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第七章 諍う背信者 1


 ダイが目覚めると、すでに部屋は自身を残して無人だった。狭い部屋の中には昼の光が窓辺にぼんやりとわだかまっている。太陽が中天にあるのだろう。時を計ると、眠りから一刻と少しが経っているだけだった。
 布団の上で身を起こして、頭を軽く降る。こびり付いた疲労は早々に取り切れるものではなかったが、それでも思考はずいぶんと明瞭になっていた。
 上段の寝台で頭を打たないように気を付け、ダイは床に足を付けた。靴を履いて、一歩だけ歩いて、室内で唯一の窓を開ける。
 外で待ち構えていた《使い魔》の鳥が滑り込み、待ちかねた顔でダイに報告を囁き始めた。


 身支度はすぐに終わった。
 ダイが廊下へ出ると、ブレンダが佇立して待っていた。
「すみません。寝坊しました」
「いいえ。何かあるまでお眠りになっていただければと……」
 タルターザで死にかけて以来、ダイの体力はずいぶんと落ちた。ここに来るまでの道中、憔悴を隠しきることはできなかったようだ。護衛の気づかいをありがたく受け取って、ダイは彼女に歩き出すように促した。
 皆が集まっているはずの小会議室へ向かいながら、ブレンダに問いかける。
「何もありませんでしたか?」
「はい。とても静かで……」
「正門前の人たちは動かず?」
「何か作業はしているようですが、それが何かまでは、まだ」
 会議室にはダダン以外の全員が揃っていた。湯気の立つ銅の器を片手に、ファビアンが軽く手を挙げる。
「や、眠れたみたいだね」
「ファビアンさんも」
 お互い、顔がすっきりしている。ファビアンだけではなく、彼の傍に控えるクレアやグリモア。そしてダイの護衛であるユベールとランディも。休憩を挟む案は正解だったらしい。
「あぁ、ダイも起きたか」
 やかましい足音を響かせ、ダイの背後からダダンが現れる。ダダンの背後には見慣れない少年が緊張した面持ちで立っていたが、紹介されることはなかった。焦燥の面持ちでダダンは告げた。
「正門が動いた。まずいことになってる」
「崩れたんですか?」
「いや、それはまだだがな。あいつら――……」
 ドン、と。
 地鳴りが大地を揺るがした。
 ダイは思わず手近な卓に縋った。ダイだけではない。皆、おのおの椅子や壁に手を突いている。騎士たちは不安げな面持ちながら、脱出路を探してか、視線をあちこちに往復させている。
 再び、どどん、と、地が揺れた。
「なに……?」
「あいつら、火薬を持ち出しやがった」
 ダダンが吐き捨てるように言った。
「かやく……? 火薬、ですか?」
 魔術を使わず、疑似的に爆発を起こす物質、のはずだ。あまり流通はしていない。日常使いする木屑のような火種と同じく湿気に弱く、ちょっとした衝撃で爆発を起こすため、一方で保存性が高く、誤作動の少ない魔術文字や招力石に比べ、利便性が著しく低いからだ。他の大陸ではもう少し見かけるらしいが、それでも危険性を鑑みて、製造、扱いには各国の許可がいるはずだ。
 ずず、と、地面が唸っている。
 ダイはダダンに詰問した。
「この地鳴り、火薬の爆発ですか?」
「あぁ。あいつらが大人しくしてたのは、火薬を試してたんだな……。どこから手に入れたんだか知らんが、このままだとまずい」
(……ペルフィリアだからかな……)
 ディトラウトは魔術に替わるあらゆる技術を検討していた。彼のことだから、そういった危険物は城に回収か処分をしていただろうが、漏れがあったものが敵方の手に渡ったのかもしれない。もしも最初から先方が手にしていたなら、ダイが来る前に火薬を使って決着をつけていただろうからだ。
「城の防衛魔術が強固でも、入ってるつうひびにでも火薬を詰め込まれちゃ、持たん」
「こちらもすぐに動く必要があると」
「そういうこった」
「動くって言っても、僕らまだ何も決めてないよね」
 ファビアンが口を挟む。
「僕らには課題がある。一、王城に攻め入ろうとしている一団をどうやって出し抜くか。二、ペルフィリア軍側に敵でないとどうやって認定してもらうか。三、どうやってセレネスティ女王とイェルニ宰相を確保し、王都から無事に脱出するか」
