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閉ざされた輪の王国 中篇


 本邸が幼い子どもたちで賑やかになってからというもの、彼らに関するさまざまな雑務に忙殺され、年を経るごと別邸に帰る頻度が減っていった。しかしアラディアがそれを非難することはない。ジェフティはその点を常々不満に思っていた。
「たまには拗ねてみてくれないか? アラディア」
 ジェフティはアラディアの膝を枕に目を閉じていた。彼女のほっそりとした指が呼吸に合わせてジェフティの前髪を梳いていく。額に触れる彼女のぬくもりが心地よい酩酊をジェフティに与える。そんな中、ジェフティに応じるアラディアの声は幽玄の彼方から響くようだった。
「あなたが来られなくて寂しいって……?」
「そう」
 ジェフティは別邸に帰る頻度を減らす代わりに一回の滞在期間を長く確保するよう努めている。王はその行いに反対せずともますますよい顔をしなくなっている。だが気にしないことにした。ジェフティからすれば数日そこらでは全く足りないのである。それでなくとも別邸に戻って早々呼び出され、王城に引き返すことも頻繁にあるのだから。
 もはやアラディアはジェフティにとっての安寧だった。彼女を思えばどれほど苦しい局面であっても安らかになれた。アラディアの存在がジェフティを慈愛で満たす。彼女さえいれば世界の全てに優しくあれる気がした。彼女が欠乏するとそうさせた全てを憎みたくなった。
 けれどアラディアにそういった様子は見られない。少なくとも、表面的には。
 アラディアがジェフティの不在をかなしく思ってくれていることはわかっている。ただそれと、自分の飢餓感にも似た彼女を渇望する気持ちとの間には、果てしない差があるように思えてならないのだ。
「寂しいわよ。もちろん」
 ジェフティは目を開いてアラディアを見上げた。主張するアラディアは唇を尖らせていた。
「全然そんな風に見えないな」
「ひどいわ。じゃぁどうしたらいいの? あなたが帰るときに、行かないでって、もっとここにいてって、ごねてあなたを困らせればいいの?」
「たまには困ってみたいよ。君がわたしを困らせたことなんてあったためしがない」
「そうかしら?」
「そうだよ」
「ねぇ、ジェフ」
 アラディアの手がジェフティの輪郭を優しく撫でる。彼女の肩口からさらさら零れる長い髪の上で、ろうそくの明かりがかぼそく波打っている。そのきらめきは、夜空にかかる星の河を思わせた。
「わたし、あなたの傍にいられて、幸せなの。こんなにあなたから愛してもらえて、幸せなの。これ以上を望んだら罰があたるわ。過分な幸せを望むと神さまはお怒りになって、今の幸せまでも取り上げてしまわれるのですって」
「君には欲がなさすぎる」
「そんなことないわ。あなたを独り占めできたらどんなにいいかって、いつも思っているわよ」
「本当に?」
「本当に」
 ジェフティが胡乱な目で見上げると、アラディアは苦笑いを浮かべた。
「けれど小さな子たちには父親が必要だわ。よくしてあげてね」
 それはアラディアが折に挟んでジェフティに言い含めることだった。
「かわいいでしょう。あなたの子どもだもの」
 うっとりとアラディアは言う。ジェフティは無言で頷いた。
 子どもたちは確かにかわいらしい。けれどジェフティは己れの子だからという理由でそのように思っているわけではなかった。相手をしているとその純粋無垢さに笑みが零れる。それだけのことだった。
 もしも本邸を賑やかす幼子たちが、アラディアを母としていたのであれば、彼女の言葉を全面的に肯定しただろう。
 いとおしくてたまらないに違いない。
 しかしアラディアにはいまだ懐妊の兆候は見られない。彼女をよく思わぬものたちは石女なのではと揶揄した。
 何を馬鹿な。アラディアは正妻たちに遠慮して気を付けていただけで――しかし長年に渡って服用していた薬が、彼女の身体によろしくない影響を及ぼしているやもと、ジェフティは案じてもいた。
 特にここのところ、アラディアは身体の調子がはかばかしくないらしい。だというのに、そうそうアラディアの傍にいてやれないという現状に苛立ちを覚える。
