第二章 惑う従者 5
土を踏みしめる音がする。
幻を見た。
ずっと、ダイを慈しんでくれていた、男の。
広い背中。
「ダイ、無事か!?」
焦燥滲む男の声にダイは我に返る。女王の筆頭騎士がダイを背後に庇い、襲撃者と対峙していた。彼ら二人の構える剣が、力を比べ合っている。ぎ、と金属が悲鳴を上げた。
アッセは一歩踏み込んで、剣を力強く跳ね上げた。敵の驚きに開かれた目が、弾き飛ばされた剣を追う。だがそれも一瞬だった。襲撃者は素早く腰から短剣を引き抜き、振り下ろされたアッセの剣を受け止めていた。
今度はアッセが瞠目する番だった。
冷笑に目元歪めた敵が、アッセの剣を宙に留めながら、懐から獲物をもう一本引き抜く。
「アッセ!」
ダイの悲鳴を合図に、アッセが身体を捻る。襲い来る短剣を辛くも避けた彼は、超人的膂力を駆使して体勢を立て直し、長剣の柄を男の首筋に真横から叩き込んだ。
「がっ……!」
かは、と空気を吐いてよろめいた男は、射殺すような眼でアッセを睨んだ。片膝を突きながらも短剣を握り直し、アッセに向けて振り抜く。
しかしその切っ先が届くよりも早く、アッセの長剣は向かい来る刃を縦割っていた。
すきん、という金属の割れる音は、血生臭いこの場に不釣り合いなほど澄んでいる。
アッセの手は剣を握りしめたまま、襲撃者の顎下へと向かう。
剣の柄尻がその顎の骨を砕いてようやく、男はもんどり打って気絶した。
「……はっ!」
ざ、と長剣の先を地に突立て、アッセが息を吐いた。柄に汗伝う額を押し当てた彼は、喘鳴を上げる胸を押さえながら、その場に崩れるようにして膝を突く。ダイは慌てて身を起こし、荒い呼吸を繰り返す男に駆け寄った。
「アッセ……! 大丈夫ですか!?」
「大丈夫だ……。ダイは?」
「大丈夫です」
転倒による擦り傷と打撲は免れないだろうが、特別痛み出血しているような箇所はない。
アッセは安堵に表情を緩めると、呼吸を整えて立ち上がった。
「誰なんだこの男は……?」
「わかりません……」
倒れた拍子に覆面が剥がれ、露わになった素顔は無論、全く見知らぬ男のものだ。
しかしながらダイは薄墨色の衣纏ったその姿に、明言できぬ引っ掛かりを覚える。
記憶の奥に爪を立てていくような僅かな既視感。
それの正体を探っていたダイは、丘の下方から届いた声に、アッセと共に振り返った。
「団長殿!」
松明を掲げたゼノが手勢を率いて、こちらへと駆け上ってくる。
「ダイ」
丘の上からは何かをずるずる引きずるアルヴィナと、彼女に肩を借りて歩くダダンが姿を見せた。
「いたたたたたっ!!」
消毒液が存外染みて、ダイは思わず悲鳴を上げた。
「うるさいわよ! 黙って手当されなさい!」
椅子に腰かけるダイの主人は怪我人に対しても容赦はない。
「勝手に場を抜けたりなんかするから訳わからないことに巻き込まれるのよ、このお馬鹿! 厄介ごとを連れてくるのはあんたの才能なの!?」
「そこまでいわなくてもいいじゃないですか……」
弱々しく反論した後、ダイは消毒液の与える拷問にじっと耐えた。不可抗力な事態には違いないとはいえ、マリアージュの意見ももっともである。
それにしても手を擦りむいたことは致命的である。化粧をする分には問題ないものの、数日間、肌の手入れはできないだろう。気鬱になりそうだった。
「終わったわよ、ダイ」
ユマが薬箱の蓋を閉じて微笑んだ。彼女もまたこの旅に同行する女官の一人である。
手当の終わる頃合いを見計らったかのように、軽い扉叩の音が部屋に響いた。
「アッセです」
来訪者は名乗った。
「アルヴィナとダダンも」
「入りなさい」
マリアージュの許可が下り、アッセたちが姿を見せた。
「ユマ。下がっていいわ」
薬箱を胸に押し抱いたユマは一礼し、三人と入れ替わりに廊下へ出る。
扉が閉じられた後、一人欠けていることを確認し、マリアージュは軽く眉をひそめた。
「ロディマスは?」
「まだファランクス卿の元に残っています」
アッセが即答する。
「王都まで、ファランクス卿ではなく、部下の方が付き添うことになりそうです。その件で話し合いを。そんなに遅くはならないでしょう」
