第六章 昏迷する民人 3
「ベベル!」
ファビアンが喜色に弾んだ声を上げる。彼の連れであるふたりも心なしか表情を緩めていて、ドッペルガム組の皆はベベルと知己であるらしかった。
「まぁま、懐かしい顔が揃ってるな。……こちらのお方とは初めてですかな? お二方にも改めてご挨拶を。ベベル・オスマンと申します。商工協会でこの辺りの顔役をしております」
ファビアンたちと軽く挨拶を済ませたベベルが、騎士たちに頭を下げる。彼とブレンダは初対面。ユベールとランディはダイと共に小スカナジアで面識がある。もっとも、彼らふたりの顔を見る限り、すぐには思い至らなかったようだが。
自己紹介を返すブレンダたちに微笑み返し、ベベルが抱えていた地図を卓上に広げる。
「早速ですが、我々と王都内の状況をご説明いたします。お飲みながらお聞きください」
重低ながらよく通る声でベベルは言った。
「商工協会はわたしを中心に二十名。その家族を含めると三十名ほど、この王都に残っております。誰もがここに住んで長い、もしくはここの生まれのものですな。我々以外の住民も残っておりますが、どの程度か判然としません。……《光の柱》は皆さまもご覧になりましたか。人の……消失は、ほかの地域でも、見られたのですな?」
「はい」
ダイは一行を代表して答えた。
「わたくしが把握する限り、わたくしの国を含む各地で見られたと報告を受けています」
「さようですか。……それが起こった直後、生き残った皆は家に隠れました。元々、陛下の件で暴動が起こっていましたから、逃げられるものは逃げたあとだったのです。我々はここの商家と連携しながら、外から調達した物資を王都の中に流しております」
ペルフィリア王都には湾港がある。無補給船すら停泊できる大きな港だ。
潮の流れの関係で船は大型を除いて沖へは出られない。だが小型の舟でも海岸線を伝うように移動するなら、工夫次第でどうにかなる。
その荷運びを装って、ダイたちはベベルに王都へ招かれた。
「門を使うなと言われておりますから、なかなか骨が折れますがな」
「門を使うな? それは、女王から?」
ファビアンの問いにベベルが首を横に振る。
「……この王都に集会しておる、聖女教会の者たちからだ」
ベベル曰く。
《光の柱》が立ち、人が消え、混乱していた王都は静寂に没した。悪夢から覚めることを願った人々は自身の家屋に身を隠した。
幾日か過ぎて彼らの家屋を叩く者たちがいた。
聖女教会からの遣いだった。
彼らは外から運び入れた葡萄酒と麺麭を配りながら、隠れて震えていた人たちの手を握りしめて、囁いた。
――すべてはこの国の玉座に巣食う賊のせい。
さあ、我々の手で、賊を討伐しましょう。
ダイは思わず呻いた。
「……《光の柱》と人の消失を……セレネスティ様のせいだと、言ったんですか……!?」
「そうです」
ベベルが説明を補足する。
「教会は同時に武装した集団を王都に引き入れ、城下の各門を閉ざしました。引き上げてきた軍に邪魔されんようにするためです。王都にも兵は若干のこっておりましたが……まぁ、生きとるかどうかはわかりません。王都は前からセレネスティ様と反りの合わなかった輩と、あ奴らに誘い入れられた者たちの、決起集会の会場です」
「数は?」
ダダンが尋ねた。ベベルが答える。
「総数なら、数千」
「羊飼いは何匹だ?」
「牧羊犬が数百。羊飼いは六十」
話から察するに、牧羊犬が引き入れられていた武装集団、羊飼いが教会から来たという先導者たち、だろうか。
ダダンが眉をひそめる。
「多いな。ベベルはどこまで餌をやってるんだ?」
「羊飼いまでだ」
「……よく今日まで膠着してたな。俺はもっと早いと思ってた。食糧だって持たんだろ」
「備蓄はあった」
事実を淡々と述べていただけのベベルの声色に初めて嫌悪が滲んだ。
「あれは――国が、万が一のために、備えていたものだったのだ」
ペルフィリアは女王の座を争い、自らの国を焼いた。荒れた国はおびただしい餓死者を出した。
ダイの知るイェルニ兄弟は強く富める国を目指す一方、国内が揺らいだときをいつも想定していた。
