BACK/TOP/NEXT

終章:虚偽は猫と踊らず猫は男と歩き始めた


「ぐすぐすぐすぐす」
「はい。華、そろそろ泣くのやめましょうね。お客さんが凄く怪しがっていますからね」
 たぱーっと畳の上に涙を零し始めた華に、反物を選んでいた客が本気で怖がっている。雪は、放置してください情緒不安定な子なんです、と笑顔で客を納得させて、商談を続けた。
「えぇこちらが……そうですね。ですけどこちらのお色のほうがとてもよくお似合いだと思いますよ?」
「ぐすぐすぐすぐす」
 客は来年の成人式に合わせて、新しく着物を新調しようという母子だった。薄桃色の反物を選んだ彼女らに、ありがとうございますと営業スマイルを浮かべて見送る。店内に誰もいなくなったことを確認し、雪は振り返った。
 華は、既にもう泣いてはいなかった。口でぐすぐすという泣きまねを繰り返すだけだ。きちんと反物や小物の整理や、注文のあった浴衣の縫い取りなどを行っているところは、商売人である。
「なぁなぁ、朔ちゃんがお嫁にいくときは、うちから白無垢だしたろなぁ」
「華、朔ちゃんが白無垢きると決まっているわけではないですし、ついでに言えば結婚するかどうかもわかりません」
「なんかなぁ、なんかなぁ、超可愛がっとった猫が、隣に引き取られていった感じやねん」
「それは娘を嫁に出す、ということとは少し意味合いが異なっていると思いますが」
「いっしょや」
「そうですか」
 がくりと肩を落としながら、雪は呻いた。先週のことだったか、朔から突然、今夜は帰らないかもとメールが届いた。なんのことはない、宣言通り朝帰りした彼女に、翌朝の食卓で初々しく先日の男ときちんと付き合うことを報告されてから、華はずっとこの調子である。
「今日も朔ちゃん遅うなるゆぅとったなぁ」
 小さい頃、拾った猫が逃げ出したときも、華はひたすら半月ほど泣いていた。彼にとってみれば、朔がこの家を出ていくかもしれないということも、大差ないのかもしれない。
「雪はどっかいかへんよなぁ?」
 真顔で華が尋ねてくる。
「もちろんですよ」
 そう答えると、華の顔には昔と変わらぬ笑顔が戻った。


 こつ、と。
 足音が止まる。
 足音を立てていた彼は、私を静かに見下ろしていた。私もエレベーターホールの壁から背中を離し、同じだけの静けさでもって彼を見つめ返す。以前はそこに存在があるだけで覚えていた、痛切な存在感は、跡形もなく消えていた。
 彼は昔と変わらぬ無感動な眼差しで私を見つめ、そして小さく嘆息する。
「……何か用事でも?」
「頬はどう?」
「痛いですよ。おかげさまで」
 大分腫れは引いたようだったが、進の左頬はまだ赤黒く、唇の端は切れたままのようだった。
 私は言ってやった。
「ざまぁみろ」
「喧嘩売りに来たんですか貴方」
 呆れるように、半眼で進が呻く。私は首を横に振り、彼に向き直った。
「お礼を言いたかったの」
 進が、怪訝そうに眉をひそめる。私は微笑み、言葉を続けた。
「私、今とっても幸せなの。日本に帰ってきて、一杯いろんな人に出会ったわ。色々勉強もさせてもらったしね」
 進とのことは、私にたくさんのものを失わせたけれど、それに見合うものを私に与えてくれた。
 彼のことがあって、日本に帰ってこなければ、今私はこんなに幸せじゃなかった。
 もし日本にこんな形で帰ってこなければ、再会した棗先輩ともこんな風に仲良くならなかったかもしれない。会社の人たち、昌穂さん、今一緒に暮らしている雪ちゃんや華ちゃんもそう。
 そして、隻さん。
 昔、優奈が拓海に向かって有難うと頭を下げたとき、私は何故、と思っていた。
 けれど今ならわかる。来てくれて有難うといった優奈は、知っていたのだ。
 己が、失った何かと引き換えに、途方もない強さを手に入れたこと。あの不毛な三角関係から抜け出して、縛られてしまった百花とは、対照的に、彼女は自由になれたこと。
 そういったことを、彼女は知っていたのだ。
 だから、ただ、頭を下げることができた。
 意味合いは多少異なれど、私が今、進に抱く感情も似たようなものだと思う。全てが終わってしまった後の静謐さが私の胸に満ちている。痛さや苦しみが半分以上を占めていたあの戀は、確かに私に何かを与えたのだ。
 おそらく、次に、幸せになるための何か。
 まだ戀は怖いけれど、あのときと同じ失敗をしなければいいのだと、私は思える。私を支えてくれていた人たちを、大事に出来る。
 だから私は、この戀が終わった今、頭を下げることができるのだ。
「ありがとう」
 私が面を上げたとき、進は困惑の表情を浮かべていた。
「嫌味にしか聞こえない」
 すこし置いて、彼は付け加えた。
「……だから、俺は、貴方が嫌いなんだ」
「そう」
 嫌いという言葉を吐きながら。
 それでも紅い水に惑わされ、私に口付けたことのある唇が、億劫そうに動く。
「……今日で出向も終わり。もう、貴方に会うこともない」
「そうね」
 私は頷き、踵を返した。
 これから、隻さんと街で待ち合わせ。
「さようなら」
「朔さん」
 進は私を呼びとめ、その時ようやっと、昔のように微笑んだ。
「お元気で」
 私も微笑み返した。
「君もね、進」


