第五章 防衛する後裔 2
いくら非難しようとも、彼女の行いの残虐さを糾弾しようとも、きっとレイナには届かない。
彼女はこの世界が醜く薄汚れたものだと信じている。
それを消すことは彼女の正しさなのだ。
胸苦しさにダイは襟元を握りしめて喘いだ。
「――なぜ、ペルフィリアを使った?」
ダイの前に立つセイスが厳しい声音で詰問する。
「聖女を求める人たちを効率よく見つけるための囮として、ペルフィリアを選んだ理由はなに?」
「決まっています。女の人ではないものを、玉座に付けようとしたからです」
何をわかりきったことを、と、レイナは言わんばかりだった。
「男のひとは――だめです。色んな理由を付けて、レイナたちを使うに飽き足らず、権力を求めようとするなんて。あぁ、本当にだめ……。形だけの権力に固執して、それに見合ったお仕事をせず、自分の力不足を認められもせず、妻だの娘だの聖女の呪いだの、いつだって女のせいにしてわめきたてる。レイナたちを血(けんりょく)をつなぐ道具とみなし、安易にべたべたと手を出しては、都合のいいように使うことしか考えていない。あぁ――気持ち悪いきもちわるいキモチワルイ!」
滅びるがいい、と、絶叫したときと同じ、憎しみに満ちた声で叫んだ彼女は、ダイにひたりと目を向けて、先ほどとは一変してやさしく笑った。
「ね、ダイならわかってくださいますね。ダイは特別キレイだから、虫が寄ってこないように、いつもそんな風にしているのでしょう?」
「……レイナ様――……」
レイナはダイを男として扱う。
けれども彼女は本当にダイが男だと思ってはいなかった。ダイが男として振舞っていたから、彼女はそれに合わせてくれていただけなのだ。
ダイは男装を強制されているわけではない。ただ、好んでいるというより、この姿はいつだって鎧だった。幼いころは生き延びるため。昨今は不用意に男から接触されないようにするために。
「あなたの言う通りです、レイナ様。……男のふりをする。それだけで、躱せることがたくさんある」
でも、と、ダイはレイナに言い募る。
「それは、男のひとが悪いのではないんです。わたしはあなたに何があったのかわからない。たくさんの男の人が、あなたを傷つけたのかもしれない。でも女の人だって男の人を傷つけ、陥れることはたくさんあります。それは決して、男だから、女だから悪という話ではないんです。自分より弱いと感じた相手を「使っても」いい。好きなように利用し、時に、斬り捨てたり、踏みにじったりしていい。……あなたを傷つけたのはそんな思想であって、性別で語れる話じゃないんですよ……!」
「男のひとが悪くないなら、なぜ、ダイは彼らから身を守るような姿をしているの?」
「だからそれは……」
上手く、言葉が出なかった。
どういえばよいのだろう。
何を言えば納得してもらえるのか。
レイナが遭遇したであろうことを、ダイとて少しは想像できる。
ダイは小柄で、非力で、残念ながら人目を惹く顔もしている。花街で最も愛された母の子だったし、昔は成長不良の身体を抱えていて、拐かしや暴力にさらされたことは数知れない。異性にはそれとなく身構えるようにしつけられたし、タルターザでのことがあって、いまとなっては男たちを無意識に拒絶する身だ。
デルリゲイリアがメイゼンブルに強制されていた女性貴族の売買も、ペルフィリアで血を効率よく残すために口に出せないような何かを行っていたことも、かの国で内乱が起きたとき、貴族の娘たちが襲撃してきた男たちに、殺されるに留まらず、どのようなむごたらしい目にあわされたかも聞き知っている。
それでも彼らを男だからどうのとひとくくりに見たことはない。
けれどきっとそれはダイが幸運の下に生まれたからだ。