「ジェフティ」
 アラディアが笑いながらジェフティの眉間を揉んだ。
「難しい顔をして……どうしたの?」
 ジェフティは苦笑した。
「泣き叫んで傍にいて欲しいと言ってくれたら、わたしは何日でもここにいる心づもりなのに、君ときたら三日目には笑顔でわたしの尻を叩いて城に送り出す。もしやわたしの留守中に間男を引き込んでいるんじゃないだろうね」
 アラディアは目を丸め、勢いよく吹き出した。
「ぷっ……あはははっ、そうね。そうかもしれないわね」
 冗談にひとしきり肩を揺らした彼女がふいに声を潜めて問いかけてくる。
「ねぇ、ジェフ、ちょっといい?」
「……うん?」
 アラディアはジェフティの頭を膝から引き上げた。夜着の上からでもわかる余分な肉のない平らな彼女の腹。そこに耳を押し当てるかたちとなる。
「愛しているわ、ジェフティ」
「……どうしたんだ? アラディア」
「内緒。ジェフはわたしのこと、愛してる?」
「もちろん」
 愛しているよ、と囁くと、アラディアは陶然と笑った。
「……うれしい」
 あいしている、あいしている、と、彼女の腹部に囁きかけながらジェフティは眠りに就いた。
 まるで羊水に浸る赤子のように、何の憂いもなく、静謐に満ちた、幸福な夜だった。


 父を恋しく思ったわたしは本邸から姿を消す彼を追ったことがある。
 つるばらの棘と格闘しながら迷路のような園を抜け、木の根に足を盗られつつ雑木林をさまよう大冒険を経て、わたしは堅牢な壁に囲まれた屋敷に辿り着いた。わたしの住まう本邸の何分の一かにすぎぬ、ひっそりとしたその場所が別邸であるとは、うんと後で知った。
 その敷地の入口で、手足に作った擦り傷の痛みと知った者のいない心細さに、すすり泣くわたしを見つけてくれた人物こそ、別邸で主人として敬われる婦人だった。
「こんなところでどうしたの?」
 婦人はわたしを抱き上げて屋敷へ招き、手ずからわたしの傷を手当してくれた。その彼女の下に蒼白な顔をした老女が飛んできた。
「奥さま。このお方は旦那さまの後継ぎの方でございます。本邸は大騒ぎのはず。すぐにわたくしがお連れしましょう」
「待って。この子も疲れているでしょうし、少し休ませてあげてはどうかしら」
 奥さま、と呼ばれた婦人はわたしの背を撫でさすった。いたわり、というものを知らなかった当時、婦人のわたしに触れる様があまりにやさしくて、わたしは驚きから逆に緊張した。
「なりません奥さま。この方が奥さまの下においでだと、本邸の御方々がお知りになったら、どんな誹謗中傷を向けてこられるか……」
 婦人とは対称的に老女の口調は厳しい。婦人は老女のいまわしげな視線からわたしを庇った。
「そんなに睨んではだめよ。この子は何も知らない。お父さまに会いたい一心でこちらに来ただけなのでしょうから」
 結局この時は内密に本邸へと戻されたものの、わたしは人目を盗んで婦人を訪ねるようになった。わたしは迷った怪我の功名として別邸までの最短経路を会得していた。道さえ選べば子どもの足でもそう難しくはない距離だった。
 婦人はわたしをいつでもあたたかく迎えてくれる一方で、もう来てはならないと何度も言った。けれど花と光に満たされた空間のあまりの居心地のよさに、寂しくなるとつい足を運んで、与えられる菓子を頬張りながら長く居付いてしまったのだった。
 だがそれもそう続いたことではなかった。
「面白いところへ行っているそうね」
 ある日、薔薇園の方角へ庭を抜けようとしたわたしはとうとう母に見咎められた。
「いったいどこへ行って何をしているのか……母さまに教えてはくれないのかしら」
 以後、わたしは別邸を訪ねること叶わなくなる。
 結局、愛人だったというあの婦人と父がどういった時間を過ごしていたのか、わからずじまいだった。
 そしてかの屋敷が、いつどのようにして、あのうつくしい主人を失ったのか。
 まもなく寄宿舎へ入れられたわたしに知る由はなかった。



 王の居室に呼ばれたジェフティは、そこで言い渡された命に沈黙した。心臓に痛みを覚え、胸元を握り締める。鼓動が早鐘のようだ。
「なぜ……」
