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第八章 追従する忠臣 4


 色とりどりのばらが咲き乱れる、執務棟に囲まれた庭園の一角に、鈴を転がすような笑い声が響く。
 ゼノは渡り廊下から階下を見おろした。
 あたたかな昼下がり。緑に燦めく陽光の下で、ゼノのよく知る護衛たちに囲まれた娘が、軽食や茶菓を挟みながら女官たちと歓談している。
「楽しそうだなぁ。なに話してるんだろ」
「化粧の講義ですよ」
 呟いたゼノに並んで、ディトラウトが述べた。
「今日は陽の下における色の使い方を話すと言っていました。親睦会も兼ねているそうです」
「親睦会?」
「えぇ。女官たちとの。マークから聞きませんでしたか? 最近、塔でもよくしています。……あの様子では、講義は終わっているようですが」
 ふぅん、と、相づちを打ち、ゼノは時を計った。
 先の会議が早く終わったので、次まで多少の余裕はある。朝から根を詰めて働いていた友人に、そろそろ休息を与えて、その口には麺麭なりなんなりを突っ込まなければならない。この男は、身体を保たすために仕方なくとりはしても、食事に積極的ではないのである。ただひとつの、例外を除いて。
 ゼノは細心のさりげなさを装い、軽い口調で友人に尋ねた。
「寄ってく? シンシアちゃんとこ」
 ディトラウトは黙考した。時間を計ったのかもしれない。
「そうですね」
 以前を考えれば拍子抜けするほどあっさりと頷き、ディトラウトが階段方向に向かって歩いて行く。
 ゼノは緊張に詰めていた息を吐くと、近くにいた新参の騎士たちと笑みを交わして、ディトラウトの後を追った。
 シンシアが、ディトラウトの傍に残ることを決めたらしい。
 ひと月は前だろうか。とある夜に塔の庭園でふたり、長く話し込んでからというもの、これまで存在したひとつの戒めのようなものが消えて、ふたりがいっそう親しい雰囲気を醸し出すようになった。
 否、訂正しよう。
 正直なところ、ゼノは充てられている。
「ご歓談中に失礼」
「閣下!」
 庭園に踏み込み、声をかけたディトラウトに、女官たちがまず色めき立った。この男はゼノも感心させる美形だ。自身もその見目のよさが善からぬ輩を引き寄せることを承知しているため、冷ややかな態度で他者を遠ざけるし、特に女官たちに不用意に近づいたり、仕事外の話を振ったりといったことは滅多にない。このように会話に混じろうとすることは珍しいのだ。女官たちの空気が華やいでも無理なかった。
 が、その彼女たちにディトラウトは微笑と一瞥をくれただけ。彼の視線の先にはシンシアがいる。彼女はディトラウトに手を伸ばし、隣に座るように誘導した。
「講義は順調ですか?」
「えぇ。皆さん、わたくしの拙い話をとても熱心に聞いてくださります。すぐに要領を得てしまわれるのです」
 シンシアは指を折りながら、女官たちをそれぞれ褒めた。嫌味にならない、絶妙な具合で。
「どの方も多方面に造形深く、これまでどのようなことを学ばれて来られたのか気になって、いまはわたくしがお話を伺っているところなのです」
「そうですか。賑やかなのが見えて、つい気になってしまったのですが、楽しそうで何よりです」
「ありがとうございます。閣下かこちらのお庭を使うご許可をくださったおかげで、いっそう有意義な時間になっていると存じます」
 会話自体は業務報告一辺倒なのに、隣り合って座るさまは番の鳥のようだ。ディトラウトの眼差しは柔らかく、彼を見返すシンシアも、表情こそ顔を覆う薄布によって露わではないが、声の響きから笑っているように思える。
 やがてシンシアに誘われて、軽食を摘まみ始めたディトラウトにゼノは安堵しつつ、胸焼けを覚えて胸元を撫でた。あぁ、自分も政治的に邪魔にならなくてかわいい彼女が欲しい。
「女性の騎士がいります」
