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閉ざされた輪の王国 前篇


 今からわたしが語るものは、
 ひと組の男女の話であり、
 ひと組の夫婦の話であり、
 ひと組の親子の話であり、
 ひと組の主従の話であり、
 ひとりの男の物語である。



 わたしは父を殺した。雪解けにはまだ早い、冬の終わりのことだった。
 わたしの父は、権力者であった。
 王の第一の側近でありながら、彼を殊のほか軽んじて、何故かそれが許された。
 わたしの父は、好色であった。
 年を経てなお艶の増す美貌を持ち、食指が動けば老いも若きも関係なく、女をその毒牙に掛けた。
 わたしの父は、子どものようであった。
 ひとを、家を、国を、粘土をこねるかのごとく弄ぶ。
 あえて自分の身をさらした危険に、他者が巻き込まれることを好んでいた。己れに向けて怨嗟を吐く者たちを、父はひときわ愛していた。
 父は狂った男であった。
 何が父をそのような男にしたというのか。
 父の墓標を前にし、わたしは追憶する。
 わたしが殺した男の生を。



 ――アラディアと出逢ってからの日々は、ジェフティにとって、最も幸福に満ちていた時間だった。


 署名を終えた全ての書類を身近に控える官たちに渡し、ジェフティは外へ出た。たちまち人々の喧騒がジェフティを襲う。夜更けにもかかわらず皆が寝静まる気配はない。天幕の並ぶ駐屯地は篝火まばゆく、人々の影が忙しなくうごめく。終戦を迎え、引き上げの支度にかかっているのだ。
 歩哨たちに戻りの時間を言い置いて、ジェフティはひとり駐屯地を巡り、その裏手に広がる森へ足を踏み入れた。しばらく歩けば湖に出る。澄んだ水を湛える湖には、月の明かりが千々に散る。湖畔に漂うものは水と腐葉土の匂いばかりで、鉄や火薬の香りも、男たちの怒声も、とても遠かった。
「隊長さん」
 静寂を押しやる少女の声にジェフティは面を上げた。たよりない上着の前をかきあわせながら、愛らしい顔の少女が早足で歩み寄ってくる。
「アラディア」
 ジェフティの呼びかけに少女が嬉しそうに微笑んだ。
 アラディアは戦場で兵たちを慰める娼婦のひとりである。
 開戦したばかりの頃に軽率ながらひとり歩きをしていたジェフティはこの場所で彼女と出逢った。アラディアは肌刺すように冷たい湖の水で懸命に身体を禊いでいた。その肌には多くの青鈍色の痣が浮かんでいた。
 彼女は征服欲に駆られた男たちから頻繁に暴力を受け、娼婦でありながら異性をひどく憎んでいた。ジェフティと出逢ったばかりのときも、媚びやへつらいをいっさい見せなかった。
 その彼女がいまや自分だけには花のような笑みを向けてくれる。
 ジェフティはささやかな充足を覚えて、近くで足を止めたアラディアの肩に、自分の外套を着せ掛けてやった。
「ありがとう、隊長さん。何もお変わりはない? 怪我や……かなしいことは?」
「何もないよ、アラディア」
「よかった」
 定例の挨拶を終えたあと、アラディアが質問を重ねる。
「どのぐらいここにいられそう? 今日はこの前の続きだけど、少し長くなりそうなの」
 会うたびにアラディアが説話をひとつ選んでジェフティに語る約束となっている。今回は古い冒険譚で、まだ話途中だった。
 アラディアはジェフティの知らぬ数多くの物語を諳んじることができた。それは職業柄というよりも、知性の高さによるものだった。彼女は世情によく通じ、話術も巧みで、機転も利いた。一般の下士官ではないとひと目で見抜きながら、安易にジェフティの身の上を尋ねないこともその顕れだ。
 彼女は娼婦として賢すぎたのかもしれない。だからこそ男たちは彼女に対する優位を力でしか示せなかったのだろう。
 品性すらうかがえるアラディアの瞳を見下ろしながら、ジェフティは首を横に振った。
「残念ながら、あまり長くはいられない。……帰り支度があってね」
「……かえ、る?」
「都へ」
 ジェフティは王命を受けてこの戦地に滞在していた。