「そう。……アルヴィー、お茶淹れて」
「かしこまりました。ダイ、茶器はどこ?」
「そっちです」
マリアージュ用の大部屋とはいえ、五人も揃えば狭苦しい。三人の間を縫って棚の前に移動し、用意されている茶道具と水差しを取り出す。
「ダイ、あんたは茶道具に触らないのよ」
「触ったら毒入るみたいに言わないでくださいよ……」
淹れた茶が不味くなるだけなのに。主人の抑止に肩を落としながら、ダイはアルヴィナに場所を譲った。
「それで、一体何がどうなってるわけ? 襲ってきたのはどういう相手かわかったの?」
「領主を襲った賊の残党だろう、というのが、やっこさんの判断だ」
マリアージュの問いにダダンが応じた。襲われた中で一番の深手を負った彼は、手当の終わった腕を白い布で吊っている。幸いにも骨や腱に損傷はないようで、数日経てば普通に動かす分には問題ないらしい。ダダン自身はこのような傷なぞ日常茶飯事だと意に介した様子もない。
ただ、出血のためか、それともこの真相見えぬ事態ゆえか、彼の表情は暗かった。
「せっかく逃げおおせていた賊の残党が、焼け落ちた屋敷にわざわざ戻って何してたわけ?」
「それがわかりゃ苦労はしねぇよ」
「ダダン、口調を改めろ。……賊というのも外部の人間に対する便宜上の呼び方でしょう。ただ領主を殺した一派の関係者には違いないようです」
「なんだかきな臭い話ですね」
ダイはじくじく疼く掌を眺めながら呻いた。
「っていうか、こんなに大勢集まっている日に動かなくてもいいのに」
今日はデルリゲイリアの一団を含め、いつも以上に人が集っていた。自分ならば、夜陰に紛れるにしても、もう少し人目につかぬ日を選ぶ。
「んー、大勢集まっているからこそ、動いたんだと思うよ」
茶器を載せた盆を携え、アルヴィナが口を挟んだ。
「ほら、今日は晩餐のために警備がこのお館に集中してたじゃなぁい? それにうろうろしてても、客人の一人ですって主張すれば、見つかっても誤魔化せそうだし。現に私がとっ捕まえた子は、商人っぽい恰好だったもの」
ダイたちを襲った男は旅人然とした装いだったし、アルヴィナが捕縛した男も村人と見紛うような軽装であったらしい。この二人が、篝火の傍で見かけた影の主だった。
ダイは納得に頷く。
「なるほど……衛兵の人たちも、私たち全員の顔を把握しているわけじゃないですもんね」
扇を唇に押し当てて、マリアージュが不安げに唸った。
「明日、出発できるかしら……?」
「そいつは大丈夫だろう」
包帯に包まれた腕を擦り、ダダンが保証する。
「午後にずれ込むだろうが、出発はできるさ。あの騎士様も俺たち部外者にいつまでもうろついていてほしくはないはずだ。さっさと拷問に取り掛かりたいだろうしよ」
「拷問……」
穏やかざる単語を、ダイは思わず反芻した。マリアージュも無言のまま顔をしかめている。
「ダダン」
アッセの叱責に、ダダンは肩をすくめた。
「俺は真実を述べたまでだ。喜んどけ。あんたが生け捕りにしたお陰で、俺たちは足止め食らわずに済む。殺してたらあいつらの代わりに俺らがあれこれと尋問されてただろうぜ」
「えぇ本当、よくやったわ、アッセ」
マリアージュの口が称賛を紡ぐことは珍しい。彼女は意地悪げに口の端を曲げた。
「アッセがいなければ、尋問される前に殺されてたわね、ダダン。感謝しときなさい」
ダダンがぐぅと喉を鳴らし、アッセは溜飲下がった様子だった。
部屋の空気が一瞬で冷え、ダイは慌てて話題を逸らした。
「そういえば、アルヴィーが捕まえた人って魔術師だったんですか?」
茶を配り終えたアルヴィナが、腕に抱える丸盆の縁に顎を載せて首を振る。
「ううん違うよ」
「何? 何の話よ? なんで魔術師が出てくるの?」
唐突に飛んだ話の内容を訝り、マリアージュが口を挟む。
ダイは記憶を辿りながら解説した。
「怪しい人影を追いかけたら、上の焼けたお屋敷の前で、魔術師がいるってアルヴィーが。……それで私、人を呼びに一人で引き返したんですけど」
「ちょっと待て。俺たちを襲った奴は、魔術師じゃなかったよな?」
ダダンが頭を掻きながら会話を差し止める。ダイは頷いた。もしもそうなら、ダイたちを殺すために魔術を行使しているはずだ。