食糧、真水、薪、招力石もあったのかもしれない。細々と分け合えば、ひと冬を越して忍耐できるような備蓄を、分割して備えていたとしてもおかしくない。
それを。
「時間がかかっているのは、王城の防備を崩すのに手間取っているからでしょうな。……ですが、それも今日明日には終わる」
ぎりぎりでしたな、と、ベベルが言った。
「すべての門を班に分かれて攻撃していたようですが、昨日、正門の門扉にひびが入ったと聞いております。今日か明日には崩れる。我々が今回、搬入したものは、大盤振る舞いされたようです。もう、備蓄を持たせるつもりはあちらにない」
「……王都の外に目立った動きはないの?」
ファビアンが尋ねる。
「僕としてはペルフィリア兵が動いていないことの方が気になるんだよね」
「動いてない。王都をぴっちり包囲しているだけだ」
と、ベベルは言って、ダイの方へ向き直った。
「以上が、我々が説明できるすべてです」
食事の支度を、と、言ってベベルが退室し、元の顔ぶれで取り残される。
ファビアンがげんなりした顔で感想を述べた。
「城に入ること自体が大変そうだね……」
ダイたちの目的はイェルニ兄弟の保護だ。
ところが彼らは籠城していて、侵入経路の門前には敵対勢力がひしめいている。その彼らを出し抜いて先にイェルニ兄弟を大陸会議の名の下に説得し、保護し、無事に脱出しなければならない。
「外のペルフィリア軍も懸念材料です」
控えめな声でグリモアが述べた。彼はファビアンが連れてきた壮年の騎士である。
「下手をすると……反乱軍、とでも申しますか。王都のうちにある彼らと、外にあるペルフィリア軍の混戦に我々が巻き込まれます」
「わたしたちの存在をどうにか伝えなければなりませんね」
「いいえ、それはしない方がいいでしょう」
ユベールの意見にダイは首を横に振った。
「なぜペルフィリア軍が王都内の動きを静観したままなのか気になります。セレネスティ様を救いたいなら……もっと、必死に早く動いている気がするんです」
機を見ているだけなのか。内部で動いているのか。何もわからない状況で頭から味方だと信じて動かないほうがよい。
ならどうすればいいのか。
何も思い浮かばず、ダイたちはベベルの置いて行った地図を睨んで黙り込んだ。
くう、と、腹が鳴った。
ダイは腹部を押さえて顔を上げた。ダイだけではなく、皆が似た有様だった。誰もが自分の身体が空腹を訴えたと思ったらしい。
ダイは皆に笑いかけた。
「疲れて何も思い浮かびませんね」
「そうだな。一度、食って寝た方がいい」
同意を示すダダンにダイは尋ねた。
「休んでもいいんですか?」
「いい。頭が回ってねぇだろ。危ない橋を渡るかってときにこれだと、致命的な失敗をする。ベベルの見立てで今日明日なら、早くて昼だ。遅くて明日の夜明け。食って身体洗っても、一刻は眠れるはずだ」
「わかりました。じゃあ、ふたつの班に分けて休みましょう」
デルリゲイリア組、ドッペルガム組を混ぜて、睡眠から先にとる側と、食事からの側に別れる。
ダイはぱん、と、手を打ち鳴らして提案し、はっと我に返る。
「って、わたしが勝手に言うことじゃないですね。ファビアンさんたちはそれでいいですか?」
「もちろんだよ。さっぱりした方が、きっといい案を捻りだせると思う」
首肯したファビアンが微笑んで言い添える。
「あと、この旅の主導権は君にある。僕は補助」
ダイは思わず天井を仰いだ。
「……何で化粧師のわたしが、こんなことをしているんでしょうね?」
ダイのぼやきに一同はさもありなんと笑った。
女王の命。
いや、すべては自分で決めたこと。
ただ少しぐらい、ぼやいてもいいはずだ。
先に食事と物資の補充、細々とした確認を済ませて、ブレンダと廊下を歩きながら、ダイは胸中でため息を吐いた。
王都にたどり着くまでもかなり、いや、正直に述べれば、二度と御免なぐらいにきつかったが、まだ難題が積み重なっている。この困難の度合いを、わかっているようで、わかっていなかった過去の自分を叩き倒したい。