「三番は考えなくてもかまいません」
 ダイはファビアンに答えた。
「無補給船が来ます」
「あぁ? 聞いてねぇぞ。どこからだ?」
「ゼムナムです」
 ダイが即答すると、ダダンがため息交じりに呟いた。
「アーダムの奴か……」
 アーダム・オースルンド。ゼムナム宰相サイアリーズから密命を下されるほど懇意にしている、商工協会南部の長。
 何をどうしたのか。ゼムナムはその協会が保有する巨大船を駆って、西方の女王たちを回収しながら、このペルフィリアへやってくるらしい。
「あー、セイスの言ってた、そっちへ行くからってそういうこと?」
 ファビアンが渋い顔で呻く。
「いきなり連絡付けて、あとで行くからって、何のことかって思うよね……。言葉を省きすぎなんだよ。うちの魔術師長」
「ドッペルガムからも来るのか?」
「うちの陛下も来るみたいですよ」
「はぁ!? このドンパチ一色即発、真っただ中にか!? 何を考えてんだ」
「兵も来ます」
 ダイの言葉にダダンが眉をひそめて押し黙る。
「無補給船は一隻ですが、脚の早い船を東周りで軍を乗せて出しているらしいです。それから、うちも国境から兵を出します――つまり、大陸会議の名の下に、このペルフィリア王都を制圧する心づもりってことです」
 室内が静まり返る。
 皆の胸中をランディが代弁した。
「な、なに考えてるんだよ、陛下たち……」
「簡単です。するんですよ、大陸会議を、ここで」
 ランディに述べながら、ダイは妙手だと思っていた。
 一か国でペルフィリアの王都を制圧すると戦争の火種だ。だが大陸全土の統治機構の名で、女王の連盟で――有力な女王全員で、ペルフィリアを押さえてしまうなら、この恣意行為は蛮行ではなくなる。
 暗黒時代のような混乱を防ぐための軍事行為として正当化される。
 破壊されなければ、ペルフィリア王城には女王たちを受け入れるだけの充分な容量がある――もちろん、食糧云々は無視しての話だが。
「わたしとファビアンさんは女王の地位詐称疑惑に対し、大陸会議の名で審判が必要な、セレネスティ女王とイェルニ宰相を保護することを目的にここにいます。わたしたちは脱出のことを考えなくてよくなったんです。わたしたちがすべきことは、一刻も早くふたりを保護した上で、彼らを殺したがっている人たちから逃げることです。別に王都は脱出しなくてもいい……」
「なるほどな」
 ダダンが顎を尺って納得に頷いた。
「状況をセレネスティ陛下たちに伝えて、逃げ切れば勝ちになるのか」
「でも、彼らより城にどうやって入る?」
 まずはそこだよ、と、ファビアンが呻く。
「それから、ペルフィリア軍にも見のがしてもらうための根回しが必要だよね?」
「そのふたつについてですが……考えがあります」
 ダイはダダンに向き直って尋ねた。
「ダダン、旗が欲しいんです」
「旗?」
「はい。赤の……もしくは、白い布の。材質は問いません。大きさは軍旗程度で……わかります?」
「大雑把でいいなら、ベベルが急いで用意してくれると思うが、大きさまではわからんな」
「わたしがわかります」
 ユベールが手を挙げて席から立つ。ダイはほっと息を吐いた。
「じゃあ、作りも含めてユベールが助けてあげてくださいますか?」
「いつまでに何本いるんだ?」
 ダイは黙考した。遠方からぱっと見、わかる数が欲しいが、具体的な本数までには考えが至らない。
「……ユベール、軍が動いたらどれぐらいの兵が先発として動いて、旗を持ちますか?」
「軍規模にもよりますが……。攻城戦を想定して、デルリゲイリアであれば、小隊から中隊規模。三十人ぐらいで、旗持ち三人ってところでしょうか」
「じゃあその倍の、六本?」
「ダイは何をしたいんですか?」
「軍の先発が到着したように見せかけたいんです」
「はは、わかった」
 ダイの考えを読んだらしい。ダダンが笑って、肩をすくめる。
「まずは布だな。大きさと本数はそれから決めよう。おい」
 ダダンが連れていた少年に小声で指示を出す。彼は商工協会の会員のひとりらしい。多忙なベベルへの伝令役のようだ。
 ダダンがユベールにも声をかけて、少年について行くように促す。ダイはユベールに目配せし、了承に頷いた。
「それからファビアンさんは、公式文書、作れますよね?」
