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終章 女王の化粧師 2


  ――こうしてわたしは生涯の伴侶、そして心身を尽くして仕えた主人と出逢い、悲喜こもごもの出来事を経て、化粧師としての平穏な日常を取り戻したのでした。
 さて。
 ここからは少し、退屈かもしれません。
 未来のとある日を、語るだけだから。


 予定通り、ディアナ・セトラは深夜に目覚めた。
 今日は未明からの出仕だった。昨夕から就いていた寝台を降りて、眠気に重い瞼をしぱしぱさせる。顔を洗って服を着替え、上着を手に廊下に出ると、食堂、兼、居室から明かりが漏れていた。
 部屋に入れば燈明皿の火に照らされて、流し台の前に立つ夫の顔が浮かび上がる。
「お帰りなさい、ヒース」
「ただいま」
 ディアナの声掛けにヒースが顔を上げて微笑んだ。
 薬缶の前で湯が沸くまで待っていた彼は、隣に立ったディアナの頭を引き寄せて、そのてっぺんに軽く口づける。
 くすぐったさに笑いつつ、ディアナはヒースに尋ねた。
「帰ってきたばかりですか?」
「そうです。ウィルに付き合って資料の内容を確認していました。昨日も何度も見たんですがね」
「初めて諸外国の人たちに向けて話すから、きっとウィルさん、緊張しているんでしょうね」
 ウィリアムはヒースの副官であり、公式の場には彼が立つ。明日――もう今日か。この王城で開かれる大きな式典の合間に、隣国復興と聖女教会の件で、大陸の方々から来た文官たちによる会合があるのだ。他国の人の前にヒースは出られないので、ウィリアムと補佐の文官だけで出席しなければならない。不安なんだよぉおお、と、情けなく呻いていた顔をディアナは思いだした。
 ヒースがやれやれとため息を吐く。
「がちがちすぎて心配ですよ。……何か飲みますか?」
「お願いします。目が覚めそうなものを」
 湯の沸いた薬缶を軽く掲げる彼に要望を出し、ディアナは食卓の燭台に火を点してから、戸棚にしまってあった麺麭を出した。果物を練り込んだ固焼きのそれを薄く切り出す。それぐらいなら自分にもできる。
 匙で茶葉を計り入れながら、ヒースが告げる。
「わたしにもひと切れください」
「はぁい。夕食は食べたんですか?」
「食堂で皆と食べました」
 ディアナはほっとした。昔の過酷な日々のせいで、鈍くなった彼の味覚は日によって調子が違う。よく食べられる日とそうでない日がある。夕食を食べてさらにと言うなら、今日は前者なのだろう。
 ディアナにとっては朝食、ヒースには夜食となる麺麭を皿に並べて食卓に着く。彼もまた、ディアナに濃いめの紅茶を、彼自身には白湯を淹れて、対面に腰を下ろした。瞑目して簡単な食前の祈りを済ませる。
『まぼろばの地におわします我らが主神よ。この恵みに感謝いたします。そして祝福を。今日もこの恵が共に卓を囲むものの糧となり、幸いをもたらしますように』
 食前の祈りはヒースの生家の習慣だったらしい。賄いをめいめい都合のよい時間に取る花街の娼館や、ミズウィーリの家ではなかった。
 彼から何かの折に聞いたとき、ディアナがねだって復活させた。出先ではしないが、食を共にできる日は祈るようにしている。共に暮らし始めてひと月ほど。勤務形態が違う上、近頃は行事が多くばたばた忙しかったので、重なる時間はまだそう多くなかった。けれども彼とささいな日常を重ねていく、その行為そのものが自分にとって大きな喜びだった。
 食事をとりながら、互いの一日を共有する。その短くも充実した時間に、徐々に目も覚めてきた。
「あとはわたしが片付けておきます」
「うー、お願いします」
 本来は自分の係だが、甘えてヒースに任せた。彼は今日、通常通りの勤務だ。自分と異なって時間に余裕がある。
 ほどなくして護衛が迎えに来た。見送りに来たヒースがディアナの前髪を指先で整えつつ忠告する。
「今日は張り切りすぎて無理をしないように」
「そうは言われましても」
「夜まで持ちませんよ。気持ちはわかりますけれどね。何せ――あなたの女王の結婚式ですから」
 そう。マリアージュとロディマスの華燭の典。それが今日、王城で執り行われる最大の式典。そして自分が通常より早めに起き出している理由だった。
「……誰かに休憩を指示されたら、ちゃんと従います」
「そうなさい。気を付けて。いってらっしゃい」
「いってきます。あと、おやすみなさい」
 軽く口づけて住居を離れる。
 自分たち夫婦が暮らす家は城内の本宮近くに造られた庭園の中にあって、家族を持つ最上級役職者だけが居を構えている。数代前の女王付の職人だった建築家が設計したという、色々なかたちの戸建てが並ぶ区画は美しく整えられていて、縮尺模型の展示のようだ。
 その中に張り巡らされた石畳は、刻まれた魔術文字の影響でほの明るい。途中で家を振り返ると、ヒースはまだ二階の玄関で角灯を手に、身体を柱に持たせかけて立っていた。
 彼に手を振る。振り返される。ついでに、前を向け、と、手ぶりで示された。ディアナの気が逸れないようにか、彼は家の中に入っていく。
 改めて本宮へ歩き出し、気持ちを切り替えた。
 ――ここからは、仕事の時間だ。


