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閉ざされた輪の王国 後篇


  寄宿舎を出たわたしは父の関心に飢える子どもではなくなり、期待するということをやめた。他者の要求を受動する人形となった。もがくことをやめたとたんにわたしの生は楽なものとなった。
 わたしは次代の王より信を得た。王は王太子の友たるわたしに身分申し分なくうつくしい妻たちを与えた。わたしは父から受け継ぐと約束されている。土地も地位も財も他にも――あらゆるものを。
 わたしは恵まれている。
 わたしの心が虚ろながらも静穏を得ていく一方で、父はますます他者に対して苛烈な男になっていた。わたしの周りには父を討てとささやく者たちが集い始めた。彼らはきまぐれに害をなす父の牙を折ることに必死だった。
 宮廷で行われたとある夜会の場で、彼らをいなしながらひとりになれる場所を探していたわたしは、物陰に潜んで話す三人の男女を見出した。うち二人は褐色の肌と闇色の髪を持っていた。わたしよりもひと回り体格のよい彼らは明らかにこの国の者ではない。南の大河を越えた向こうからの客人たちに違いなかった。
 わたしは彼らの顔を知っていた。
 昔、一度だけ見た、父の友人たち。
「もうあなたはこの国を離れるべきだわ」
 と、女が言った。男が彼女の後に続く。
「わたしたちはいつでもお前を歓迎する。もういいだろう。お前はもう充分に復讐した」
「この国にいるのはあなたにとってよくないわ。わたしたちと一緒に行きましょう。ねぇ……」
 二人から説得を受けている者は、こともあろうにわたしの父だった。父は壁に背をもたせかけて茫洋とした視線を宙に投げている。いつもいつも、若々しい父。けれどこのときばかりは何百も年を重ねた老人のように見えた。
 父はふいに喉を鳴らして嗤い出した。身体を圧し折った父の口より吐かれた嗤いがけたたましく辺りを跳ねまわる。円天井連なる長い回廊に夜泣き鳥による凶兆の宣告めいて反響していく。
 は、と息を吐いて父は異国の友人たちを仰いだ。
「それができればしていたよ。とうの昔に」
 父は呻いた。
「それにわたしは、復讐しているのでは、ないのだよ……」
「では何故だ?」
 男の方が詰問した。
「どうしてお前はそのようにひとから憎まれようとする?」
「死ぬためだ」
 父の告白に彼の友人二人が――やや離れた場所に身を潜めるわたしも――息を呑んだ。
「見ろ」
 父は袖口をめくり手首を見せた。幾重もの線が横に走る。そのうち一本は太く、深く、致命傷になりえたものだと、遠目でもわかった。
 父は語った。
「死のうとしたわたしを、王は生かしたよ。死なないでくれ。死なないでくれ。そして、最後には何と言ったと思う? ……“彼女もお前のために死んだのだから”、と。……どの口が言うのだろう」
 異国からの客人たちが顔に嫌悪を滲ませる。父は彼らに縋り付いた。そのひどく血走った目が爛と輝いていた。
「自らに刃を向けてもわたしは救われる。どれほど危うい橋を渡ろうとわたしは生きている。刺客に襲われたことも数知れぬのに、多くの幸運がわたしを守っている。だからわたしは待っているのだ。わたしを殺せるほどわたしを憎むだれかを。あるいは王が、わたしに死ねと命じる日を」
『――……』
 二人が、父の名を囁く。
 父が男の方の胸元に額を付けて絶叫した。
「わたしのことを思うなら、もうわたしを殺してくれ! 殺してくれ! もうおねがいだ! 死なせてくれ!! どうしてわたしは今ここにいる!? どうしてわたしは息をしているんだ! わたしをころしてくれ!! おねがいだ!! ころしてくれ!! ころしてくれ!!……ころしてくれっ!!」
 もういいよと、もうおわったのだと、もうねむっていいのだと。
 だれかわたしに、言ってくれ……。
 あの異国からの客人たちに、縋り付いて泣く男は、誰だろう。
 その場に背を向けたわたしの耳に父のうすら寒い囁きが届く。
「それをわたしに告げるものがいないのなら、自ら死ぬこともできず、ここを出ることすら叶わぬわたしは、わたしを憎悪する者たちを生み出し続けよう。彼女と生きた、彼女の眠るこの国で、早く彼らがわたしの頸に断罪の鎌を振り下ろせるように」