 隣に並んだマークが言った。今日は屋外に出ているので、彼とスキピオ、ふたりともシンシアに付いている。スキピオはシンシアの背後に張り付いていた。マークが周囲の哨戒役を務めているようだ。
 主人たちから目を離さず、彼はゼノに囁き続ける。
「少なくとも増員が必要です。いまは閣下が夜に戻られるので、そこで護衛を共有していますが……」
「シンシアちゃんの予定を早番と遅番かさなるときだけにするわけにいかないもんなぁ」
 最初のころ、彼女はセレネスティに張り付くことで、護衛の少なさを補っていた。しかし単独で仕事をするなら、彼女の周りを警備する人間が圧倒的に足りなくなる。
「貴族出身である必要はありません。どうにかなりませんか」
「女性は無理無理。増員は考えてるけど……お前もわかってるだろ。あそこにいる女官ですら、選別には苦労したんだ」
 城内に勤める女は三つの類に分けられる。
 ペルフィリア貴族の元使用人の生き残り。若干、貴族の血も混じっている。セレネスティに救われた経緯から、忠誠心が高い。最も信用できるが、かつて虐殺の折に徹底的に痛めつけられて、どこかしら障害を抱えている。人前に出られない者たちが多かった。セレネスティ、ディトラウト、そしてシンシアの身の回りは彼女たちが世話している。
 二組目は併合した元隣国からの移民。融和政策を採っているが、彼女たち自身、ペルフィリアには恨みを持っていることが多く、いくら有能でもおいそれ要人のまわりに置けない。騎士ならなおさらだ。
 シンシアの抱える新しい女官たちは、この異国出身者である。良家に生まれ、教育を受け、世が世ならどこかの貴族に嫁いで平穏に生きていたはずの娘たちーーディトラウトはシンシアを試験紙として使っている。
 最期の組は純ペルフィリア出身の平民。だが女性となれば数は少ない。これもまた内乱の影響。
 純血ペルフィリア人貴族女性は絶滅危惧種だ。セレネスティが唯一の生き残り。貴族の血が濃いかもしれない数少ない娘は、同じく希少な貴族男性の生き残りに嫁いで妊娠中。侍女ならともかく、騎士などとても出せない。
「人材不足すぎる。つんでる」
「……陛下のお側に人を増やされないことを不思議に思っておりましたが、こういった面もあったのでしょうね」
「側近増やすと、その守りにも力いれなきゃならんもんなぁ。それが女性ってなると……。やべやべ。……って、マーク、何で笑ってんの?」
「いえ……」
 発言のみならず表情でも寡黙な性質(たち)のマークが、このように明らかに笑うことは珍しい。
 口もとを手で覆った彼は、平静に戻ってから言った。
「……シンシア様のお心が決まったようで、よかったと思います。そうでなければこういう話も出来ませんでした」
「お前もスキップも、シンシアちゃん好きよな」
「えぇ。……閣下を、和ませてくださる方ですから」
 マークが目を細めてふたりを眺めている。
 いっときの、口にしたものは吐き、眠ることもできず、ただひたすら政務に励むばかりの主人を知っているから、人間らしい営みをシンシアと拾い上げる彼に、マークもまたほっとしているようだった。
「シンシア様ご自身も仕えるに足る方であると、わたし自身は思っています。……閣下がお選びになるのもわかります」
 シンシアはまず、所作が美しい。芯がありながら、押しつけがましさのない、だれかの影になることを前提とした動きをする。厳格な訓練を受けなければ、貴族でもあぁはならない。
 また、頭の回転が速く、人心――特に、女性の心を掴むことが旨い。
 女は嫉妬し合うことが多い。シンシアのような不詳の女が宰相の隣を突然かっさらえば、普通は羨望から憎まれそうなものだが、女官たちとも上手に付き合っている。男たちのあしらい方も板に付いているし、下卑た冗談も眉ひとつ動かさずいなしてみせる。
 何より、度胸だ。正直なところ、ゼノですら女王の傍らに控えるときは緊張するものだ。だがシンシアはセレネスティと並んで泰然としていた。
 容貌があらわでないからこそ、余計にシンシアの価値がわかった。
