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第六章:千日紅の虚偽の結末 1


 並び立つ、恋人たちに寄り添う千日紅
 紡いだ言葉は嘘か真か


 こんこん、と軽く扉が叩かれる。扉を叩いた本人は、隻の返答を待たずに扉を開けた。
「隻ぃ」
 顔を出したのはかなり年の離れた末弟だ。いつのまにか中学から帰宅していたらしい。もうそんな時間か、と時計を一瞥しつつ、隻は尋ねた。
「何?」
「棗が、会社に書類持ってきてほしいんだって。コレ。夜の会議で必要だったのに忘れたんだってさ」
「ふうん? それはかまわないけれど、なんで俺に直接連絡しなかったんだろう」
 書類が入っていると思われる茶封筒を手渡してくる弟に首を傾げて見せると、彼は呆れの眼差しを隻に向けてきた。
「何度もメール入れたし電話鳴らしたっていってたよ」
「アレ?」
「まぁいいけどさぁ」
 ボケるには、まだ早いんじゃない? との弟の毒舌。全くもってその通りだ。隻は嘆息しながら頭をかいて、机の上に放置してある携帯電話を手に取った。フリップを開くと、確かに未読メール有りと着信の表示。
 現在の時刻は午後五時半。終業間際だ。
「夜の会議って、棗の部署、経理だったよね?」
 経理とは、終業後に会議をするような部署だっただろうか。まぁいいか、と疑問を流し、隻は財布と携帯をジーンズのポケットにねじ込んで、キーケースを机の上から取り上げた。


「私の部署、経理のはずよね?」
 エレベーターに入るなり、棗先輩が嘆息混じりに尋ねてくる。私は頷いた。
「そうですね、経理です」
「ねぇ、経理って一般職よね?」
「そうですねぇ。一応この会社、一般職として採用してるみたいですね」
「というか、なんで私こんなに毎日毎日営業の子たち並に残業してるわけ!? 決算月間近だとしても、普通二、三時間オーバーぐらいが限度じゃないの!?」
「いや私に言われましても」
 押さえてください先輩、と、私は拳を振り上げ天に訴える先輩の肩を叩いた。
 日本には残業という習慣があったのだな、とこの会社に入ってから私は思った。他の部署について、私はよく判らないけれど、決算月や問題があるとき、何か特別なプロジェクトが立ち上がっているとき以外なら、私たち経理は基本終業時刻にあわせて帰る。けれど棗先輩は東京行きのこともあってだろう、最近は特に頻繁にイレギュラーなスケジュールを要求されている。私は就業時間を僅かにオーバーしたけれども、無事今日の仕事を終えて帰宅。一方、棗先輩は今から会議だった。
 ふふふ、と怪しい笑みを浮かべる棗先輩。あぁ、先輩がかなり壊れている。
「あれ? 棗先輩、降りないんですか?」
 会議室のある階で、乗っていた人たちの大半はぞろぞろ降りていった。ところが棗先輩は腕を組んだまま、エレベーター内に留まっている。
「書類忘れちゃってねぇ。今、隻に持ってきてもらってるの」
「隻さんに? あぁ……今日お休みだって言ってたっけ」
 昨日受け取ったメールに、今日は休みだ、と書いてあった。何をするのと尋ねたら、家で寝ると返事にはあった。棗先輩にパシリとして使われているということは、宣言の通り家でごろごろしていたのだろう。
「一緒に待ってたら? 送ってもらいなさいよ」
「そうですねぇ……」
 私が頼めば隻さんは家まで送ってくれるとは思うし、顔を見たいなとも思うけれど、そこまで甘えていてもいいのか迷う。結局、隻さんは私の恋人でもなんでもないのだ。
 今度は私が、彼の一時停止ボタンを押している。
 皆が一斉に帰宅する時間を過ぎたエントランスホールは、人通りまばらだった。外は梅雨らしい雨が降っている。この雨が上がるころ、季節は夏に移行しているのだろう。
 こつ、と。
 足を止めると共に、踵が鳴った。
 男が、エントランスホールの入り口近くで、ガラス張りの壁越しに外を眺めている。その様子から、どうやら雨が小降りになるのを待っているらしかった。手に傘はない。
「進」
 知らず漏れていた声は、閑散としたエントランスホールに響いていた。男は私の声に振り返る。