 あのように、泣き、嗤う男は、父ではない。
 きっと、父ではなかった。
 現に父の異国の友人たちがその夜に宮廷を訪れたという記録はない。
 わたしは、夢を見たのだ。
 父を殺したことに罪悪を覚えぬように。
 わたしのその行いを、正当化するために。



「ジェフティ……」
 アラディアがか細くジェフティを呼ぶ。幽閉された部屋の寝台に彼女は臥せっていた。疲れただろう。心細かっただろう。恐ろしかっただろう。
 ジェフティはアラディアの傍らに腰掛けて、彼女の上半身を抱き起した。愛する女の身体は痩せてなおジェフティにしっくり馴染む。
「この国を出るよ、アラディア」
 アラディアの冷えた指の先を握り締め、ジェフティは彼女の瞼に口づけを落とした。
「これからは、ずっと一緒だ」
 それが可能かの是非はともかく、ジェフティは祈るように呟いた。誰がなんと言おうとアラディアを手放すつもりはなかった。そのようなことをできるわけがなかった。
 ジェフティの決意とは裏腹にアラディアが否定に首を振る。
「いいえ、ジェフティ。あなたの王がそれを許さないでしょう? どうやって二人でこの城を出るの?」
「城の構造はもとより、見張りの兵の配置もここまでの道中に頭に入れたよ。彼らも事態を把握しているわけではなく、見張れという命を受けているだけだろうし、人数も限られている。いざ見つかってもわたしが強く命じれば混乱し、その隙に逃げることもできるだろう」
「仮に城から出られたとしても都の外までは? ……逃げられたあとのことはどうするの? ……できないことを約束しないで。大丈夫。わたしはもう覚悟を決めている。身分不相応な愛を受け取っているとわたしはずっと思っていたのよ」
 これまでの生活が罪悪であるかのようなアラディアの発言にジェフティは王への怒りでめまいを覚えた。
「アラディア。王から何を言われた? 何を吹きこまれた?」
「何も。あぁ、落ち着いて。わたしの話を聞いて」
 アラディアが両手でジェフティの頬を包み込む。
「外へ出るということは、単にこれまでの生活を捨てるということではないのよ。教会の庇護を失った流民となるのよ。明日の食べるものにすら困る中で国から搾取されるだけされても拳を振り上げることすらできない。たとえこちらに義のあることでも逆らうことは許されない。罵倒するだけでも咎になる。あなたに耐えられる? いいえ、無理よ。あなたはひとの上に立ち、ひとを使うことに慣れたひとだもの」
 アラディアの説得に納得はできる。
「確かにわたしはそのような世界を知らない。けれど南方は違うだろう?」
「そちらに辿り着くことができれば、ね。……教会に名のない者は、河を渡れないのよ、ジェフ」
 この国と南方を隔てる大河をジェフティは思った。許可なくして船には乗れない。南だけではない。東西南北。どの地域をとっても正規の手続きを踏まなければ出国できぬ理由がある。
 国の形が完全なる円環をとることから、人々はたびたびこのように揶揄する。
 ここは、閉ざされた輪の王国。
「それでもわたしは君と生きていたいんだよ」
 訴えるジェフティの顎の線をアラディアの指がゆっくりと辿る。
「わたしも、あなたと、生きていたかった」
 なぜ、過去形で語るのか。苛立ちを込めてジェフティは断言する。
「できるさ」
「無理よ、ジェフ。わたしね、もうすぐ死ぬのですって」
「だからそれはさせないと」
「違うの。わたしは不治の病で死ぬの」
 ジェフティは瞠目してアラディアを見た。彼女は笑っていた。透明な笑みだった。
「わたしはずっと具合が悪かった。ものを食べても吐いてしまうし、寝台から動けなかった。あなたも知っているわね? わたしね、もうすぐ死ぬのですって。ひと月ふた月、先にはもう。……ここから二人で逃げられたとしましょう。きっとあなたは恨むようになる。苦しい生活にあなたひとりを置き去りにするわたしを」
「そんなことはわからない。行く先で治療できる医者も見つけられるかもしれない」
「王やあなたに仕える最高峰のお医者が匙を投げる病を誰が治せるというの?」
 アラディアが呆れた目でジェフティを見た。
