第六章 昏迷する民人 2
ペルフィリア内部は他国以上に混乱している。
元々、クラン・ハイヴと戦端を開いていた。この時点はまだ民衆の鬱屈は国外に向いていたため、統制が取れていたが、聖女教会がセレネスティを告発し、ご丁寧に教会の情報網を使って組織の末端にまで話を広めてからはひどいものだった。ダイたちが検問もなく国に入り、デルリゲイリアの兵が防衛のためとはいえ、領域侵犯していて何もない時点で推して知るべしだ。
大陸会議の名の下に、各国が国主詐称の件について、イェルニ兄弟を喚問したがっている旨の先触れを、ペルフィリア王都へ持ち込んでもらう次いでに、ダダンには安全な道程の調査を頼んでいたのだ。
長居に向かないということで、ダイたちは水を補給し終わると廃村をすぐに発った。
クラン・ハイヴとの国境沿いに、灌木が茂っている。この辺りは地下に水脈があるらしく、灌木の根元を掘ると水が沸く。清流の小川に行きあうこともある。
マークたちが辿ってきたというその道を逆走するかたちで、灌木の林に添って東へ真っ直ぐ進む。なかなか北へ登らない。王領を一領地分ほど通り過ぎ、ようやっと北北西へ馬首を向けたころ、ダダンが言った。
「もしも何かではぐれたら、北の海沿いのどこかの町か村で、声を掛けられるのを待て。半日を待って誰からも声を掛けられなかったら次の土地に移動しろ」
はぐれた人間が下手に動くことで情報が洩れて、待ち伏せされることを防ぐためだろう。ダダンは道程の詳細を語らなかった。
野営の折、休む皆の妨げにならないように、声をひそめて、ダイはダダンに尋ねた。
「王都へかなり迂回していくみたいですけれど、あちらはどんな状況なんですか?」
もちろん、荒れていることはわかっている。真正面から突っ込んで入ることが難しいからこそ、ダダンが迂遠な方法を取っていることも理解している。
その上で王領の現状を知っておきたい。
ダイは草に埋もれた壁を背にし、毛布にくるまって膝を抱えていた。焼かれてずいぶんになると思しき村跡は、ヒースと最後に別れた場所を思い起こさせる。小さな火を熾し、それを取り囲むように大きな車座を作って。歩哨はひとりだけ。
ダダンはダイのすぐ傍にいた。
乾した肉を咥えながら、ダダンが問いに答える。
「ペルフィリア兵が王都を包囲している」
「残っていたんですか?」
「少なくて五千。多くて一万。ぱっと見だがな」
ペルフィリア兵の大部分は散会したとマークから聞いていた。ダイは口元に手を当て、ダダンが述べた数をデルリゲイリアの軍の規模に当てはめた。
デルリゲイリアは予備役も含め、王領に一万弱の兵がいるらしい。国境沿いや主要都市を持つ領地で平均して二千強と聞いたことがある。《光の柱》が立つ前なら、国の方々かき集めて実可動で五、六万はいただろうか。ペルフィリアはデルリゲイリアよりも広大だし、人口比や軍備強化の度合いからしても、倍はあるはずだ。つまり、ペルフィリアの兵は総合の十分の一も残っているかどうか、という計算になる。
「少ない……んですよね? 兵の数としては」
「そうだな」
「それでも、よく残りましたね」
「この状況で大将の指示に従ってる兵だ。忠義に厚い、精鋭中の精鋭が残ったって感じだな」
「王都の周りに展開って、外に暴徒か教会の混成兵がいるんですか?」
「そうだ。……いや、悪い、違う。兵が睨んでいるのは、王都だ。王都の中に、女王を袋叩きにしたくてたまらない奴らがいるんだよ」
「ペルフィリア兵が王都から締め出されてるってこと?」
ダイたちの会話に耳をそばだてていたらしいファビアンが、身体を起こしてにじり寄ってきた。
木の枝で土の上に三重の同心円を落書きしながら彼が呟く。
「女王は王城にいるって話だったよね。つまり、女王は城に籠城していて、女王の敵が王城を囲んで城下に立てこもっていて、その敵に対してペルフィリア兵が包囲網を敷いている?」
「そゆこった」
