第八章 追従する忠臣 3
帰宅直後の口づけは、習慣になりつつある。
何がきっかけとなったのか。ある日、男がダイの真名を呼んだ。以来、それは合図となった。
まぼろばの地を叩く傷を負って、ダイがこの部屋で目覚めて以降、男が指一本ふれようとしなかったか、と問われれば否である。自分たちは牽制や契約の証として口づけを用いた。ただし、それは明るい陽の下に限られていた。夜の帳の降りたあと、ひとつの寝床を分け合うようになっても、男は情欲で手を出してくることはなかった。
初めは疲れ果てていて、欲そのものが消し飛んでいたのかもしれないが、ひと月を経るころには、男が単に理性で自身を戒めていたことは、ダイも理解していた。
その、かたく閉めた箍が、外れかかっている。
唇を擦り合わせる。腰と背に回った腕が、ダイの身体を引き寄せて、男のそれに密着させる。逃げ道を塞ぎきってから、彼はダイの唇をやさしく食んだ。
まず上唇を、次は下を。口を開くことを懇願するようにあまがみする。堪えきれず、かすかに唇をダイが緩めると、男は舌でその先を促した。
唇が男の舌で湿らされ、ふたりで息を吐いたあと、今度は深い口づけが始まる。
舌が吸い出され、絡めとられる都度、心の全部が引きずり出されていくようだ。
ずっと、ここにいたい。
男の傍。男の腕の中。そこはあたたかかく、心地よかった。絶対的な安心感があった。口の中をかき混ぜられると、身体の芯がじんとしびれた。男に触れられることは歓びだった。
もっと、と、ディアナは要求した。この歓びを、貪ることを。
男も欲しがっている。それをいつも踏み堪(こら)えている。
自分たちは危うい均衡の上にいる。
それが崩れ去るまえに、自分たちにはひとつ、なさらなければならないことがある。
扉の開閉音。かすかな、衣擦れの響き。
窓辺にわだかまる月明かりに影が差す。
ダイは瞼を上げた。ディトラウトが寝台の傍らに立っていた。
ダイは枕に片頬をつけたまま囁いた。
「……おかえりなさい」
男は目元を緩め、寝台の縁に腰掛けた。指の背でそっとダイのこめかみを擦る。
「すみません。起こしましたか」
「いいえ。横になったばかりだったので。会食は滞りなく?」
「まぁまぁですね」
時は深夜と呼ぶにはやや早い。何かあれば日の出前に戻ることもめずらしくないから、首尾は男の言う通り、可もなく不可もなく終わったのだろう。
ダイは寝台に手を突いて上半身を起こした。
塔に帰ってそのまま寝室に来たのか。ディトラウトはまだ正装のままで、ほのかな葡萄酒の香りをまとっている。髪も後ろに流して固めたままだった。湯殿に直行したくない程度には神経を張ったのだろう。
ダイは男の髪に指を梳き入れて言った。
「生姜湯を淹れますね。ここにいてくださ――」
「ディアナ」
ダイの手首が男に捉えられ、男の体臭がふっと強まる。
口づけの気配。
ダイは反射的に男の口を両手で塞いだ。
ダイの手首をつかんで、彼が不機嫌そうに呻く。
「なんの真似です?」
「そろそろ、話してほしいなって思いまして」
「……何を?」
「あなたが、わたしをどうしたいのか」
ディトラウトは王兄だ。後継者問題のこともあり、彼に寄せられる釣り書きの数は膨大だろうし、彼の傍には政略的に価値の高い女が相応しいことが前提としてある。
ディトラウトの傍に在れとダイに唆す騎士たちは、それが主人の誠の望みであると宣ってはばからない。
しかしダイは何も告げられていない。
傍にいてほしいのか。そうではないのか。傍にいるならどのようなかたちなのか。それは以前、彼が述べたように正妻としてか。はたまた愛人としてか。金糸雀としてさえずることが希望か。それとも、同じ王を奉じて、並び立ってほしいのか。
なにひとつ。
男は沈黙している。