 政情不安定なこの西の国境は、たびたび戦の狼煙を上げて、時の王の手を煩わせている。此度もそうだった。王は隣国との速やかなる連携とこの争いの終結を望んでいた。王の第一の側近であるジェフティは、彼のその意を伝える名代として、この派兵に付き添っている。だが終戦を経てその役目も終わり、主君の下への帰還が決まったのだ。
 アラディアが笑顔をしおれさせる。しかしそれも一瞬だ。彼女は切なげな顔をすぐさま笑みに塗り替えて明るく言った。
「おめでとう、隊長さん。一足早くこの場所から抜けられるのね」
 戦自体は既に終わっている。だが兵の大半はまだこの地に残留する。娼婦たちの仕事は続く。
 ジェフティはアラディアを見つめた。彼女のまなじりには寂寥が結晶となって煌めいている。彼女も二人で過ごすつかの間の時を惜しんでくれている。にもかかわらず彼女は戦で荒れた土地を離れられるジェフティへ祝辞を述べる。
 それが、ひどくいじらしかった。
 沈黙を保つジェフティに不安を覚えたらしい。アラディアの顔から次第に笑みが剥がれていく。
「……隊長さん」
 ついに瞼を伏せたアラディアが、服の裾を繊手で握り締め、声をひそめて尋ねてきた。
「わたしを、買わない?」
 彼女がすすんで身を売ろうとしたことはこれまであったのか。本来ならば稼ぎ時の夜半にジェフティと二人でいるのだから答えはわかりきっている。その彼女がいっときでも身をジェフティにゆだねようとしている事実に、ジェフティは笑いだしたくなった。
「わたしは君を買うつもりはないよ。そのつもりで、会いに来たわけじゃない」
 ジェフティの返答にアラディアが落胆の呻きをこぼす。
「そう……」
 ジェフティはアラディアとの距離を一歩詰めた。顔色を窺う彼女をひと息に抱き寄せ、その耳元に囁く。
「わたしは君を、攫いに来たんだ」
 そうしてアラディアはジェフティの巣箱に住まう愛人となった。
 それからは夢のように幸福だった。
 アラディアが自ら命を絶つその日まで。



 嫡男としてこの世に生を受けたわたしは父が死したとき、彼からありとあらゆるものを継承した。
 たとえば役職を。
 わたしは王の側近である。第一の、という枕詞こそ受け継いだものではないにしろ、王の執政を補佐する身の上はかつて父のものであった。
 たとえば財を。
 国で富む者を頭から数えれば、五指の中には含まれるだろう。
 城の近くに位置する広い敷地も、引き継いだもののひとつだ。六つの館で形作られる広壮な本邸と、やや離れた場所にある別邸の二邸を有している。そこにあるもの全てが今やわたしのものだ。しかしおびただしい遺品は何ひとつ父の狂気について語らない。だからわたしは父の狂気のわけを知りたくば、過去そのものを省みるしかない。
 わたしは父の正妻を母として生まれ、六つの時まで本邸で暮らしたが、父の姿を多くは見かけなかった。多忙を極める父は城住まいを常としていた。
 その父が別邸にはよく足を運んでいたという。
 本邸から薔薇園と雑木林を挟んだそこに住まう者は、もっぱら時の当主の愛人である。そのせいか土地を区切る壁こそ物々しくあれど、内部に広がる庭は季節折々の花に満ち、屋敷も女性を意識した瀟洒な造りとなっている。
 わたしの父も例に漏れず、かつてそこにひとりの婦人を住まわせていた。
 別邸はいつからか無人となりはてている。
 それでも父は足を運び続けていたという。
 父の死後、興味を引かれて訪れたわたしを迎えたものは、前の主人の喪に服し、次の住人を粛として待つ沈殿した空気だ。まとめられた調度類には埃よけの布がかけられ、鍵のかかった納戸の奥で整然とした食器が沈黙していた。屋敷に父の気配はなかった――一箇所を除いて。
 居室の暖炉前に据えられた椅子と円卓は布を被っていなかった。わたしのかざした灯りを照り返す酒瓶の破片が散る卓上では、一冊の本が閨の中の女のように紙面を白々とさらしている。
 わたしは題名を確認した。過去に流行った恋物語だった。
 おおよそ父に似つかわしくないそういった読み物が、別邸には数多く残されていた。父の愛人が好んでいたのか。それとも愛人と並んで眺めたときがあったのだろうか。