「クラン・ハイヴに先越されて王都に侵入されたってこと?」
「そうじゃねぇ」
「女王を……私刑にしたい方たちは、ペルフィリアの方々なんですね?」
ダダンの返答に半ば被せて、ダイは苦々しく呻いた。
「マークさん……ルグロワ市に来た、ペルフィリアの騎士の方に聞きました。聖女教会がセレネスティ女王を告発し、市井にまでその話を広めてしまったあとから、他でもない住民たちによって、国は荒れたと……」
教会からセレネスティが男子であると聞いた市井の反応は大きく三つに分かれたという。
セレネスティやディトラウトを信じ、彼らの命に従って、人々の保護に尽力を続けた官吏や一部の貴族。呪いによる国の崩壊を恐れ、逃げる算段を付ける裕福層。そして、セレネスティに騙されていたと激昂し、多数の貴族と平民たち。
「なぜ、そこまで怒ったのでしょうか?」
いつの間にか起きていたブレンダが会話に加わった。
「セレネスティ女王が即位される前、ペルフィリア国内は荒れていたと聞きます。セレネスティ女王はそれを大きく復興させたのだと……。教会の告発通り、本当に女王が男子の方なら、玉座の詐称は許されないことではありますし、その……呪いも恐ろしくはありますが、メイゼンブルのように国は滅びておりません。そもそも、戦争を仕掛けたのはクラン・ハイヴや教会の側です。他でもないペルフィリアの民が自身の王を私刑に処したいと思うほど、怒ることができるものなのでしょうか?」
「……セレネスティ女王には多くの敵がいたと聞いています」
ダイは膝を抱えて呟いた。
「小スカナジアの大陸会議でも発表されていましたが、ペルフィリアは魔術に依らない技術の導入を推進していました。新しいものは、どれだけいいものに見えても、導入するときに反発はあります」
ダイがマリアージュに初めて化粧したときを思い出す。
新しいこと、未知のこと。それらに嬉々として取り組めるものもいるだろうが、大半の人々は不確定な未来に恐れを無し、慣れた方法にしがみ付くものではないだろうか。
根気よく進めていくべきだった。ディトラウトも注意を払っていた。それでもタルターザの件のような強引な進め方も多くしたはずだ。
ペルフィリアには――セレネスティには時間がなかったから。
「それにペルフィリアはセレネスティ女王即位の間もないころに東の隣国を併呑しています。融和政策に成功していたとしても……ペルフィリア人でなかった方々が、自分の国は――女王ではない、誰かに、滅ぼされたのかと、感じたなら」
ペルフィリア王城でセレネスティの傍に控えていたころ、付けられた女官たちは生粋のペルフィリア人ではなかった。王城では教育をよく受けた良家の子女が多く働いていたが、高い地位に据えられているのは稀だった。彼女たちの母国があったなら、それなりの地位にあっただろうに。
イェルニ兄弟は彼ら自身の危うさや、クラウス・リヴォートたち高官が殺された件もあって、反乱の目となりやすい人々の重用には慎重だった。
その状況は傍目からすれば出自で差別されているようにしか見えない。
聖女の血を引く女子。それが女王の地位に在ることの条件だ。
正当な女王に統治されたから、自身の国の名がなくなっても許すことができた。
それが誰なのかわからない存在に、自国を滅ぼされたのだと感じたなら。差別され続けていると思ったなら。
「彼らの怒りは正当だと思います」
ぱち、と、焚火の小さく爆ぜる音がした。
防寒具を厚く纏い、めいめいの姿勢で休む皆は静かだった。けれども眠っている気配はしなかった。彼らはダイの言葉に耳を傾けていた。
「……その怒りに中てられて、訳もわからぬまま、女王の糾弾に参加している者たちも多くいるのでしょう」
ファビアンのほど近くに腰を落とすクレアが呟く。
そうだな、と、誰からともなく同意が返り、ブレンダの隣で休んでいたユベールが、疑問なのですが、と、口を挟む。
