終章 係争する人々 1
風はいつも砂を孕んでいる。
廊下を歩きながらレイナは肌を撫でて、ざらりとした感触に眉をひそめた。
(きらいだわ)
窓から見える土地は乾いている。空はいつも黄色く濁って、レイナを苛立たせてばかりいた。
ここはレイナの別荘地。オジサマの街だ。クラン・ハイヴの中でペルフィリア国境に最も近い、エスメル市。
(だいきらい)
エスメル市は金属と油の臭いがする。レイナの最も嫌いなニオイだ。グラハム・エスメルをはじめとする、おとこたちの臭いだ。
あぁ、気持ちが悪い。
(ぜんぶ、焼き払ってしまいたい)
遠い昔、レイナのすべてを業火が嘗め尽くしていった。あのときのように何もかも、きれいさっぱり清められたら――……。
(いやね)
唇に指を押し当てて嗤った。
(逸ってはダメよ、レイナ)
目的地にたどり着いた。先導していたシーラが鍵束を取り出し、七つの鍵を順番に解錠していく。
ぴん、と、魔術の起動する音が響いて、鋼鉄製の扉がひとりでに開く。
赤い灯をひとつ点しただけの部屋は薄暗い。
調度品は絨毯が一枚きり。
その中央に女がひとり、胡坐をかいていた。
「おはよう、イネカ。ご機嫌はいかが?」
「レイナ……」
拘束具を身に着けたイネカが、レイナを忌々し気に見上げる。彼女がむき出しの敵意をこのように表すことは珍しい。彼女は基本的に無感動である。
イネカ・リア=エル。クラン・ハイヴの影の女帝。欲をかいた男どもが、彼女から感情の起伏を奪い取った。
彼女はまた言葉も失っている。感情とは異なって彼女自身が自らに施した処置だった。
イネカは過去のメイゼンブルでひとかどの研究者だった。彼女は頭蓋の中で常人が目を剥くほど目まぐるしく思考している。しかしその考えを滑らかな言葉で表すことはできない。
イネカの知識を得るには、彼女の口が必要である。
彼女の前に屈んで、レイナは優しく促した。
「教えて、イネカ。……ジュノはどこなの?」
「知らない」
間髪入れずにイネカが応じる。
レイナはシーラに合図した。彼女はイネカを横から蹴り飛ばした。
「……っつ!!」
「あら、大変。血が出ているわ、イネカ」
胡坐の体勢のまま、倒れこんだイネカの顔を覗き込む。
「ねぇ……強情にならないで。レイナ、イネカにこれ以上、汚れてほしくないわ。レイナの叔母さまだもの」
イネカの外見はある一定のところでほぼ止まっている。内在魔力が高いのだ。そういう人間は己の意思で外見年齢を固定することがある。彼女はメイゼンブル本国から逃げ、身を偽るためにこうしている。若くは見えても壮年は越えている。レイナの母の双子の妹なのだから。
「血や汗で、べたべたするの、嫌でしょう。お風呂に入りたくならない? ……こんなことだって、レイナ、シーラにさせたくないわ。イネカがレイナに協力してくれないから、悪いのよ」
「……自由に、行け。……ジュノに、言った」
出血のせいか。浅い呼吸を繰り返しながら、イネカが呻く。
「ジュノ、どこか、知らない」
「……そう」
レイナは立ち上がってシーラに手を振った。シーラはイネカの肩を外した。ごきゅり、と、耳障りな音がした。
「……ふっくっ……!」
「レイナ、もう行かなくっちゃ。今日はとても忙しいの」
何せ遠方より客人を招いている。
彼らの「おもてなし」をしなくてはならない。
「気が変わったら、いつでも教えてね」
「……レイナ」
呼び止められて、レイナは扉口で振り返った。
肩が痛むのだろう。苦し気に吐息して、イネカが追及する。
「聖女、なって、何を、する?」
「馬鹿ね、イネカ」
レイナはにっこり笑ってイネカに答えた。
「決まっているでしょう? ……レイナの世界を、キレイにするのよ」
タルターザ砦とエスメル市を結んだ中間点、荒野のただなかに天幕が張られている。北東と南西に分かれて待機するそれぞれの兵に囲まれたそこは、ペルフィリアとクラン・ハイヴ両国の会談を行うために設営された。
