第二章 惑う従者 4
(アッセで役立たずだなんていったら)
自分など、それ以下ということだ。
女王を危険から遠ざける騎士と、彼女を飾り立てるしか能のない化粧師。どちらが必要に迫られているか、改めて問うまでもない。
溜息を落として、ダイはマリアージュを眺めた。彼女はアッセとロディマスを従えて主賓席に収まっている。女王と宰相二人に対してのみ、きちんとした席は用意され、他の皆は葡萄酒の入った銅杯を手に、各々の好きな場所に佇んでいた。広間には全員分の席を用意するに足る、空間的余裕がなかったようである。
ちん、と高杯を銀の匙で叩く音がした。
「諸君」
マリアージュの隣でロディマスが立ち上がり、張りのある声を披露する。小波のように震えていた空気が一息に凪いだ。
「今宵はゼノ・ファランクス卿、以下、マーレンの民のご厚意により、一夜、休息を許された。かの人々に、深い敬意と感謝をそして――……」
「祈りなさい」
ロディマスの後を引き取り、マリアージュが口を開く。予定にない発言に些か驚いたものの、一同は沈黙をさらに深めて続きを待った。
「同じ聖女の仔らに。祝福を」
手にしていた葡萄酒を捧げ持ち唱和する。
『祝福を』
そうして始まった晩餐は当初の厳粛さをすぐさま投げ遣り、気楽な賑々しいものへと変じていった。
食器同士の触れ合う澄んだ音色が、談笑と食事の雑音に紛れる。焼き立ての柔らかい面皰と、雌鶏の香草焼き、根菜の入った汁物――用意された夕餉は予想よりもうんと豪勢なものである。それらは連日つましいもので空腹をやり過ごしていた使節団の皆を大いに喜ばせていた。
こつ、と靴音が響く。
皆と距離を置いて壁際に佇んでいたダイは、真横に並んだ影を反射的に振り仰いだ。
「ダダン」
「よう、ダイ」
口角を上げた情報屋の男が、杯を軽く掲げて挨拶する。酒気を帯びた彼の声は陽気だった。
「お前なんでこんなところで突っ立ってるんだ?」
「よっぱらいから逃げてます」
ダイは返答しながら手に持つ高杯を揺らした。中で波紋を描く液体は、単なる水である。
「私、お酒が苦手なんですよ。一口二口飲んでも駄目なんですけど、あの中に混じってしまうと、無理やり飲ませられたりするので」
最初こそ挨拶をして回ったものの、酔っ払いの餌食となる前にそそくさと退散させてもらった。この場に集まったペルフィリア側の官たち――ゼノと共に中央から派遣された役人たちである――は、ダイをマリアージュ付きの小姓として勘違いしているらしく、積極的に輪に加わらない点を不審に思った様子もない。
それ幸いとして、ダイはここからマリアージュたちの様子を眺めつつ、食事をちまちまと摘まんでいる。
「飲むとどうなるんだ?」
「意識飛んで気絶します」
「……あぁ、まぁ、頑張れな?」
男の励ましに苦笑しつつ、ダイは頷いた。
「えぇ。頑張ります。……それはそうとダダン、ありがとうございました」
「あん? ……何がだ?」
「こちらに来るのに色々段取りつけてくださって」
アッセも指摘していた。ダダンがいなければ落ちた橋の前で、往生するばかりだったはずである。
「なんだそんなことか」
ダダンは肩透かしを食らった様子だった。
「別に礼を言われるほどのことじゃねぇよ。仕事のうちだ」
「でもこの晩餐会も、ダダンの手回しあってのことなんですよね?」
一団がマーレンに向かうにあたり先触れを出し、ゼノたちに受け入れの支度をさせたのはダダンだ。もしも連絡なしに訪ねていたとしたら、門前で野宿だった可能性が高い。
ダダンは可笑しそうに喉を鳴らした。
「俺でなくとも、誰だってやるだろうよ。でもまぁ、こういう場が得られたのはよかったな。儲けもんだ」
「ですね。みんな疲れていましたから。こんな風に一席設けていただけて、本当に良かったです」
