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第五章:千日紅は虚偽を吐く 1


 空に一筋伸びる、飛行機雲。
 携帯のディスプレイに写りこむ反射を通して、それを確認した私は、天を仰ぎ見た。雨があがると、日差しが徐々に強くなっているということが判る。もう夏が近いのだ。
「あんたここにいたの?」
 棗先輩の声がして、私は背後を振り返る。横風に殴りつけられる、肩口で切りそろえられた艶やかな黒髪を耳の上で押さえ込んで、棗先輩はゆったりとこちらに歩み寄ってきた。
「お昼ご飯食べたの? 食堂で全然見かけなかったけれど。もう直ぐ昼休み終わるわよ」
「食べましたよ。天気がいいので、お弁当をそこで」
 私は少し離れたところに転がっているお弁当セットを指差した。最近体調を崩しがちなので、消化にいいものを雪ちゃんが詰めてくれたのだ。強い風に、巾着の飾りだまがころころと揺れている。この屋上で食事を取ることは禁止されてはいない。あちこちにベンチが並んだこの場所で、仕事の合間に一服する人も後を絶たない。
 棗先輩は私が示唆した物を一瞥し、落下防止の壁に寄りかかって空を見上げている私に並んだ。
「隻と喧嘩したんだって?」
 私に倣って、棗先輩は空を見上げる。私はえぇ、と頷いた。
「喧嘩っていうほどでもないんですけれど。多分、私が傷つけただけだと思うんです」
 私は手元の携帯に視線を落とした。あれから、一通もメールは来ない。私も、恐くて送れていない。
「アレは、そう簡単に傷つくタマじゃないと思うわよ?」
「そうですかね?」
 私は傍らの棗先輩を見上げて首をかしげた。
「棗先輩も、隻さんも、とても繊細な人だと思うんですけれど」
 棗先輩は驚いたように目を見開き、そして手すりの部分に頬杖をついた。
「そんなこというの、あんただけよ。朔」
 ふい、とそっぽを向いた先輩の頬に朱が刺していたので、私は笑った。そして、手すりの向こう側を見つめる。転落防止用の壁の癖に、こんなに低くてよいのだろうか。私の肩ほどの丈しかないのだ。
「朔、あんた飛び降りたりなんてしないわよね?」
「まさか。そこまではしませんよ。もう」
 米国から帰ったばかりの頃は、確かに走ってくる車の前に飛び込みたいような衝動があった。けれど今の私はそこまでの気持ちはない。
 とはいえ、前を向いて生きていこうと、思えるほどに立ち直っているのかと言われれば、私は否と答える。
 きっと、麻痺しているのだ。
 この短期間に、いや、この一年に、様々なことがあり過ぎて、きっと私は今、感情のシャッターを降ろしているのだろう。何も考えたくない、というのが正直なところだ。
「それならいいけど。その酷い顔、どうにかしておきなさいよ。明日、後輩の子かなんかの結婚式にでるんでしょ?」
 明日は百花と拓海の結婚式だ。先ほど携帯をチェックすると、百花と、そしてホテルに着いたらしい優菜からそれぞれメールが入っていた。
「ありがとうございます、先輩」
「いいわよ。お礼をいうぐらいなら倍働いて。今後の働きに期待しているから」
 私は苦笑した。棗先輩は、今年の秋から東京本社に正式に移動することが内定した。もうあちこちを往復しなくていいと思うと嬉しいけれど、淋しいわね。そんなことを棗先輩は口にしていた。後任に私を推しているという。光栄なことだ。
 戻るのか、棗先輩は踵を返した。
「あんたも早く戻りなさいよ」
「はい」
「……あぁそうそう」
 足を止めて声を上げる棗先輩に、私は向き治った。
「はい?」
「朔、隻は実際何も怒っちゃいないわよ。馬鹿みたいに、あんたのことばかり心配してるわ。あいつもあれで肝っタマ小さいところがあるから、どういう内容のメールを送ればいいのか考えあぐねてるっていうところじゃないかしら」
 私は言葉に詰まった。棗先輩は嘘をついて慰めるような人間ではない。それでも、信じられないような内容だ。
 私は確かに彼をある意味、拒絶したのに。
「朔がメール送ったら、喜んで返信するわよ。あの情けない馬鹿兄は」
 肩をすくめて棗先輩が、うんざりするような口調で言った。けれど愛情の篭った言い方だった。兄弟がいいと、先輩たちを見ていて初めて思った。全てのことが終わったら、弟に連絡をとってみてもいい。そう思わせるような、愛しさ。
 棗先輩を見送った私は、握り締めていた携帯を見つめた。
 メールを送るべきか否か。