彼はいつだって口を閉ざす。肝心の真意について。
男が自分を大切にしていることは、だれに言われるまでもなくわかっていた。彼は丁重に扱うだけではなく、出来得るかぎり対等な立場を自分に提示した。ひとつ間違えば隣国との内通を疑われ、彼の足場を崩しかねないにもかかわらずだ。
男は自分のためにいつも危うい道を歩く。実利を採る合理的で冷厳な男が、自分の危機にだけ常の道を踏み外して手を伸べる。
わかっているのだ。
けれども彼は決定的なことを、何ひとつ口にしていない。
「よろしいのですか? それを、わたしが答えても」
ディトラウトが静かな声音で尋ねた。
彼はダイの手首を解放し、居住まいを正して問いを続ける。
「わたしがあなたをどうしたいのか。話せば確定となる。あなたはわたしに、その答えを出さなければならない。回答の如何によって、わたしはあなたの意思に背くこともあるでしょう」
この甘やかな日々を続けることも叶わなくなる。
いまのこの状態は、お互いが何も尋ねないことで成り立つ。
「わたしの望みに無知であった方が、あなたの利益となるのではありませんか?」
負傷も癒えきっていないし、異性に対する心的外傷もある。このまま男に甘えていれば、その傷を抉ることもない。
彼の真意を知らずにすませ、差し出される好意を、利用しつくしてしまえばいい。
「……あなたの言うとおりかもしれません。でもわたしはあなたの言葉を聞かせて欲しい。それから、わたしの答えを決めたい」
ディトラウトが示した通りに動けない自分は賢くないのだろう。
それでも。
「わたしは知りたいんです。ずっとあなたのことを知りたかった。本当のあなたを探していた。今度こそ、あなたの言葉をすべて聞いて、あなたに答えを返したい」
雷雨の夜。この男との別れのとき。
自分は何も知らされていなかった。選択だけを迫られた。
あのときの混乱は長く尾を曳いた。
ねぇ、わたしは何だった?
あなたにとって、わたしは何だった?
わたしをどうしようと思っていた? わたしは。あなたの。わたしは。
ディトラウトはふっと笑った。
いいでしょう、と、呟き、寝台から彼は降り立つ。
その行動の意味を理解しかね、首をかしげていたダイに、ディトラウトは問いかけた。
「体調はどうですか?」
「体調? そうですね。悪くはない、と、思いますけれど……」
「では、少し歩きませんか」
ディトラウトが窓辺に視線を投げる。
「中庭のばらが見ごろだそうです。いまの時分、咲いていないでしょうが……。月も明るいですし、つぼみの色を楽しむことぐらいはできるでしょう」
「……ディ」
「そこで話しましょう」
微笑んで、男は言った。
「わたしたちの、これからを」
塔の中庭は回廊に囲まれた空中庭園で、規模は小さいながら、花や植木の配置は丁寧に整えられ、眺望見事な美しい場所だった。
東屋に茶の支度を終えた女官たちと入れ替わりに、ダイは出入り口に護衛たちを残して敷地に入った。
夜風に煽られる髪を片手で押さえながら、ダイは庭園を見回した。
白い石を敷いた東屋に向けて延びる小道沿い、埋め込まれた灯りの招力石が庭を照らしている。
塔を散歩する折、窓から幾度となく眺めていたが、庭園の中に入ればいっそう感じ入るものがある。
「きれいですね……。入れるところだったんですね」
「うん? あぁ、そうか。入園を禁じていましたね。あとで解いておきますから、気に入ったのならまた来ればいい」
「……禁止されていたんですか?」
ダイの手を引いて、ディトラウトが庭園の一角を示す。胸の位置までの壁の向こうにのっぺりと広がる闇が見えた。
あの方角は、海だ。
「落下すれば助からない。身を投げられたくはありませんでしたから」
風が強く吹いた。
上着の裾をはたはたと揺らす。