 嬉々として手を出した女たちも、骨の髄まで利用した男たちも、煩わしくなれば冷酷に切り捨てる。だれが血にまみれて絶命していようと微動だにしない。
 そんな父のような男にも。



「ねぇこれは?」
 腹ばいに寝そべるアラディアが肩越しにジェフティを見上げ、枕元に広げられた本の文字をその細い指で示した。片手で頬杖を突いたまま横になっていたジェフティは睡魔に重い瞼を押し上げて単語を読み上げる。
「“閉ざされた輪”」
「とざされたわ……?」
「“わたしたちはこの閉ざされた輪の王国で出逢いと別れを繰り返すのだ。死のみがわたしたちを別ち、新たな生を得た先で出逢えばまたひと目で恋に落ちるだろう。わたしたちは鎖の輪。永遠に続く恋人たち……”」
「永遠の恋人……すてきな響きね」
「もう寝よう、アラディア」
 うっとりと呟く娘の手から奪い取った本を棚に置いて、ジェフティは引き寄せた燭台の灯りを吹き消した。そのまま枕に頭を落とし、胸板に頬を摺り寄せてくるアラディアの髪に指を梳き入れながら、欠伸混じりに呟く。
「ずいぶんと読めるようになったんだな」
 ジェフティが不在の間にアラディアは住み込みの家人から文字と計算を習っているらしい。アラディアが挑戦していた本はかなり上級者向けの本だ。ジェフティの所有する屋敷に住まわせたばかりの時は文盲だったはずの彼女が、知らぬうちにこんな本にまで手を出せるようになっていたとは驚いた。
「このお屋敷にはこんなにたくさん本があるのよ。読まないなんてもったいないわ。でもこれは、恋のお話だから読めるの……小難しい内容だとまだまだだもの」
「専門書を前に頭痛がするのはだれも同じだ。わたしが学舎の徒だった頃だって、君ほど勉強熱心じゃなかった」
 今しがた棚に置いた本の隣では、辞書と歴史書が栞を咥えている。礼儀作法の教本は新たに取り寄せている途中らしい。
「わたし、いつまでもあなたの傍にいたいのよ、ジェフ」
 アラディアが細い腕でジェフティの身体を抱いて囁く。
「そのために、どうやったらあなたの奥さまたちから取るに足らないひととして扱われるか知りたいの。お馬鹿さんになるためには、ちゃんと学ばなきゃ……いろんなことが、わかっていなくっちゃ」
 ジェフティには数人の妻たちがいた。先代の王や父からの命で引き受けた女たちだ。嫌ってはいないし、着飾った彼女たちをそれなりに美しいとも思う。けれどアラディアの傍で得られるような安らぎはなかった。婚姻は血の濃さや権力の均衡をとるための手段でしかない。だれもそこに情愛を持たない。
 だからこそ愛人を持つことは非難されない。両手足の指に余るほどの愛人を屋敷に住まわせる男も少なくない。だがあえてジェフティはアラディアを正式な妻の席に加えたかった。するとジェフティとほぼ同等の権利を彼女が享受できるようになるからだ。ジェフティが万が一、死しても、彼女は路頭に迷わない。様々なことが保障される。
 しかし教会は登録されていない彼女を認めなかった。教会と交渉するジェフティに、顔をしかめた妻たちもいる。
 アラディアはそういった機微に敏感だった。
「馬鹿になるためには学ばなければならない、か。……名言だな」
 ジェフティは苦く笑ってアラディアの滑らかな額に口づけた。上掛けと毛布を自分たちの肩口まで引き上げる。
「ジェフ、手を出して」
「手?」
 請われた通りに差し出したジェフティのてのひらに指を滑らせながらアラディアが言った。
「わたし、文字を読めるだけじゃないの。たくさん書けるようになった……。あなたの名前だって、きちんと書けるのよ」
 アラディアはジェフティの名前に続けて、愛の言葉を、綴った。
 彼女のそういった、子どものような表現を、くすぐったく、そして愛しいと思う。
 ジェフティは彼女のてのひらに、同じように愛の言葉を綴り返し、闇の中でぬくもりをさぐるように、深く、口づけた。



 父の過去を知る者は決して多くない。