 昔、花街の顔師だったころ。
 自分の役割は芸妓たちの顔を造り、彼女たちを鼓舞することで、それ以上でもそれ以下でもなかった。ダイは単なる職人のひとりに過ぎなかった。憂いはあっても穏やかな日々だった。
 揺り籠のようなそこを発ち、様々なことを経て、再び手に入れた平穏は、昔のかたちとは少し違う。
「セトラ様、おはようございます」
「おはようダイ」
「おはようございます、ダイ様」
「おはようございます、皆さん」
 ダイがまず向かった先は自分の執務室だ。すでに集まっていた部下たちと、今日の流れの最終確認を行う。
「本日はいよいよ陛下のご成婚の儀、当日です。予定通り、一班はこれからセトラ様と共に陛下の下へ移動。女官長の下の班と合流し、陛下の支度を。二班はその間、セトラ様の正装の準備です。戻り次第、着付けに入ります。三班、道具類の最終点検と持ち出しの係ですね。今日は部屋移動が多いので、常に厳密な確認を怠らないでください。挙式後の予定は昼の打ち合わせで改めて確認します。では、各自の班長は朝の役割を復唱、班内の割り振りを述べなさい」
 進行役は副官のアレッタである。前日までに打ち合わせた流れを彼女たちの声で聞きつつ、ダイは昨夕以降に持ち込まれた書類へ目を通した。今日の流れの変更点などが記載されている。アレッタたちも読んでいるが、書類の最終確認と署名はダイの仕事である。終え次第、別部署の文官にまとめて預け、マリアージュのところへ急いで移動する。
 まだ未明だというのに、女王の居住区画は人の気配で満ちていた。女官たちが浴室の準備に往来し、最初の衣装を運び込んでいる。
 マリアージュはすでに起床し、夜着姿で紅茶を啜っていた。
「おはようございます、マリアージュ様。ご機嫌はいかがですか?」
「ねむい。だるい。めんどくさい」
「……ロディが泣きますよ?」
「何でロディマス、式典が好きなのかしら」
 結婚式典の準備中、常に面倒がっていたマリアージュと異なり、ロディマスは嬉々としていた。というか彼はどうも、式典関係を差配することが好きらしいのだ。花嫁衣装すら丸投げだったマリアージュとは真逆である。
 気怠そうにしているが、マリアージュの調子は悪くない。本当ならダイが手ずから彼女を磨き上げたかったが、《国章持ち》の仕事がもりもり詰まっているため、難しい。今朝は挨拶だけである。
「来賓の方々の出迎えが終わったら、戻ってきて化粧をいたしますので」
「わかった。……今日は頼むわね」
「はい!」
 挙式前と昼食会前に化粧をする役割は死守したので楽しみである。
 マリアージュが呆れた顔でダイを見る。
「何であんたそんな元気なの」
「女王陛下に華燭の化粧をするんですよ。これほど名誉なことってあります?」
 ダイは化粧をしてばかりの立場ではなくなった。何人もの部下を持ち、彼女たちを動かして。主だった親族のいない女王の名代として動くことも少なくない。化粧をする数は減り、だからこそなおのこと、その時間を大切にしている。
 女王の顔を造る時間はダイの宝のひとつだし、それが彼女の家族を得る重要な式典のものであればなおさらである。
「今日は長いんだから、張り切りすぎて倒れないのよ」
「大丈夫ですよ。ヒースにも同じこと言われましたし」
「……あいつと発想が同じっていうの、ホント嫌」
 げんなりとした顔でマリアージュは呻いた。