ダイは黙ってディトラウトの手を強く握り返し、再び彼に先導されて歩き出した。
辿り着いた東屋はばらの生垣に囲まれた瀟洒な造りだった。花や蝶の彫りが美しい卓の上には茶器と茶葉の壺、保温容器に入った湯が置かれ、小さな陶器の皿には南方のあまい菓子が盛られている。ディトラウトはダイに座るように指示し、斜向かいに自身も腰を下ろして、茶器に手を伸ばした。手際よく茶葉を計り、支度を進めていく。
その様子を眺め、ダイは呟いた。
「……久しぶりに見ました。あなたが紅茶を淹れるところ」
「わたしもこちらでは滅多にしません」
「そう。……もったいないですね。あなたの、おいしいのに」
ミズウィーリで彼と過ごした数々の夜を思い出す。執務室の応接の席にふたりで着いて、こうやって男に茶を淹れて貰って、マリアージュや使用人たち、女王選、ときには互いの生まれのことを話した。それはあの日々の中で数えきれてしまうほど少ないものの鮮やかに記憶に残る、静穏で幸福な夜だった。
「紅茶を淹れる方法が、父から最初に教わったことでした」
茶器の蓋に触れて男は言った。
「主人が朝目覚めたとき、気持ちよく一日を始められる助けとなり、かなしいとき、緊張しているとき、心を落ちつかせ、そして夜は安らかな眠りの助けとなるような、一杯を淹れること。……幼いころ、何度も練習したものです。まさかここまで、人に仕えられる道を歩むとは、思ってもみませんでしたが」
彼は蒸らし終えた紅茶をひとり分だけ注ぎ淹れた。ダイは差し出された茶器をうけとった。芳醇な香りがする。
「飲んでください。温まります。……連れ出してすみませんでしたね」
言われるままに口に含む。じんとした温かさが身体の隅々までしみ通り、夜の風に曝されて冷えていた指先に血が通う。
ダイは茶器から口を離して尋ねた。
「……部屋で話すと、何か不都合が?」
よほど危急のことでなければ、寝室にはだれも踏み込まない。あえて場所を替える必要はなかったはずなのに、男はそうした。
「壁を挟むより、距離を取っておきたかった、というところでしょうか。庭ならだれが周囲にいるか、目に見えますからね」
卓の上に茶器を置いて、それに、と男が付け加える。
「考える時間が、少し欲しかった」
「考える時間?」
「えぇ。あなたの問いに対する、答えについて」
これから、ダイを――ディアナ・セトラをどうしたいのか。
男は立ち上がって、生垣と距離を詰めた。夜の冷涼さの生む結露に彩られたばらは、夜の眠りに閉じていてさえ美しい。ともすれば椅子からでも手の届きそうなそれらに、男は手近から順に触れていった。
「答えだけならとうの昔に出ている。わたしは言った。あなたが欲しいと。もし傍に置くのなら、正式な伴侶として迎え入れると。それはいまも変わらない」
彼はひときわ艶めいた、緋色のばらを摘み取って、こちらの耳元に差し入れる。
「わたしは、あなたを愛している」
男はやさしい眼差しをしていた。
ダイは飾られた花を片手で抑え、反対の手で胸の上を握りしめる。
白皙の美貌を持ち、叡智に溢れ、策謀に長ける。
冷厳で、合理的で、老獪な為政者でありながら、この男の本質は牧歌的なほどに誠実で、どこかやわらかい。
かといって、血と骨を踏み砕いて国を切り回し、だまし合い化かし合いにとっぷりと浸りきったいまや、思うが儘になりうる財貨と権力を手にしている。もっと我を通せたはず。本当に自分を欲しいというのなら、飾り立て、犯し、金糸雀よろしく鳥かごに収めることもできた。
なのに、彼はそれをしなかった。
だからこそ余計に、愛されているのだとわかって、胸がきしんだ。
何も言えないままのこちらに、男が再び口を開く。
「……答えは出ている。ですが、それが真実そうなのか、わたしはずっと考えていた」
「……どういうことですか?」