「そんな余裕もありはしないわ。あなた言ったわね。わたしが今の生活を保ちたがっているって。そのためにあなたに尽くしているんだって。そうだったのかもしれない。たとえあなたと一緒でも、昔の生活に戻るぐらいなら、今、死んだほうがまし。わたしはそう思っているのだわ」
「違う」
「違わない。……ジェフ。あなたにはなんの打算もなくあなたを愛する小さな子たちも残されている。だからあなたはこんなわたしの死に決して胸を痛めないでね」
 ジェフティの唇を軽くついばみ、アラディアが腕の中から逃れる。寝台から勢いよく飛び降りた彼女の腕にジェフティの手は体勢の悪さもあって一歩届かなかった。扉を押し開いた彼女は不意を突かれた兵の横をすり抜ける。ジェフティは兵を置き去りに彼女の後を急いで追った。だがアラディアは病んでいることが嘘のように軽やかに裸足を鳴らして廊下を駆けた。
「アラディア! よせ!」
 ジェフティは叫んだ。
 アラディアは行き当った露台の欄干に足を掛けている。彼女は頼りない足場の上に立つとジェフティを振り返り舞台役者のように両腕を広げた。
「王を憎まないであげて。わたしは誰に殺されたわけでもないのだから」
 お願いよ、と囁いた彼女は、そのまま宙に身を躍らせた。
 ジェフティの手は最後まで彼女に届かなかった。



 わたしは父を殺した。雪解けにはまだ早い冬の終わりのことだった。
 その年の冬は天候の荒れる日が続き、家々の窓はどこも固く閉ざされて、それに呼応したか、ひとの心もどこか頑なだった。いつしか躁鬱を患う王は頻繁に居室に籠った。父も表情を沈ませて他者も寄せ付けぬことが多くなった。
 ある日、地方伯との謁見が迫っても王が姿を見せず、沈黙する扉の向こうを父が覗きに行った。しかし待てども待てども二人はわたしたちの前に現れない。
 不安からしびれを切らした王太子に請われて、わたしは彼と共に王の居室に足を踏み入れた。
 むっとした鉄の臭気がわたしたちを出迎える。
 そこでわたしたちが目にしたものは、毒々しいまでの赫に染まった寝台と、その中央に苦悶の表情で仰臥する王。
 そして陰惨たるその有様を無言で見つめるわたしの父の背中だった。
 彼の手には血濡れの剣が握られていた。
「反逆者め!」
 王太子が冷静さを欠いて抜剣する。浴びせられた一太刀を振り向きざまに避けた父は、王太子を茫洋な目で見つめ返した。
 王太子を止めるべきか。助けを呼びに行くべきか。わたしが逡巡する一瞬の間に父が王太子の剣を取り上げる。父の手に渡った銀が今度は王太子へ牙を剥いた。
 王太子は死んでいただろう。わたしが父の懐に飛び込んで、護身用の剣の先をその腹に埋めなければ。
 父が痙攣して動きを止め、わたしにもたれかかる。生暖かい体液がわたしの手を汚していく。父の手から滑り落ちた剣が床石に傷をつけながら落下音を響かせる。
 わたしは父の肉を抉る手にさらに力を込めていた。
 その時のわたしの心中を、どう言い表したらよいのか。あらゆる感情が嵐となってわたしの中に渦を巻いていたものの、中でも父を殺せる喜びがとりわけ他を圧倒していることにわたしは混乱した。
 歓喜。それが王太子を救えたという安堵よりも、勝っているというのか。わたしはずっと父をこの手で弑し奉る瞬間を探していたというのか。わたしをずっと憎しみの目で見つめ、どこか虚ろな人間にしたてあげた、歪んでなおうつくしいこの男を。
 父の血に濡れた手が頬に触れて、わたしははっと我に返った。父は何かを得心した様子でわたしを見ていた。
「そうか……」
 父は言った。
「あのとき……ちちは……」
「ちち、うえ?」
「まえは、まちがえるな」
 こほ、と血を吐きながら、父は土気色の唇を震わせる。
「わたしの、ように、なるな――……」
 その言葉尻を残響のように尾引かせ、父はわたしの肩口から滑り落ちた。父はそのまま二度と動かなかった。
 瞳孔がゆるやかに開いていく。涙が頬を伝い、口角に赤い泡が咲く。ただその顔は小春に微睡むひとのように不思議と穏やかだった。
 こうしてわたしは父を殺した。
 以来、わたしは父の生を追想している。
 父の最後の言葉が何を意味するか知るために。