 ジェフティはどうにか問いを絞り出した。あまりに掠れたその声は、王の耳に届いたのか。
「なぜ、アラディアを追放せよ、と命じるのか、か」
 対面の長椅子に腰掛ける王がジェフティの胸中を読み上げながら目を伏せる。
「お前は少々、あの女に騙されておるのではと思ってな」
「……彼女が何をしたというのですか?」
 ジェフティの敷地の片隅で粛々と日々を送るアラディア。彼女に何ができる? 何もできない。
 王は落ち着けとジェフティを手で制して言った。
「先日よりお前の長子が――息子が、お前の愛人の下に通っていたのは知っているか?」
 まるで息子が間男であると告発するかのような王の重々しい物言いをジェフティは一笑に付した。ジェフティの長子はまだ寄宿舎にも入っていない子どもだ。
 敷地内で道に迷った彼をアラディアの家人が見つけて本邸まで送り届けた旨は知っている。息子はそれ以降も別邸を訪れていたと、王は言うのか。そうだ、と彼は肯定した。
 アラディアは本邸の誰かを抱え込んで密かに長子と交流を図っていたのだと王は言った。長子の警戒を解き――いつかその母の座を、正妻の地位を手に入れ、ジェフティから絞れるだけ財を奪うつもりではないかと。
「そんなくだらない諫言をあなたにしたのはだれですか?」
「信じたくないのはわかる。だがお前はあの女への執心がいささか過ぎているのではないか?」
「わたしの正妻の座を望んでいるというのなら、彼女はもっと早くに事を起こしていたでしょう。それこそ真っ先にわたしとの子を持とうとしていたはずだ」
「できなかっただけだろう」
「子を持たぬよう薬を飲んでいたのは彼女の意思だ!」
 激昂に立ち上がったジェフティに王が反駁する。
「ならば気が変わったのだ――焦り始めたのだろうよ。お前の通いが少なくなったから」
 そうさせているのは、誰だ。
 暖炉の中で熾火が爆ぜる。
 十二分に暖められた部屋に立っているはずなのに、ジェフティの身体は何故かひどく冷えていて、指先の感覚も既にない。
「わたしはお前を案じているのだ! お前があの女に傾倒するあまり、いつか全てを失いやしないかと!」
 礼を取ることも忘れてつま先を翻したジェフティの背に王が叫ぶ。
「女に訊けばいい、ジェフティ! あの女は真っ先にお前の地位を案じる! 今の生活を失わぬようにもがくだろう! それこそ女の本心だ! 騙されるな!」
 アラディアと長子との間に面識があっても状況的に何らおかしくはない。けれどそれならば何か一言ありそうなものだ。ましてや繰り返し会っていたというのなら。
 家人たちからの報告は何もない。
 それが、不可解だ。
 だからといって王の言葉を鵜呑みにしたわけではない。
 それでも彼の話を切り捨てられなかった。
 彼はジェフティの王なのだから。


 寄宿舎で父の後継を品定める眼にさらされたわたしは、ますます自身の存在について悩むようになった――わたしははたして誰の子なのか。
 その謎が王太子を引き寄せたと言っても過言ではない。彼も同じ煩悶を抱えていたのだ。
 東の小国の出である王妃は輿入れを果たしたとき既に王太子を身ごもっていたという。迎えに行った王が初夜を待たずに手籠めにしたかは当事者たちのみが知り得ることである。王妃はこの国の水が合わなかったのか病がちで、王太子を生んでまもなく儚い身となられた。祖国に仲を引き裂かれた恋人を残していて、王妃はかの男恋しさに自害されたのだという噂が、婦女子たちの間で人気ある哀しき恋物語として独り歩きしている。
 王妃は愛する男の子を世継ぎとして据えることで運命に復讐を謀ったのよ――……。
 彼女たちの愛へのあこがれはわからぬでもない。
 しかしともすれば王への反逆ととられかねぬことを不用意に。乙女の妄想とやらの馬鹿馬鹿しく滑稽なことよ。
 だが分別のつく前よりそこかしこで真偽あやふやな母の悲恋を耳にしていた王太子の心痛はいかばかりであったのか。彼が寄宿舎に身を寄せていたのは逃げの意もあったのだろう。王も若き時代に学び舎にて忠臣を探していたというから、いずれは臣下となる者たちの中に身を置いても、反を唱える者は誰もいなかったらしい。