塩漬け肉や硬く焼いた面皰、果物の干物や木の実の砂糖漬けといった、日持ちしやすいものがこの旅中における主食だった。城仕えの皆は粗食に慣れていない。今宵の晩餐は旅に疲れた彼らへの、励ましとなるだろう。
「まぁ、それもあるな」
「……ほかに何かあるんですか?」
「何より貴重なのは、ペルフィリアの奴らと食事する、この機会だと思わねぇか?」
思いがけぬ指摘に、ダイは衝撃を受けて口を噤んだ。
「何せどいつもこいつも国の外に出るのは初めてだろ? ぶっつけ本番で城の官たちとやりとりするより、一回でも場数踏んでたほうがよくないか?」
情報屋の男は苦笑に口元を歪め、視線をついと上座へ移す。マリアージュとロディマスが、強張った笑みを張り付けて、部下を従えたゼノと対談している。
「交渉っていうのはどれだけ相手を知っているかがものをいうからな。隣の国でも根底の考え方には多少なりとも差異がある。それを知るいい機会だ。あのゼノとかいう奴も含め、ここにいるのは皆、中央から来ているらしい。上手く会話をもっていきゃ、城の噂ひとつふたつぐらいは拾えるだろうよ」
そしてそれらは交渉の場に置いて、有益な判断材料のひとつとなる。
ダイは友人の袖に縋った。
「ダダン、それをロディに……」
「ばぁか。俺がでしゃばっていうことじゃねぇ。アリシュエルのお母上から出発前に訓示を受けてたろ。自分で気づくべきだった。少なくとも、宰相殿はな」
沈黙するダイの頭に軽く手を乗せて、ダダンは笑った。
「ダイ。いくら助言されたところで、当事者は忘れちまう。お前だって……俺は化粧のことはよくわからんが、他人から得た知識を自分で実践できるようになるまでには、時間がかかるだろ?」
「……はい」
「お前は女官のような裏方だが、矢面に立つ奴らに指摘できる位置にもいる。女官たちは晩餐の場に入れないが、側近のお前は入れる。……お前が観察しろ」
「私でも、役に立ちますかね?」
「役割っていうのは他人に探してもらうもんじゃない。自分で探すもんだ」
ダダンは静かな目でダイを見下ろした。
「マリアージュの役に立つために、お前は残ったんだろ」
その問いの示すところを悟り、思わず友人を仰ぎ見る。
マリアージュに聞いたのだろう。
あの男と別れた夜の顛末を。
ダダンの言う通りだった。立ち位置は己の手で勝ち取るものだ。幼少の頃から性別を偽り、与えられていた芸妓という役割を放棄した自分は、化粧の技で以て居場所を築き続けてきたのだ。
「こんなとこでぼけっと突っ立ってんなよ。もっときりっとしてろ」
「……ありがとうございます」
ダイの謝辞にダダンは軽く片目を瞑って微笑んだ。彼はそのまま面を上げて――怪訝そうに呟く。
「あれ? あいつら」
「どうかしたんですか?」
「いや、あそこ……何やってんだ……?」
ダダンは窓の外を目線で示した。篝火の傍。橙色の炎の向こうで二人分の影が揺らめいている。
「衛兵じゃないんですか?」
「兵は二人一組で動いてない。そこまで人数がいないからな」
「なぁに、どうしたの?」
艶のある女の声が耳元で弾け、柔らかい身体が背後からダイの背に圧し掛かった。アルヴィナだ。
「こんなところでなぁにやってるの?」
酒気を帯びた魔術師が、猫のように頬を摺り寄せる。しなやかに腕を絡めてくるその様子は、あたかも花街の芸妓のようだ。
「いえ、あそこに……あれ」
人の動きが見られた場所には誰の姿も見られない。
焚かれた篝火が、静かに爆ぜている。
「俺、ちょっと様子見てくるわ」
「待ってください。私も行きます」
「阿呆。さっき俺が言ったこと忘れたのかよ。ここにいろ」
追いかけようとするダイを、ダダンは手を振って退け、素早く踵を返した。人の間を縫うように移動し、瞬く間に外へと出ていく。
「私が見てこよっか?」
微かに揺れる扉を見つめていたダイに、アルヴィナが提案した。
「え?」
「私だったら何かあれば対処できるし」
「そうですね……」