 目が、合った。
 どうせ外に出るには彼の傍を横切らなければならない。知らないふりをするのも気が引けた――名前を呼んでしまった以上は。
 棗先輩が驚きの視線を私に寄越してくる。私はそんな先輩を置いて、彼に歩み寄った。込み上げてくる吐き気や、身体に刷り込まれた恐怖めいたものを、無理やり理性でねじ伏せる。
 男の無感動な瞳が、私の姿を映し出した。
 彼がこの会社に出向してきてから、幾度も幾度も、すれ違い、目が合った。
 知っている。視線を感じて振り返ったとき、そこに進がいたことを。そして私がふと視線を上げると、そこには誰かと歩く進がいることを。
「傘ないの?」
 私は、ただの上司と部下だったころのように尋ねた。
「忘れてきた」
 ぶっきらぼうに、彼は言った。
「傘貸そうか?」
 私が今日持ち歩いている折り畳みの傘は、無地の紺色だ。男が使っても問題はないはずだった。
「自分の分は?」
「予備は置いてある。……ロッカーに」
 自分でそういいながら、そういえばこの間急に降った雨の日に使ってしまったのだと思い出していた。言い出した手前、今更貸さないとはいえない。私が自分の持っていた傘を差し出したにもかかわらず、進はゆっくりとその傘に視線を落としただけで、受け取ろうとはしなかった。
「……貴方はいつもそんな風だ」
「そんな風って、どんな風?」
「お人よしすぎて、反吐が出る」
 私は嘆息して、手元の傘に視線を落とした。感謝の言葉を期待していたわけではないけれども、こうも拒絶されると傷つかないわけがない。
 ただ、私の唇からはため息が零れ、その吐息を拾うように、進は息を吸った。
「貴方はいつもそんな風だ。他人をかまい、面倒を見、時に自分を傷つけて、その上他人を傷つけることを恐れて優柔不断。典型的な日本人。見ていて苛々する」
「私が傘を貸すことと、それの一体どういう関係があるの?」
「目の前に現れるなと思うなら、そういえばいいんだ! 貴様など、見たくもないと!」
 進は、何を、苛立っているのだろう。
 私は傘を持っていた手をしたに落としながら、進を見上げた。
「言ってほしいの? 何故日本に帰ってきたのって? 何故こんなところにいるのかって? 貴方を見るだけで、吐き気がするって?」
 言って、ほしいのだろうか。
 何故、何故、何故、何故。
「進、私ね。別に恨んではいないのよ。ただ、どうしてって思っただけ」
 あの一連の出来事は、私にも責任がある。私たちの関係に、明確な棒引きをしなかったこともそう。
 あんなふうに、お酒に酔って、記憶を無くしたこともそう。
 あんなふうにはなりたくないとは思った。
 けれど、恨んではいない。
 ただ、どうしてと思っていただけだ。
 どうして、こんな風になってしまったのだろう。
「そこに吐き気がするといってるんだ。自分のことを棚に上げて、恨みもできないなんて甘すぎる」
「恨んでほしいみたいな言い草」
 私は嗤った。彼は私に、彼を詰れという。
 何を今更。
「私に、言えと?」
 気持ちが悪い。吐き気がする。いちいち私を目で追わないでほしい。目の前に現れるな、と。
 今更、私にそれを言えと。
「……貴方が私にそれを言わさなかったんじゃない! 進!!!」
 最初は恨んだ。望まれぬ子供を宿すかもしれないという恐怖は、たった一週間とはいえど、私の神経と肉体を苛んだ。信頼していたのに。たとえ私を疎ましく思うようになっていたとしても、そんなことはしないと信頼していたのに。
「あれが誤りだったとしても、別にそんなことたいした問題じゃなかったんだよ進。私はただ、謝ってほしかった。謝りたかった。仲直りしたかった。ただの同僚、ただの上司と部下、それでよかった! きちんとそうなりたかった!」
 間違いだったのなら間違いでもよかったのだ。当時、私はそれほどまでに彼を愛していたし、お互いに酒が入っていた。そういうことも決してないとはいえないだろう。ただ謝ってほしかった。きちんと向き合って、話をして、全てに決着をつけてほしかった。
 私はきちんと、戀に終止符を打ってほしかった。
 なのに彼は、逃げたのだ。
