第八章 追従する忠臣 2
「いいですか」
口紅を塗るべく顎に掛けた手をそのままに、化粧の出来栄えを左右から確かめながら、ダイはセレネスティにこんこんと諭した。
「繰り返すようですが、休憩はこまめに挟んでください。水分を取らないと、肌がからからに乾いて、化粧が崩れやすくなります。口紅の塗りなおしも重要です。唇が瑞々しいだけで、艶っぽく見えます。逆を言えば、ぱりぱりのしわしわだと、それだけで艶が損なわれるっていうことです。薄布の下だからって気を抜かないでくださいね。それから……」
「わかったわかった。もういい。何度も念押ししなくていい。〈上塗〉るなって言うんだろ。もう聞き飽きた」
セレネスティがダイの小言から逃れようと顔を逸らす。ダイは顎をつかむ手に力を入れた。彼の眼前に自分の顔をずいっと寄せる。
「本当におわかりなのでしょうか、セレネスティ王陛下。これ以上、上塗ると、命に係わるんですからね」
「……わかっているよ」
セレネスティが下唇を突き出す。ダイはため息を吐いて、彼の顎から手を離した。
今日の化粧は日ごろと比べて、かなりしっかりと施している。崩れにくさを優先して、色粉は水で溶いて肌に刷き、粉は粒子の細かなものを念入りに叩いた。色ものは眉と目周りを中心に。目周りは頬紅まで使って上気したような薄紅に添え、細筆で砂金の混じった朱を目尻に引く。くちびるには元の形を生かして細く輪郭を取り、鮮やかな赤を刷いた。
舞台化粧のように独特だが、だからこそ仮に被り物が外れたときには人目をひき、セレネスティが性別を隠す一助となるはずだ。
細筆を筆入れに収めて、ダイは薄布を手に取った。セレネスティの顔を覆うように被せて、白金の髪飾りで端を止める。化粧と薄布の調和を改めて確かめる。
(……大丈夫、でしょう。……たぶん)
セレネスティの今日の予定は城外への視察だった。魔術による姿の〈上塗り〉を、セレネスティが止めて三月ほどになる。魔力が抜けると共に彼はゆるやかに復調していった。空咳を続けたあげく血を吐いたり、高熱で寝台から動けなかったりということはなくなった。
とはいえ、食事して寝台で大人しくしていてほしいことに、いまも変わりない。微熱が下がりきらないのだから。
街道筋の雪も解けて、方々が活性化する昨今、外回りは必須となる。セレネスティは天候のよい日よりを選び、昼まで執務室で決裁関連をこなしたあと、王都近郊の慰労や視察に出かけるようになった。
その第一回目、ダイは手ひどい失敗をした。
己の顔を手鏡で眺めながらセレネスティが呟く。
「またかなり念入りに化粧をしたな」
「最初みたいなことはごめんですので」
場所の照明や状況を上手く把握できずに化粧をした。その結果、僅かの間だが、化粧が崩れた。休憩までの間、それを補ったものは梟の魔術だ。
ダイは外出を許されていない。必然として付き人は梟になる。化粧が崩れる時期を見誤った彼女は、公務のさなか、セレネスティの許可の下、上塗りで対処することになったのだ。
他、化粧の崩れだけが原因ではないのだが、危うい局面では魔術に頼ろうとする傾向が見て取れる。
補佐の女官に入室するよう、鈴で合図を出しながら、セレネスティにダイは説いた。
「ただでさえ、陛下は魔力が溜まりやすいみたいなんです。用心を重ねるに越したことはございません」
フォルトゥーナの〈魔狂い〉と比べて、セレネスティの回復する速度は圧倒的に遅い。
上塗りを常用しすぎたセレネスティは、完全に魔力が抜けきらない。ここにアルヴィナでもいれは話は別だろうが、彼女から聞きかじった方法でダイが対処するだけでは限度があった。
なのにいざとなれば魔術の行使を辞さない顔をセレネスティはし続けている。
かちんときて、ダイは冷たく告げた。
「聞いていらっしゃいます? 人に魔術に頼るなとおっしゃるなら、あなたこそがそれを実行すべきだと申し上げているんですよ、女王陛下」
「……しっかり、気をつける」
セレネスティが諦念に肩を落とした。
「何かあれば離席して対処する」
「そうそう。ちゃんとそうやって長生きしてください」