男女の別なくダイを労わる大人たちが周りには溢れていた。たとえ彼女たちがダイに母のことを透かし見ていても、その事実は動かない。友情にも性別はなかった。ミゲルやロウエンはその筆頭で、粗野なところのあるダダンにも、力で物を言わされたことはない。ロディマスとアッセは育ちの差から来る価値観の違いにも寛容で、ランディにユベールは危険を承知でこのルグロワ市までダイに付いてきてくれる。ペルフィリアでさえ、ゼノやマーク、スキピオたちに丁重に扱われた。
何より、自分を丸ごと愛してくれる男がいる。
その奇跡のような幸運に恵まれているから、身に降りかかった暴力を、冷静に受け止めていられる。
どうして言える。ただ、幸いにも、レイナでなかっただけの自分が、どうして賢しらに説くことができるのか。
「ダイ」
セイスがダイを振り返って鋭く呼ばわう。
「何を言っても響かない。これには」
「セイスさん……」
「そのようなことはありません」
レイナは目を細めてセイスを見た。
「レイナはきちんとダイの言葉に耳を傾けています。ダイはよいことをレイナに教えてくださいましたね。自分より弱いものなら、踏みにじってもいい……男の方々は、そう思っているということですね」
「違う!」
ダイは絶叫した。
話が届いていない。レイナは言葉を自分の論理に適うものだけ抜き取って、意図を捻じ曲げて行ってしまう。
ダイが無力感に打ちひしがれていると、ふと、タタタッ、と、靴が地を蹴る音が響いた。
その音源を確かめるよりも早く、自分とレイナの間に立っていたセイスが横合いに飛ぶ。
彼のいた空間を銀色が薙ぎ払っていく。
宙で細身の剣を振りぬく女の姿にダイは叫んだ。
「シーラさん……!」
とん、と、セイスのいた場所に降り立ち、シーラが身をいったん屈めて獣のように跳躍する。彼女はセイスに飛び掛かると、彼と共にそのまま横転した。
一足先に素早く起き上がり、シーラがセイスに馬乗りになって叫ぶ。
「レイナ様、これはわたしが押さえておきますので、お早く上に……あっ、ぐっ!」
「……邪魔をするんじゃない!」
セイスが忌々し気に呻いて、シーラと身体の位置を入れ替える。
レイナが眉をひそめて、セイスに向き直った。
彼女の白い手がゆっくり持ちあがる。
その繊手が宙を握りしめると、セイスの顔色が変わった。瞬間、その身体が後方に吹き飛ぶ。
壁にものの追突する轟音が辺りに響き渡った。
蜘蛛の巣状に亀裂が走った壁面にセイスが背を滑らせて崩れ落ちた。
「うっ……く」
「セイスさん!」
レイナを止めに入るべく、ダイは立ち上がった。だが立っていられた時間は一瞬にも満たなかった。
レイナがダイに向けて一歩を踏み出す。
それだけで、耐えがたい悪寒がダイの身体を貫いたからだ。
思わず膝を突いて床に両手を突く。
脂汗が額に浮かぶ。
「あ……ぁあ」
「ダイ」
レイナがダイの前に屈んだ。
視界が昏く、彼女の表情を確認することはできない。
けれども、とてもやさしい声だった。
「お話が長くなってしまいましたね。……さぁ、式典の準備をしなければ。お約束通り、レイナをキレイにしてくださいな」
「……でき、ません」
襟元を握りしめてダイは呻いた。かすみ始めた視界の中にレイナを捉え、息を呑んだ彼女に答えを繰り返す。
「あなたに、化粧はできません」
「……なんで」
「あなたは、きれいになりたいから、聖女になりたいとおっしゃいました。いま、あなたは聖女になりました。……レイナ様、あなたは、聖女になって、何をしましたか。これから、何をするのですか。聖女を求めた、人たちを、屍に換えていくのですか。死にまみれるおつもりですか。それを……あなたは、本当に、きれいだと……うつくしいと、思っているのですか……?」