 王太子は朗らかな少年で日陰を好むわたしとは対極にいたが、お互いの疑念に塗れた出自のせいか、妙に通じるところがあった。わたしたちは自然と行動を共にし、忠誠を誓う主人とその臣下となる。
 王太子と出逢わなければわたしは病んでいたかもしれない。
 ちょうどこの頃に親族で唯一の拠り所であった父が豹変し、わたしの親愛を完膚なきまでに砕き始めたからである。



「ジェフティ!? どうしたの!?」
 何の報せもなく戻ったジェフティを、アラディアが驚きの顔で迎え入れる。ひどく強ばった彼女の表情がジェフティの疑問と焦燥を掻き立てる。何故、笑わない。何故、喜んでくれないのだ……。
「ここにわたしの息子が幾度か来ていたというのは本当か?」
 ジェフティは瞠目する彼女を見て、王の密告は真実だったと悟った。
「何故、黙っていた?」
「ごめんなさいジェフティ。けれどあの子を怒らないであげてね。それから、みんなも。あなたに黙っていてってお願いしたのはわたしなの」
「どうしてそんなことをした?」
「だってあの子が――……ねぇ、ジェフティ、やっぱり、何かあったのね?」
 ジェフティは差し伸べられた手を反射的に振り払ってアラディアから退いた。彼女の瞳が不安げに揺れる。
 ジェフティの脳裏に王の声が反響する。
『訊けばいい、ジェフティ!』
「アラディア。わたしが今の生活の何もかもを捨ててどこかへ行くと言ったら、君は共に来てくれるか?」
「……捨てる、つもりなの?」
「たとえ話だ」
 床に視線を落としたアラディアが肩に羽織る毛織物の裾を握りしめる。
「……捨てて、どうするの?」
 アラディアが尋ねる。
「捨てて、どうするの? 駄目よ、ジェフ。そんな……」
『あの女は真っ先にお前の地位を案じる』
 ――今の生活を失わぬようにもがくだろう。
「……君がわたしといるのは、やはりこの生活のためか」
 彼女のための家、彼女のための使用人、彼女のための衣服、彼女のための装飾品。
 幾人もの男に抱かれながら明日の食に困るより、男ひとりの機嫌を取っていたほうがいいに違いない。
 落ちた沈黙はほんの一瞬であっただろう。
 しかしジェフティには永劫のように感じられた。
「わたしにいなくなってほしいのね」
 と、アラディアは言った。
 優しげとすらいえる、穏やかな声音だった。
「奥さま!」
 飛ぶように駆けてきた老女が二人の間に割って入る。この別邸に住みこむ家人のひとりだ。彼女はジェフティを睨み、金切り声を上げた。
「旦那さま! なんということをおっしゃるのですか!? 奥さまは……!」
「ジェフティ」
 アラディアが微笑んでジェフティに請う。
「身の回りの物だけ、片づけさせて。あと、皆にお別れの挨拶を」
 それだけすめばすぐに出ていくと、アラディアは毅然と言い放った。
 アラディアが踵を返す。その颯爽とした足取りに、肩から毛織物が滑り落ちる。もう与えられたものは何ひとつ要らぬと、その背が物語っている。
 ――本当に出ていくつもりなのか、アラディア。愛していると、あれほど繰り返し唇にのせた言葉はやはり嘘だったのか。わたしは君にとって単なる生活の保証人でしかなかったか。
 名残惜しさすら見せぬアラディアに対し、ジェフティは俄かに苛立ちを覚えた。その肩を力任せにひっつかむ。
「アラディ! ……ア……」
 ジェフティは、立ち竦んだ。
 アラディアは唇を噛み締め、頬が濡れるに任せている。顎からしたたった大粒の滴が磨き抜かれた床の上に染みを作る。そんな彼女の足元で、老女が、わぁ、と泣き伏した。
「いったいどうなされたのですか! 奥さまほど……アラディアさまほど、旦那さまを支えようとなさる方は他におりません! こんなに旦那さまのお傍に相応しいご婦人を他に存じ上げません! だからこそわたくしたちは、アラディアさまを奥さまとお呼びしているのです!」
 アラディアを追い出すとは気が狂ったのではないか。考え直せ。冷静になれ。どうしたのだ。老女は捲し立てておいおいと泣き崩れた。ことの次第を見守っていた他の家人たちも、あからさまな非難の目をジェフティへ寄越す。
「アラディア」
 ジェフティは老女を抱えてその場に座り込むアラディアの前に跪いた。