「お前は……僕に長く生きてほしいのか?」
思いがけない問いにダイは片付けの手を止めた。
「心外ですね。……わたくしがどうしてあなたの死を願わなければならないんですか?」
薄布の奥でセレネスティは困惑の色を浮かべている。彼はダイの回答に、というより、失言をした己に戸惑っているようだった。
ダイは化粧道具を鞄に収めながら告げた。
「長く生きてほしいって思っていますよ」
「……それは、兄上のためか?」
「あなたが王だからです」
大陸会議の議題にも上った。女王を失った国は悲惨だ。貴族たちは残された財貨を奪い合って右往左往。国府はたちまちに瓦解して、食うに困った民を輩出し続ける。彼らはそのまま餓死するか、命を懸けて大陸を旅し、まだ豊かな隣国に逃げ込むか、いずれかを採択せねばならない。
それを水際で防いでいる、セレネスティは立派な王だ。過去、彼がダイやマリアージュへ行った仕打ちを忘れるわけではない。だがセレネスティが己の国を生き永らえさせ、少しでも実り豊かな国たらんと、粉骨砕身していることは確かだった。
彼の、彼らの、この敬虔なる行いが、結実することを願ってやまない。
セレネスティが唇を引き結んで黙り込む。
彼の在り方を肯定したつもりだったのだが、セレネスティにとって余り喜ばしい反応ではなかったようだ。
ダイは微苦笑を浮かべた。
「ですが、まぁ、もちろん。セレネスティ様のおっしゃる通り、宰相閣下のためでもありますよ。閣下はあなたが元気でいらっしゃらないと、仕事がさらに積まれて、過労死しかねないですからね」
「……わかっている」
「なにより、悲しみます。あなたが健やかでないと。あのひとが」
あの男にとって、セレネスティは、王であり、主人であり、幼馴染であり――残された唯一の、弟だ。
あの男の愛するものたちには、大事なくあってほしい。
セレネスティが神妙に呟いた。
「お前は本当に、兄上を、好いているんだな」
「好きでもない男と、夜ごと一緒に寝たりしませんよ」
うん、と、セレネスティが頷く。
やや幼い仕草だった。
ダイは支度を待っていた梟を見上げた。梟自身は相変わらず己を魔力でうわ塗っている。梟は男性を装うにあたって、身長を嵩上げし、露出部の骨格を変えていた。上塗らないとおかしなことになる。自身の魔力による上塗りなので、セレネスティほどの負担ではないと聞くが、実際は果たして。ただ復調したという当人の進言通りその顔に疲労の色はない。
端正な白いかんばせに表情はなく、緑灰色のまなざしは冷涼で、他者との接触を拒む雰囲気があった。
誰もが青を基調とする制服を纏うなかで、梟の黒の出で立ちは異様だった。しかし彼女が差し出した手を取ってセレネスティが立ち上がり、ふたりの輪郭がひとつになると、その存在は不思議なほど違和感がない。
《女王の影》。二つ名の通り、沈黙したままぴたりとセレネスティに寄り添う近習。
彼女はダイの登場をどのように思っているのだろう。
この物静かで忍耐強い女性のみ、ダイとは深く関わろうとしない。
セレネスティが化粧室を出る。その後に梟が続き、扉口で待っていた護衛たちが連なっていく。
彼らはもう夜半まで戻らない。
何事もなく彼らが戻ればいい。それがダイの偽らざる本音だ。
頭を垂れて彼らを見送ったダイは、扉の閉じる音に瞑目した。
セレネスティの外出が増える。それはつまりダイの仕事が減ることを意味する。
せっかく付けられた新しい女官には、化粧の専門的な技術や知識を習得させるように命じられていたが、それを差し引いてもかなりの余裕がある。
だからダイはふたつのことに取り組むのことにした。
静養と、訓練である。
(このひとは)
ダイは深呼吸して、目の前に立つ男に集中した。
(わたしを傷つけない)
自らに繰り返し言い聞かせる。
彼はわたしを傷つけない。わたしを守るために立っている。あの男がそう命じている。
よし、と、決心して、差し出されている男の手に己のそれを載せる。
指先が握りこまれ、それと共に、心音が逸った。