クラン・ハイヴの領域に入っているここは、ペルフィリア本国と気候がずいぶんと異なる。乾いた大地を吹きさらす風は熱風で、天幕の中は涼しく保たれているが、慣れない兵たちはひとたまりもないだろう。
彼らを思ってか。焦れきった顔でヘルムートが呻く。
「遅い」
「あなたらしくありませんね、サガン老」
ディトラウトは椅子に座した足を組みなおし、傍らの老父を見上げた。
「女性の支度には時間がかかるもの。そうおっしゃったのはあなたでは?」
「もちろん。いま待つ相手がお嬢ちゃんなら、そういうだろう。……だがな。今日のはそんなかわいい相手ではなかろうからな」
今回の会談は本来ならグラハム・エスメルか、イネカ・リア=エルのはずだった。
ところがグラハムから予定していた両名とも、出席しかねると急使が届いた。代役はレイナ・ルグロワ。クラン・ハイヴきっての女狐である。
この会談はクラン・ハイヴを経由して流れ込む流民の制限を掛けるべく設けられた。レイナにしてみればつまらない内容。しかも場所は砂を含んだ風の吹きすさぶ平原と来ている。
この状況下で彼女がしゃしゃり出てくるには理由がある。
念のために近衛たちは本国に置いてきた。護衛はヘルムートと梟。彼らをセレネスティから離したくはないのだが、苦渋の決断だ。
「お待たせいたしました」
一刻は優に待たせて、ルグロワ市長は現れた。
夕焼け色の衣装の裾をきれいに裁いて、公式の所作で彼女は典雅に一礼する。
「遅れまして誠に申し訳ございません。心よりお詫び申し上げますわ、イェルニ宰相閣下」
「急遽こちらに足を運ばれることになり、それ相応の支度もおありでしょう。気にしておりませんよ、ルグロワ市長」
「相変わらず、お優しいですわね、閣下。レイナの旦那様になってくださらなくて、本当に残念」
レイナの紅を毒々しく刷いた唇が弧を描く。
しかし彼女の目は全く笑っていなかった。
レイナの連れた女の侍従が主人のために椅子を引く。
ディトラウトの対面であるその席に、レイナはゆったり腰掛けながら言った。
「ね、ディトラウト様。教えていただけないかしら。どうして突然、やめられたの? クランとあなたの国がひとつになって、とっても幸せになれる機会でしたのに」
自分とこのレイナ・ルグロワの婚約は、大陸会議の折、ペルフィリアとクラン・ハイヴの終戦協定、並びに同盟関係の締結を目的に、グラハム・エスメルを含む複数の市長から持ち掛けられた。デルリゲイリア側の情勢不安を受けて、昨年末に話を進めていたが、年明けに白紙としたものである。
「理由は通達させていただいたはずですが?」
「レジナルド・チェンバレンの引き渡し? いないものは出せません」
「それだけではありませんよ。条件の不一致が問題です」
「政策方針のことなら、後々おじさまたちとご相談なさればよかったのではありません?」
「あとは、わたしの好みの問題ですね」
ディトラウトは冷淡に告げた。
「ルグロワ市長。そろそろ本題を進めてよろしいでしょうか?」
流民の監督、保護を試みる条約は大陸会議参加国の間ですでに批准されている。それに準じたかたちで近接の国々同士が実務に即した協定を結んでいた。今回もその一環である。詳細はすでに双方の文官たちが詰めており、あとは代表者同士が批准書を確認し、一筆を入れればよい。
レイナと腹の探り合いをしてやる暇はないのだ。
しかし彼女は私的な興味を満たすまで、話題を変えるつもりはないようだった。
「〈夜明けの貴婦人〉。素敵な通り名ですこと。都合のよろしいお嬢さんを手に入れたから、レイナはお役御免になったのね。あぁ、かなしい」
ディトラウトは黙した。城内に間者はいるだろうし、ディアナのことを把握していてもおかしくはない。が、余計な発言で新しい情報を与えてやる義理もなかった。
「だって、聞きたいでしょう。急に婚約を破棄された乙女には、理由を伺う権利があると思うのです」
「もう一度申し上げましょう」
ディトラウトは微笑んで告げた。
