?」
 悲痛な後輩の叫びに、私は顔をしかめながら尋ねる。しばし沈黙した優奈は、小さく頭を振って下唇を噛み締めた。
「……メール、返って来ませんでした」
 掠れた声には絶望が滲む。
「着信も、拒否、されてると思います」
「……そう」
 私は周囲を再び一瞥した。まるでひっそりと立つ鳥のように、水跡を濁さぬように、片付けられた部屋。
「何ヶ月?」
 声量はかなり抑えたはずだが、空虚な部屋にその問いはよく響いた。
「……今週で、三ヶ月です」
 俯いたまま紡がれた優奈の言葉はくぐもっている。さらさらと肩口に零れ落ちる彼女の髪を見つめながら、私は嘆息した。三ヶ月ということは妊娠して八週目だ。中絶するのなら、早くしなければ間に合わないということを意味する。
「産むの?」
 優奈は首を振って否定した。
「いいえ」
 初期中絶が可能なのは十一週目まで。胎児の成長は私達の想像を絶して早いし、十二週目を過ぎれば、例え中絶できても死亡届などの手続きも必要になる。母体となる優奈に対する肉体的負担も相当なものだ。
「手術は」
「日取り、決まっています。来週の、土曜日です」
 ずっと、鼻をすすり、優奈は面を上げる。もう涙は零れてはいなかったが、涙の跡が白く粉を拭き、血色は失せていた。
 ピエタの聖母のようだ、と思ったことを、思い出す。
 慈悲[ピエタ]。そう名づけられた、幼いキリストを抱いて深い哀しみに微笑む聖母のようだと。
 ずっと傍で愛した男の子供を手放す決断を、彼女はどのようにして下したのだろう。
 それとも、ずっと傍で見守り続けた親友への裏切りの象徴ともいえる子供を持つことに、耐えることができなかったのだろうか。
 そして今日の拓海の表情を思い出す。百花はマリッジブルーといった。けれどもしかして、彼らのすれ違いは、優奈のことを端に発しているのかもしれない。百花が、そのことを知らなかったとしても。
「先輩」
 テーブルの上に置かれた私の手を、今度は優奈が握り返す。柔らかいが、冷えた手だった。その背筋を這い登るような冷えた温度に唾を嚥下しながら、私は後輩の懇願を聞いた。
「手術に、付き添っていただけませんか?」


 商店街の入り口近くにある呉服店の二階が華ちゃんと雪ちゃんの家で、つまるところ私の家だ。もう二本、通りがずれると夜もそれなりに賑やかだけれど、こっちの通りは比較的静か。下りたシャッターの並ぶ通りを抜け、路地裏に入ると、鍵を取り出す前に店の裏口が開いた。
「遅かったなぁ朔ちゃん」
 朗らかな笑顔で迎えたのは華ちゃんだった。店の制服でもある作務衣姿で、彼の欠けた八重歯が明るい店内の光を反射していた。
「あぁ、朔ちゃん帰ってきたのですか?」
 反物を抱えながら華ちゃんの背後から顔をのぞかせたのは無論、雪ちゃん。変わらぬ穏やかな微笑を浮かべて、彼はお帰りなさいといった。
「……うん。ただいま」
 泣きたくなった。
 どうしようもなく。
 この穏やかさだけが今の現実であって欲しいと、私は強く願った。
 胸を痛める日々から、もうずっと遠ざかっていたいのだと。


 部屋に戻った私は、ベッドの上に腰を下ろして窓を見つめた。シャワーを浴びている間に、雨が降り出していたらしい。季節の変わり目らしく、最近雨が多い。水滴が滝のように硝子の上を滑っている。カーテンを引く音に似た雨のそれが、途切れることなく部屋を満たしていた。
 私は、膝を抱えて下唇を噛み締めた。
『子供が』
 腹部に手を添え、そう呟いた優奈の顔を思い返す。深い深い悲哀に、沈む後輩の顔。どうすることも出来ず、助けを私に求めてきた、可愛い後輩。
 抱えている膝に、爪を食い込ませて私は瞼を閉じる。
 今の自分に、あの後輩を放り出すことはどうしてもできない。
 どうして人は穏やかに恋をすることが出来ないのだろう。
 どうして人は、幸福な恋だけを選ぶことができないのだろう。
 かつて、夢に見たことがある。
 まるで呪詛のように、繰り返し。
 リノウムの床に反射する、非常灯の橙の明かり。非常口を告げる薄緑のランプ。赤子の鳴き声。葬列のように翻る、医師の空色の衣服の端。
 シャーレーの上に置かれた、赤黒い塊。
 自分は、悪夢で終わったけれども。
 優奈は。
「サクちゃん?」
 軽いノックの音と、入るよ、という控えめの問いに、私の意識は引き戻された。面を上げると、お盆の上に茶器と和三盆を乗せた雪ちゃんの姿。私は慌てて箪笥に飛びつき、引き出しの中をかき回した。