 教会は登録された国民すべての生から死までを記録しても、その内に宿った感情までは網羅しない。城内の者たちは公の父しか見ておらず、私の部分を知り得ていただろうわたしの母はとうに他界し、側室たちはいずれも貝のように口を閉ざしている。彼女たちはいずれもわたしに怯えを隠そうともせず目を合わしもしない。今や国で第二の権威を誇るわたしから昔年の報復をされるとでも思っているのか。彼女たちはわたしが幼い頃――いや、よそう。今はそれを語る段ではない。
 もっともわたしとの関係が良好であったとしても、彼女たちは父のことを語りはしないだろう。
 あの父のことを忘れるべきだと皆は言う。
 王も父の足跡を辿るわたしによい顔をしなかった。幼少のみぎりより友であった彼が、わたしに不快を示したことはそれが初めてだった。
 彼が心穏やかでない理由はわかる。わたしの父の生を省みることは、王の父、つまり先王の私の部分を暴く行為だからだ。
 わたしたちと同様に、父と先王も単なる主従を越えた間柄だった。
 父たちは寄宿舎にて出逢ったという。わたしたちもそうだった。貴族の子弟は六の年を過ぎるとそこに集まり、国を担う次代の者として教育を受ける。そこで絆を結んだ王太子が即位してからもわたしの友であるように、先王は若き時も晩年も、どんな形であれ、わたしの父に最も近しい存在であられた。
 先王はわたしの父にわずかに先だって崩御されている。
 遺憾だった。
 父のことをつぶさに知る先王であれば、わたしの疑問にきっと答えをくださっただろうに。



 国は城を中心とした同心円の形をしている。そしてその核に最も近い円を都と呼んだ。
 歴代の王の居室はそんなこの国の、あるいは都の縮図である。正円を形作る部屋の壁には尖塔を持つ白石造りの家々が、中央に行くほど高くなる円天井には季節の移り変わりが、花の香り馥郁とするような写実的な筆づかいで描かれる。
 それらを目にするたびにジェフティは思うのだ。
 国は、王の箱庭なのだと。
「そんなにかしこまる必要はないよ、ジェフティ」
 開いた扉の前で直立するジェフティを、王が微笑んで迎え入れる。
「お前はわたしの支えなのだから。……すまなかったな。急に呼びつけて」
「いいえ、お呼びとあらばどこへでも馳せ参じましょう、王よ」
 その言葉に嘘偽りはない。ジェフティの主君としてある彼は王太子の頃より何においても優先される男であった。それを不服としたことはこれまで一度としてない。
 しかしながら今日は複雑な感情が胸にしこっていた。朝は会議、夜は饗宴という日々が半月続き、久方ぶりに帰るとアラディアに報せを送ったばかりのときに、王から召喚されたのだ。そのことをいっときでも恨めしく思った自分に驚き、罪悪感を抱きながら、ジェフティはいま王の前に立っている。
「久々にお前と飲み明かしたかったんだ。お前も妻を伴う会が連続して疲れただろう?」
 王の前の卓には酒と肴が所狭しと並んでいる。それらを挟んだ席にジェフティは腰を下ろした。
「それにしても、お前の妻たちは気難しすぎるな。父は手に余る女ばかりを選んで、お前に押し付けたに違いないよ」
 顔を寄せて囁く王にジェフティは笑いながら安堵した。王は長らく先王の死を引きずっていた。その彼が進んで先王の話題を持ち出したのだ。王もようやっと過去を遠いものにできたのだろう。ジェフティがアラディアとの生活を通じてそうしていったように。
「あなたの妃となられるお方が、たおやかな姫君であらせられることを願いましょう」
「お前を妃に出来れば最も楽そうであるのに、なぜお前は男なのだろうな、ジェフティ」
「公私で親しいだけでなく男女の交わりまで持つなどと、互いに依存し過ぎぬよう神が采配なさったのでしょう」
 なるほどな、と、王は膝を叩いて笑った。
 まもなく王は異国の姫君を妃に据える。西の紛争が終結したことを初めとして他の問題も多く片付き、城内の体制が盤石となったことでようやっと婚儀の段取りが整ったのだ。近くに王は妃を迎えに東へ赴く予定である。候補者たちの中からその姫君を選んだ理由は、同国の出身である亡き母堂の面影をみたからか。何にせよ、期待に適う姫君であればいいが。
 夜はまだ見ぬ妃への想像を膨らませる、笑いに満ちたものとしておおむね過ぎた。
「ひとつお前に頼みがあるんだが、大丈夫だろうか、ジェフティ」