幸いな点は王都に入って早々、しっかりした屋根の下で休息がとれることだろうか。ベベルたち商工協会がダイたちを匿う建物は彼らの事務所に併設された、船で他大陸から来たばかりの旅人たちを受け入れる宿だった。本来なら様々な出自の人で溢れていたであろう廊下は静まり返っている。朝方の日差しをよく取り入れつつも、寒気を遮断する厚い窓の列を横目に、ダイはディトラウトがここの視察に出ていたことをふと思い出した。
彼がベベルと私的な言葉を初めて交わした場所は、確かここの礼拝堂だったと聞いた。
そのようなことをぼんやり思い返していたからか、進行方向のかなり近い位置に現れたベベルに、ダイは息を呑んで立ち止まった。
挨拶に片手を挙げていたベベルが、ダイの様子に苦笑して足を止める。
「ずいぶんとお疲れのようですな」
「お恥ずかしい限りです……」
ダイがしっかりしなければブレンダに負担がかかる。
ダイは意識を切り替え、ベベルに頭を下げた。
「あの、改めてお礼を。色々とありがとうございます」
ダイたちが王都にたどり着くまでの手配にベベルは噛んでいるはずだ。そしてダイたちを商工協会の内部に招き、休息の手はずを整えてくれた。体力のある騎士たちすら疲労困憊だった。ダダンが指摘した通り、ここで休まなければ相当に危うい状態だったろう。
「いいえ。……我々の国のことなのに、あなた方に救いをお任せして、むしろ、申し訳ないと思っています」
布で覆われていない方の眉尻をベベルは下げた。
「本来であれば我々が、あの方々をお救いするべきところです。が、我々は――依頼を受けてしまいましたので」
「依頼……」
「無辜の民を守るように」
物資の調達も元はイェルニの兄弟を通じて受けたもの。地元の商家との連携も成立には彼らが間に入った。《境なき国》として王都内で治外法権を維持し、いざというとき、弱き人々を逃がせるように。
――信用を失った女王と宰相には、それが叶わないから。
悔いるようにベベルは言った。
「覚えていらっしゃるかわかりませんが。……大陸会議の場では、あの方々について、失礼なことを口にしました」
『うちの女王陛下と宰相閣下のご兄妹にも、褒められるべきところはあるとは思いますよ』
それがダイの知るベベルのイェルニ兄弟に対する評価だった。
けれども、あの方々と、彼らを呼ぶベベルの声音には深い敬意が窺える。
ダイが継ぐべき言葉を探していると、ベベルが表情を改めた。
「――アリガ様、は、あなたでお間違いございませんか?」
出し抜けに問われて、ダイは目を瞠って見返した。
ダイの緊張を気取って、ブレンダが一歩前に歩み出る。
彼女を一瞥してベベルが問う。
「……そちらのお方に席を外していただくわけには」
「それはできません」
ダイは彼の要望を一蹴した。
「おたずねの方なら、東へ渡りました」
「ダダンと西へ帰った聖女の方です」
ダイは顔をしかめた。
一年前、ダイがペルフィリアから帰国しようという折に、ディトラウトがこの男を経由してダダンと連絡を付けていたことを覚えている。
だが手紙に用いた暗号の名までは伝えていないと聞いていた。
「……警戒させてしまいましたな。失礼を。こちらのお名前の方が差しさわりないと思ったのです。あなたに伝言がございます。アリガ様のお名前はその折に」
「誰から?」
「ロウエン殿から」
――わかっていて、尋ねた。
ダイは腰の物入れから《消音》の招力石を取り出した。ダイがそれを点したころを見計らってベベルが尋ねる。
「話してもよろしいですか?」
「どうぞ」
「来るな、と」
ダイは呆れた。伝言の主に。
なんとも、くだらない。
「――残念、もう来てしまいました」
ベベルにダイは微笑んだ。
ベベルが申し訳なさそうに顔をしかめる。
「あなたをお迎えするダダンに託けるつもりだったのですが、間に合いませんでしてな。……あなたには、ここですべてを待つ、という選択肢もありますが」
「本気でおっしゃっています? それ」
「いいえ」
睨み据えたダイにベベルは首を横に振った。
「失礼なことを申しました」
「ホント、そんな馬鹿みたいな伝言するぐらいなら、もっと有益な情報をくださいよ。というか、あの人たちが王城に引き籠らなければよかったんですよ。助けを待つ捕らわれのお姫さまかって話です」
「大したいわれようで」