「職務より私的な興味をまず満たそうとする、その姿勢が、わたしの好みではありません。……ルグロワ市長。イネカ・リア=エル代表はどちらに?」
この協定は小スカナジアのアルマルディ・メイゼンブルに女王として認定されている、イネカを中心として話が進んでいた。彼女に代わってレイナが現れた真相を推し量っていたが――……。
ディトラウトは臍をかんだ。
(よくない兆候だ)
レイナが笑みを深める。
「イネカはね、レイナを聖女にするために、ちょっと別のところにいるのです」
ディトラウトは眉をひそめた。レイナは笑いに喉を鳴らして言葉を続けた。
「あぁ、イェルニ宰相閣下、あなたもやっぱり、そちらの側なのね。残念。……キレイな世界にいていただいても、いいかもしれないわって、思っていましたのに」
「……聖女教会の旗印にでもなるおつもりですか?」
「違います。レイナが旗印になってあげるのよ。レイナが皆の、聖女になってあげるの」
また、この話だ。
聖女が現れる。聖女になる。たびたび耳にするこの話は、いったい何だ。
「この世界はとうに聖女様に見放されているの。でも、みんな、聖女がいなくちゃだめなの。すぐにぐちゃぐちゃになるの。汚くて醜くなるの。……このままじゃあ、みんな斃(たお)れてしまうわ」
「そのようなことはありません」
ディトラウトは反論した。この女の戯言に飲まれるわけにはいかなかった。
「聖女の国が滅び、多くの国が斃れた。多くの国が血と死を見た。あなたのおっしゃるように、汚く、醜いものも確かにある。ですが、この世界はあなたが言うほど混沌としてはいない。聖女は皆の中に息づいている。聖女はおらずとも、人々は己の信仰に祈り、日々の営みをしかと紡いでいける。世界は、その美しさに溢れている」
――わたしたちは、それを見たのだ。
レイナが憐れみに似た色をその目に浮かべた。
「小スカナジアで聖女はいらないと公言されたほかでもないあなたが、聖女は人の中にあるとおっしゃるの?」
「政治的には不要です。その趣旨をいまの発言で翻したつもりはありません」
「それが、だめなのです」
レイナは唇に人差し指を当てた。とっておきの秘密を打ち明けると言わんばかりに。
「あなたがおっしゃっていることは、皆にがんばりなさいっていうことです。これまで簡単にできていたことを、また汗水たらして、努力して、手に入れなさいっていうことです。ねぇ、ディトラウト様。そんなこと、だれがするの? レイナの街、ルグロワにも毎日毎日たくさんの人が押し掛けてくるんですよ。これまでできていたこと、これまで持っていたものを、失ってしまったかわいそうなわたしを、助けてください。わたしはかわいそうだから、努力なんてしたくありません。かわいそうだから、わたしは助けられてしかるべきです。……あの、愚かで醜い人たちにできることって、ひとつしかないのです。――あぁ、憐れなわたくしたちをお助けください」
そう、祈ることだけ。
「早く、早く、キレイにしないと、どんどん醜いひとたちが世界をぐちゃぐちゃにしてしまう」
「それで、あなたは……聖女になるとおっしゃるのか」
「そうです」
ディトラウトは目をすがめた。レイナが聖女的な指導者になると主張しているだけなのか、それとも真実〈聖女〉――魔女になる、と、いう意味なのか、ディトラウトには計りかねた。
レイナが円卓に手を突いて身を乗り出す。
「ねぇ、もう一度、伺っていいかしら。レイナと世界をキレイにする気はなぁい?」
「くどいですね」
ディトラウトは一蹴した。
「わたしは人々の可能性を信じている。あなたとは相いれない」
そもそもレイナ・ルグロワとの婚約の件を白紙に戻した最大の理由は、クラン・ハイヴに聖女教会が巣食いすぎていたからだ。
レイナの言う通りに聖女が再来し、それで人々が救われることになることもあるやもしれない。
しかし人々の目を信仰で無為に晦まし、彼らの自助の精神をくじく方向性は目に余る。
レイナが表情を消す。
「そう。……残念な、ことです」
レイナが円卓に載せていた手を引いた。そのまま一歩、後ずさる。