ととととと。その鼓動と共に息苦しさが増す。手に汗が滲んだ。
浅くなりがちな呼吸を、出来うる限り整える。徐々に脈も落ち着き始める。
ダイの手を握るマークが抑揚を欠いた、しかしあたたかな声音で労る。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
ダイはマークの手を握り返した。手の感覚も少しずつ戻っている。このまま失神することはないだろう。たぶん。
はらはらした顔のラスティの隣で、椅子に片膝を立てて座るスキピオが、案じる顔でダイに問う。
「シンシア、歩けそう?」
「……歩ける、と、思います。ちゃんと足の感覚はあるので」
「では、ゆっくり参りましょう。まずは部屋の中を一周」
マークが身体の位置をかえ、ダイの手を腕に掛けさせる。ダイは再び息を吐いた。そして身体の震えがこないことを確かめ、一歩を踏み出した。
まぼろばの地への扉を叩くほどの重傷を負ったのち、ダイにはふたつの問題が残った。
ひとつは体力の著しい低下。一日歩き回ることがとにかく辛い。椅子に座っていても気だるくてたまらない。
静養に努めればじきによくなると医者に言われている。だからそちらはまだよい。
もうひとつの方が深刻だった。
男性に不用意に近づかれたり、接触されたりした場合、気が遠くなってしまうのだ。
ディトラウトには反応しない。セレネスティも兄と顔が酷似しているからか、あちらから触れられるようなことがなければ、ダイは緊張するだけで済んだ。そうでなければ化粧できないところだった。
だがそのほかは駄目だ。ヘルムートは無論のこと。ゼノやスキピオ、マークでさえ、接触した傍から手指の感覚が失われて卒倒してしまう。
仕事中はどうにか意識を維持しても、自室に戻れば吐いてしまう。下手をすると寝込む。
これではまともな日常生活を送れない。世の中の人口の半数は男なのだから。
と、いうことで、仕事が減った分、ダイはよく眠り、同時に護衛たちの手を借りて、訓練を始めたのだった。
部屋の中をぐるぐる歩いて回るさなか、ラスティがきりりとした顔でたらいを抱えている。ダイが嘔吐(えづ)きでもすれば、走ってくるつもりだろう。ちなみにむかつきによく利く類の香草茶は、既に円卓の上で淹れられることを待っている。
部屋をゆっくり三周し、長椅子に腰を据えて、ダイはその場に崩れた。
スキピオが椅子の傍に屈んでダイの顔を覗き込む。
「無理すんなよな。倒れたら元も子もないんだし」
「わかってます……。ところでスキピオさん、どうしてここにいるんですか?」
スキピオはダイが練習に集中している最中に入室した。彼はマークとの交代要員なのだが、その時間にはまだ早い。
「んー、今日は閣下んとこの早番だったんだけど、いらないって追い出されたんで。官舎に寝に帰る前に寄った」
「……休みもらえてます?」
「平気。今日も予備で呼ばれてただけだから」
「追い出されたとスキピオは言いますが、ようするに、閣下が気を遣ってくださったというだけですよ。……スキップ、物事は正しく報告しろ」
「マークは杓子定規すぎんだよ。……次は俺と練習する? あぁ、無理はしなくていいぜ」
ゼノとはまた違った明るさで笑う男に、ダイは笑い返して、長椅子の座面の上で首肯した。
ラスティの淹れた香草茶をまずは一服。気分をすっきりさせたあと、体調を見定めて練習を再開する。
マークのときと同じだ。自己暗示をかけて、まずはスキピオの手をとる。握り返してもらう。落ちついたら、先導されながら部屋を一周。同じ部屋ばかりで回っていても飽きるので、次は塔の中を歩くことにした。回復したばかりのころにした歩行訓練と同じ手順だ。先導する手がディトラウトのものではないというだけ。
「こうやって練習することに、閣下は何も言わなかったのか?」
「反対はありませんでしたよ」
「そうなのか。意外だな」
「ゼノさんにも似たようなことを言われましたけど」
この訓練を始めたとき、ゼノがよくぞディトラウトを口説き落としたと感嘆された。
ここは鳥籠だ。