 ジェフティは元の生活に戻った。淡々と職務に励んで、妻たちの機嫌をとり、子を教育し、王の傍に侍った。
 アラディアが死してよりどれほどの月日が流れたのか。実際はさほど経っていなかったのかもしれない。ふいに南から友人夫妻がジェフティを訪ねてきた。アラディアをジェフティの妻と認め、祝福していた異国の友人たちだった。アラディアの死の知らせを受けてジェフティの下に駆け付けてきたのだ。
「遠路遥々ありがとう。何ももてなしできず申し訳ないかぎりだ」
 微笑んで出迎えたジェフティを二人は狼狽をみせながら揺さぶった。
「そんなことはどうだっていいわ! 何をそんなに普通そうな顔をしているの!?」
 二人はジェフティに無理はするなと、泣いてよいのだと訴えた。ジェフティは大丈夫だと返し続けた。アラディアの欠落を埋めるためには自らを騙すしかなかった。何事もない日常を繰り返すしかなかったのだ。
「愛するひとを一度に失って辛くないはずはないわ、ジェフティ……」
 涙ぐむ女の言葉にジェフティは引っ掛かりを覚えた。
「一度、に?」
 ジェフティが失ったものはアラディアひとりのはずだ。
 夫人が失言を悔やむ顔で口を噤む。夫の方が非難の目で妻を一瞥したのち、躊躇いながらジェフティに答えた。
「アラディアと……その腹の中の子だ、ジェフ」
 夫妻の下にはアラディアの悲報に先んじて懐妊の兆しを知らせる便りが彼女から届けられていた。手紙に打たれた日付はジェフティが一度だけアラディアの愛を疑ったあの日のわずか数日前。
 アラディアは懐妊を黙っていたわけではない。ジェフティに喜びを伝える機会を失した。それだけだったろう。
 ジェフティに告げることなく逝ったのも負い目を感じさせないためであっただろう。嘘を吐いたことも同じ理由からであっただろう。
 あぁ、だが、しかし。
 それでも。
 ――別邸の一角に墓地がある。誰が設えたのか。名のない墓石がひとつだけの小さく粗末な墓地。そこにジェフティはアラディアの亡骸を埋葬していた。そこでは日当たりの良さから常に何らかの花が盛りを迎える。アラディアも慰められるだろうと思ったのだ。
 ジェフティはその草花の中に転がりこんで墓を暴いた。アラディアが死んで初めてジェフティは泣いた。掘り返された土が片端から汚泥へと変えられる豪雨の最中、蛆にまみれた醜い骸に成り果てた彼女を抱えながら。
 涙も声も枯らして手首を切ったジェフティは、しかしながら死ぬことを許されなかった。アラディアの墓守をしていたかつての家人たちが倒れたばかりのジェフティを見つけたのだ。彼女につけていた医師もその中にいた。
 ジェフティはあいにくと一命を取り留めた。高熱を発し、王の御殿医に見守られながら幾日も幾日も死線をさまよった。
 目覚めると、王の居室だった。傍らにはその部屋の主がいた。
「アラディアが身ごもっていたことを……ご存知でしたか? 王よ」
 王がにわかにアラディアの排除へと動いた理由の一端は、彼女の懐妊だったのではとジェフティは推察していた。
 気まずげな顔で視線を伏せる王に、ジェフティは掠れた声で追及する。
「……妊娠の兆候を……不治の病に、見せかけよと……入れ知恵したのは、あなたか? 何故だ。どうして……そうまでして……」
「言っただろう、ジェフティ」
 王が低い嗤いに喉を鳴らす。
「お前はあの女をわたしより優先させすぎたのだ。いつしかお前の心はわたしと向かい合っているときでさえあの女の下にあった。お前だけがわたしと共にあったのに。お前だけがわたしの理解者であったのに」
 アラディアが現れるまで、王はジェフティにとって、最も慕わしい存在だった。
 けれど今となっては知っている。二人の絆は傷の舐め合いに依るものだった。幼い頃の不遇を労わりあうことで培われたものだった。王はジェフティにおもねった。ジェフティは依存されていた。
「あの女が子を生めば、ますますお前は……あぁ、ならばわたしはお前を奪うあの女を遠ざけるしかないではないか。お前があの女を連れてわたしの下を離れるというのなら、あの女を消さねばならぬではないか」
 幼い子どものように背を丸めて、王はさめざめと泣き始めた。
「死なないでくれ。死なないでくれ……わたしをひとり、残さないでくれ……。あの女も、お前のために死んだのだろう……?」