ダイは室内を振り返った。主君と宰相はいまだゼノと話を続けている。アッセもその傍らに付いていた。
「じゃぁお願いします」
ダイは彼らの代わりに許可を出した。
「何かあったらすぐに戻ってきてくださいね」
「了解!」
魔術師は軽やかに身を翻した。
「丁度、酔い覚ましに風に当たりたかったのよね」
焼き壊された館を見上げる。これですべては隠滅されただろう。自分たちの痕跡もなにもかも。
埋められていたものを除いては。
彼は焦土の一角を掘り返した。かつては花壇であったそこは、柔らかい灰に埋もれている。土を除き終えると、煉瓦片や石炭が顔を覗かせた。それらを除けて、さらに掘る。腕の深さまで進んだところで、ようやく目的のものとの再会を果たした。
〈保持〉の術の施された白い包み。革ひもを解いて中身を取り出す。
革張りの手帳。
黄ばんだ頁をぱらぱらと繰って中身を確認し、彼は魔術で火を起こしてそれを燃やした。
煌々とした炎は積もる灰を僅かに増やし、一瞬だけその場を明るく染めて掻き消えた。
ダダンとアルヴィナの二人が一向に戻って来ない。
「遅いなぁ」
ダイは窓に張り付きながら呻いた。
晩餐は既に談笑を楽しむだけの場と化している。皿に盛られていた食事は綺麗にさらわれ、空の酒瓶が幾本も並んでいる。普段は厳しく自らを律する文官たちも、箍が外れたのか酒気に頬を染めて、陽気な笑いを上げている。デルリゲイリアとペルフィリア、双方の文官や騎士たちに囲まれるマリアージュも、ずいぶんと緊張和らいだ面持ちだった。
近くの文官に風に当たってくると一言告げて、ダイは玻璃のはまった扉を押し開いた。篝火まで歩み寄り、靴跡を確認する。足跡は四人分。そのうち二組はダダンたちのものだろう。残りの二つを追走し、丘の方へと向かっている。
足跡に導かれるまま進んだ先で、丘陵に刻まれた階段を上るアルヴィナを認めた。
「アルヴィー」
「あら、ダイ。どうしたの?」
「遅いから、様子を見に来たんですよ」
ダイはアルヴィナに駆け寄った。
「ダダンは?」
「先に行ってもらったわ。私は念のため、館の周りを一回りしていたの」
「不審者ですか?」
「うーんわからないなぁ。焼けたお屋敷の方へ向かっているみたいなんだけど……」
アルヴィナは呟きながらまた階段を上り始めた。戻るべきか逡巡した後、追い掛けることに決める。外に出ている旨は一応言い置いてある。ダイの不在が気にかかれば、誰かが迎えにくるだろう。
階段は丸太木が埋め込まれただけの簡素なものだ。それを上る途中で立ち止り、ダイは背後を振り返った。丘の中腹に位置する館では、中庭に面した広間にだけ、煌々と明かりが灯されている。そのさらに下方に広がる街並みは夜闇に没し、ほんの時折、移動する人々の携えるカンテラの明かりが、ひっそりと星のように瞬くのみだった。
夜風が、頬をぬるりと撫でる。
ダイは歩みを再開し、先を行く魔術師を追った。
暗がりにぼんやり滲む道の輪郭を苦労して辿るダイと異なり、アルヴィナは景色をきちんと把握しているらしかった。足取りに迷いがない。魔を視ているのかもしれない。魔は静物にも宿り、昼夜関係なく、輪郭を知らしめる。
ばた、と風が布を叩いて、夜の静寂を打ち割った。
ばた、ばた、ばた、ばたたっ……。
ダイは丘を上りきり、アルヴィナの隣に並び立った。
「領主の館……」
先だって焼け落ちたというそれは、昼に見たときよりもいっそう、不気味さを増してそびえている。
その姿を人から隔てるために張られた布が、嵐の前に空に積み上がる雲のように、闇に踊りうねっていた。
「アルヴィー、ここに?」
「ダイ、今すぐ引き返して、人を呼んできて」
「人?」
腰を屈めたアルヴィナは、地面の土をそろりと撫でた。
「うん。魔術師がいるよ。ここで魔術を使ってるね」
「え?」
「だから誰か呼んできてくれる? あぁでも最初にマーレンの人に話したらだめよ。この街の人に話すのは、うちの国の人たちに報告してから」