「セレネスティ女王をよく思われない方々がいることはわかりました。ですが、動きが早すぎではないでしょうか。その……女王が男子であると、末端に早く広まりすぎでは」
「あと、ペルフィリアの兵が王都攻略にてこずっているってのも、妙に思う」
ユベールにランディが続いた。
「残って王都を包囲してるペルフィリア兵が精鋭じゃなかったとしても、最低で五千いるならさ、攻略できると思うんだよな。うちの国でも《光の柱》立ったあと、あちこちが蜂起した流民だの、騎士崩れの混成兵だのに占拠されてたけど、順調に取り戻してるって話だし。だいたい、装備が違うじゃん。訓練を受けてる正規兵と、寄せ集めの団体さんなんて」
「まとめて煽ってるやつがいるってことだろ」
ダダンがぽつりと呟く。
衆目が一斉に彼の下へ集まる。
ごろりと横になり、後頭部で組んだ手に頭を載せて、彼は言った。
「聖女教会がセレネスティ女王を告発する前に。方々の礼拝堂に噂を流し、来たるときのために武器を集めて、セレネスティの政策に反対してるやつらと、生粋のペルフィリア人じゃないやつらを、握手させたやつが」
ペルフィリア王都の中央に座す大聖堂。
彩色された玻璃で『聖女の死を嘆く騎士』を表した美しい窓を背に、微笑みを湛えて佇む聖女の像へ、レジナルド・チェンバレンは熱心に祈った。
「あぁ、我らが聖女よ……。もうすぐです。もうすぐ――母なるこの土地を、あなたの祝福をお迎えするに足る、清らかなものにしてご覧にいれます」
長く、この《西の獣》は、もっとも魔術に満ちた土地だった。
東と南と北の魔術は早くに衰退した。魔は、主神(かみ)の息吹。主神の力のかけら。これらの土地に生まれる人々は御身の力を分け与えるにふさわしくないと、主神は思し召したのだ。西だけが。主神の御許に仕えるとされる聖女シンシアが生まれ、彼女を尊ぶこの、《西の獣》の人々だけが、主神の力を揮うことを許された。
聖女の祝福あってこその我々だったのに。
《魔の公国》メイゼンブル最後の王アッシュバーンは聖女を軽んじた。聖女の血を正当に受け継ぐ妹子を押し退けて、主神か、聖女かの怒りを買った。
彼はもっとも敬虔に聖女に仕えるべきだったのに。
彼の行いは《西の獣》に生きる我々すべての代表だったのに。
聖女への不敬が続く。
汚職。地位への執着。そして、聖女の写し身であるべき女王の座まで賊に盗まれた。
罪深きかな。罪深きかな。聖女の祝福に満ちていた土地が汚れてしまった。
わたしたちからまで、魔が遠ざけられていく。
『どうしてだ。どうしてお前は!』
『チェンバレンの子でありながら』
『申し訳ございません、レジナルド様とのご婚約はなかったことにと、両親から』
『聖女の血を正しく伝えられない可能性が』
『家が潰える』
『なぜなら』
『おまえは』
この罪を注ぐには。
わたしたちが再び、魔の恩恵に預かるには――……。
「レジナルド様」
同志のひとりが翼廊から現れて、レジナルドに囁いた。
レジナルドは振り返って同志を見た。育ちのよさそうな凛とした立ち姿の若い娘で、細々とした仕事をなにくれとなく差配した同志だった。聞けば生粋のペルフィリア人ではなく、もうない東の生まれながら、王城に仕官していたという。
あの天真爛漫を装った毒婦、レイナ・ルグロワから紹介された。教会に玉座を蝕む賊の件を持ち込んだのも――……。
礼拝中を邪魔したことに気を咎めてか、申し訳なさそうな顔でレジナルドに問う。
「補給の確認のお時間となりました。……聖女様との対話を、お続けになりますか?」
レジナルドは黙し、胸元に手を当てた。そこには海中時計が収まっている。かちかちかち。魔が時を読み取り、針を動かして告知する音がする。
「……すぐに参ります。先に初めていてください」
ペルフィリア王都内の補給を担う商工協会の輩は、聖女の祝福を取りもどす聖なる戦いに不服らしく、作業を滞らせると代金を吊り上げる。