「……わたしを、愛してくれているか?」
 アラディアが濡れそぼった睫を震わせてジェフティを見る。彼女はぎこちなく唇を笑みの形に曲げた。押し殺しきれぬ悲嘆が今なおほろほろと頬を伝って、その口角のくぼみに溜まっていった。
「信じてくれないのなら、何を言っても同じだわ」
 ここで愛していると、幾万幾億、それこそ星の数ほど重ねて囁いても、あなたには空々しく聞こえるだけでしょう。
「わたしがあなたを愛していると思わないなら、それでいいわ……」
「アラディア」
「わたしにはそれを証明する手立てがないのだもの。わたしには何もないのだもの。教会に登録されないわたしは、死ねば生きた証すら残らない。あなたが愛してくれているから、わたしはここにいられて、わたしはあなたに愛しかあげられなくて、でもそれを信じられないって、あなたが言うならわたしは……」
「アラディア」
「わたしは、ここを、出ていくしかないじゃない! だってわたしは、あなたの! あなたが! あな……あぁ……!」
 ジェフティはアラディアを抱き寄せた。腕の中でアラディアがもがく。悲鳴を上げる。むせび泣く。
「わたし、もう、あなたのそばにいたらだめなのね」
「そんなことはない」
 わたしはアラディアを抱く腕に力を込めて断言した。
「ずっと一緒だ、アラディア。すまなかった。すまなかった。どうかしていたんだ。許してくれ。本当に」
「一緒に、いられなくていい」
「アラディア」
「わたし、あなたに迷惑をかけたくない。あなたの足枷になりたくないの。そうなるならわたし、あなたの傍にいられなくていい。ここを出ていく。あなたと一緒にいられなくていい」
「そんなこと言わないでくれ」
「わたし、あなたを愛しているの」
「わかっている」
「信じて。信じて」
「信じる。すまなかった。アラディア。本当にすまなかった」
 ジェフティの立場を慮ってばかりのアラディア。彼女は常に笑顔を絶やすことなく、惜しみない愛をジェフティに注いでくれていた。寂しさすべてを押し殺して。
 アラディアを抱く手に力を込めたジェフティはふいに彼女の身体の線が細くなっていることに気が付いた。アラディアはしばらく会わぬ間に痩せていた。とても。
 狼狽したジェフティをアラディアが強い力で突き飛ばす。
「アラディア?」
 ジェフティが顔を覗き込むと彼女は口元を押さえて嘔吐した。
 酸の臭いが、鼻につく。
「医者を!」
 家人へ叫ぶジェフティの手をアラディアが強く握りしめる。おちついて、と彼女は言った。
「ここのところ少し、調子が悪くて。ごめんなさい。すぐによくなるから」
 汚してしまってごめんなさい。迷惑をかけてごめんなさい。そう繰り返すアラディアにジェフティは頭を振った。
 アラディアはそのように病んでいながら請われるままこの屋敷を出て行こうとしていたのか。
 金を無心することもなく。理由を追及することもなく。黙ってわたしの意向に従おうとしていたのか。
 ジェフティは震える腕で抱き上げたアラディアを寝所へ運び入れた。湯でしぼった布を用いて汚れた口まわりや手足を拭い、衣服を着替えさせる。とてもではないが彼女から離れる心境にはなれなかった。
(王よ)
 アラディアの横に滑り込み、ジェフティは胸中で囁いた。
(彼女はあなたの思うような女ではない。あなたがだれにそんな考えを吹きこまれたのか知らないが――……)
 そこではたと気が付いた。
 そう。王は、だれかにそそのかされたのだ。
 月のない夜は音すべてを吸い込む闇に満ちている。部屋も静寂に沈んでいる。
 ジェフティはアラディアを横抱きに抱えて離さず、燭台に灯る火のゆらめきを見つめて夜を過ごした。


 何が父を狂わせたのかはわからない。しかし彼の人が変わってしまった時期には心当たりがある。わたしが寄宿舎に入ってほどなく――父が母を断罪した頃から。
 父はわたしを見なくなった。わたしの書いた手紙は目を通すことなく焼いたと聞く。わたしの努力には知らぬ存ぜぬを突き通し、わたしの積み上げてきたものを嗤いながら壊しさえした。
 ひとつ例を出そう。