 最後の杯を干して王が問う。妙に繊細なところのある王は、いつもこうしてジェフティの顔色を窺った。
「あなたはただ命令すればいい。して、何をわたしにさせようというのですか?」
「南に行ってほしいのだ」
 大河を越えた先を治める南の連合国とはたびたび折り合いが悪くなる。その都度、王の側近が使者として立つ。今回はジェフティの番、というわけだ。
 出発は王の婚儀が終了次第。両手に余る数の小国を順繰りに巡っていく旅になるだろう。戻りは早くても年をまたぐ。
「またお前を遠方へなど行かせたくはない。それがわたしの本心だよ」
「わかっております、王よ。かしこまりました」
 ジェフティは快く拝命した。とはいえ、問題もある。
 南方ではあらゆる催し物の場において妻を同伴する規則がある。しかしながらジェフティの妻たちのだれもがその同行を渋った。文化風習が異なる南方を彼女たちは蛮族たちの土地として蔑んでいた。
「わたくしは行く先々で不自由な思いをしたくはありません」
 と、正妻は言った。他の妻たちも似たり寄ったりであった。
 ジェフティが強く命じれば彼女たちも従わざるを得ない。だがジェフティはそうしなかった。ひとりひとりに付いてくる意がないことを確認し、ジェフティは留守を頼むと言い置いた。
「それはまずいのではないかしら」
 苦言を呈したのはアラディアである。
「だって奥さまを連れる決まりなのでしょう? 理由もなくそんなことをすれば、あなたがあちらの方々から見下されてしまうわ」
「よく知っているな」
「あなたが行くと聞いて……」
 アラディアは南方の資料を取り寄せて、しばらく読みふけっていたらしい。近頃の彼女はどんなに難解な書物も読み通してみせる。また王の御前に出しても恥ずかしくないほどの礼儀作法を身に着けていた。
 それを披露する機会はこれからも訪れはしないだろう。
 ただし、他の国ではどうか。
「わたしよりも勉強熱心だな、アラディアは」
 ジェフティは笑い――アラディアを見据えた。
「君が一緒にくればいい」
 アラディアはきょとんと目を丸めた。
「……わたしが?」
 そう、とジェフティは頷いた。
 南方はこの国の使者に妻の同伴を義務づける。だがその妻とは教会の認めた婚姻を果たした女だけに限らない。
 南方には教会がないのだ。
 人生を共にする愛し合う男女が夫婦だと南方は言う。その定義に従うならば、アラディアほどの適役はいまい。
 ジェフティの説明に耳を傾けていたアラディアの頬が薔薇色の艶を帯びる。
「本当に……一緒に行ってもいいの? いいのね?」
 うれしい、うれしい、うれしいと、彼女は何度も繰り返す。たまらなくなって、ジェフティは思わず彼女の頭を抱き寄せた。二人分の心音が、体温が、呼吸が溶け混ざる。
「邪魔をしないって……誓うわ」
 腕の中でアラディアは顔をジェフティの肩口に押し付けた。その頬は興奮に上気したままだったが、南の方角を見つめる目は、旅が決して遊びでないことを認識していた。
「あなたの傍にいたいの。だから、一緒に連れて行って、ジェフティ」
 愛しいアラディア。純粋無垢な愛と献身をわたしに与え、傍にいてくれる女は彼女だけだ――神よりの授かりものという言葉は、彼女にこそ当てはまる。
 南方で彼女が認められるような働きをすれば、この国でも。
 そんな淡い期待もある。
 だが何より南方を旅する間は、ずっと彼女と共に過ごせるのだと、ジェフティは喜びに微笑んだ。



 父の過去を知る者は国内に決して多くない。改めて確かめるとほとんどの者が墓の下で眠っている。
 しかし国の外に求めるなら話は別だ。
 南方の連合国に与する一国に父は友人を持っていた。わたしたちの国を訪れた彼らの姿を、一度だけなら見たことがある。あの片時も冷笑を忘れなかった父が親愛の情で以て接していた。
 父は若き時に使者として南へ発ち、彼らと交友を深めたのだと聞く。考え方の根底が異なるわたしたちと南の民はそりが合わないことも多い。だが父は彼らの信を得ることに成功したようだ。あわや破棄というところだった複数の条約を締結し直し、方々で国賓として遇されることも少なくなかった――父以外の使者に南方の人々からそこまでのもてなしはない。