「いや、さっきも皆と話してたんですけれどね。わたし、本職は化粧師なんですよ。なんで騎士を連れて戦場のど真ん中まで来ているんでしょう? ふざけるなって感じです。来るなって言うならあっちが来てください。そうじゃありませんか?」
『ぜーんぜん、外に出る様子がないあの馬鹿、あんたが代わりに引っ叩いて連れてきて』
主人に命じられるまでもない。
問答無用で百叩きに決まっている。
「なぜ、あなたは来られたのですか?」
不思議そうにベベルは言った。
「いま、混迷する民に満ちたこの国に、その中心に、文人の、か弱い、うら若き女性の身で。……仮にあなたの国のためになるとしても、誰かに押し付けてもよかったでしょうに」
ペルフィリアは大陸北方の屋台骨。だからこそ、ここが下手に折れてしまっては困ると、教会の主張を妄信せずにセレネスティたちの確保に動くことを決めたわけだが、そこに生存率の低そうな化粧師が投入されるべき謂れはない。
マリアージュは二度目の女王選でダイの存在を己の治世の象徴なのだと語った。なのにあわや内乱という隣国へ送り出す。《国章持ち》を捨て駒にするのかと非難されかねない人選だ。
それでもマリアージュはダイに命じた。
ダイが望んだから。
「……わたし、これまであの人の意に沿って、動けたことないんですよね。いっつもかみ合わない。今回もそう」
あの男の思惑から外れて、ダイはマリアージュと恋仲にはならなかったし、彼との距離は詰めに詰めたし、来るなと言われた場所には行ったし、存在を請われて出された手は取らなかった。
彼の――彼らの意向を汲むなら、きっと、放置する方が正しい。
彼らは祖国を滅ぼすつもりなんて毛頭ない。ダイたちが手を伸べずとも、国が生き残るための糸を手繰り寄せている。
けれどもそれは、彼らの命が救われることと同義ではない。
「あの人たち、全部の責任を取って、終わりにしたいのかもしれないけれど」
きっとそうやって歩み続ける地獄に幕を引きたいのだろうけれど。
「わたしは、いやなんです」
イェルニの兄弟を助けてくれと、マリアージュに懇願したことはない。
だがマリアージュは暗黙の裡にダイの意を汲み、それを叶えるための理屈を捻りだし、道筋を付けてくれた。
そして自分はその我が儘のために人を巻き込んだ。
ここまで来て――引き下がれるか。
「頑固な方ですな」
「あの人にも前に言ったんですけれどね」
ベベルの言葉を賞賛として受け取り、ダイは笑った。
「職人は往々にして頑固なんですよ」
開けてもらった共同浴場(いりごみ)にブレンダとクレアと共に入って汚れを落とす。泥と汗と垢に加えて潮風でべたべただったから、ざっと身体を洗うだけでずいぶんとさっぱりする。
仮眠用の部屋は上下二段の寝台が三台、横並びになっているだけの場所だったが、布団にくるまって眠れるだけで涙が出るほどありがたい。
ダイが下の段の寝台を選んで横になっていると、隣の寝台に入ったブレンダが躊躇いがちに尋ねた。
「先の……伝言とは、何だったのですか? ダイ」
招力石で伏せた話の内容の追及は褒められたものではない。しかし訊かずにはいられなかったのだろう。
ダイは毛布を引き寄せながら、ベベルがもたらしたもうひとつの伝言を答えた。
「道を使うな、と、言われました」
「道? どの道ですか?」
来るなと言って、それでも、もしも、来てしまったなら。
あの方は、そのようにあなたに伝えてほしいと。
ベベルはそう付け加え、ダイとの会話を終えた。
追加の伝言にも具体的な内容はいっさいなかった。
ダイはブレンダに告白した。
「わかりません……」
来てほしくないから詳細を述べなかったのか。暗号を捻りだす時間すらなかったのか。
それとも、ダイならそれだけでわかると、信じられていたのか。
(ばか)
黙り込んだダイに、ブレンダと反対隣の寝台に入ったクレアが囁く。
「ダイ様、よくお休みください」
「……おふたりも」
仮眠は一刻。何か起こればもっと短い。
西向きの部屋は薄暗かった。窓からは国を隔てる山脈の稜線が見えた。
そういえばアルヴィナからもヤヨイからも使い魔が来ていないなと、ダイは思った。
マリアージュたちは、いまどうしているのか。
ダイの思考はそこで途切れた。