 主君の入浴の準備が整うまで、衣装と化粧の確認などを行い、ロディマスの部屋にも顔を出す。ちょうど介添え役をするアッセもいて、彼と警備の話をしたのち、外務官たちの朝礼にも同席。ここでようやくひと区切り。自分の執務室に戻る。
 軽食を取りつつ進捗報告を聞いて、女官たちに手伝われて正装を着つけた。女装は女王命令により夫不在の場では禁止されている。彼女いわく、番犬がいないとあちこちひっかき回すことになるのでやめなさい、だそうである。満場一致で同意された。解せぬ。
 着替え終えたら、王城本宮の玄関前に移動する。
 迎賓棟に宿泊する賓客たちをここで改めて迎えるためだ。


 夜明けた空は澄み渡って青い。暖かな風が心地の良い気候だった。ペルフィリアを分割した日から一年とひと月。色とりどりのばらも満開である。
「気持ち悪くなってきたら教えてほしい」
 外務官たちと並び、客たちを待つダイに、護衛に就くランディが告げた。
「一度や二度は平気でも、こういうものは積み重なるっていうしさ」
「握手ばかりは避けられませんから」
 ランディの隣でブレンダが苦々しく呻いた。彼女たちの懸念事項はダイが男性の外務官に接触して倒れないかである。異性に対する過剰反応は残念ながら健在で、社交でもっとも警戒しなければならない点でもあった。挨拶を通じた接触は避けられないからだ。
 卒倒することすらないものの、のちの体調に悪影響が出るので、護衛たちは客を不用意に近づけないようにぴりぴりしている。
「忠告はありがたいんですが、聞き飽きましたよ、ふたりとも。ユベールと揃って同じことを言うんですから」
 新郎側の護衛に駆り出されている彼とはロディマスの部屋で会った。いいですか、くれぐれも、くれぐれもブレンダの言うことを聞いてください、と、念押しされている。
 ヒースと婚約した折にひと悶着あってから、近衛たちの過保護が加速していて、ダイは苦笑するしかなかった。
 文官が告げる。
「皆さまが参ります。備えてください」
 迎賓棟から本宮までを往復する馬車が到着し始めた。
 今日の賓客は三つの組に大別できる。
 ひと組目は結婚式典に参列しない文官たち。他国の外務官で構成される彼らは、復興支援と王位継承条件の会議へ参加するために来ている。式典が終わるまで彼らは迎賓棟で打ち合わせや小会議、社交などを行うので、こちらには来ない。
 ふた組目は結婚式典だけに参加する者たち。女王の名代として立った若年の近親者や、ダイのような政治向きではない《国章持ち》など。この組がまず本宮に到着する。ダイは次々に彼ら彼女らと挨拶し、控えていた文官たちに案内を任せた。
 最後は式典と昼食会に会議と、あらゆるものに参加する組だ。女王や宰相、政治に関与する《国章持ち》たち。《深淵の翠》ドッペルガムのファビアンはこの組で、再会を喜んだ一瞬のちに、真顔で結婚が嫌だったら言うんだよ、と、囁かれた。彼はダイの夫が誰なのかを知っている希少な人間で、「彼」に鎖を付けるためにダイが結婚させられた、と思っているのである。対外的な説明はその通りだから、否定もできない。ダイは苦笑いで彼の心配を受け流し、本宮の中へ送り出した。
 昨月に戴冠したばかりの、分割したペルフィリア東部の女王や、各国の宰相たちと挨拶し、ダイは最後に会うことを楽しみにしていた人物を迎えた。
「ゼノ・ファランクスです」
 彼は他人行儀な口調で名乗りつつ、ダイにいたずらっぽく片目を瞬かせる。
「ご無沙汰しております、ダイ様」