 シンシアはディトラウトの対となれる女だ。
「レニーもここにいることができれば、よかったのですが」
「……そだな」
 タルターザでまぼろばの地へ旅立ったレオニダス。彼は本当にディトラウトを案じていたから、この庭の光景を見れば喜びに飛び跳ねていたかもしれない。
 光差す庭で微笑みあって食事を取る男女の姿は、まるで一幅の絵のように幸福に満ちている。
 だが、この、胸を騒がせる奇妙な予感は、なんだ。
 ゼノは無意識に拳を握りしめた。


 寝台の上で女官三人の経歴書を見比べながら、ダイはディトラウトに告げた。
「三人は配置をばらばらにしましょう。ひとりの引き抜きは危険です」
「残りふたりが結託しそう?」
「えぇ。それに、わけておいた方が、泳ぐと思います。この経歴、詐称はされていないですが、申告に漏れはありそうです。……あなたが抜いていたら別ですが」
「抜いていませんよ。最初に書かせたもの、そのままの写しです。ソレはね」
 官吏ならだれでも閲覧可能な経歴書。ディトラウトは下手に詳細な情報をダイに与えない。それが彼のよいところである。
 紅茶を淹れていたディトラウトが、ふたり分の茶器を手に戻ってくる。彼はそれらを小卓に置いて、寝台に上がり、ダイを背後から抱き抱えた。
 彼に経歴書を見せながらダイは提案する。
「彼女は化粧や手入れを教える教職に。彼女は服飾の手配を任せる方へ。こちらの彼女は政務がいいでしょう。畑違いですが、才能あると、抜擢するかたちで」
「わかりました。参考にしましょう」
 ダイは頷いた。提案は女官三人と付き合ってきての所感によるものだから、あとはそれをディトラウトが秘匿している情報と突き合わせて、差配してくれればよい。
 ふたりで資料に目を通し、たまに紅茶で喉を潤して、セレネスティ周りのことを相談する。彼に仕えて月を幾つか数えたいま、ダイの立場から見えてきたものも色々ある。文官同士の思いがけぬ繋がり。女王や宰相のところまで届きづらい、下官たちの色恋沙汰。偏った出身が生む差別、不和。逆に、ディトラウトたちに忠誠心を密かに抱いて黙々と働く年若い官吏たち。彼らの結束。
 そういった情報を共有して、ダイが消えた後の整え方を共に考えていく――ここ最近の日課だ。
 話に区切りがついて、灯明皿の火を吹き消す。
「あぁ、肝心なことを伝えていませんでした」
 ディトラウトがダイのこめかみに口付けて言った。
「返事が来ました。わかった、だそうです」
 ダイは皿を小卓に置いて、彼の言葉を胸中で反芻した。
 わかった。それはつまり、デルリゲイリアから、だれかがダイを迎えに来る、という意味だ。
 男から戯れに繰り返される口づけを髪に受けながらダイは目を閉じた。
 本来ならダイは、タルターザの乱の折に保護された要人という身分で、デルリゲイリアへ簡単に戻れるはずだった。
 しかしいまやダイはペルフィリアの中枢に深く食い込んでしまっていたし、セレネスティもダイを離すつもりはないという。正式な手続きでの帰国は難しく、文字通り、逃げださなければならない。
 中央の直轄領を抜けるまで、ディトラウトはダイを送るというが、それが可能かどうかはともかく、ダイは祖国までの道の多くをひとりで旅せねばならない。
 その道連れを求めて、自分たちは国元へ密書を出した。
 ペルフィリアの面々に、計画は秘匿されなければならなかった。デルリゲイリア側もだれが味方かわからない。宛先は厳選し、ダイと、ヒースと、マリアージュだけがわかる符号をちりばめ、ダイが国へ向かう日にちと道を匂わせたそれを、ディトラウトが個人で抱える人脈を駆使して届けた。
 実際のところ、無事に届けられ、マリアージュに届くかは主神の采配に任せるよりなかった。逃げ出せる機会は多くない。返事が来なければ、そのまま計画を実行に移す予定だったのだ。
 だが、どうやら賭けには勝ったらしい。
「おそらく、ダダンが来ます」
「……オスマンさんから返答が?」
「意味は知らされていなかったでしょう。伝言を預かったと、ひと言」