 寄宿舎とは貴族の子弟の集まる学び舎である。その中の序列は家柄でなければ年功でもない。実力だ。文武両面に於いてたゆまぬ努力をした者のみが王から総代の任を拝命する、はずなのだ。
 わたしが総代として選ばれたとき、わたしは誇らしい気持ちで父に報告した。いつしかわたしに声をかけることのなくなった父だけれども、この滅多に手に入らぬ栄誉においてのみは、たった一言だとしても何かあるはずだとわたしは期待していたのだ。
 たとえば、よかったな。あるいは、よくやった、というような。
 浅はかだった。
「当然だ」
 興奮と期待に頬を上気させるわたしを一顧だにすることなく父はこともなげに言った。
「わたしが王にそうなるよう頼んだのだから」
 父は虚偽を口にしただけだったのかもしれない。
 それでもいつしかひいきが行われたという噂が、出所不確かなれど信憑性あるものとして流布し、わたしを侮蔑と嘲弄の海に沈めた。父の力はそれほどまでに絶対的なものであると人々から信じられるようになっていた。
 王と父の力関係がいつから逆転したのかわたしは知らない。
 必要と判ずれば父は王の手を借りて、不可侵の領域まで平然と手を伸ばした。この件もまさしくそれだった。父はどのように接すればわたしがもっとも傷つくかを熟知していた。
 父のわたしを見る目には憎悪がある。
 青い焔にも似たそれに繰り返し焼かれたわたしの心は、やがてその焦げ跡から腐敗を広げ、底知れぬ闇を封じた洞のようにがらんどうなものとなっていった。
 父は周囲すべてに情がない。ただ、わたしはことさら、憎まれていたように思う。
 わたしと母を異にする弟妹たちはその理由をこのように推測する。
『兄上は、父上の本当の子ではないから』
 しかしわたしはそうは思わない。不義の子を疑われて泣いていたわたしに、父の嫡子であることは動かぬと、堂々と学び励めばいいと、説いて慰めたのは他ならぬ父であったが故に。
 母が密かに情人を招き入れていようとも、ずうずうしくもその子を孕もうとも、父は関心を持っていないようだと幼心に感じた。
 だから母が不義密通の咎で断罪された報せを受け取ったときわたしは確信していた。父は別の理由で母を憎悪したのだ。
 そしてわたしをその同罪と見做したに違いない、と。


 自分が貶められるように感じるらしく、妻たちが情人を持つと憤慨する男も多い。だがジェフティはそうは思わない。ジェフティ自身がアラディアという愛人を持つからには、妻たちにも同等の権利があってしかるべきだと思っている。
 ジェフティに害成す存在でないかぎり、妻たちがどんな者に会おうとかまわない。それこそ彼女たちの生んだ子がそれぞれの抱える愛人のそれであったとしても気にはしない――実際のところ、後継ぎはジェフティとあまりに似ていなかった。ジェフティの子ではないと皆が言った。けれどそれでもよかった。ジェフティの抱いた妻が時期よく子を孕んだという事実さえあれば教会は認めるのだから。
 正妻が本邸の内外に情人を持っていることも、彼らの出自もそれなりに把握してもいた、が。
「さすがに王とお前が密通しているとは知らなかった」
 王だけがジェフティの予定を操作できる。王だけがジェフティを必要なときに遠ざけられる。アラディアを目障りと見做し、且つ、王に諫言する可能性のある者をと洗いださなければ、ジェフティは王と正妻の関係を知らぬまま一生を終えただろう。
「王もかわいいところがおありになる。隠される必要はどこにもなかったのに」
 二人の逢瀬が始まった時期は正妃が崩御して間もない頃。ジェフティの正妻が長子を孕む前だ。それほどまでに長い間、王たちは関係を伏せていたことになる。
「なぜ王はわたしに命じなかったのだろうな。お前の正妻を、妃として召す、と」
「まがりなりにもわたくしは正妻ですもの。あの方が唯一無二の友と公言してはばからぬ、あなたの。……あなたに叱られることをお畏れになったのでしょう。肝の小さなお方であらせられますものね?」
 正妻は少年に磨かせたばかりの爪を矯めつ眇めつしながら口の端を上げた。
「王にわたくしを妃として召し上げるおつもりがおありでない以上、わたくしもあなたの妻をやめるつもりはなくてよ、ジェフティ」
