序章 朝間の放浪
魔力の濃度が日に日に濃くなる。
それを僕は肌で感じていた。
ここは地下に作られた都だった。地上のそれをそっくり反転して作り出された地下の都。海上から見るとね、水面に都の残像が映る。その残像を含めた姿こそが本物。血の海の上に築かれた都――紅の島(スカナジア)だって、どれだけの人が知っているかな。だれがそう囁いたのだったか。
幾千もの月日を掛けて地下に作られた都には、研究者と、被検体がいる。僕は後者のうちのひとりだった。
聖女の血筋を効率よく残すための××××。管理された食事と運動と睡眠。定期的な魔力測定。魔力の器として申し分ない。そのような評価を聞いたことがある。僕は整えられた子どもだった。来るべき日のために。僕は寝台の上に仰臥して、確定した未来を待っていたのだ。
魔女が来た。
新たな聖女が生み出される。
魔力の濃度が濃くなっていく日々。
血が滴り、海を作っていくように。ひとり、またひとりと発狂していく。その中で、彼女が。僕に手を伸ばした。
『――わたしを助けてほしい』
彼女は僕に言った。
『完全な自由はあげられない。だけど、それと引き換えに、あなたにたくさんのものをあげる』
僕はなにも持たなかった。ぼくの身体を除いて何もなかった。僕は何も持つことを許されなかった。
『あげる。なにをぼくにあげるの?』
拙く、僕は尋ねた。
『空を、見せてあげる』
彼女は笑った。
『それから風を、匂いを感じさせてあげる。わたしの味覚をあげる。言葉をあげる。命も――わたしのあらゆるものをあなたに』
いや、泣いていたのだったか。
『だから、わたしを助けて』
彼女はとても大人で、皆を率いていくひとで。なのにそのとき、力のない僕に縋るようにして、僕に助けてと希っていた。
『わたしを、ゆるさなくて、いいから』
喉の渇きを覚えてジュノは目を覚ました。
途端に吐き気と空腹が喉元まで競り上がってくる。胸の拳を抱き、ねばつく口を開いて、そろりと息を吐いた。腕を支えに上半身を起こして、指を差し込んで開いた幌の隙間から外を見る。
黄色の砂塵が吹いていた。中天に近い太陽は白い。かすんで見える砂利道に、幌馬車の影が列を成している。がたがた、ごとごと。馬車はひどく揺れていた。積まれた荷は麻縄で固定され、人々はその狭間に身体を押し込んで蹲っている。ジュノもそのうちのひとりだった。血と砂に汚れた外套で身を包み、身体を丸めて横たわりながら、焦燥に耐え、自分の庇護者を思っていた。
イネカ。
逃げろ、と、ただひと事だけを呟いて、彼女は砂礫の荒野の中へ自分の背を押し出した。残ったイネカはいま、どのような目に遭っているのだろう。
彼女の傍に残った七色鳥が、どのような最後を遂げたかはわかっている。ジュノの姿を被せるために感覚の一部を共有していたから。ホンモノではないと知ったレイナの手で、核ごと粉々に砕かれた。
あの女――レイナ・ルグロワは憐れな女だった。聖女を心の底から憎みながらも囚われ続け、もうひとりのイネカで、ジュノだった。聖女に人生も人格も何もかもを狂わされているという意味で。
オレも女だったら、レイナみたいになっていたのかな。よくわからない。ジュノはイネカに救われてしまっていたので。
自分に延ばされたあたたかな手をジュノは覚えている。
あぁ、だれか。
たすけてほしい。
だれでもいい。
イネカを助けてほしい。
流民と荷を満載した馬車はやがて吸い込まれるように消えていく。
聖女の正しき血統が治める国、デルリゲイリアへ。
――あぁ、聖女だけはわたしたちを救わないと、わかっているのに、そこに縋らなければならないわたしたちを。
主神よ。
嗤い給うな。