 ダダンと親交深い商工協会の顔役、ベベル・オスマン。今日は港の整備の件で登城していたようだから、そのときに宰相に囁いたのだろう。
 ダイを解放したディトラウトが寝台の上に仰臥する。彼はダイの髪を指先で弄びながら呟いた。
「これであなたをひとりで旅させずにすむ。と、言っても上手く合流できなければそれまでですが」
「……ヒース、あなたはやっぱり、城にいたほうがいいですよ。あなたが突然わたしを連れて、いなくなったら、セレネスティ様、怒り狂いますよ」
「あなたは自分のことだけを心配していなさい。……大丈夫です。上手くします。わたしが、そう言って、できなかったことがありましたか?」
 こうしてみせる、と、宣言したからには、この男はやり通す。
 ダイはそれを嫌と言うほど知っている。
 ダイは男に跨がって、彼の耳横に手を突いた。反対の手で伸びた髪を抑えつつ、男の顔に己のそれを伏せる。
 道を違えると決めて、もうひとつ、ふたりで決めたことがある。
 正真正銘の恋人になって隠さないこと。
 自分たちの決意を周りに気取られないようにするためという意味合いは勿論ある。
 けれどもなにより、砂金のように手のひらから零れ落ちる時間を、無為に過ごしたくなかった。
 ディトラウトの額と、まぶたと、頬に軽く口づけ、最後に唇を重ねる。
 互いを温めるような口づけの合間に、ダイは気になっていたことを尋ねた。
「女王選のとき、そのままデルリゲイリアに残る可能性もあったんですか?」
「いいえ。どのような目が出るにせよ、一度は戻る予定でした」
「……早く、こっちに帰りたかった?」
「ええ」
 男の腕がダイの身体に絡みついて、上下の位置を入れ替える。
 彼は、泣き笑いのように、顔を微かに歪めた。
「……日に日に、ヒースの声が、うるさくなることが、恐ろしかった」
 奧に押し込めている自分が喚く。
 苦しいことはいやだ。抑圧されたくない。好きな人の傍にいて、甘やかして、甘やかされて、日々を過ごすことの、何が悪いのか。
 ダイは腕を伸ばしてディトラウトの頭を胸に抱えた。昔と違って、きちんと、彼を抱きしめられることが、嬉しかった。
「ミズウィーリの皆を置いていったことに後悔は?」
「ありません。後悔は、わたしの選択を支え続けてきたものたちへの侮辱だ。だから、あなたも、する必要はない」
「しませんよ。……わたしに命を賭したひとたちのために、それをしない」
「えぇ」
「……でも……恨まれるでしょうか」
 ディトラウトの側近たちはダイに本当によくしてくれた。特に、スキピオとマーク、そしてラスティ。長い昏睡から目覚めたばかりの頃は、意味もなく心ない言葉をぶつけることもあったのに、ずっとこれまで付き合ってくれている。
 印象を操作しているいま、彼らはダイがディトラウトの傍にずっといると思って疑っていない。
 昔のダイのようだ。
 孤独なマリアージュを支えながら、なぜ、と、繰り返した。罵った。
 どうして、置いていったの。
「騙されるほうが悪い、と、思いなさい」
 ディトラウトの励ますような声にダイは苦笑した。
「……あなたの側近の言質を取らない悪癖、正したほうがいいんじゃないですか?」
 貴族の徒弟は主人の意図を酌んで動くように教育される。主人に真意を質すまねはしない。
 長年性別を偽ってきたり、長年ひとりで敵地に潜入してきたりというような、嘘を吐かずに相手を騙すことがお手の物のような輩に、良識ある者たちがこれから餌食になっては忍びない。
「矯正してしまうと、わたしが動きづらくなるので困るのですが」
「あくどい主人を持つと、皆さんたいへんですね」
「……やはり、あなたをここに縛り付けておきたくなってきた」
 身体を起こした男がため息を吐く。
 ダイは笑って、拗ねてしまった男の頬に唇を寄せた。


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