いまダイは周囲を男で固められるだけで身動きとれなくなる。その克服を容認することは、籠の扉を開けておくようなものだ。それがゼノやスキピオには信じられなかったらしい。
ダイは苦笑した。
「簡単なことですよ。いまわたしは、陛下のお傍に侍っている。防衛上、だれかに腕を捕まれただけで失神するなんて危険きわまりない。下手を打てば陛下を危険にさらす」
そのような人間、恐ろしくて王の傍には置けない――通常なら。
「まぁ、結構みなさんの内情を知ってしまったので、逃げ出されるのを警戒する気持ちもわかりますけど」
「そりゃ違うだろ」
ダイの語尾にスキピオが発言を被せる。
「閣下はシンシアを傍に置きたいんだって。わかってないのか?」
「わかっていますよ」
ダイは即答した。
「ですがあなたがたの宰相は、情で判断を誤りませんよ。自身の王を危機に陥れる可能性は見過ごせない。でもわたしは陛下に侍らなければならない理由がある。だからわたしがこうやって、あなたの手をとり、訓練することを容認する。自明です」
断言したダイに、スキピオは長く応えを返さなかった。
やがて彼はため息交じりに、そだな、と、簡素にダイを肯定した。
「そういうところだな。そういう、ところだ」
「……なんのことでしょう?」
「シンシアが閣下にとって何なのかって、前に訊いたよな、俺」
「えぇ」
「いまだによくわからない。でも、あのひとはシンシアを選んでいるっていうことだけはわかる。シンシアといるときの閣下がさ、俺たちは好きだな。俺たち、あのひとはもっと……人間捨ててるって思ってたから」
「冷徹ということ? それとも、自分のすべてをかけて、主君に奉じていること?」
「両方」
スキピオの言わんとするところはわかる。ミズウィーリの使用人たちも、マリアージュも、あの男をそのように評していたから。
「あのひとさぁ、陛下もだけど、自分の全部、ぶん投げてるとこあるだろ。でもそういうのが、シンシアといるときは和らぐ。マークとか俺とか、隊長が、シンシアの近くに立ってると、けっこう嫌そうな顔すんだぜ。無意識かもしれないけど。面白くない?」
「……はぁ」
返事に窮するダイをスキピオが喉を鳴らして笑う。
「……色々考えたんだよな。そりゃシンシアはとびきりきれいだけど、きれいなだけの女にあの閣下がなびくとは思えなかったし、重職のやつに立場を忘れさせてよしよしするのが旨い、おぼこい清純派って感じでもないし。いや、それはそれでいいもんだけど」
「……すみません。言っている意味が……いえ、わかるにはわかるんですが」
純真さ、のようなものを売りにする、故郷の芸妓が脳裏を過ぎる。あれだ。貴族じゃないあなたが好き、といって落とす感じの。
ようするに、と、スキピオは真っ直ぐな眼差しをダイに向けた。
「シンシアは、わかってるんだ。俺たち以上に。あのひとが、だれよりやさしく情に溢れる一方で、だれより冷厳に俺たちを盤上の駒として扱うことを。そしてそれを当然として、シンシアは自分も使わせる。もっと有効に使えと言ってのける。だけど、シンシアはあのひとの駒っていう感じじゃないんだな。シンシアも指す側で、同じように、あのひとを駒として使える。……だからだな。同じ重さを背負って同じものを見ることができるから、非情さを信じているから、あのひとは甘えられる」
それは途中から独白のようだった。
スキピオは頭を振って呟いた。
「……閣下の本心としては、シンシアをこの塔に閉じ込めておきたいんだと思うぜ。これ、俺らの満場一致の意見な」
「……そうですか」
「だから……閣下にとっての何になるつもりか、早くシンシアも決めておけよな」
たとえば、躊躇いなくほかのだれかの手を取っても震えがこないときが来たとして。
鳥籠の扉が開いていることを見ぬふりして、小鳥として飼われるのか。
それとも。
「……そうですね」
ダイは微笑んだ。
ダイに選択を委ねるところは、この騎士の優しさだと思った。
――だれもがあの男の胸中について、確信を持って語る。
けれども彼自身は、まだなにもその胸の内について、明かしていないのだ。