「逃げたのか?」
「えぇ」
アルヴィナが首肯する。
術者はゼノ・ファランクスの部下として駐在している者たちの中にもいない。
つまり。
「捕まった二人が魔術師じゃないっていうなら、もう一人潜伏している可能性があるってことですか?」
ダイの問いに、アルヴィナは間延びした声で同意を示す。
「そういうことに、なるわねぇ……」
「アルヴィナ、その魔術師ってどういう奴だったの?」
マリアージュが興味深げに椅子から身を乗り出した。
「あぁ……。魔術師の子を見たわけじゃなくて、魔術を使った跡を見たの」
「燐光か……」
魔術を行使すると零れる、淡い緑の小さな光のことだ。
アッセが納得に首を振る。アルヴィナは肯定も否定もしなかった。
魔術師の話に耳を傾けていたマリアージュが、畳んだ扇から押し当てていた唇を離した。
「それ、あのファランクス卿に話した方がいいかしら?」
「いや、やめておいたほうがいいだろう」
ダダンが否定に手を振った。
「事態が余計にややこしくなる。放っておくに限る」
それこそアルヴィナが尋問されることになりかねない。
気に咎めた顔の一同を見回し、ダダンが呆れたように呻いた。
「目的はペルフィリアとの友好を確かめて無事に国に帰ることだろ。いらんことをあれこれ考えても時間の無駄だ。襲ってきた奴を知っているわけでもあるまいし」
それもそうだと頷き合い、皆は手の中にある紅茶に口を付けた。
ダイはぬるまった紅茶を眺めていた。ダダンが指摘する通り、今は自分のことを考えるべきだ。だがどうも地に伏した男の姿が頭の隅をちらついて離れない。
彼とは無論、初対面だ。あいにく暗殺者に知り合いはいない。ちらりと見た顔は平凡だった。服装も。外套に身を包んだ男など、吐いて捨てるほどいる。荒野を往く際の一般的な旅装だからだ。
(そういえば昔、あんな風に襲われたことがあったな……)
あれは用事があるという“あの男”と共に、隣村へ赴いたときのことだった。王都へ引き返す途中に馬車が襲われたのだ。自分たちは白砂の荒野を逃げ回る羽目になった。
絵の具を刷いたかのような蒼穹の下。白い大地。そこに落つる黒点。
馬車から降りたダイを、男が庇う。広く、あたたかで、ディアナが拙く愛した、その背の後ろに。
男が、刃を手ににじり寄る影たちに、尋ねていた。
『私が、狙いか――……?』
(あ、れ?)
今更のように気が付いた。自分たちを襲った輩は隣村で噂になっていた賊ではない。“あの男”を狙った襲撃者だったのだ。馬車に置き去りにしていた荷物が手つかずでミズウィーリ家に戻っていたことにも頷ける。つまりあの時の襲撃者は、“あの男”がディトラウト・イェルニだと知っていた人間――ペルフィリアの人間だということだ。
また地理から判断するに、マーレンの領主は女王に近い人物である。もし屋敷を焼いた者が賊ではなく、女王から力を削ごうとする者なら。
ディトラウトを襲った者も、今回ダダンを傷つけた者も、同じ一派なのではないか。
(馬鹿馬鹿しい)
既視感の正体に、ダイは嗤った。状況が似ているからといって、二者が仲間であるとは限らない。
が。
「見たことあるような気がするのよねぇ」
耳に飛び込んだアルヴィナの言葉に、ダイは飲み干していた紅茶ごと、ぐっと喉を詰まらせた。
「どこかで会ったことがあるってことか?」
「そうねぇ」
ダダンとアルヴィナの会話に、ダイは耳をそばだてた。他の皆も手を止めて、二人を注視している。
「あんな物騒なのと、一体どこで会ったのよ?」
「うーん、今ちょっと考えているんだけど……あ、思い出した」
アルヴィナは銀盆を小脇に挟み、ぽん、と拳を掌に押し付けた。
「そうだわ。前にうちに来た子たち。お庭を荒してくれて……あの後、手入れが大変だったのよねぇ」
「はぁ? 犬猫の話をしているんじゃないのよ」
「私だってそんな話はしてませんー。ちゃんと人の話よ?」
許しもなく彼女の自宅に侵入した男たちが、今回の襲撃者たちと出自を同じくしていると、アルヴィナは断言した。
アッセが訝りの目を彼女に向ける。
「一体何を根拠に?」