 ジェフティは正面に向き直った。寝台の支柱の先より広がる紗の幕がジェフティを覆っている。それを隔てて見える円天井には中央に先を向けた尖塔と季節の移ろいを顕した花々が描かれている。
 ここは、王の箱庭。
 わたしは出ることを許されぬ身。
 ジェフティは瞼を閉じた。
 もう、何も映らなかった。



 王、母、南方の友人たち、そしていつしか姿を消した愛人。
 どれほど父の過去を振り返ってみても、手に入れられるものはその断片ばかりで、狂気の理由を知るまでには至らなかった。ひとつひとつを執拗に調べればよかったのかもしれない。けれどそんな余裕をわたしは持たなかった。
 わたしの王太子が新しい国主となったのだ。わたしの責務もまた急に量を増した。先王は病による頓死であると公表され、父の死もしばらく伏せられたのちに王と同様のものとされた。
 わたしが父の跡を継いでほどなく、国境が発作のように騒がしくなり、わたしは王の名代として派兵に付き添うこととなった。即位まもない若き王が第一の側近を遣わせるほど、この事態を真剣に憂いていると周囲に知らしめ、早々に決着をつけるためである。
 この戦場近くの森でわたしはとある娘に出逢う。彼女は商機を見込んで戦地に現れる娼婦たちのひとりだった。わたしがそれなりの位だとひと目で見抜いたというのに、少女はわたしを探し当てて屯所に押し掛けることは無論、金や食糧といった一切を無心することもなかった。彼女は文字こそ読めなかったものの、多くの幸福な物語を知っていて、わたしに諳んじて聞かせた。わたしの身を単純に案じた。わたしをよく笑わせた。
 わたしは彼女を愛した。
 わたしは生まれて初めてひとを狂おしくいとおしいと思ったのだ。
 無事に戦が終結して引き上げる際、わたしは彼女を都へ連れ帰った。
 後ろ盾ない少女との婚姻を教会が認めるはずもない。彼女は愛人としてわたしの敷地の片隅に住むことになった。本邸から薔薇園と雑木林を隔てた場所にある別邸である。その屋敷の経歴を考えれば遠慮したくとも他に適当な場所がなかった。


「わたしは好きよ、この家」
 屋敷に入ったその日、彼女は歌うように言った。
「わたしには贅沢すぎるぐらいよ、隊長さ……ええっと」
 わたしは長らく身分を明かしていなかったので、彼女はわたしのことをそんな風に呼んでいた。言葉を詰まらせて申し訳なさそうに目を伏せる彼女にわたしは笑いかける。
「大丈夫だよ。わたしもまだ……名を呼ばれ慣れていないから」
「呼ばれ慣れていない? ……どういう意味なの?」
 興味深そうに瞬く少女にわたしは微笑む。
「おや、わたしたちの間だけのことなのか。……長子は家督と共に、父親の名を継ぐんだよ」
 わたしは父の死とともにあらゆるものを受け継いだ。地位も土地も財産も。
 名前すらも。
「そうすれば代々の繁栄をこれからも受け継ぐことができるという教会の教えでね」
「あぁ、そういうことあるわね」
 少女が笑った。
「わたしの名前も売られたばかりの小さな頃に姐さんがつけてくれたの。とてもイイヒトに身請けされたひとの名前なんですって。わたしたちもそうやって験を担ぐのよ」
「なるほどな。……わたしも君のように昔からこの名で呼ばれているならよかったのに」
「大丈夫。すぐ慣れるわ。わたしがこれからたくさん、あなたの名前を呼ぶんだもの」
 愛らしい顔を輝かせた少女が腕をわたしのそれに絡ませる。触れるぬくもりにわたしは思わず微笑んだ。
 父の死に際の言葉を、わたしは改めて思い出す。
 お前は間違えるなと、父は言った。
 自分のようになるな、とも。
(もちろんだ)
 わたしはあなたのようにはならないよ。
 彼女がわたしの傍にいる限り。
 少女があたたかな響きでわたしの名を囁いた。
「ね? ジェフティ」



 今までわたしが語ったものは、
 ひと組の男女の話であり、
 ひと組の夫婦の話であり、
 ひと組の親子の話であり、
 ひと組の主従の話であり、
 閉ざされた輪の王国に囚われた、
 ひとりの男の物語である。


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