「いまから? うん、作れるよ。道具も一式、持ってきているからね」
「これから伝える内容で複数枚、お願いできますか?」
 ダイは口頭で内容を簡単に述べた。
 ファビアンの口角が軽く引き攣る。
「あー……あとで聖女教会に怒られなきゃいいけど」
「こっちを怒っているどころじゃないはずですから、大丈夫ですよ」
 どこもかしこも混乱しているが、《光の柱》に絡む事件で最も打撃を受けた組織は聖女教会だ。聖女復活の魔術装置まで持ち出したからには、滅びたメイゼンブル本国と繋がりの深かった上層部が急進派の多数を占めたのだろうし、そしてそれらはレイナが魔術装置の贄に差し出してしまった。
「残っている側は穏便にことを済ませたいはず。事後承諾でも、悪い取引にはならないと思います」
「ダイってさぁ、そういう頭の回し方が化粧師じゃないんだよねぇ……」
 ファビアンがクレアに公式文書の作成の支度を指示する合間にぼやく。
「誰がダイを教育したんだか」
「さて、誰でしょうね……」
 基礎教育は間違いなくアスマだ。裏町の海千山千のやり手たちを押さえて、娼館を三軒も抱える花街の顔役。彼女の教育がなければ、まずミズウィーリで躓いていた。
 仕事の仕方はヒース・リヴォートに習った。
 その時点で、さもありなん、という感じである。
「さて、最後は潜入の方法なんですけれど……」
 ダイはブレンダを真っ直ぐに見た。
 ブレンダが緊張した面持ちで背筋を正す。
 そんな彼女にダイはにっこり笑いかけた。
「正面突破で行きましょう」


 ベベルが様子見に出した斥候の話では、正門はまだ落ちていない。ただ、亀裂は広がり、人が通れる隙間を生むまでもう間もなく。
 時間稼ぎにファビアンたちには先に動いてもらった。ユベールとランディは残して、あとでファビアンたちに合流する。
 旗の件も含めて、ベベルの下に残る協会員も巻き込んだ。港の事務所は人の気配は少ないながら、忙しない空気を漂わせている。
 ダイはダダンの先導でブレンダと共に港を出た。昼の陽光を照り返す冬の海は一年前、王城の塔から眺めたときと同じく静かだった。王都の通りを馬で駆け抜ける。歪んだ雨戸の奥に隠れる人の気配。砕けた陶器の散乱した石畳。横倒しになった空の木箱。腐った果実や動物の糞尿の臭いが濃い潮のそれと混じって鼻に吐く。
 流れていく景色に、ただ、胸が痛んだ。
 王都の正門を真っ直ぐ望む配置について、馬ごと身を伏せていると、ダダンが囁いた。
「よかったのか?」
「……何がですか?」
「中に入るだけなら、俺とお前でできたんじゃないのか?」
 ペルフィリアの城下には王城へとつながる隠し通路の入り口がある。
 そのうちひとつの正確な道をダダンは知っている。ペルフィリアの表敬訪問でダイが捕らわれた折に、ダダンは救出にその道を使ったからだ。
 ダイがこれから取る方法を提案したとき、その件に関わって、隠し通路の存在をうっすらと疑っていたらしいファビアンからも、他の方法はないのか、と、尋ねられた。
 また、ダイはダダンと通った道に加えてさらにもう一本の道も把握している。
 けれど、それらの道は選ばない。
「使うな、と、言われたんです」
 誰から、と、問わない、ダダンの察しの良さにダイはひっそりと笑った。
 ――道を、使うな。
 寝て起きて頭がすっきりすれば、あの男からの伝言の意味するところは明らかだ。
『お前が知る王城への抜け道を使うな』
 ダイは自分とダダンが知っていることをディトラウトに伝えている。
 封鎖したか。
 それとも単に、危険だからか。
「ダダン、あなたは誰から道を入手しましたか」
「それは――……あぁ、そうか」
 秘密経路を記した古い地図。
 ダダンはそれをどこぞの誰かから仕事の一環として手に入れた。ダダンはその仕事が終わった時点で依頼主から消される可能性があった。
 そうならなかったのは、ダイたちデルリゲイリアがペルフィリアから脱出する算段のために、ダダン自身も変装して方々を走り回り、当人も知らないうちに刺客の追跡の手をすり抜けたのだ。
 王城への道を数年前から探っていた人間が元々いたのだ。
 それが今回の件と無関係である保証はない。
 ドン、と、ひときわ大きな爆発音が轟いた。