「あなたへの執着は、はたして本当に愛なのか」
声色を低めて男が述べる。
彼は西の遠くへ視線を投げた。デルリゲイリアの在る方角だ。
「わたしは……あなたの故郷でおおよそ三年を過ごしました。あの日々が厳しくなかったといえば嘘になる。旦那様……フランツ様がお亡くなりになってからは、特になんとも言えないものでした」
マリアージュの父、フランツ・ミズウィーリは男の共犯者だ。元々、彼の父とフランツは親しかったようだし、思い返せばフランツのことを語る男の口調にも慕う色があった。
きっとフランツはよく男を励ましたのだろう。
フランツが死に、男はひとりだった。ダイは勤め始めたばかりのミズウィーリを思い返した。だれもかれもが男に依存し、一方で倦厭していた。
男はあのころ、ミズウィーリで、本当に孤独だったのだ。
「あなたが、あの家に来て、わたしを労わり、助けた。それが、うれしかっただけなのではないか。乾ききった喉がただの水を甘露と過(あやま)つように、記憶を、愛と錯覚してはいなかったか。……あなたから答えを請われて、もう一度、最後に考えたかった」
「……答えは出ましたか?」
「えぇ」
男はダイに向き直った。目を伏せて、小さく笑う。
「わたしがあなたのことを想うとき、いつも花街の薄暗い灯の下で、化粧をするあなたの姿がまず浮かぶ。男の欲と暴力にさらされた娘が、あなたの化粧を経て力強く笑った。妹や母が生きていて、あなたに化粧をされたなら――わたしは彼女たちの笑った顔を思い出した。……化粧のことなど何もわかりませんでしたが、ただただ、あなたのその力をずっと見ていたいと思いました。とても、美しいと思った」
あなたが欲しいと。
確かに言われた。
愛を告げるように。
だからあのとき、故郷を出ようと決めた。
「わたしは化粧をするあなたにまず惹かれた。化粧をするあなたが、最も美しく力強い」
初めは性別を誤っていたわけですが、と、彼は和ませるように言って、言葉を続ける。
「なすべきことを成すあなたの誠実さが好ましかった。だからこそ傍らを任せられた。蔑ろにされてなお、わたしのことを慮り、信じる真っすぐな強さがわたしには眩しく、ただ、いとおしかった。――決して、錯覚などではなかった」
胸を押さえて、うずくまる。
あの日々の記憶が鮮やかによみがえる。
戸惑い、焦り、怒り、笑って、哀しみ、恋を知った。
たった半年の、絢爛の日々よ。
「あの、最後の夜」
この男がすべてを置き去りにして消えた雷雨の夜。
「わたしはあなたを連れ帰ろうとした。それが叶わないとわかっても、わたしはあなたを殺せなかった。……あの夜が、答えのすべてです。化粧師であるあなたごと、わたしはあなたを愛している、ディアナ」
うずくまったまま泣きじゃくる自分の前に男が膝を突く。
彼は厳かに言った。
「何も投げ出さず、あなたはここまで来た」
涙で白くかすむ視界の中、手が伸べられたとわかった。
「一緒に、来ますか?」
その問いはあのときと同じ。
「わたしと共に、いきますか?」
男との別れを選ぶに至ったときと、まったく同じものだった。
だが、今回は、混乱の最中、即決しなければならなかった、前とは違う。このペルフィリアで、男が準備したやさしき檻の中で繰り返し熟考した。この男と共に生きたいかを。
生きたいに決まっている。
「わた、わた、しは……わたしはっ……!」
喉の奥は引き攣れて、目の奥もひどく痛んだ。ままならない呼吸に、ダイはあえいだ。
そして、悲鳴のように、男に告げた。
「わたしは、いけない――……!」
何度も考えた。
本当は、傍にいると。
真実、彼が自分を求めてくれているというのなら。それを、彼の口から、もう一度、確かめたら。傷ついて、ぼろぼろで、ひとりで眠ることすらできない彼の傍にいると、そう、答えるつもりで。