 すべての式典参加者を迎えたので、彼らの後続組と共にダイたちデルリゲイリアの官も本宮に入った。式典が始まるまで、彼らは待合用の広間で、果実水や茶菓を振舞われる。そこで文官たちは彼らと社交があり、ダイは謝辞を述べなければならないのだ。
 ダイと並んで歩き、ゼノが明るく笑う。
「やーしばらくしばらく。元気そうで何よりだよ」
「ゼノさんも。……最後に会ったところ、あそこでしたもんね」
 ゼノとは暴徒に襲撃されるペルフィリア王城で会った。あれから一年以上、彼が女王不在のペルフィリアのまとめ役となり、息災であることは知っていたが、直に顔を合わせることはなかった。
 ダイは彼の人懐こい顔を見上げながら笑い返す。
「政治の世界はいかがですか?」
「もーやだ。あっちもこっちも自己中やら万年幼児やら狸やら狐やら魑魅魍魎だらけ。どうやったらまとまるんだよって頭痛薬とお友達。俺がだよ?」
「この一年、大きな問題は起こっていないって聞いていますけれど?」
「君んとこに助けられているからさ。あとは俺の家の名前と――あいつの置き土産のおかげ」
 ゼノが目を細めて虚空を見つめる。彼が誰を思い返しているのかは明白だ。
 ダイはさりげなく《消音》の招力石を点した。
 それを目ざとく見つけたゼノが肩から力を抜く。
「もし、を、考えるんだ」
 ゼノは呟いた。
「もっと俺が早く、陛下やあいつの苦悩に気づいていたら。いや、気づいていたんだ。だからもっとずかずか、遠慮なく壁をぶち壊して踏み込んでいたら、どうなっていたのかってさ」
 いまさら言っても仕方ないけど、と、彼は嗤う。
 ダイは彼を励ました。
「あなたの存在は、あの人の救いだったはずですよ」
「君もね、シンシアちゃん。……馬鹿だなーあいつ。なんで死ぬんだよ」
 ゼノの示唆する男、ディトラウト・イェルニは死んだ。ダイと合流し、ファビアンのところまでたどり着きながら、東部出身の復讐者に背面を刺されて。
「君には、あいつの分も、幸せになってほしいなって、思ってるんだけど……結婚、したんだって?」
「はい」
 歯切れ悪く尋ねるゼノにダイは首肯した。
「よく、受けたね。政略結婚なんだろ?」
「んー……。実は、マリアージュ様の結婚が決まってから、わたしのところにものすごく、釣り書きが来るようになりまして……」
 マリアージュは三人の夫を得る。国の基盤を安定させるためだ。ロディマスが第一の夫君となり、彼の選んだ男たちが第二、第三の夫君の座を得る。
 そこから漏れた貴族の若い男子が、女王と懇意になるための相手として、ダイを狙い始めたのである。
 平民出身のダイは横やりを入れる強力な親族がいないと思われているし、(実際は怖い花街の後ろ盾つきだが)、何よりも母親譲りのこの顔である。自覚したくないが、端正、に、分別されるらしい顔が、男たちの気を引いて止まないらしい。
 そういった事情をダイは掻い摘んで説明した。
 ゼノが得心した顔で呻く。
「あー、それで早々に適当な奴と結婚することになったのか……」
「そんな感じですね」
「……そいつ、やさしい? 大丈夫? その、色々とさ」
 ゼノはダイの異性に対する心的外傷を知っている。
 ダイはくすりと笑って頷いた。
「えぇ。……わたしの仕事に理解を示してくれる、情愛深い人です」
「そっか……」
「その人も元々はペルフィリアの方で、そちらを復興支援する部署にいるんですよ」
「へぇ? 会議で会える?」
「いえ、彼は会議に出ることはないんですが……。あぁ、ちょうど、あの奥で働いています」
 ダイは渡り廊下のただ中で立ち止まり、中庭越しに見える執務棟を指さした。
 小さな白い花をいっぱいに付ける、ばら科の低木の植え込みの向こう側に、石造りの執務棟がそびえている。
 同じ中庭に出るための刷き出し窓の奥、往来する人影は式典に参加しない通常業務の文官たちのものだ。
 彼らの中でひとり、窓の前に立つ男の姿があった。
 煌めく陽光がほんのひととき、厚い玻璃を透けさせる。
 金蜜色の髪。蒼の目に、端正な顔立ち。
 彼とゼノの目が合う。
 ダイの夫は笑って、踵を返し、棟の奥へ消えていった。
「は――」
 ゼノが口元を押さえる。
 そこから飛び出そうとする歓喜の声を抑え込もうとするように。
「は……ははっ」
 ゼノは笑った。
 ダイは再び歩き出した。ゼノがその隣に並んで、鼻を啜る。
「あのさ、文通していい?」
 彼が慎重な面持ちでダイに問う。
「政治的な内容、抜きのやつ。それで君の近況とか、旦那とよろしくやってるかとか、教えてくれる?」
「あくまでわたしの話なら」
 ダイは微笑んで請け負う。
「かまいませんよ。あ、あと、ゼノさんのことも教えてくださいね。彼女さんができたとか彼氏さんができたとか、結婚したとか」
「俺は女の子の方が好きかな。いいよ。でも最初は多分、愚痴になると思うな。死んだ奴への、恨み言ね」


