終章 女王の化粧師 1
最後の契約書に目を通し、マリアージュは署名を入れ、国璽を捺印した。本来なら二枚組の一枚を相手に渡すが、今回は機密保持のため、両方とも王城の最重要保管室に入れられる。代わりに王城側で造った経歴書と、鎖につながれた金属製の身分証、辞令の書類一式を、マリアージュは盆ごとヒースに渡した。
「確認して」
ヒースが無言ですべてを検める。
さして時間も経たぬうちに彼は言った。
「問題ありません」
「はー……ようやく終わった」
「陛下……。態度を崩されるのは感心しません」
べしゃ、と、執務机に突っ伏したマリアージュを、隣に佇立していたロディマスがたしなめる。
マリアージュは顔を横にして彼を見上げた。
「相手はヒースよ。いまさら取り繕ったって仕方がないじゃない」
「わたしは宰相閣下のご意見に賛成ですが。いまはともかく、事情を知らない他人の目があるところではお控えください」
「わかってるわよ。あいっかわらず、口うるさいわね……」
マリアージュの文句に執務机の前に佇む男は肩をすくめてみせる。そのふてぶてしさ、まったく感嘆に値する。ロディマスが呆れているではないか。
辞令に視線を落としてヒースが尋ねる。
「……わたしに部下を付けてよかったのですか?」
「ペルフィリアのことよ。あんたが差配するべきでしょ」
マリアージュは机から上半身を起こして答えた。
「だってお隣を一番よく知ってるのは、あんたなんだから」
ペルフィリア宰相だった男は今後、ヒース・リヴォートとして、デルリゲイリア王城内に新しく設けられた、ペルフィリア復興支援の部署の長を務める。
その身の上から、一生を日陰者として暮らすことを覚悟していたところ、王城内で堂々と歩ける身分を与えられて、ヒースはこれでも驚いているらしい。
公的な場には副官が出張るものの、実務の差配はすべてヒースがする。少人数だが、部下も付ける。人選には苦労したが、どうにかなった。すべてを整えるために、ヒースをデルリゲイリアへ運び込んだ日から数えて、半年も使ってしまったが。
「堂々としていれば大丈夫よ。だってあんたの経歴には嘘がまったくないもの」
姓は本物ではないらしいが、他はいっさい捏造していない。ダイのものよりきれいなぐらいだ。
王城で表向きに登録された彼の経歴は、ペルフィリア辺境領生まれ。領館に仕えた使用人の長子である。
内乱後、デルリゲイリアに逃げ込み、マリアージュの父に認められて、ミズウィーリ家の当主代行を務める。
ペルフィリアの女王と宰相の異母兄だったことから、あちらの敵対勢力に命を狙われ、デルリゲイリアから再び出奔。行方不明――となっていたが、実際は生存を早くに把握されていた。ペルフィリアが分割され、復興支援をマリアージュが担うことになったので、呼び戻された。
あとはここ数年、彼とはペルフィリアの内情をやり取りしていた、という、おまけをつけた程度である。
嘘はない。どこにもない。実際、ダイとヒースは暗号めいた手紙で、情報をやり取りしたし。
ヒースとイェルニ兄妹が似ている。当然だ。血縁者なのだから。ただマリアージュ即位直後の表敬訪問時、ペルフィリアがよくない対応をしたせいで、官吏たち数十人はかの兄妹に悪感情を抱いている。それを掻き立てないように、ヒースは当面の間、表立たないだけだ。そういうことになっている。
もちろん、他国との密約の兼ね合いで、彼はしばらく王城内から出られないし、機密扱いの契約書が山もりだし、監視も付くが。それだけだ。
他人事のような顔をしてヒースが問う。
「……人を騙すことがお上手になって。いったいどなたに方法を教わったのですか?」
「あんたとかダイとかあんたとかダイによっ!」
ヒースを指さし、マリアージュは叫んだ。
「あんたとしては、詮索好きの誰かに掘り返してもらいたいところじゃないの。わざわざヒースという男の存在を焼きつけに、故郷へ顔見世しに行ったんだもの」
「さて、どうでしょう。……意外だったのはもうひとつ」
「なに?」
「思いのほか、手当がよいので。大丈夫ですか?」
「ただ働きさせるつもりはないわよ。その代わり、ペルフィリアのこと以外でも、きりきり働いてもらうから」
「またあなたのために金策することになるとは」
「本当よ。身分が上がるほどに貧乏になっていくんだけど、どうなってるの?」
マリアージュが身に着ける装飾品や衣装は国のものだ。マリアージュ個人の資産は国庫の立て直しにずいぶんと切り崩した。ペルフィリアの件もあって、正直なところ、借金まみれなのである。
マリアージュはため息を吐いた。