 もう初夏だ。日は随分と長くなり、夜七時を過ぎてさえ、日暮れ前の明るさを保っていた。
 待ち合わせの場所には、私のほうが早く着いた。駅前の噴水の傍で、私は人待ち顔で周囲を見回す。隻さんが私の肩を叩いたのは、すぐのことだった。
「あーよかった。間に合った」
 隻さんは息を弾ませていた。終業してから、急いでこちらに来たのだろう。
「お仕事お疲れ様」
「それを言ったら朔ちゃんもでしょう。お疲れ様」
 仕事帰りなので、隻さんはスーツ姿のままだった。私も仕事帰りなので、装いは少し地味目。これから行く場所は派手な様相よりも、落ち着いたドレスコードが好まれる場所なので、かまわないけれども。
 隻さんは私の手を取って歩き出した。
「バイオリンのコンサートなんて、私久しぶり」
「俺もひさしぶりだなぁ。最近、そういうこととはご無沙汰だったし」
 隻さんの手はひやりとして、夏の空気の中、心地よい。
 今日は夜八時から行われる、七夕の小さなコンサートに行くのだ。仕事帰りに無理をして、こうやって会っているのもそのため。今夜コンサートを行うバイオリニストは、かなり有名で、棗先輩曰く、お話も面白いとのこと。とても楽しみだった。
 傍らを、小さな子供が浴衣姿で駆けていく。手には笹を持っていた。
「浴衣かわいいなぁ」
 米国にいる間、浴衣や着物といったものとはご無沙汰だった。
「朔ちゃんは浴衣持ってるの?」
「私、今は持ってないんだけど、今度雪ちゃんと華ちゃんが作るって張り切ってた」
 店には浴衣もきちんと置いてある。先日、二人は注文のあった浴衣の仕立ての忙しさに目を回しかけていた。そんな時期なのだ。その仕立てが終わったら、私の分も作ると彼らは息巻いている。
「隻さんは持ってるの?」
 隻さんのイメージといえば、とてもジーンズとセーター、もしくはシャツというラフな装いか、スーツの二通りしかない。
 うん、と隻さんは頷いた。
「一応。俺、母方の実家が旧式の家でね。着物も浴衣も着付けられるよ」
「えぇ? そうなの?」
 聞けば聞くほど、隻さんの家は謎の家だ。棗先輩から聞く話だけでも相当不思議な家だなという感想は抱いていたけれど。
 それは追々、また知れるところだろうと、私は置いておくことにした。
「隻さんの浴衣姿とか着物姿とか見てみたいなぁ」
 どんな服を着ても、この人は絶対似合うに決まっているのだけれど。
「じゃぁ今度は浴衣でデートをいたしましょうか」
「するする」
 次の休みはいつだっただろう。秋から先輩の引継ぎで部署は怒涛の忙しさになりそうなので、今のうちに休みをねじ込んでおかなければ。
「あ、そうだ朔ちゃん。ちょっと行きがけに寄りたいところあるんだけれどいい?」
「いいけど……コンサート間に合わないよ?」
 時間は既に七時半。ここから会場まで十分も歩かないし、チケットは座席指定なので急ぐ必要もないけれど、どこかに寄るほどの時間はないような気がする。
「大丈夫。多分、すぐ済む」
「どこに行くの?」
「宝石店」
「お仕事の関係?」
 この近くには、確かにキャラメルボックスと並んで趣味のいい、古風な宝石店がある。デザインが好きで、目の保養に覗き込むことは多々あった。以前私がショーウインドウを覗き込んでいたときに、隻さんが取引先だと教えてくれたところ。
 隻さんは微笑んでいった。
「え? 指輪みるんだよ?」
「仕事の?」
 反射的にそう問い返して即座、私は隻さんの笑顔を見て愚問だったと思った。
「君の」
 隻さんの返答に、私は目を瞬かせて、首を傾げていた。
「……はい?」


BACK/TOP/NEXT