 部屋においてはジャージとトレーナーだけでごろごろすることも珍しくはなくて、特に疲れきった本日も例外ではなかった。ぶかぶかの下着の上にぶかぶかのトレーナーを一枚着ているだけで、どこかに放り投げたジャージを探さなければならない始末。
 戸口に佇む雪ちゃんは、そんな私に苦笑を浮かべつつ、もう一度扉を閉じてくれた。そして、私が上下をきちんと身につけるまでそこから動こうとはしなかった。
「もう入ってもいいですか?」
「うん」
 扉が開いて、滑り込むようにして雪ちゃんが部屋に入ってくる。簡易テーブルの上に、お盆ごとお茶セットを置く雪ちゃんに、私は慌てて座布団を勧めた。勧めに応じる雪ちゃんの微笑みは穏やかで、動作一つ一つが洗練されている。
「朔ちゃん」
 茶器に手をそえて優雅に緑茶を淹れる雪ちゃんの姿に陶然となっていた私は、何げない風を装った彼の声に首を傾げかけ。
「何かありました?」
 鋭さを残す問いに、表情を強張らせた。
「……何かって」
「気落ちしているように見えましたから」
 どうぞ、と淹れ立ての茶を差し出して雪ちゃんは笑う。どう言葉を繋げるべきか考えあぐねている私に、彼は続けた。
「華が心配していました。お茶を持っていくように僕に言ったのも華ですから。朔ちゃんの顔に血の気がなくて、具合が悪いんじゃないかと酷くあせっていましたので」
「……体調は悪くはないよ?」
「体調は悪くはないでしょうが、何かあったのは確かでしょう?」
 帰宅してから顔を合わせたのは、僅か帰宅時と夕食時程度だ。だというのにどうしてこんなにも、この二人は勘がいい。
 人の機微に聡いことは知っている。人が負った傷に聡いことも。だからこそ二人は得体の知れない私を、あっさりと自分たちの生活の中に迎え入れてしまったのだ。
 そして自分たちの懐に入れた迷い猫の私の様子を、彼らは注意深く観察している――私が決して、弱らないように。少しずつ、傷を癒していけるように。
 言葉を上手く繋ぐことが出来ないでいる私に、雪ちゃんが手を伸ばしてきた。頭の一角に指先が触れる。蹲る猫を労わって撫でるように、彼の手先が動いた。
「無理に聞くつもりはもちろんありません。ですが様子がおかしいと、やはり気になってしまいますからね」
「……御免、雪ちゃん」
「大丈夫ですよ。今日は甘いものを少し食べて、身体を温めてもう眠ってしまうのがいいと思います。一人で眠るのが怖いのでしたら、またこっちに来てもかまいませんから」
「……うん。ありがとう」
 髪に触れている雪ちゃんの手は繊細で、その指先を少し握った。彼らと暮らし始めた当初、一人で眠れず彼らの寝床によくもぐりこんだ。
「雪ちゃん」
「はい」
 雪ちゃんの指先を握りこんで、私は下唇を舌で湿らす。喉が渇いている。手の平をじっとりと汗が滲んでいた。
「男の人たちって、簡単に彼女という存在を裏切れるものなのかしら」
 女ではなく男を愛することを決めた男に、このような質問をぶつけるのはどこか間違っているようにも思える。
 雪ちゃんは質問の内容に眉をひそめることも、息を止めることもしなかった。そうですね、と軽く思案して、彼は私の問いに答えてくれた。
「僕は所謂、規格外、でしょうから、朔ちゃんのいう“男の人たち”の気持ちは、よく判りません。ですが、彼女という存在であれ妻という存在であれ、失う可能性を危惧していないのなら、その女性の方々を蔑ろにすることは出来るでしょう」
「……蔑ろ?」
「朔ちゃんのいう裏切りとは、端的に行ってしまえば浮気のことでしょう?」
 笑いを含んだ雪ちゃんの問いに、私は躊躇いながら頷いた。
 雪ちゃんは密やかに微笑を口元に刻んでいたが、それはいつもの穏やかなものではなく、どこか痛みに顔をしかめ、それでもやせ我慢している子供のような笑い方だった。
 間を置いて、少し生々しい話になりますが、と雪ちゃんは前置く。彼の声は明朗で、雨に音を封じられた静かな部屋によく響いた。
「僕は男というものは、一般的に言えば女性の方よりも性欲が強いと思っています。それはより良い精を選び出すことを念頭において子孫を残したいという女性と、とにかく自らの遺伝子を残そうという本能が真っ先に来る男の、生態メカニズムの違いから来ると思っています。女性の方にも性欲が強い方はいらっしゃるでしょうが、その話は、今は少しおいておきましょう」
「うん」
「そのメカニズムから、男は基本、女性の方よりも浮気しやすい傾向にあるようです。ですが人なのですから、本能を理性でねじ伏せることは出来ると思います」
「……だよね」
 全ての男が安易に恋人を裏切るわけではないはずだ。
「“恋人”や“妻”は誓いです」