 少し迷って、一回だけ送ってみようと決めた。棗先輩にも心配をかけているようだし、このまま何もしなくても、どんどん欝になるのは目に見えている。ただでさえ――明日の結婚式に出席するだけで、少し頭が痛いのだ。
 私は嘆息しながら携帯のフリップを開いた。新規メールを開いて、短く一言だけ打ち出す。
『ごめんね』
 それ以上何も思いつかなかった。何を口にしても言い訳めいたように聞こえる。長い文章を考えてもよかったけれど、そうすると打ち出した後でまた消して、メールの送信を先延ばしにしてしまいそうな気がした。
 送信ボタンを押し、メールが返ってこなかったらその時にまた考えようと、フリップを閉じた瞬間。
 ヴヴー
「っ!?」
 メール着信のヴァイブレーションが響いた。
 アドレス不明で戻ってきたのかと思えるほどのタイミング。私は戦慄しながら携帯を握り締めた。アドレスを変えられていたのかもしれないという予想が、脳裏をよぎったからだった。
 恐々とフリップを開いた私の目に飛び込んできたのは、妹尾隻の文字。アドレス不明で戻ってきたわけではないらしい。題名は無し。クリックすると、私が今しがた打った文字と全く同じものが並んでいた。
『ごめんね』
 受信時間は、私が送信した時間と全く同時。
 テレパシーみたい、と思った瞬間、携帯のメロディーが鳴った。私は個別に着信音を設定していないので、画面を見て誰からの電話か確認する必要がある。
 液晶画面に表示されている名前は、妹尾隻。
 初めて受け取る隻さんからの電話に、戦々恐々となる。私は通話ボタンを押し、携帯を耳にあてた。
「はい」
『テレパシーみたいだ』 
 私が思ったことをそのまま、隻さんはその低い声で受話器越しになぞる。頭上を飛行機が通過して、低い音を立てていたにも係わらず、その声ははっきりと私の耳に届いた。電話越しの声はいつも耳にするものよりもくすぐったい。
『ごめんね朔ちゃん』
 私が何もいえないでいる間に、隻さんが謝罪してくる。私は首を横に振った。たとえ隻さんにその仕草が見えなかったとしても。
「ごめんなさい隻さん……」
 口元を押さえて、ようやく搾り出した謝罪。私は屋上にちらほらいる喫煙者の人たちから、このクシャクシャで不細工な顔が見えないように、壁の傍に屈みこんだ。
『あのね、朔ちゃんが謝る必要は何もないんだ。君がとても大変な思いしていて、しんどいときに、俺はどさくさに紛れて手を出そうとしたんだからね。自分の根気のなさに、これでも腹が立ってるんだ』
 私を見下ろした優しい眼差し。温かい身体。私が夢の中にいる間、私の手を包んでくれていた、ひやりとした手のひら。甘く囁かれて落ちてきた私の名前。
 隻さんは、私を抱きしめてキスをしようとした。
 私は拒絶した。
「隻さんのせいじゃないよ」
 口付けをしたいと思っていたのは、私の方だったのに。
 その一瞬でも抱いてしまった感情を通じて、彼に秋波[しゅうは]を送ってしまったに過ぎないのだ。隻さんは私の無意識の誘いに従っただけで、彼には何の落ち度もないのに。
 私は彼を拒絶したのだ。
「隻さんのせいじゃ、ないんだよ……」
『あーあー、朔ちゃんお願いだから泣かないで。泣かれたら俺凄く困るんだ。仕事放り出して、そっち行きたくなるから勘弁して。今仕事放り投げていったら、確実に周囲にフルボッコにされるし』
 隻さんにそういわれて、私は笑いながら、ぐっと眉間に力を入れた。傍目から見たら、どれだけ面白い顔になっているのだろう。ここがまだ人影少ない屋上でよかったと、私は思った。頬と鼻を真っ赤に紅潮させて、下唇噛んでいる怪しい姿を、他人にさらけ出したくはない。
 ぐす、と鼻を鳴らして、私は言った。
「私、隻さんに会いたい」
 一拍置いて、返事があった。
『俺も会いたいよ』
 私はまた泣きたくなった。でも、今泣いたら駄目だ。隻さんのこともそうだし、この残り少ない休み時間で、泣くことで剥げてしまうメイクを直す暇なんてきっとない。
 私はふと、面を上げた。屋上の入り口に掲げられている時計に、目をやる為に過ぎなかった視線は、何気なくその男の存在を捉えた。
 進。
 彼は、出入り口の傍に佇みながら、私のほうを見ていた。
 とたんに隻さんの電話が遠くなる。私の意識は、進に引っ張られていった。何時まで進はこの会社に出向しているのだろう、いつまで、彼は、そうして時折すれ違うたびに、無意識の緊張を私に寄越すのだろう。髪を切ったのか。何故、日本に戻ってくる気になったのだろう。そんなことに。
