第五章:千日紅は虚偽を吐く 2
前夜から雨がぱらついていたけれど、木曜は無事晴れ渡った。
式場に指定されていたのは国内でも有名な格式ある系列のホテルで、私は雪ちゃんの手を借りて早起きし、ドレスを抱えて家を出た。予約を入れていたホテル近くの美容院で着替え、髪とメイクを整えてもらう。ホテルに到着し、荷物を預けると、隣接している結婚式用の小さな教会に案内された。外見はウィーンで見られるような煉瓦造りだったが、内装はすべて白で纏められ、百合の花と薄桃色のリボンで飾られていた。
式前の面会は、準備の為に親族に限られていて、私は百花と拓海の両方に会うことはできなかった。
「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません」
神父の説教は聖書を引用したものだった。朗々と響く、初老の神父の声音は荘厳で、その洗礼を受けながらヴァージンロードに拓海と並んで佇む百花は怖いくらいに美しかった。
「妻たちよ、主にあるものにふさわしく、夫に従いなさい」
なんて綺麗なのだろう。
三十代目前にもなると、結婚式に出席回数もそれなりにある。けれど百花は今まで私が見たどの花嫁よりも、美しかった。
「貴方は今、この女性と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。貴方はその健やかなるときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、この女性を愛し、これを敬い、これを慰め……」
結婚の制約の時となると、欠伸をかみ殺していた出席者も息を呑んで見守るようになる。私は斜め前方に並ぶ優奈を認めた。私の角度から、彼女の表情は窺い知れない。ただ、ぴんとのびた背筋と、冴えた蒼のドレスが印象的だった。
「誓います」
拓海が誓約に応じた。張り詰めた声音は、低く、そして少し震えていた。
「貴方は今、この男性と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。貴方はその健やかなるときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、この男性を愛し、これを敬い、これを慰め……」
拓海と対照的だったのは、百花だ。
「誓います」
百花の声音は唄うときのように澄み、高らかに教会の中に響き渡る。私の視界の端で、優奈の肩が僅かに震えたように思えた。
私は目を閉じ、指輪の交換が行われる前にそっと式場を抜け出した。
六月の花嫁となることを選んだことが、百花らしい。
けれど月も半ばを過ぎて、夏の気配を含んだ空気は肌にまとわりついた。私は涼を求めて教会傍の木陰に入った。隻さんが選んでくれた薄紫のドレスは、絹のワンピースに紗を重ねて甘さを出したもので、着物を着てくるよりは大分暑さはましだったと思う。式に参列する人たちの中には、着物を着ている人も何人かいた。雪ちゃんの勧めに従ってドレスにしておいて本当によかったと思った。
風にあたって涼み始めてから、どれぐらいたったのだろう。気がつけば、教会の扉は開き、記念撮影の為に人が姿を現し始めている。そんな中、私に声がかかった。
「先輩」
「……優奈」
いつの間にか傍に立っていたのは、優奈だった。長いストレートの髪を少し残して結い上げている。以前見たときよりもふっくらとしていて、私はほっとした。
「元気そう。少し太った?」
からかい混じりに私が尋ねると、優奈ははにかんだような笑いを浮かべた。
「母があれもこれもって食べさせるので。畑仕事もしているので、少したくましくなりました」
風が吹けば折れんばかりに痩せて帰郷した娘をみて、彼女のお母上はさぞや驚愕したことだと思う。けれど、そうやって冗談を口にしながら笑えるほどにはなったのだ。私は安堵に胸を撫で下ろし、彼女に尋ねた。
「今日はいつ帰るの?」
「披露宴までです。私、スピーチ頼まれているので」
「え、スピーチ!?」
確かに傍目から見れば、あの二人共通の一番の親友という立場である優奈がスピーチをしたところで、何もおかしくはない。けれど事情を知っている私からみれば、異常なことのように思えた。
「百花に頼まれたんです。とても短いものですけれど」
「そう……」