 今日までわたしたちの国と南方が平穏無事に隣り合っている功績の一端は父のものだ。
 父の遺品の中には南方の友人たちから届いたと思しき手紙が混じっていた。どの文面も父の心身を案じていた。
 わたしに彼らを訪ねていく余裕はない。だからといって父の狂気の理由を請うぶしつけな手紙を送るほど恥知らずでもなかった。
 もし父の過去を問うこと叶ったなら、何かしらわかることあっただろう。父が南方に滞在した時間は決して短いものではなかったのだから。
 それだけ長く、国を留守にしていたせいなのかもしれない。
 父がなかなか子を持てずにいたのは。



 ジェフティが南方から帰国したとき、王妃は早くも世継ぎを生み落していた。
 彼女は産後の肥立ちが悪く、寝所に臥せり続けていたが、王太子は健康そのもので、日に日に丸くなっていく。健やかな証とばかりに泣きわめく子が苦手なのか、王はあまり近寄りたがらず、空いた時間にはジェフティを飲みに誘ってばかりいた。
「お前のところの子はまだなのか?」
「いいえ。アラディアには、まだ」
 ジェフティは否定に首を振った。王がわずかに眉をひそめる。
「それはお前の情人だろう。……本邸の女たちに、だ」
 ジェフティは失言から胸の内で舌打ちせずにはいられなかった。
「あの女に傾倒しすぎんように。あれは単なる情婦だろう」
 王の溜息が沈黙に波紋を作る。
「……妻たちを差し置いてあの女が息子でも生めば、大事になってしまうぞ、ジェフティ」
「心得ております」
 ジェフティは控えめに返した。しかし本心はまったく逆だった。
 教会はアラディアの存在を認めない。
 けれど生まれたジェフティの子なら貴賤関係なく登録する。さらに長子であればジェフティを継承する権利を持つ。アラディアの子が継嗣となれば、彼女の扱いも今とは異なったものとなるだろう。
 だから避妊薬を口にするアラディアを目にすると、王より指摘されていてさえジェフティはつい主張してしまう。
「必要ないのに」
「そういうわけにもいかないわ」
 アラディアはジェフティの言葉をにべもなく切り捨てた。
「最初にあなたの子を生むのは、あなたの奥さま方のどなたかであるべきなの。物事には順番があるのよ、ジェフ」
 だれに言われずともアラディアはジェフティ以上に己の立場を把握している。
 それが、歯がゆい。
 南方での生活が奇妙に懐かしい。異国でのアラディアはジェフティにとって、だれもが認める唯一無二の伴侶だった。彼女は妻として立派に振る舞っただけでなく、いくつかの交渉の成功に一役買いもしたのだ。
 しかしその働きが本国で認められることはなかった。それどころかアラディアは妻たちからの不興を買ってしまった。妻たちは自ら留守を希望したというのに、いざアラディアが彼女たちの勤めを果たしたと知るや、ずうずうしい真似をと非難してはばからなかった。
 ここで子を持つ順番を違えればアラディアの立場は悪化の一途をたどるだろう。
 アラディアがことを荒立てたがらない以上は、しかるべき妻たちに継嗣を生ませなければならない。ジェフティは今、ご機嫌とり半分、周囲にせっつかれ半分、彼女たちの下に通っている。
 跡目はいつ生まれてくれるのか。
「弟の子を後継ぎにできればいいのに」
 残念ながら後継ぎは当主の直系男子と決まっている。
本音を漏らしたジェフティを腰に手を当てたアラディアが呆れた目で見る。ジェフティはそんな彼女を抱きすくめて、薔薇の香油薫る髪に鼻先を埋めた。
「わたしが別の女と寝て、君は嫌じゃないのか? アラディア」
「もちろん嫌だと思っているのよ」
 ジェフティの腕の中でアラディアが唇を尖らせた。
「でもここで駄々をこねても仕方がないでしょう? わたしはこうしてあなたの傍にいられれば幸せ。そのためには、子どもだってなんだって、我慢するわ」
 そう言いながらもアラディアが子を欲しがっていることを知っている。アラディアが母ならば、子はきっと幸福になる。アラディアと過ごす時間によってかつてないほど心満たされているジェフティのように。