 逃げた理由は判らない。犯してしまった過ちが恐ろしかったのか、自分の立場が大切だったのか。
 私を突き放し、目も合わさず、すれ違えば、逃げるように。
 終わるはずの戀が終わらなかった。
 それだけで、私は病んでいった。
「俺を憎み通せばよかったんだ」
 進は言った。冷ややかな彼の双眸を見据えて、私は呻いた。
「最低な男」
 男は嗤う。今更知ったのかとでもいうように。
「そんな貴方の偽善振りが、俺はとても嫌いだった。恨み通せばいいのに、仕方ないからと笑う貴方が。理由を並び立てて、自分を傷つけた相手に対して憤ることすらできない貴方が。そんな風では、あの国では生き残れない。そして、そんな貴方に情けをかけられた自分が一番嫌いだった」
「……情けなんてかけてない」
 あれは決して情けではなかった。
 この男の孤独さを、愛しいと思いこそすれ。
「愛情なんてくそくらえだ。そんなものを持っていても、貴方は結局あの国で生き残れなかったじゃないか」
 そう。私はあの国では生き残れなかった。
 戀に躓いて、結局仕事も夢も全て投げ出してきた。
 けれどそれを、他でもないこの男には言って欲しくなかった。
「進」
「不幸にも貴方ともう一度会うことになってしまった。罵ればいいのに、言い返されることが恐ろしくて、そうすることで傷つくことが恐ろしくて、何もなかったふりをしているんだろう? そして、今もこうして傘を差し出している」
 一拍置いて、進が呻く。
「偽善者め」
 私は手を振り上げた。男の頬にそれを振り下ろすべく。
 言葉もなく、ただ衝動が私の身体を突き動かした。
 進は動かない。その瞳に、私の姿が映りこんでいる。
 どうして人を愛しただけなのに、愛したその男に偽善者呼ばわりされなければならないのだろう。
 今この瞬間、私は彼をとても憎いと思っていた。それは、私の恋心が囚われて以来、初めて抱いた感情だった。愛は憎しみを誤魔化して執着に変える。けれど私が進に抱いたのは――最低な男に対する哀れみと、純粋な怒りと、そして小さな予感だった。
 この手を振り下ろした瞬間、私はこの男に対して、憐憫も、愛情も、そして憎しみすら、何も抱かなくなるだろうという。
 そんな予感がしていた。
 ところがだ。
 私の手は、振り下ろされはしたが、途中で何者かに支えられて進に触れることなく宙に浮いた。
 私は、驚愕に息を呑む。
「せき、さ……」
 私が、私の手首を握り締める人の名前を呼ぶよりも先に。
 どごっ
 という、文字通り、酷く鈍い音がした。
 ワンテンポ遅れて、進がタイルの上に派手に転倒する。
 何が起こったのか、私には一瞬理解できなかった。
「棗」
 隻さんの声は初めて聞くそれのように、酷く低かった。振り返ると、呼ばれた棗先輩も唖然となっていて、隻さんに呼ばれたことに気がついていないようだった。
「棗!」
「え、あ、え?」
 隻さんは棗先輩に歩み寄ると、無言で茶封筒を押し付けた。先輩はまるで、その時初めて隻さんの存在に気付いたかのように目を瞬かせ、胸元の茶封筒と隻さんを見比べていた。
「せ、隻さ?」
 隻さんは、彼自身が殴った男には一瞥にもくれず、呆然と立ちすくんでいた私の手を取り歩き出した。
 隻さんに半ば引きずられるようにして歩きながら、私は進を振り返る。進は上半身を起こし、立てた肩膝の上に腕を乗せて、私を見ていた。
 私は、彼から目を逸らした。それだけで、彼の視線は私の意識の外へと消えた。毎日あれほど、彼が私を見るだけで、その視線を痛いほどに感じていたのに、何の感慨も覚えなかった。
 私は私を無言で引っ張っていく隻さんの横顔を見つめ、ただ、求められるまま足を動かした。


 いつの間にか、人が集まっていた。
 人数は十指に余る程度。皆エレベーターホールから出たばかりの場所で、遠巻きにこちらの様子を窺っている。馬鹿兄め。棗は皺だらけの茶封筒を胸に抱きかかえたまま、胸中で毒づいた。
 毎日仕事と家の往復に疲れ、ゴシップに飢えている輩には格好の話題だ。なんということをしてくれたのか。