 もうもうと土煙が立ち込める。続いて、人が騒ぎ始めた。固く閉じられた門の周囲に、淡い緑の光をぱちぱちと弾けて人を遠ざけている。
 正門の扉や柱に刻まれた魔術文字。すでに一部、暗く沈んでいたが、残りも急速に光を失い始めた――それはダイにルグロワ市の地下で目にした、魔術装置の崩壊を思わせた。
(扉が、開く)
 そう、誰の目にも明らかになった瞬間だった。
「そこな一団、いったい何をしている!」
 ファビアンの声が、正門前に高らかに響いた。


 さぁ、これから女王たちを殺しに行こう。
 そう試みていると一目でわかる、武器を携えた集団に、掛ける言葉ではない。
 案の定、唐突に現れた三人組から偉そうに声を掛けられて、城門前で武装集団のご一行ときたら、正門をとうとう崩した興奮に冷や水をかけられたと言わんばかりに、ぽかんとファビアンたちを見返している。ただ声をかけただけならこうはならなかっただろうが、招力石を使って声を拡声した。耳元で喚かれたような衝撃があってこその反応である。
 その、貴重な、瞬きのような時間。
(馬鹿げている。まったく、馬鹿げているよ)
 ファビアンは胸中で繰り返し毒づいた。
 荒れ果てた異国の都。自分たちを必死に守ろうとしてくれていた賢君の首を、信仰と私憤のために落としに向かう集団を前に立つ。
 ダイの言葉を借りるではないが、これは外務官の仕事ではない。
 血走った目で剣を手にする輩は、兵士か騎士が相手をするべきだ。
 いや、そもそも、今回は最初から滅茶苦茶だった。
『でもファービィはいっつもそういうの、何とかしてくれるじゃない』
(簡単に言ってくれるよ、ルゥナ)
 内戦必至の他国に単身で乗り込んで、女王のふりをしていたかもしれないどこぞの誰かを保護し、脱出する。しかも筆頭は化粧師で、護衛の数は指折りで数え切れてしまう。無謀もいいところだ。
 あぁ、昔みたいだ。
 自分に筆頭外務官やら国章持ちやらの役職なんて不随していなかったころ。女王の権威なんてなかったころ。
 そもそも、国すらなかったころ。
 頭でっかちの子どもだったファビアンは、知り合った少女の大博打に乗っかった。
 怖いもの知らずの子どもだったからできたんだよあぁと、ファビアンは思っていたが――案外、そうではないのかもしれない。
 さて、ダイから割り振られた仕事をしよう。
 時間稼ぎだ。
 樹木と剣の国章を布地と同色の糸で細やかに縫い取った、濃い緑の上着に身を包み、日頃は跳ねている髪を撫で付けて。よく磨いた眼鏡の縁に刻まれた細い装飾や徽章が光を鮮やかに照り返すように、立ち姿を調整する。
 ファビアンは相手を待たせることを悪いと露とも思っていない上級官吏の顔で、傍らのクレアを顎で促した。
 連れているもうひとり、グリモアが睨みを利かせる間に、ファビアンがつい先ほど作ったばかりの公的文書をゆっくり広げる。
 白い紙の書面を見せつけるようにして、クレアが玲瓏な声で一同に告げた。
「我々は魔の公国メイゼンブルが末、大公アルマルディ・メイゼンブルの承認を受けた、《西の獣》を代表する六か国により構成される大陸会議より遣わされた。大陸を混乱に陥れた、聖女教会の罪人を追ってここにいる!」
 正門前の集団が、訝し気な顔をして、身体をファビアンたちの方へ傾ける。
 話を聞く態勢を取った人々を見ながら、まったく、と、ファビアンはこの状況をどこかから眺めているであろうダイに感心した。
『――女王の確保に来たとなれば、わたしたちと彼らは敵になってしまいますから』
 と、ダイは言った。
『聖女教会を敵にして、あなたたちは騙されているのだと、教えてあげる側に、わたしたちは回りましょう』
「聖女、教会の……罪人?」
 誰かの問いかけに、ファビアンは鷹揚に首肯した。
「聖女教会の名を借り、多くの民人を謀った罪人が、このペルフィリアの王都に潜伏しているとの情報を我々は得ている」
 実際、王都に潜入した聖女教会の関係者が、余計な混乱を引き起こしているのだ。
 全てが嘘というわけではない。
 ファビアンは高らかに詰問した。
「答えよ! 汝らの中に近日、教会からの遣いに接触した者たちはあるか!」


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