「あの人たち、魔がなかったの」
「魔が……ない?」
ダイの反復に、アルヴィナは頷いた。
「人って魔術は使えなくても、内在魔力として魔はあるのよ。知っているでしょ? それがないの」
魔は万物を構成するものだ。ない、ということはありえない。それぐらいダイも知っている。
「それが共通していたの。滅多にないことよ」
「だからってアルヴィナんちに侵入したそいつが今回の奴とお仲間とは限らねえだろ?」
ダダンがもっともな意見を述べる。
「大体それ、いつの話だよ?」
「あの日よ。ダイがうちに来た日」
「え? 私?」
ダイがアルヴィナの家を訪ねたことは一度しかない。
襲撃を受けて馬車から離れ、荒野で迷うことになった、あの日のことだ。
ダイは手元の茶器を強く握りしめながら、アルヴィナに尋ねた。
「……アルヴィー、その人数って覚えています?」
「人数? うーん……五人、だった、かなぁ」
ダイはそろりと息を吐いた。あの日ダイたちを襲った人数と同じだった。
「なんか気にかかることでもあるわけ? ダイ」
「えぇ……。賊です、マリアージュ様」
マリアージュは不快そうに眉をひそめた。
「賊の話なのはわかってるわよ」
「私が言いたいのは別の賊の話です……。覚えていらっしゃいますか? マリアージュ様にお仕えして、まだ一月目ぐらいの時。私たちが王都の外に出かけて、賊に襲われて……」
「あぁ……あんたたちが三日間ぐらい、行方不明になったときのこと?」
アッセがぎょっと目を剥いた。
「な……大丈夫だったのか?」
「えぇ。大丈夫でした」
「それで、ずいぶん昔の話を持ち出して、どうしたっていうのよ?」
アッセの乱入を視線で牽制し、マリアージュが話の続きを促す。
「たぶん、なんですけど、アルヴィーの家に勝手に入ったっていう人は、私たちを襲った人です。逃げた私たちを追いかけて、アルヴィーの家に入ったんだと思うんです。私は最初、ただ賊に襲われただけだとばかり思っていた。でも、違った――……私たちを襲ったあの人たちの目的は……“あの男”を、殺すことだったんです」
「あの男……?」
アッセが訝り、目で説明を求める。しかしダイはそれを無視してマリアージュを見つめ続けた。
マリアージュとて馬鹿ではない。ダイの示す存在が誰なのか、きちんと理解している。
ヒース――ディトラウト・イェルニのことだと。
「……彼は相手を知っているようでした。そしてこうも言っていました。“私が、狙いか”と」
「……つまり」
もてあそんでいた扇を閉じて、マリアージュは言った。
「あんたとアルヴィナの話を纏めると、……あんたたちを襲った賊と、マーレンの領主を襲った輩には何か関係があるってこと?」
「断定はできませんけど……安直すぎますか?」
「安直かどうかはわからないわ。あんたの仮説通りだったとして、私とそれがどう関係あるの?」
主君は苛立っているわけではない。純粋に疑問に思っただけのようだ。
「つまり、ペルフィリアの女王さまには、重臣まで狙ってくるような敵がいるってことですよ」
ダイは解説した。
「私たちはペルフィリアの女王様と、仲良くするために王都へ向かっているんです。彼女と仲良くしようとする人を全て敵と思ってしまうような相手だったら、陛下の御身がこの先、危険に晒される可能性があるってことじゃないですか?」
「……逆に私たちの味方になってくれるっていうことはないのかしら」
「味方にですか?」
マリアージュは深く頷いた。
「……ペルフィリアは強引にあちこち併合して、クラン・ハイヴにだって手を伸ばしている。私たちの国を併合して力を付けたら、その敵とやらは困るでしょ?」
「デルリゲイリアを併合して、果たして力になるのかどうかは疑問だがな」
ダダンが揶揄の口調で横やりを入れる。マリアージュが鋭く睨みつけると、彼は無傷の手を上げて降参の意を示した。
「まぁ敵か味方か、自分らにとって危ない奴なのか見定めるためにゃ、まず相手が誰だかわからなきゃ無理だろう」
正体わからぬ相手を論じても無意味だとダダンは断じた。まったくもって、その通りである。
彼女は椅子の背に重心を預け、深く息を吐いた。