「まぁ、女王候補のとき、あんたには働きに見合った報酬を出してなかったんだから。いまの身分も手当も、その分だと思っておきなさいよ。だいたいあの子におんぶにだっこされるの、あんたもきついでしょ。余計なお世話かもしれないけど」
あの子とは当然ダイのことだ。ふたりは内々に婚約させている。準備が整い次第、それを公表し、なるべく早く結婚させるつもりだ。ふたりの希望でもあるし、政治的な理由もあれこれある。
するとヒースにある程度の立場を保証しなければ、ふたりの関係が崩れてしまうかもしれないから。
誰かに依存する立場は、辛いものだ。ダイとヒースはミズウィーリ時代と立場が逆転している。なおさら堪えるものがあるはずだ。男がきちんと自立できるようにした方がよいと思った。
ヒースから無言が返ってくる。マリアージュは訝りながら彼を見た。
ヒースは蒼の目を丸くしてマリアージュを凝視している。
マリアージュは眉間にしわを寄せた。
「……言いたいことがあるなら言えば?」
「――マリアージュ様」
それはずいぶんと久々な呼びかけだった。
けれども記憶と違ってやさしい響きをしていた。
柔らかに笑って、ヒースが告げる。
「ご立派になられました」
かっと顔が熱くなる。
マリアージュは手を振って早口に述べた。
「話はおしまい? わたしからはもうないから。あとはダイに聞いて」
ヒースはこれから引っ越しだ。上級官吏の住む寮の個人部屋に移動する。ダイが手続きに付き添うと聞いていた。
ヒースは苦笑すると、優美な一礼をして、執務室を去った。
扉が閉じられてしばらくし、ロディマスが指摘する。
「顔が真っ赤だよ、陛下」
「うるさい」
ヒースとの密談が終わったので、文官たちを執務室へ入れる。少し休憩したら、結婚式典について打ち合わせをするからだ。式はちなみに、マリアージュとロディマスのものである。
ロディマスの指示を受けた女官が、マリアージュに紅茶を給仕する。
そのきれいなばら色は茶器の白によく映える。
受け皿ごと紅茶を取り上げて、マリアージュは胸中で呻いた。
(結婚はいいんだけど、式典めんどくさい……)
ロディマスが泣いてしまうので口にはしない。ただでさえ、近頃の彼はちょっと面倒くさいのだ。自分たちの結婚式の準備を棚上げし、ヒースの件を優先させたことに拗ねているらしい。その理由には政治的事情が絡むため、ロディマスは納得しつつも、感情を完全に切り離せずにいるとみえる。
(そういう部分も、自分で嫌なんでしょうね)
その点、ヒースは上手いから。劣等感めいたものを煽られるのかもしれない。ただマリアージュは、そこがロディマスの美点だとも思っている。
紅茶を啜りながら、ロディマスを眺める。
「なに、陛下?」
「別に」
マリアージュは空になった茶器を受け皿に置いて言った。
「わたしが選んだ宰相と夫はあんたなのよって思っただけ」
ロディマスが瞠目し、一瞬のち、視線を泳がせる。照れているらしい。
(でも、本当に面倒くさいのよねぇ……式典)
《西の獣》の情勢はいまだ不安定である。《光の柱》で親しい者を失った皆の傷も癒えていない。だからこそ、女王の結婚はデルリゲイリアの安泰を示すための行事として、そして仕事を大量発注するための国家事業として、華々しく行われなければならない。しかもわりと特急で。大勢の執政者を招いて、各地の復興や王位継承条件変更を要請する折衝の進捗確認会議を込みでするので。
その準備と通常の政務の合間を縫って、ペルフィリアやデルリゲイリア領内の視察に反復横跳びである。
多忙な未来を思ってマリアージュはげっそりした。
「陛下、閣下。少しよろしいでしょうか?」
文官のモーリスが現れて報告の許可を求める。彼も結婚式の打ち合わせに参加するひとりだった。
「どうしたの? 何か問題でも?」
「いいえ。アッセ様からご伝言を預かっております。相手は受領した、とのことです」
「……そう。ありがとう」
アッセは今日から国境視察に出向くので、依頼した用事の結果を、すぐには報告ができない。仕事で会ったモーリスに先に伝言する旨を、許してほしいとのことだった。モーリスは「その件」の手続きに関わったから、託けても問題ないと判断したのだろう。
別にあとで知らされても構わなかったのだが、律儀なことだ。
モーリスが下がり、ほかの文官たちの中に混ざって、打ち合わせの支度を始める。
その様子を眺めながら、ロディマスが口を開く。
「……本当に、よかったのかい、マリアージュ」
「何が?」
「……君が、手渡しにいかなかった、こと」