 進は私と目が合うと、何事もなかったかのように建物の中へと消えていった。
 私は携帯電話を耳に当てなおし、これだから、駄目なのだと思った。
 これだから、手を繋ぐことも、愛を囁くことも、そして口付けも、まだ隻さんにしてはならないのだ、と。
「隻さん」
『ん?』
 まだ電話が繋がっているということを確認して、私は言った。
「会いたいな……」
 こんなことを言うのは反則なのだろうか。私はひどい女だろう。隻さんは私の視線に応えたのに私は拒絶し、その上で会いたいと投げかける。
『今日の夜行こうか?』
 そう提案する彼に、私は駄目だ、と嘆息した。
「今日、残業確定済みデス。明日私有給とってるので、その為に超忙しい」
『明日は俺も仕事だなぁ』
「でも、明日は私も無理。後輩の結婚式なの。そのために有給とってるんだから」
『次休み何時?』
「どにちぃ」
『あぁ……俺、仕事だよ。男に囲まれて』
 とほほ、という隻さんの呟きの背後から、ひどい言い草だ、仕事しろ、色ぼけるな、だのという数人の男の声が聞こえた。というか、今の会話を人のいる場所でしていたのか。私はそれを認識して、急に頬の火照りを感じた。
『御免。外野が五月蝿いから一端切るよ』
「うん。ありがとう。また夜、メールするから」
『了解。待ってる』
 短いやり取りの後、ぷつっという音が響き、そして断続的な発信音が電話から漏れ始める。なんともいえぬ寂寥感が胸の内を占め、私も通話を切って、フリップを閉じた。携帯を握り締めたまま、ずるずると壁にもたれ、空を見上げる。
 麻痺してはいない。こんな風に、声を聞くだけでほっとする。隻さんの優しさが、泣けるぐらいに染み透る。
 それでも、隻さんと言葉を交わしている瞬間さえ、進の姿を見るだけで意識がそちらに引きずられていくのだ。
 古い戀に、囚われたままの、私の恋心。
 本来だったら終わりに転がっていくだけのはずだった。それがなぜか、終わることすら出来ない。こんなに時間と距離を置いてさえ、進の存在に緊張を覚える。
 ただ、前へ進んでいくだけでいいと判っているのに、なぜか私はまだ足踏みをしている。
 私は嘆息して立ちあがった。考えるのは、またにしようと思った。
 屋上は既に人気なく、休憩時間は終わり直前だった。


「というか、何で私が後輩と兄貴の縁を取り持たなきゃいけないわけ?」
 軽い頭痛を覚え、棗は眉間に指先を添えながら独りごちていた。屋上へ続く階段の踊場。わざわざ隻にメールを送ってやったのは、朔の顔色があまりにも酷すぎたからだった。
 大学時代は今ほど仲がよいというわけではなかったが、付き合いのあるほうだった。もともと大学時代の自分は、人付き合いの範囲が狭すぎたのだ――そんな中でも、朔は棗の記憶にはっきりと残っている後輩だった。
 昔は、もっと溌剌としたところのあった娘だったように思う。果敢に物事に挑戦して前へ踏み出す、若さゆえの無謀さと勇気を兼ね備えた少女だった。大人になったといえばそれまでだが、どこか厭世的な影を宿すようになった彼女を見たとき、とても残念に思った。
 だから、誰かを通じて笑いを取り戻すのなら、それがいいと思う。相手が自分の不肖の兄貴という事実は、ほとほと癪に障るのだが。
 ――同時に、朔は一人の男を気にかけているようでもあった。
 名を、有本進といったか。鳴り物入りでこの会社の取引先に入ったらしい。有能で、今回の合同プロジェクトに派遣されてきたのも彼の実力あってのことだと、情報通が教えてくれた。
 朔と同じ、米国帰り。
 あの男を一目見て、朔は吐いて気を失った。
(あら、噂をすれば)
 屋上から、件の男が降りてくる。屋上で、朔に会わなかったのだろうか。棗は携帯を弄るふりをしながら、目の前を通り過ぎる男を観察した。
 高い身丈。日本人離れした、達観した雰囲気。顔は決して美形とはいえない。しかし実力のある男特有の精悍さを宿していた。
 男は棗を通り過ぎ、ふと足を止めた。一瞬、観察していることが判ってしまったのかと肝を冷やしたが、男は棗ではなく屋上を顧みて、再び階下へと歩を進めていった。
 沢山の廊下の人通りの中で、朔を一目で見つけ出した男。
 棗は嘆息して、男の後に続いた。休憩時間が終わるのは彼だけではない。自分もまたそうだったからだ。


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