 南での生活は愛し合う男女、そして彼らに愛される子という、家族の構図をジェフティに見せた。そういったものを全く目にしたことがなかったわけではないけれど、自分には遠いものとしてジェフティは捉えていた。
 しかし今は違う。この小さな別宅で、自分とアラディアとそして彼女との間に生まれた子どもたちで、温かな関係を築いていくことを夢想していた。
「急がないで、ジェフティ」
 アラディアがジェフティの頬を撫でる。ジェフティを見上げる彼女の目は笑っていた。
「わたしは大丈夫。子どもができたらゆっくり過ごすなんてできないもの。もう少しだけ、二人だけの時間を満喫しましょう?」
 この閉ざされた館での、あまやかな逢瀬を。
「だから頑張ってしっかりお勤めをしてきてね」
「お勤めね」
 やれやれ、とジェフティは息を吐き、アラディアを横抱きに抱え上げた。
 ひとまず、今夜の“お勤め”を、果たすために。



 王に世継ぎが誕生して数年を経てからわたしは生まれた。それだけ長く父が子を持たずにいたわけは、彼の妻となった女たちの気性のせいもあったのではないだろうか。
 とりわけわたしの母は激しい気質で、他者を侍らせることが好きな人だった。多くの男性を跪かせて賛辞を受けるためだけに社交界へ赴き、邸宅では日がな一日、髪を、肌を、爪を、うつくしい少女や少年に磨かせた。
 母を訪う者たちは貢物を欠かさない。母を飾り立てる宝石を、舌を喜ばせる珍味を、あるいは。
 母に侍らなかった者は唯一、父だけだ。それは母にとって屈辱なことだったようだ。母にとって男とはすべからく母を喜ばせる存在であって、慇懃に、淡々と、己を扱う父を母は好いてはいなかったようである。もしかして憎んでさえいたのかもしれない。
 父には母の他にも数人の妻たちがいた。彼女たちは気位が高いなりに折り合いをつけて暮らしていたけれども、正妻たる母だけは別格として立てなければならなかった。
 その母から生まれたわたしは自然な流れで、父の第二、第三の夫人たちから疎まれていた。彼女たちはたった数か月遅れでわたしの異母弟妹を生んでいる。わずかな差で長子として生まれ、父の後継として登録されたわたしが、忌々しかったに違いない。
 わたしについて彼女たちはよく囁いた。
 かわいらしく、うつくしい子ですこと。
 けれど、だれの子なのでしょう。
 それは父の跡を継ぐためだけに生まれたわたしの存在意義を揺るがす命題だ。
 わたしは父の正妻の腹より出でた。が、わたしの容姿は父とも母とも、血族のだれのものからもかけ離れていた。異母弟妹たちは父なり生んだ女なりに似ているというのに。
 母が父の目を盗んでだれかと逢瀬を重ねていたことは確かなようだ。
 それを父は黙認していたのだとある者は言うし、長らく知り得なかったからこそ、事実が白日のものとなったときに母を罰したのだとも噂される――母はわたしが寄宿舎入りして間もなく、他でもない父の手で粛清されていた。
 そんな母からたびたび辱めを受けてきた夫人たちは、わたしを貶めることで溜飲を下げようとしたのだろう。
 わたしはそこかしこでわたしへの蔑みが反響するたびに、庭の巨木の根元にある底知れぬ洞や、円柱廊に連なる台座に彫られた獣の陰や、分厚い遮光幕の襞裏に逃げ込んだものだった。
 そんなわたしを救ってくれた者は、驚くことなかれ、こともあろうか父そのひとである。
 当時の父は決して薄情でもましてや残虐でもなかった。父は広い広い屋敷の片隅でひとり泣くわたしを見つければ抱き上げてあやした。執務中に書斎を訪れたわたしを咎めることなく膝に乗せ、たどたどしく字を読むわたしの頭を撫でてくれたこともあったのだ。
 母は義務として生んだわたしに関心はなく、使用人たちはわたしを大切にはしてくれたが、あくまで父の後継ぎとして扱ったまでであり、あえてわたしの味方に立つようなことはしなかった。
 嗤えてしまう。けれど当時のわたしの救い手は、わたしがのちに殺す男であったのだ。


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