けれどもこの口は、あの夜と同じ答えを吐いた。
沈黙する男を振り仰いで、ダイは叫んだ。
「あなたのことが好きです! わたしだって愛している! 本当に、本当にあなたのことがずっと好きだった! 忘れられなかった! どれだけ傷つけられても、本当に、あなたのことを!」
男がダイを抱き寄せる。慣れ親しんだその体温を失うだなんて考えられない。縋りつくように抱き返す。
「愛しているんです……」
「えぇ、わかっています」
男は穏やかに言った。
「あなたに愛されている。わたしも、そして、ヒースも」
真心そのままを差し出す、やさしい部分も、酷薄な為政者としての顔も。
この男の全部を愛している。男がダイもディアナも愛したように。
「ヒース、あなたの傍にいたい。ずっと」
「えぇ」
「でも、わた、わたしは……」
ダイは男の胸に顔をうずめて呻いた。
「マリアージュ様の、化粧師なんです……」
たとえば彼が、ダイのことを、ただの小娘として愛したのなら、愛を免罪符にその手を取れた。
けれども、わかってしまった。
無能で無価値と囁かれ続け、それでも自ら定めた王のためと、頑なにもがき続けた化粧師としての自分は、他ならないこの男によって肯定された。その在り方こそを、認められているのだと、愛おしまれているのだと、わかってしまった。
なぜならダイもまた、王への忠義を貫くこの男の在り方こそを、愛しているからだった。
マリアージュのことを思い出す。男と同じくミズウィーリで孤独だった娘のことを。いまも行方の知れない彼女のことを。片時も忘れていなかったけれど、生死定かではない彼女を、諦めかけていたことも事実だった。
だが、ヒースに、ディトラウトに、愛される娘は、自ら定めた主君を投げ出したりはしない。
彼女を捨てて走るような愛は、この男に相応しくはない。
「マリアージュの居場所もわからないのに?」
「探します。探さなければ」
鼻をすすって、ダイは訴えた。
「わたしはあのかたの臣だから。……どれほど非難されても、化粧師のわたしを傍に置き続けてくださった、あのかたの信に悖(もと)る真似はできない」
「マリアージュを玉座から追いやった輩は、あなたも当然ながら邪魔に思うでしょう。……わたしの下から離れるというのなら、もちろん、助けることはできない。あなたはたったひとり、命を狙われながら、戦わなければならない。それでも?」
「無知で愚かなわたしのために、命を懸けてくれていた人たちもいます。わたしは、皆にも、答えを返さなければなりません」
『ダイは……陛下の、忠臣でしょ。女王の化粧師でしょ』
ユマ。ずっと自分を支えてくれていた、大切な友人。
『だから……ちゃんと、帰らないと』
(そうですね、ユマ)
自分は、帰らなければならない。
デルリゲイリアに。
問答を終えたあと、男はダイを抱えたまま、椅子の上に腰を下ろした。そのままダイは待った。離別を訴えた自分を、彼がどのように扱うのか。
長くふたりで抱き合ったあと、落とすように男は言った。
「……マリアージュは生きていますよ」
ダイは瞬いた。
「デルリゲイリアの玉座で、あなたを探している」
見上げた男は微笑んでいる。
「ヒース」
ダイは彼に請願した。
「わたしを、帰してください」
デルリゲイリアに。
マリアージュの下に。
「お願い……」
「いいでしょう」
彼は穏やかに頷いて、ダイの身体を抱きなおした。
「なんでもひとつ。そういう、約束でしたからね」
あの、別離の直前の。
一緒に食事をするだとか、どこかに出かけるだとか。そんな他愛のないことを、ダイは願うつもりだった。
だが男はどのようなことを思って、あのとき約束を交わしたのだろう。
それを覚え続けていたのだろう。
ダイは震える手で、彼を強く抱き返す。
そうして、再び泣いた。