百花は何も知らないのだと思った。無邪気に優奈にスピーチを頼む彼女の姿が目に浮かぶようだった。
「先輩も、披露宴まで?」
「ううん。披露宴は遠慮したの」
この三人の戀の結末を、見送るのは今の私には辛すぎた。式だけはきちんと出席することにして、私は最近の体調不良を理由に早めにお暇させてもらうことを既に百花に伝えていた。
結局、式すら最後までいなかったのだけれど。
「最近具合悪くて。今日もちょっとね」
「……私よりも、先輩のほうが痩せられましたね。顔色も悪いみたいですし、養生なさってくださいね」
「ありがとう」
「もしよければ、田舎から新鮮な野菜も送りますので」
「うわ! それはすごく嬉しいかも」
大学時代に食べたことのある、百花の実家の野菜の味を思い返しながら、私は喉を鳴らした。あのなんともいえない味は、スーパーマーケットでは手に入らない類のものだ。
「先輩!」
甲高い呼び声に、私は面を上げた。教会のほうから百花がドレスの裾をとって駆け寄ってくる。
「百花、花嫁さんがそんな風に走っちゃ危ないでしょ!」
「先輩がそんなところにいるのが悪いんですよぉ。探しましたよ! 記念撮影したのに、全然見当たらないんですもん。どこなのかなって思ってたら、こんなところに優奈と二人で!」
「ちょっと涼んでたのよね。ね、優奈」
「はい」
私は優奈と顔を合わせて頷き合う。ずるいなぁ、と百花が屈託なく笑った。
「結婚式って、思ったよりも肩懲りますねぇ。一杯人に囲まれちゃいますし。本当は先輩と優奈とお茶したかったのに」
「結婚式で、それは無理よ」
「しかも先輩、式だけで帰っちゃうんですよね。つまらないです……」
「ごめんね。……体調が悪くて。でも百花、本当に綺麗だった」
教会のステンドグラスの柔らかい光の下で、百花は確かにこの上ないほど美しかった。
百花は花開いたように笑った。
「ありがとうございます先輩」
「百花、私お手洗いいってくるね」
急に思い立った様子で、優奈が百花に声をかける。優奈は私に向き直って、頭を下げてきた。
「それじゃぁ先輩……どうかお元気で」
「うん。優奈もね。またメール頂戴」
挨拶代わりに軽く叩いた彼女の肩は、まだぞっとするほど骨ばっていた。当然だ。まだ、立ち直るには時間がかかるのだと、私は少し暗い気分になった。
「……先輩、すぐ帰っちゃうんですか?」
「うん。何せ体調がね……今日も、もう朝から貧血気味で」
ある程度の寝不足を通り過ぎると貧血を起こしやすくなるのは私の体質で、これには米国でも散々苦労させられたのだ。百花への返答は決して嘘ではない。
「そうかぁ。つまらないですねぇ」
表情を沈ませる百花に、私は努めて明るい声音で言った。
「花嫁がそんな暗い顔しないでよ百花。ようやく念願の拓海との結婚でしょ」
が、面を上げた百花の表情は暗かった。暗かった、ように見えた。木陰に入ったことによって、陰影が増したかもしれないと、私は思いなおした。
「先輩知ってますか?」
「え?」
思い直したのに、百花の声はやはり陰鬱なものだった。双眸は闇色をして、光を一切宿さない。
「……マリッジ・ブルーについてなら、前聞いたよ。もう落ち着いた?」
私は百花の表情に気付かない振りを装って、私は百花の問いに応じた。
百花は教会の入り口付近で人だかりに埋もれる拓海に視線を移した。遠目に見ても、新郎は少し窮屈そうにしている。
「拓海、私と付き合っている間にも、たっくさんの女の子に手を出していたんですよ」
抑揚を殺した百花の声音に、私は背中に冷たいものが伝い落ちていくのを感じた。知らず知らずのうちに、この場にいない優奈を連想していたからだった。
「でも先輩。私、そんな女の子達のことはもう、気にならないです。……私、あの子達に勝ったんですから。それを判らせるために、今日も何人か、この式に呼んであげました」
「百花……」
百花は、何も知らないと思っていたけれど。
実は全てを承知の上だったのだろうか。
マリッジ・ブルーといったときの沈んだ表情も、全て承知であることを覆い隠すためのものだったのだろうか。
私は、それらを確認するつもりはないけれど。
私は式場の、結婚の宣誓を思い出していた。緊張して震えていた拓海の声とは対照的に、高らかに教会の中に響き渡っていた百花の声。ぞっとするほどに美しかった百花の笑顔。