「ならばわたしもお前を離縁することはない」
 なんならこのまま王との関係を続けてくれていてもかまわない。二人が一枚の毛布に包まる様を想像したところで腹はまったく立たなかった。
 不快な点はただひとつ。二人が結託してアラディアをジェフティから引き離そうとしたことである。
「アラディアはお前からその座を奪おうとはつゆとも思っていなかった。……無駄なことをしたな」
 ジェフティの発言に正妻は高く笑い、冷えた視線をジェフティに向けた。
「わかっていないのね、あなた」
 まなじりに浮かぶ涙を指で拭って正妻は言う。
「わたしではない。王があの娼婦を厭っているのよ。あの女のことなど、どうでもいい。わたくしはね、あなたが気に入らないの。王でさえわたくしには平伏すというのに、あなただけがわたくしに傅かない。あの娼婦に手を出さなければどんな贅沢も放蕩も許そう――あなた、そう思っていたのではなくて? それが、気に入らない。どうしたらあなたをうちのめし、わたくしの前に跪かせることができるのか。……わたくし、ずっと考えていて、やっと機会が巡ってきたのよ」
 長子がアラディアと接触を持ったことが、きっかけとなった。
「王はね、あの娼婦とあなたを引き離す理由を欲しがっておいでだったの。だからわたくしはそれを差し上げただけ。あなたの娼婦はわたくしの子を手懐けたことを手始めに、わたくしの座を、ジェフティの家を、そこに連なる資産を狙っている。あなたはあの娼婦に狂わされている。あなたを正気に戻すためには……という風にね。けれど王は手ぬるくてならないわ。追放ですまそうとするなんて。だからわたくし、こうも王に諫言して差し上げたわ。狂わされたあなたは王を捨ててあの娼婦とこの国を出ていくつもりでしょうって。ね、そうでしょう?」
 ジェフティは沈黙した。それを肯定と受け取った正妻は満足そうだった。
「王はそれをお許しにならないわよ、ジェフティ。……ちょうど今頃、あなたの宝物を壊すために、王命を受けただれかが家探ししているでしょうね」
 ジェフティは妻である女の宣告を耳にしながら、ここに来るべきではなかったのだと思った。そもそも王と正妻の繋がりをこうもあっさり看破できた時点で気づくべきだった。
 ジェフティは罠にはめられたのだ。
「あなたが何をしようと勝手だわ。けれどわたくしを他の女たちと同じように、扱い続けたことだけは許し難くてよ」
 だからこれはわたくしの復讐。
 大切な者を奪われた絶望で平伏せばいい。
 そう言って女は哄笑した。
 別邸では主人が奪われ、家人たちが悲嘆していた。ジェフティは泣き伏す彼らを残してすぐに王の下を目指した。
 王は私室でジェフティを待っていた。
「アラディアをどこへやったのですか? 王」
「もう忘れるんだ、ジェフティ。あの女はお前の為にならない」
「それはわたしが決めることです。彼女を返してください」
「そして返ってきたあの女と共にわたしから逃げるつもりか?」
 密かに出立の支度を整えていたことは確かだが万が一の保険に過ぎない。王と正妻がアラディアに手出しせぬと誓約するなら、ジェフティとて王から離れるつもりはなかった。
 正妻が糸引く存在だと思ったから彼女を先に黙らせに行った。そうすればすべて元の通りだと思っていた。王が本当にジェフティを傷つけるはずはないと、彼がアラディアを奪おうとするのは何かの間違いだと、思っていた。
 だが。
「代わりの女はいくらでもいる。わたしが与えてやる。……お前は、あの女を、わたしよりも優先させすぎたのだ、ジェフティ」
 自分がいつ王をないがしろにしたというのだろう。しかしそれをここで論じても平行線をたどるだけだとジェフティは知っていた。
「……アラディアに会うことをお許しください。……それともあなたはもうその手を彼女の血で汚されたのか」
 王はその疲れた目をジェフティから逸らして案内の兵を呼び入れた。ジェフティは黙って兵に付いて歩いた。アラディアは宙に渡された廊下で王城と繋がる塔に囚われていた。


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