 ひとまず棗は、野次馬達を一睨みしておいた。おおっぴらに騒ぎ立てればタダでは置かないという無言の圧力。この視線に耐え切れるのは、棗の知る限り親族のみだ。
 次に、嘆息しながら、タイルの上に腰を落としたままの男に視線を投げた。隻に派手に殴られた左頬が腫れている。確実に、口の中を切っているだろう。
 男は何事もなかったかのように立ち上がり、埃を払い始めた。
 とりあえず、と、棗は彼に釘を刺しておくことにした。
「朔を逆恨みしないで頂戴よ」
 殴られたことについて、朔に当たらないで欲しいという釘だった。彼が参加しているプロジェクトは、まだ終わっていないはずだった。あと一週間ほどだったと記憶している。その間に、朔と彼がすれ違わぬとも限らない。
 が、男は、最後に音を立てながら大きく埃を払って、居住まいを正した。
「しませんよ。そんなこと」
 男は嗤った。
「殴られるぐらいは当然だと、ずっと思っていたので」
 かねてより、殴られたかったかのような物言いだった。
 ずっと、棗は聞いていた。第三者として、男の言葉を。
 男は一見、憎しみの言葉を並べ立てているかのように見えた。けれど冷静に言葉の意味を[おもんばか]れば、男は朔を憎んでいるというよりも、彼女が傷ついてきたことに対して、苛立っているかのようにも見えた。
 思い出す。
 屋上へ続く、薄暗い階段の踊場で、朔のいた場所を仰ぎ見ていた男。
 数多くの人がすれ違う中で、真っ先に朔の存在を拾い上げて名前を呼んだ男。
「ねぇあんた、もしかして」
 周囲の人間に聞こえぬように、棗は声音を潜めて尋ねた。
「朔のこと、本当は、好きだったんじゃないの?」
 男は目を細めて笑った。それは、泣きそこねたことを誤魔化すかのような歪んだ笑いだった。
 その通りだと、肯定することもなく。
 そんな馬鹿なと、否定することもなく。
 男は床に落ちていた鞄を取り上げて、雨の中へ歩き出していった。
 その背中を見つめながら、棗は思った。
 もう、男は朔に視線を投げることはないだろう。
 彼らの戀は、終わったのだ。


 駐車場の一角に停車してあった隻さんの車の助手席に、私は強制的に押し込まれた。
 私が身じろぎをしながら、居心地のよいように座りなおしていると、隻さんが運転席に乗り込んで、かなり乱暴に扉を閉めた。ばん! という破裂音にも似た扉の開閉音に、私は思わず萎縮してしまう。
 隻さんの顔からは完全に色が消えている。瞳はフロントガラスのその向こうを見据え、周囲に青い火花が飛び散って見えた。棗先輩の怒るところを私は見慣れているけれど、隻さんの憤怒の様相は、見るものを戦慄させる。普段人懐っこく、温厚なところがあるだけに、それは余計際立っていた。
 雨脚は一向に弱まる気配を見せない。隻さんも私も、駐車場までの短い距離とはいえど、この土砂降りの中を歩いてきたのだ。風邪を引ける程度には十分濡れていた。
 夏も近く、蒸暑い。寒くはなかったけれども――。
 どう、会話を切り出すべきなのか迷っていると、隻さんが左手で私の右手を取り上げた。
 さっき、進を叩こうと思って、振り上げた右手。
「男を殴るとか、そんなことは男に任せておけばいいんだ。君が手を傷つける必要なんてどこにもない」
 隻さんが早口でそう言った。まだ、興奮が冷めていないようだった。
「殴るんじゃなくて、叩こうと思ったの」
 私は訂正した。同じことだよ、と隻さんは言った。
「……どの辺りから会話、聞いてたの? 隻さん」
「多分概ね」
 隻さんは即答し、大きく吐息を落とした。座席の背にもたれかかり、下唇を噛み締めている。そんなに噛んだら、傷がつくよと、私は言いたかった。
「隻さ」
「もう、いいよね」
「……何が?」
 私が問うと、隻さんの視線がゆっくりと私のほうに動いた。ようやっと、彼の目に私の姿が映る。
「あのね、朔ちゃん。あんな男は放っておけばいい。どんな戀を朔ちゃんがしたか、俺にとってみればもう関係のないことなんだ。そう……関係がない。今の朔ちゃんは、鍵も扉も開いているのに、鳥かごから出ようとしない小鳥と同じだ」