「さようなら。やっぱり――おとこのひとは、だめですね」
「閣下」
これまで沈黙していた梟が円卓とディトラウトの間に割って入る。同時にヘルムートの腕がディトラウトの肩を背後に引き倒した。
視界の中、円卓の上に煌めく石がある。
(招力石――……)
それが目を焼くほどの光を放つ。
爆風が三人の身体を吹き飛ばした。
墓石に花を添える。
色とりどりの野ばらの花束だ。園丁に言って、瑞々しいものを選んでもらった。
デルリゲイリア王城の敷地内にある共同墓地。そこにユマは収められた。曲がりなりにも〈国章持ち〉を救ったとあって、彼女は個人で墓石を持つことを許された。真白い墓石には彼女の生没年と、その安らかな眠りを祈る言葉が刻まれている。
彼女の名前を指で辿って、ダイは立ち上がった。
昼下がりの墓地は静かで、ひとの姿はまばらだった。木々と香り豊かな花に満ちて、小鳥のさえずりも絶え間ない。墓から離れ、木漏れ日の下に伸びる小道を、ダイはアルヴィナと並んで歩き始めた。
「――生き残るために、たくさん、わたしは人を殺しました」
ダイは手首の鎖を撫でた。銀樹の繊維で織られ、野ばらの意匠が繊細な、アルヴィナ製の魔術具だ。タルターザで酷使し、切れていた魔力も補充され、いまも変わらずダイの手首にある。
アルヴィナは魔術の術式を換えないと言った。
もしかしたらダイが危機に遭うたび、また、だれかを殺していくのかもしれない。
帰国してダイがまず参加したものは、デルリゲイリア内で起こった反乱時、命を落とした者たちに対する追悼式典だった。ユマも同時に弔われた。
これまで目を背けていた、タルターザで腕輪の力で赤い霧に変えられた人々についても、そのときに改めて思いを馳せた。
あぁ、本当に、自分は多くの命を踏み越えてここにいる。
「間違ってはだめよ、ダイ」
アルヴィナがやさしくダイをたしなめる。
「ユマを殺したのはタルターザの人だし、タルターザの人たちを殺したのは、わたし。その腕輪は、わたしが作ったのだもの」
「でも」
「ダイ」
アルヴィナがくらい目で真っ直ぐダイを射抜く。
「あなたの手は……あなたたちの手は、きよらかだよ。あなたたちは、負わなければならないわ。……手を、汚さないということを」
穏やかな風がアルヴィナの髪を揺らす。
その横顔はやはり、礼拝堂で目にする聖女のものに似ていた。
「わたしたちだけ、なぁんて、悲観することないわ。清らかなひとはその分だけ、だれかの罪を負うのよ。マリアは国を保つために築く屍の数を。あなたも……いつか」
だれかの罪を背負うだろう。
「だから、お手てを汚さずにいて。清らかさを保って。そう在れかしと望まれ、目指される側に、あなたたちは立ち続けていて」
国はきれいごとでは成り立たない。
しかし、きれいであってほしいとだれもが願う。
その理想を女王と〈国章持ち〉は、体現しなければならないのだ。
墓地から戻った城内は騒がしかった。文官、武官、女官が廊下を慌ただしく往来している。
ダイはアルヴィナと顔を見合わせ、訝りながらマリアージュの執務室へ向かった。
室内にはマリアージュとロディマス、アッセを含めた主だった人物が揃っていた。一同は皆、厳しい顔をしていた。
「……ダイ」
「……何かあったんですか?」
ダイの名を呼んだきり、黙り込んだマリアージュに問いかける。
ロディマスが代わりに応じた。
「戦争が始まった」
「え?」
「……ペルフィリアだ。ペルフィリアと、クラン・ハイヴが、開戦した」
タルターザ砦とエスメル市を結んだ中間地の荒野が開戦場所。
そして開戦当時そこにいた、ペルフィリア宰相が行方不明だと、ロディマスが厳かな声でダイに告げた。
――のちに、史書にこう記される。
メイゼンブル崩壊より十八年を経て、聖女教会に付いたクラン・ハイヴとペルフィリアの全面戦争が勃発する。
やがて史書に依ってはタルターザの乱まで遡り、西大陸の転換点として語られる、〈聖教騒乱〉の幕開けである。