《境なき国》と呼ばれるあの組織は、どれだけ義があると言葉を尽くしても、彼ら自身が納得しなければ、味方にならない。食糧調達に動いてくれても、巻き込まれた自身の食い分を補給する次いでといってはばからず、軍事行動には寄与しない。かといって暴力で彼らに訴えることはならなかった。王都に残留する商工協会の人間は少数だが、腕が立つし、彼らを不当に扱えば、《境なき国》の本部がこの土地を潰しにかかる。
それはレジナルドとしても望むところではない。
同志が去り、祭壇前にひとり残されて、レジナルドは改めて聖女に向き直った。
その大理石の彫像は永く磨かれたもの特有の光沢を放ちながら、あたかも魔力の光を纏っているかのように、着色窓から差し込む七色の光に照らされている。
「もう少し、お待ちください。聖女よ――お許しください」
小スカナジアを含め、大陸各地に散らばっていた、聖女の権力に群がる蛆虫は、レイナ・ルグロワがきれいに一掃してくれた。
あとはわたしの故郷の玉座で厚顔にものさばる賊を排除するだけ。
礼拝堂の外に耳を澄ませる。
厚い石壁は音を阻む。それでも正義に燃える人々の息遣いが大聖堂の、あるいはこの王都のそこかしこから感じられる気がする。
レジナルドは聖女に微笑んだ。
「どうか最後は、御身の祝福を我々に」
北に登り始めて王領近くに差し掛かると、休憩の数が目に見えて減った。潰れかけた馬は途中で換える。無人になった村の厩や門を閉めた小さな町の馬房に換えの一、二頭と小分けの物資が繋がれていて、ダイたちはダダンの指示で馬を乗り換え、水や飼料を補充しつつ、時に野党の類に追われながら、北の海岸線に出た。
次に漁村に入った。
さびれかけた、小さな漁村だ。人の気配はあるが、窓と扉を閉めきった家屋の中にいるのか、姿はほとんど見なかった。村の外縁、屋根に穴の開いた羊を入れた小屋の前に、剣呑な雰囲気を隠さない若い男が座っていて、ダイたちは彼に馬をすべて預けるように言われ、村の西の岩浜から、岩屋に隠されていた舟艇に乗った。
木箱や樽を積んだ、頑丈そうな平たい船だった。
最初は五人乗っていたが、うち、三人が下りて、ダダンに櫂を渡した。
「おい、お前らも漕げ」
ダダンが放置された櫂を指し、ランディとユベールに告げる。
疲れた顔で苦笑する彼らに、ダイは塩漬け肉のかけらと水を押し付けて、お願いします、と、頭を下げた。
船は海岸線を進んだ。
外套を頭から被り、木箱の影に身を潜めて、流れる景色を眺めていたブレンダが呟く。
「……人力のわりに早く進みますね」
「こういった場では、気づいたことを、口に出さないほうが身のためです」
同じく物陰に隠れていたクレアが忠告する。
やや気色ばむブレンダの手の甲を、ダイは宥めるように叩いた。
首を横にゆるく降って、クレアの言う通りだと意思表示する。
ダダンはきっと今回の旅の差配に商工協会の手を多く借りている。
そしてその組織は秘匿された多くの技術を持つし、味方としてダイたちを運んでくれているわけでもないはずだ。向こうが明かさないものを、わざわざ指摘してはならない。
途中、洞穴に泊まって海上で一泊し、西に向かったひどく冷える波と風の緩やかな夜明け。
進行方向の左手に、海上の薄霧から浮かびあがるようにして、見覚えのある整備された道と街並み――そして王城が、見え始めた。
ダイは吐く息を白くして、居並ぶ王城の尖塔を崖下から見上げた。
船は埠頭に横づけられた。
荷卸しを手伝って埠頭の傍に立つ真新しい建物の中に入る。
待ち構えていた数人の男たちに樽と木箱を渡し、痩せた男が案内した小部屋の中で、温めた葡萄酒や茶を振舞われながら、ダイは王都に自分を招き入れてくれた男と会った。
「ご無沙汰しております」
と、肩顔を布で覆った男が頭を下げた。
ベベル・オスマン――小スカナジアで面識を持った、商工協会西大陸北支部の長をしている男だった。