 業を煮やしたような隻さんの声音は徐々に熱を帯びてくる。私はその時、隻さんが私に対してどれだけ穏やかに声音を紡いでいてくれたかを思い知った。
「戀が怖い? 結構だ! 怖がるなら怖がっていてくれてもかまわない。俺は君が戀を怖いと思わなくなるまで、一生大事にし続けるから!」
 運転席から身を乗り出すようにして一息に叫んだ隻さんは、半ば肩で呼吸を繰り返していた。真摯に私を見下ろす茶色の目。
 その目を見つめ返しながら、私は呟いた。
「なんか、プロポーズされているみたい」
 隻さんが、もう一度運転席に身体を預けて脱力する。ずるずると、沈み込むように。
「……ぶっちゃけプロポーズに近いよ。あーぁ……すっごく恥ずい。何言ってるんだ俺、こんな年にもなって」
 低く呻いて、隻さんが俯く。私は助手席の脇に手をついて、そんな隻さんを見下ろし尋ねた。
「……私が、戀を怖くないと思ったら、大事にしてくれないの?」
「その時は、お互いがいないと生きられないようになっているっていう寸法」
 隻さんの顔は至極真面目だった。私は噴出しながら思わず言った。
「くさ」
「うん。俺も言ってて思った」
 三流メロドラマの科白でもこれほど臭い科白はない。臭さで悶絶しそうだ。私は彼の馬鹿さ加減が愛おしくなり、微笑んで、隻さんに言った。
「大好き」
 隻さんも微笑んだ。
「俺もだよ」
 お互いに、科白が臭すぎる。初々しい、学生の戀でもあるまいし。
 照れを誤魔化すように、隻さんが呻きを上げた。
「あーもう。いいけどね。どうせ、朔ちゃんと居ると、俺は調子狂わされっぱなしなんだ」
 久しぶりだよこの感覚とか、この科白前にも吐いた気がするとかなんとか、隻さんはぶつくさ独り言を呟いていた。
「隻さんは、どうして私が好きなの?」
 私はふと疑問に思って尋ねた。こんなによく出来た人が、何故私如きに。
 進の言うとおり、ある意味、偽善者で、人を傷つけ、傷つけられることに脅えているだけの、私に。
「じゃぁ、なんで朔ちゃんは俺のことを好きなの?」
「何でって……」
 隻さんは確かにとんでもなく綺麗な人だったけれども、別に綺麗なひとでなくとも、私は隻さんを好きになっていた気がする。私は、顔はある程度整っていればどうでもいいほうだ。
 孤独で繊細で、そして、とても優しい隻さん。
 とても、温かい人。
「なんでかな?」
 結局明確な理由など見つからず、私は質問をそのまま隻さんに返す形となった。
「俺も、後付の理由なら一杯あるけど」
 隻さんはそう前置いて言った。
「好きだから、好きなんじゃない? 気がつけば好きだったよ。一緒にいることが楽しくてたまらなかった。それだけだよ。……戀なんて、そんなものでしょう?」
「……うん」
 私は微笑んで、同意した。
「そうだね」
 戀をする理由など、何もないのだ。
 理由がないから、どこまでも純粋に、時に狂うほど、人を追い求める。
 私は、隻さんの右手を手に取った。私の怒りを乗せて、私の代わりに進を殴った右手は、少し赤くなり、所々が鬱血している。
「痛くないの?」
「そこそこは。でも、我慢できないほどじゃないよ」
「ちゃんと手当てしてね?」
「するする」
 私は、その手の平に、私の頬を添えた。
「ありがとう隻さん」
 長い間、胸の奥を占めていた何かが、跡形もなく消え去っている。
 私は、一つの戀が終わったことに対する寂寥感を覚えつつ、新しく胸の内を満たしてくる愛しさに、微笑みながら呟いた。
「今から、隻さんとの戀を始めるのね」
 それはもう、とうの昔に始まっていたのかもしれないけれど。
 一つの古い戀を終わらせて。
 私は次へ歩き出すことができた。
 長い間、暗い部屋の中で蹲っていた私の手を引いたのは。
 この、手のひら。
 白んだ視界の中で、隻さんの動く気配がした。気がつくと、隻さんは身体を元のように起こしていた。
 吐息もかかるほど目の前に、綺麗な双眸。
「もう駄目だっていわないよね?」
 茶化すように隻さんが言った。
 私は瞼を閉じて、笑みの形のまま唇を重ねた。


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