 望む回答に安堵の息を漏らしかけた私は、続く雪ちゃんの言葉に面を上げた。
「本来は破ってはならない誓いです。愛しているにしろいないにしろ、一度は立てたその誓いを破ることは、人間性を疑われることになります。ですが……どうしてでしょうね。例え周囲の人々全ての信頼を天秤にかけてでも、男は本能の名の元に、その誓いを破ることが出来るようです。もちろん、男の人ばかりがそれをする、とは僕は思いませんけれど」
 雪ちゃんが、私の元から引いた手を見つめながら、淡白に告げる。男の人ばかり。たしかにそうだ。優奈だって、百花のこと裏切った、共犯者には変わりないのだ。
 沈黙する私に向き直った雪ちゃんが、弱弱しく微笑んだ。
「初めて話す話だと思いますが、僕には数人兄弟がいます」
「……雪ちゃん?」
 突然切り替わった話題に訝り、私は首を捻った。含みのある微笑を浮かべた雪ちゃんが、一息に回答を与えてくる。
「ですが僕と同じ母から生まれてきた子供は一人としていません」
「え」
 共に生活し始めてしばらく経つが、華ちゃんの過去はもちろん、雪ちゃんの過去もほとんど耳にしたことはない。彼らが私の過去に触れないように、二人の過去も決して口に上らないから。
 どういうべきか下唇を噛み締めて思案している私に、雪ちゃんが微笑んだ。消え入りそうな微笑だった。
「軽々しく浮気の出来る男は滅多にいないと、そう答えてあげたいところですが、僕も僕でそういう父を持ってしまっているので、断言はできません。ごくごく身近に、それはあることなのかもしれない。そういうことしか、僕には出来ません」
「……雪ちゃん」
「朔ちゃん。けれども、僕は父にばかり嫌悪を覚えたわけではないんですよ。母がいると知りながら、我が物顔で家に上がりこんでくる女性の方々にも嫌悪を覚えましたし。それを鑑みれば、男ばかりではなく女性の方にも平然と恋人を裏切る方もいらっしゃるでしょう。……けれども朔ちゃんはそうではないでしょう?」
 雪ちゃんの問いかけに、私は眉間をしわに刻みつつ頷いた。
 自分はあのようにはならない。
 あの男のようには[・・・・・・・・]、決してならない。
「なら、同じように、男の方にも誠実な人はいますよ」
 雪ちゃんはにこりと微笑んで、そう締めくくった。
 ぽんぽん、と頭に軽く手が触れる。子供をあやすような優しい手だ。
「……雪ちゃんや華ちゃんみたいに?」
 その手を捕まえて尋ねると、彼は苦笑した。
「僕らは“規格外”ですよ」
「でも私にたいしてとても親切で誠実だわ」
 私の言葉に、雪ちゃんは何も言葉を紡ぐことなく、ただ微笑を絶やさぬまま立ち上がる。すらりとした作務衣姿を見上げた私に、柔らかな声が降ってきた。
「お茶が冷めますよ。身体を温めて、ゆっくり眠ってくださいね」
「……うん」
「朔ちゃん」
「うん?」
 戸口に立った雪ちゃんはとても綺麗。それはもう、異端と呼ばれることを覚悟して、あちら側に行ってしまった人の美しさだ。
「忘れないでください朔ちゃん。どんな形であれ、人を傷つけるのは人間です。男も、女も、関係なく」
 雪ちゃんの声が怖いくらい真剣だったので、私は固唾を呑んで頷いていた。雪ちゃんは微笑み、言葉を続ける。
「けれど、同じように人を救うのも、やっぱり人間なんです。そこには、男も女も、やはり関係ない」
 戀なんて、突き詰めていけばそういうことです、と雪ちゃんは言った。
 多分、ご家族のことが理由だったんだろう。男女の関係に、とても絶望していた雪ちゃん。そんな雪ちゃんをほうっておけなかった華ちゃん。太陽みたいにぽかぽか心を温めて、明るく笑ってくれる華ちゃんを選び取った雪ちゃん。恋と仕事と夢を一度に失って、泣きっ面に蜂でふらふらしていた私を、拾ってくれた二人。
 そうだね、と私は頷いた。
「おやすみなさい朔ちゃん」
「うん。おやすみなさい雪ちゃん」
 雪ちゃんがいなくなってしまうと、部屋には急に静けさと雨の音が[よみがえ]ってくる。雨音に耳を傾けていた私は、部屋の隅に立てかけたままだった傘を思い出した。今の私が持つには分不相応で、高級な、けれどとても大事に使い込まれた傘。
 返しにいかなきゃ。返すって約束したし。渡された名刺、どこに仕舞い直しただろう。
 私はクローゼットに歩み寄って、昨日着ていたスプリングコートのポケットに手を突っ込んだ。かさ、という紙の感触。少し角が折れ曲がった状態で、目的の名刺は姿を現した。


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