あれは、愛しい人と結ばれたことに喜ぶ女のものだと思っていたけれど、そうではなかったのではないだろうか。
勝利者としての宣言であり、そして歓喜の表情だったのではないだろうか。
何時から、そんな風に百花と拓海の戀は捩れていったのだろう。
「馬鹿な子達。拓海は、本当に私がいなければ何もできなくて、私がいないと、生きられないのに」
そんなことも判らないのかと、嘲笑うかのような百花の呟き。
大学の頃、本当に、何も穢れを知らぬ花のように笑っていたのに。
百花も。
優奈も。
大人になったのだという一言で片付けてしまうには、あまりに哀しい退廃。
彼女らを歪ませてしまったもの。それは、戀というものに他ならないことを、私は知っていた。
「先輩、これあげます」
「え?」
一変して笑顔を浮かべた百花から差し出されたのは、彼女がずっと手に持っていたウエディングブーケだった。大小さまざまな大きさの夕焼け色の薔薇とライスフラワーを、ユーカリとアイビーで囲んだブーケ。私は当惑しながら手を振った。
「う、受け取れないよ」
「どうしてですか?」
「ブーケトスとかやるものじゃないの? それって」
私は百花の肩越しに、教会前の団体様を一瞥した。ドレスや着物で着飾った百花の友人達は、おそらく投げ渡されるブーケを待ち構えているはずだ。
「いいんですよぉ」
百花は笑った。私の知る、いつもの百花。
「先輩には、一杯お世話になっちゃいましたし。先輩には是非是非幸せな結婚をしていただきたいなという、可愛い後輩からの心づくしです」
「……可愛いって、自分でいうものなの? 百花」
私の突っ込みに、百花はぺろりと舌を出す。その子供っぽい仕草に、私は思わず頬を緩めて、彼女からブーケを受け取っていた。
「ありがとう百花」
手に持った瞬間にふわりと香る薔薇の甘い芳香。私は微笑んだ。花嫁が持つに相応しい、可愛らしいブーケだ。
「先輩」
「なぁに?」
ブーケから目線を上げると、そこには愛らしく、けれどどこか寂しそうに微笑む百花の姿があった。
「先輩は、本当に是非、幸せな結婚をしてくださいね」
百花の言葉は、まるで自分には幸せな結婚が望めないかのような物言いだった。
「先輩は、本当に自分だけを見てくれる人を見つけてほしいな。もしかしてもう見つけちゃってるんでしたらごめんなさい。でも、そうじゃなかったら、先輩に、先輩だけを愛する素敵な人が現れるといいな。先輩の赤ちゃんは、きっと可愛いんだろうな。先輩はすっごくいいお母さんになりそうですし。なんてったって、私たちのお母さんみたいな存在だったんですから。予行演習はばっちりですよね」
「百花」
「先輩は本当に、自分を愛してくれる人を見つけてください。選び取り方を間違えないでくださいね。私、先輩が本当に大好きだから、先輩には、皆が、あぁ敵わないなぁっていうぐらいに、幸せな生き方を選んでほしい。幸せな戀を、してほしい」
一瞬、泣いているのかと思った。彼女の目元に、光が滲んでいたからだった。
けれどそれは梢の狭間から降りてくる陽光で、百花は泣くどころか、目元を赤く腫らしてすらいなかった。青白い白目の部分を月のように冴え冴えと輝かせ、彼女は言った。
「私は、今から、戦いにいくんです」
己の
ウエディングドレスを身にまとって、私の後輩は駆け出していった。
ブーケをぷらぷらさせ、朝着ていた洋服の詰まった鞄を肩に掛けて、駅までの道のりを歩いていた私の横に、見覚えのあるシルバーのセダンが停まった。
こんこん、と窓ガラスを叩く音。
「隻さん?」
「家の近所まででよければ、お送りいたしますよ? お姫様」
窓が開いて、隻さんが顔をのぞかせる。私は思わず声を上げていた。
「ど、どうしたの!? 今日仕事だって言ってなかった!?」
「仕事だよ。前、支店を出す準備で忙しいっていってたでしょう。あれ、この近くなんだ。今から店に戻るところ。キャラメルボックスまででよければ乗せていくよ。乗る?」
「もちろん」
二つ返事で答えて、私は助手席の扉を開けた。車は隻さんのものではない。初めて会った夜に隻さんが乗っていた高級車だ。
「うわー念願」
車とは思えない乗り心地とシートの手触りのよさに、私は上機嫌だった。隻さんは私から、いつの間にか鞄を引き取って、後部座席に乗せてくれていた。
「でも私だってよく判ったね」