立ち上がった彼女は膝の土を払い、ダイを振り返った。
「ね?」
その微笑には有無を言わせぬ迫力がある。
ゆっくりと首を縦に動かし、ダイは踵を返した。足早に来た道を引き返していく。魔術師のあの様子では、急いだほうがいいに違いない。
ただ、階段だけはそうもいかない。
つま先で慎重に丸太木を探りながら丘を下っていたダイは、鼓膜を震わすひときわ大きな風の唸りに顔をしかめた。
嵐の前触れにも似たそれ。
首の痣はとうの昔に消えた。しかし今も同じ場所が、雷雨の気配を感じる都度、疼くような気がしていた。
う、と再び、空気が震える。
そこに違和感を覚え、ダイは瞠目した。
(ちがう)
風では、ない。
聞き覚えのある、男の声。
「ダダン?」
ダイは素早く周囲を一瞥し、道から外れた丘の斜面、突き立つ古木の影に、知人の輪郭を見て取った。
「ダダン!」
ダイは足を半ば滑らせつつ、闇に埋もれる男へと駆け寄った。枯れ木の洞に身を押し込め、横たわっていた彼は、瞼を上げて荒い息を吐く。
「ダイ? なんでお前……」
「それはこっちの台詞ですよ! どうしたんですかこんなところで!?」
ダイは膝を突いて叫び返した。男の身体を汚す泥を払い――指先に触れた生暖かいぬめりに、息を詰める。
やわい、裂けた肉の感触。
にわかに鼻についた鉄臭さに緊張を覚え、ダイは喉を鳴らした。
「ダダ……」
「ダイ、今すぐ戻れ」
男の手がダイの肩を鷲掴み、強く揺さぶった。
「賊の残党かもしれねぇ。まずはアッセたちにマリアの周りを固めさせろ」
「え、ざ、残党?」
一体何のことだ、と問いかけたダイは、ダダンが誰を指しているか遅れて悟った。丘の上の屋敷を焼いたという賊のことだ。
なかなか動かぬダイに業を煮やした様子で、ダダンは上半身を起こす
「いいからもど……」
「ダダン? わっ……!!!」
そして唐突に沈黙した彼は、ダイの身体を跳ね飛ばした。
腰と肩を強かに打ち付けて、傾斜を転がり落ちる。湿り気を帯びた土と草の臭い。ごつごつとした小石が肌を傷つけた。
「いっつ……」
上半身を起こし、ダイは頭を振った。頬にこびり付いていた砂利がぱらぱら落ち、手の甲に当たって跳ねる。身体の至る節々がひどく痛んだ。
くらくらする頭を押さえたダイは、耳障りな金属音に息を呑んだ。
「ダダン!」
あの枯れ木の傍で、金属同士の触れ合う火花が、ぱちりと瞬いている。
縺れあう、二人分の影。敵の身に着ける薄墨色の外套が、空気を孕んで跳ね上がり、その隙間から、襲い来る剣に短剣で応戦する、情報屋の姿が見えた。
襲撃者が振り返り、ダイの姿を認識する。
距離が開いていてさえ視認できる敵の冷えた目に殺意を感じ、ダイは尻餅をついたまま後ずさった。その拍子に身体の均衡を崩し、背中から傾斜を転がり落ちる。
もたもたとあがいた末にやっと体勢を立て直したときには、抜き身の長剣を佩いた男が間近に迫っていた。
「ダイ! 逃げろ!」
ダダンが古木を支えに立ち上がり、身体全てを震わせ警告する。その怒声じみた声に押されて、ダイは身を翻し、斜面を駆け下りた。
襲撃者は圧倒的脚力で以て、ダイとの距離を一歩ごとに詰めている。それを、振り返るたびに知覚する。
引き絞られたような肺の痛みに喘いだ瞬間、小石に足をとられて転倒した。背中が斜面を滑っていた。
土を掴んでどうにか留まり、身体を起こした瞬間、鈍色の輝きを纏う刃が、天に掲げられる様を見た。
手のうちにあった土くれを、投げつけたのは、とっさのことである。
「ぐっ……!!」
覆面した襲撃者から、男の低い呻きが漏れる。
一瞬の隙。
利用する手はない。
しかしダイがその場を抜け出すよりも、相手が長剣を持ち直し、振り下ろす方が早かった。
三日月に似た細い煌めきが、殺気を纏ってダイへと迫る。
やけに緩慢に目に映るその軌跡を、ダイは瞠目して見つめた。