ロディマスが歯切れ悪く呟いた。
休憩を切り上げて、マリアージュは立ち上がる。
「そんな暇、わたしにいまあるの?」
「ないけど」
「でしょう? あれを受け取ったってことなら、くたばってるかどうかもわかるから、いいわよ」
マリアージュはロディマスに手を差し出す。短い距離だが、打ち合わせの席まで先導しろ、という意味だ。
ロディマスが苦笑して、マリアージュの手を取る。
「その信頼がうらやましい」
「馬鹿いわないで。信頼していない相手を一番の結婚相手に選ばないわよ」
ただ、その種類が違うだけなのだ――ダダンとは。
くあ、と、ダダンは欠伸交じりの伸びをした。
王都と国境をつなぐ乗合馬車。整備された道を行く振動は規則正しく心地がよい。荒れた道を旅することも少なくないダダンにとっては揺り籠のようなものだ。
揺れづらい中央を馬車旅に慣れない様子の客たちに譲り、ダダンは幌のもっとも後部を陣取っていた。荷物を枕替わりに寝そべり外を見る。
晴れ渡った青空。ぽかぽかとした気候。差し込む陽光はやや眩しい。
その光にダダンはおもむろに金属板をかざした。親指大の長方形。色は虹がかった銀色で、光の加減で赤が勝つ。装飾に見せた魔術文字が細かく刻まれていて、登録した魔力が感知されなくなると、それを指定の場所に報せるらしい。他人が持つと色がくすむ。
デルリゲイリア王城で身分を証明する魔術具だった。
ペルフィリアの件が片付き、ダダンはマリアージュから城下に家を下賜された。ダダン自身が手配して、購入の金だけ出してもらったかたちだ。場所は裏町の外壁にほど近い集合住宅の上階。人がよく出入りするから、留守中に不審者がいれば目立つ。建物は古く、手入れがよくなされていて、設備もいい。不便な立地にあるものの、だからこそ広く、何より窓から正面に王城が望めた。王都全体を見渡せるのもよい。その割に外からは物陰に位置して、中を覗かれにくいのだ。
アルヴィナを伴って現れたマリアージュは、理解しがたいという顔で首をかしげた。
「いいの? もっと広くてきれいなところじゃなくて」
「いいんだよ。どうせ、ほとんどいないと思うしな。充分だろ」
食堂を兼ねた台所。寝室が二部屋。うち、一室は物置にして。住宅の中庭に井戸がある点もありがたい。
ずっと暮らすにしてもなかなかいい場所だ。旅暮らしをする身にはもったいないほどである。
ダダンはこれからも商工協会の仕事を続けて世界中を回る。いろいろあってデルリゲイリアに長居したが、やはり定住は性に合わない。この家を使う頻度も年に一度あればよい方だろう。
それでもここは、故郷(くに)が滅びて初めて自分が手にする住まいだった。帰る場所だった。
家の中を動き回って術式を弄る魔術師にも、ダダンは声を掛ける。
「アルヴィナも悪いな。手間かけさせて」
「いいよー。こっちもお仕事たのんだしね」
「……なにを頼まれたの?」
「ん? あぁ、神代の魔術やら遺跡やら、あとは呪い関係のもんを見つけたら、調べてほしいって言われててな」
世界中を巡っていると、人の踏み込みづらい土地に古い遺跡が残っていたり、面白い伝承があったりする。魔術師が希少となったせいで、解析不能として放置されたままの呪いもある。その蒐集を請け負ったのだ。これまでは興味がなかったので、見かけても無視することが多かった。
「引き換えにこの家の術式調整を頼んだんだ。守りも強固にしてもらう。なかなかしてもらえることじゃないしな」
「なるほどね」
「お前と一緒にくるとは思わなかったが」
「時間がないのよ。いまもちょっと政務の合間を抜けてきたの。アルヴィナがいればすぐだし」
「おいおい」
「マリアは人使いあらいよねぇ。こういうことをわたしがあなたにするのも、ずっとじゃないからね」
「わかってるわよ!」
水場を弄るアルヴィナを振り返り、マリアージュが叫ぶ。彼女はため息を吐いて、敷いたばかりの絨毯に座り込み、手にしていた瓶をどん、と、目の前に置いた。
「何だこれ」
「お酒。器、ふたつある?」
「あるが……飲むのか? これから?」
「え、あんた自分だけ飲むつもり?」
いや、自分が飲むとも言っていないが。
(――わざわざ、酌しに来たのか)
ダダンは苦笑して高杯を準備し、彼女の前に胡坐をかいた。開けて、と、女から差し出された瓶の栓を抜く。
「アルヴィナはいるか?」
「いらなーい。ありがと」
ダダンがアルヴィナに尋ねる間、マリアージュが高杯に酒を注ぐ。その眉間にしわが寄っていて、零さないように集中している様が、なんだかおかしかった。
深緋(こきあけ)に満ちた高杯をマリアージュが掲げる。