 来賓への挨拶を終えて、大聖堂へ移動する。
 その控え室でダイの部下たちとマリアージュが待ち構えていた。
「お待たせいたしました、陛下」
「ご苦労。皆の様子は?」
「式典を待ちかねているご様子でしたよ」
 椅子に座って果実水を飲んでいたマリアージュに、ダイは賓客たちの様子を答えた。
 一見、マリアージュの婚礼衣装は簡素に見える。
 正面には刺繍も透かし織りもなく、彼女の豊かな曲線美に添った絹が滑らかに広がるだけだ。その分、背面がとても豪奢で、引き裾のひだの狭間にびっしりと野ばらの刺繍が成されていた。式典の参列者はおそらくその背面の美しさに目を奪われる。そう確信させる衣装である。
 女官たちが衣装に粉避けを被せ、手早く化粧の支度を整えていく。背後の棚に化粧の道具が並べられる気配を感じながら、ダイは感慨深くマリアージュを見つめた。
 マリアージュが怪訝そうに首をかしげる。
「どうしたの? ぼうっとして」
「いえ。……女王選の、最後の日を思い出していました。あのときもマリアージュ様、おきれいだったなって思って」
「何よ急に。……まぁ、確かに、ここまで徹底的に磨かれたのは、あの日以来かもね」
 マリアージュが丁寧にまかれた髪を摘まんで見る。たった一筋。しかし朝露に濡れたばらのような艶やかさを湛えている。
 女官が支度の終わりを告げる。ダイは背後を振り返って、自分でも道具に不足がないか確かめる。
 窓から射す陽光に煌めく小瓶たちは、花街時代ともっとも違うもののひとつかもしれない。
 ダイは自身の王と向き直って微笑んだ。
「では、始めましょうか」


 マリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリア。
 彼女は西大陸の転換期にあって国をよく治め、また大陸内の混乱の収束に力を尽くした名君として知られる。
 その女王、凡庸なれど人を良く使い、乱世において柔軟、平時において堅実とされる治世は、英雄を為政者に求めがちな後世の政治にも影響を与えたという。
 彼女を支えた近習の名は史書にない。
 ただ、芸技の、と、二つ名を戴くこの国では、自信を失っている者に、「紅を注しなさい」と言って励ますことがある。
 それは化粧師を自らの象徴として、傍らにおいた女王の御代に広まったという話だ。


 下地となる乳液を丁寧に伸ばし、黄みがかった練粉で肌の色むらを補整する。
 練粉は液体。ごくごく薄く、余計な皮脂は海綿で吸い取らせて。繊細な白粉を軽く叩く。
 マリアージュが嘆息する。
「お腹すいた」
「昼食会まで我慢してください。お腹ならさないでくださいよ」
「わたしの意思じゃあどうにもならなくない? うっ、あと二回も式をするとか考えたくない。次の式に招くのは、国内の貴族だけにする。絶対にそうする」
「ご夫君たちから苦情を言われませんか……?」
「あんたも一度、式をしてみればこの面倒臭さがわかるわよ」
「はぁ」
 いや、そもそも人を招いて結婚式など催せないと思うのだが。
「ちなみにロディと結婚するのはうれしいんですか?」
「当たり前じゃない。わたしにも家族ができるってことでしょ?」
「……それ、ロディに言いました?」
「言わなきゃだめなの?」
「言ってあげてください……」
 ここまで結婚式を面倒がられて、ロディマスが可哀そうである。彼の苦労が偲ばれる。
「ロディのためにもにっこり笑っていてください。あと、眉間。白粉が皺にたまっちゃいますから。きゅっと伸ばして」
「……仕方ないわね」
 と、息を吐いたマリアージュが慣れた様子で微笑む。
 女官たちがくすくす笑っている。
 ダイもつられて笑った。
「では」
 次は色ものだ。色板からきれいなばら色を選ぶ。
 そうして化粧筆を手にとった。


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