車を発進させる隻さんに、私は感心して言った。
「そりゃぁ自分が選んだドレスきている美人が歩いていればね」
彼はすました表情でそう答え、私は照れに身じろぎをした。
「お世辞を言っても何もでませんよ? 笑顔ぐらいしか」
「笑顔だけでとっても嬉しいよ」
甘ったるい顔をして隻さんは言う。さすが元ホスト。女の子の褒め方は、心得ていらっしゃる。
「……この近くのホテルでやっている結婚式だっていってたから、時間的に式から披露宴に移る頃だし、顔ぐらいは見れるかなって思って、こっち回ってきたんだ。まさか通りをのんびり歩いているとは思わなかったけど」
「最近体調が悪いし、式だけ出席して帰ってきたの」
「……体調悪いの?」
「少しだけ。だから帰って寝るつもりだった」
「無理はしないように」
「判りました隊長」
いつも通りのやり取りだった。私は安堵した。最後に会ったのはあの夜で、電話では会いたいと言い合ったけれど、実際に会えばぎくしゃくしてしまいそうで、少し怖かったのだ。
「ブーケもらったの?」
「うん」
私は膝の上に乗せたブーケを観察していた。見れば見るほど愛らしいブーケ。黄色のリボンの中心に、苺のような丸い花があしらわれている。
私はその花に触れて、息を呑んだ。
千日紅。
「結婚式はどうだった?」
「え? あぁ……うん。綺麗だった」
私は脳裏に百花を思い描いて言った。戦いに行くんです。そう言って踵を返した百花。
美しい、女としての戦闘衣装を身にまとって。
「大学によく世話をしてた子だったんだけど。……私、大学時代はお母さんとか言われててね?」
「へぇ、意外」
「そう?」
それほど意外なことだろうか。私の問いに、隻さんは頷いた。
「朔ちゃん、脆いところがあるから」
「……どうせ私は、精神虚弱だよ」
「そこまで言ってないよ。支え甲斐がありますね、っていう、そういう話だよ。彼氏だったとしたら、男冥利に尽きるよ」
彼氏だったとしたら。
仮定形のそれに、ほっとすると同時に少し寂しさも覚えた。なんて自分勝手。
私はブーケに鼻先を埋めながら、隻さんに尋ねた。
「ねぇ、千日紅の花言葉って知ってる?」
「千日紅? どんな花?」
「このブーケのリボンのところにくっついている紅い花。まんまるの」
私が千日紅を指し示すと、隻さんは一瞥し、感想を述べた。
「苺みたいだね」
「うん。それで、花言葉知ってる?」
「……知らないかな。どんな花言葉?」
私は瞼を上げて、再び目に入れた千日紅をつまみ、リボンから引き抜いた。
「不朽の愛」
『永遠の、変わらぬ愛と、いうらしいですよ』
そういって、進は私にこの花を差し出した。花言葉なんて、知っているような男ではないのに。
「幸せな戀をしてくださいって、今日の花嫁さんにね、このブーケを渡されたの」
引き抜いた一輪の千日紅を、くるくると指先で弄んで私は続けた。
「隻さん、私、戀が凄く怖い」
隻さんは何も言わず、私の言葉に耳を傾けている。
「だけどね」
次の言葉を吐くには、少々労力が必要だった。大きく深呼吸をして、私は言った。
「ぶっちゃけ言っちゃうとね、私隻さんが凄く好きなの」
あの、狂気めいた戀とはかけなれている。
けれどふとした瞬間に、隻さんに会いたくなる。声が聞きたくなる。一緒に居るだけで、少し切なく、そして心温かくなる。
それを戀と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
それでも、と私は続けた。
「戀が凄く怖い」
戀によって関係が捩れていったときの絶望を、私は忘れない。今日会った後輩達も、戀によって捩れていった。
「あんなふうな戀ばかりなら、私は二度としたくないって思う」
隻さんはステアリングを握ったまま、口を挟んだ。
「俺も朔ちゃんが好きだよ」
隻さんの声は、森の中の湖のように静謐だった。
「前みたいな終わり方には、絶対にならない」
「そうかな」
私は言った。
「私は知ってるんだよ、隻さん」
指先の千日紅。花嫁と共に洗礼を受けたブーケの中に潜んでいた。
けれどあの場所で、拓海も百花も、永遠の愛を誓っていたのだろうか。
私に差し出された千日紅。
そこに私は、永遠の愛があるのだと思っていた。
けれど。
私は瞼を閉じて、呟いた。
「千日紅は、嘘を吐くんだって」
永遠の愛など、どこにもなかった。