ダダンもそれに倣った。
この国の女王の顔で女が告げる。
「色々と助かったわ。新しい、わたしの民(もの)に」
「家をありがとよ。俺の女王の、善き治世に」
かん、と、銅の高杯を打ち合わせて、互いに酒をひと息に煽る。酒は上等の葡萄酒だった。ダダンの身分で普通ならまず口に入らない類のものだ。
マリアージュが二杯目を注ごうと苦心していたので、ダダンは笑って今度は自分が注いでやる。
「帰ってきたときには、アスマのところに寄って。いい酒を預けておくから」
「そりゃ嬉しいな」
「その代わり、見聞きしてきたものをわたしに教えて」
「わかった」
「……ご家族、見つかるといいわね」
「そうさなぁ。……お前も足をすくわれねぇようにな」
「気を付ける」
「ま、もしもどうにもならなくなったら、ここに逃げてくるんだな」
政治の世界は未来がわからない。敵と味方がすぐ入れ替わる。また命を狙われたなら、潜伏場所として使えばいい。そのつもりで準備した。
マリアージュが口先を尖らせて呻く。
「逃げて来たってひとりじゃ生きられないわ」
「商工協会経由で連絡を寄越せばいい。俺の番号を教えておいてやる」
商工協会の会員は個人番号を持っている。主に仕事の受注や銀行の利用に使うものだが、金を積めば遠隔地にいる会員へ伝言してくれる便利なものだ。悪用されると困るので、滅多なことでは他人に教えない。
ダダンは上等な酒の味に舌鼓を打ちながら言った。
「ここが敵ばかりになったら、俺がお前を連れて、逃げてやるよ」
マリアージュはきょとんと瞬くと、おかしそうに無邪気な笑い声を立てた。
「お願いする。そのときはあんたの故郷の海を見せて。いつ玉座から蹴りだされても楽しみがあると思ったら、気楽になれる気がするから」
ところが、いざというとき連絡するにも、死なれていたら元も子もない。
肌身離さず持てば生死がわかる、ということで、王都から出る直前に、訪ねてきたアッセから渡されたものが、いまダダンの首の鎖につながれた身分証だ。商工協会から支給されるものと似ている。
「――受け取るかどうかは、お前次第だが」
と、アッセは言った。彼も王都から出る用事があって、その次いでに渡し役を請け負ったらしい。
「これを受け取ると、お前の存在は王宮に登録される。非公式だが、デルリゲイリアのものになる、ということだ。だから、お前に任せる、と、陛下はおっしゃった」
身分証があると有事のとき、世界中の主だった国で、外交官扱いの保証が受けられる。路銀として給与も出る。利益は色々とあるが、その逆もある。下手なことをしづらくなるし、何より国に縛られる。
色々な可能性を加味して、ダダンはそれを受け取った。
アッセは複雑そうだった。
「兄上は……受け取られた方がいいとおっしゃっていたが、内心は厭っておられる」
「なんでだ?」
「自分が弱いせいだ、と、おっしゃっておられた」
「わけがわからん」
「だが、自分も、その気持ちがわかる」
アッセ・テディウスはダイを好いていた。だが、彼女が命がけで選んだ男は別にいる。
「もう少し、強ければよかったのだろうか」
「いや、それは違うだろうよ」
なんだか妙なことになっているな、と、思いながら、ダダンは彼に言った。
「お前もそうだが、兄貴にも言ってやれ。お前らに足りないのは自信だ」
先代女王の息子で権力も財も持つ男たちが何を言っているのか、と、呆れ果てる。
しかし、自信は己の身分に伴うかと問われれば否だろう。己の立場がわかってくればくるほど、非力さを痛感するのはよくあることだ。
「……どうすればつくんだ」
「知るか。化粧でもしてもらったらどうだ?」
マリアージュが化粧師を得て自信を持ち、女王となった話は有名である。
ダイ、は、難しいかもしれないが、あの娘が教育した化粧のできる女官が王城には何人もいるはずだ。
アッセは驚いた顔をしていたが、ふっと笑った。
「そうか……そうだな。そうする」
彼がダダンに握手を求める。
「先だっては色々と世話になった。旅路の安全を祈る。また会おう」
ダダンはその手を握り返して礼を述べた。
「ありがとよ。皆によろしく言っておいてくれ」
ダダンは回想を終えて、空にかざしていた身分証を握り込んだ。
「……とうとう、鎖を付けられちまったな」
後悔はない。不自由を得て初めて充足することもあるのだと知った。
空の蒼の眩しさに目を細める。
気持ちよさそうに滑空する鳥を見てふと思いついた。
(東にでも、顔を出すかな)
女王の友人にこの国の近況でも伝えにいこう。
明るい報せはきっと、喜ばれるだろう。