息が切れる。目の前がぐらつく。猛烈な吐き気。背中を撫で上げていく悪寒に今にも卒倒しそうだ。
アルヴィナに持たされた銀樹の鎖が異様に熱い。
その熱だけを頼りに意識を手繰り寄せる。
「わたしにできることは、あなたが――レイナ様が、望むように、美しくすること」
言葉を紡ぎ続ける。
「美しくありたいと、きれいでありたいと、思わない方に、できる化粧はないのです……」
単純に化粧するだけならできる。
けれども「きれいなレイナ」はつくれない。
レイナが望んでいないから。
「きれいになりたい……」
ダイの言葉を否定して、レイナが叫ぶ。
「キレイになりたいの! どうしていまさらそんなことをいうの!? キレイになりたいって言ってるじゃない!」
「だったらっ……!」
ごほ、と、ダイは咳き込んだ。
喉の奥に血臭を感じながら、ダイはレイナに叫び返した。
「だったらもう、こんなこと、やめてください! 人を、呪わないでください! あなたを本当に傷つけた人は恨んでいい。許さなくていい。でも、あなたを傷つけたことのない人たちを、呪わないで……傷つけないで! 信頼を裏切り、道具として使い、踏みにじる。レイナさま、あなたがしようとしていることは、あなたがされてきたことなのでしょう? あなたが、最も憎んだことではないんですか? もっとも汚らわしいと、気持ち悪いと、あなたが思っていることでしょう? それなのに、どうしてあなたがそれをするんですか! きれいになりたいと、おっしゃったあなたが!!」
新しい聖女の誕生は国の勢力図を完璧に書き換え、この大陸を混乱に陥れる。
だからこそダイたちは聖女の誕生を阻みに来たが、それはダイたちの側の都合であって、新しい聖女の誕生は多くの人々の救済になる可能性だってあった。
聖女の血筋が失われたために、いまなお無政府状態にある地域――デルリゲイリア西南のザーリハや、メイゼンブル本国にほど近い周辺地域などに、新生した聖女の名の下に国主の条件を刷新し、新しい為政者を定めて国を興すことだってできた。
ペルフィリアの王を真の意味で国主とする、あるいは新しい女王を定めることも、叶ったはずなのだ。
ダイは、聖女の魔術装置を壊す時間稼ぎを担っている。
魔術が失敗するならそれでもよい。
けれども、もしも聖女が生まれたなら、その可能性を彼女に提示し、実行してもらえるように交渉する。
それがルグロワ市にダイが来た理由だったのに。
――レイナは万人に許されざることをした。
レイナが立ち上がり、ふらりと、ダイから退く。
「……レイナ、は……」
レイナは――……。
彼女が棒立ちになって唇を戦慄かせる。
その首にふと、輝く鎖のようなものが巻き付いた。
「あぐっ!」
「レイナさま!?」
後ろ倒しに引き倒され、レイナが床の上を滑る。彼女の首に絡まる鎖は子どもの腕ほどの太さは確実にある、透明なものだった――あれは、魔力によるものだ。
彼女が離れてほどなく、ダイの視界が明瞭さを取り戻す。息を整えつつ鎖の大本を辿ると、片膝を突いて鎖を引くイネカ・リア=エルと、彼女の肩に触れて唇を動かすジュノの姿があった。
目の覚めるような青の瞳を輝かせて、イネカが鋭く告げる。
「充分だ、レイナ」
「……なにっが……!」
「罪。おまえの。……これ以上」
「うっるさい……!」
レイナが首の鎖を握りしめて、ばきりと割る。
牽引のつり合いが取れなくなってよろけるイネカに、レイナが嗤いながら手を振り上げ――そのまま、ぴたりと動かなくなった。
「……あ……」
「……レイナさま?」
「あ、あ……アアアアアアアアアアァ!!」
レイナが顔を両手で覆い、天を振り仰いで絶叫した。
壁際でセイスともみ合っていたシーラが彼女を呼ばわう。
「レイナ様!? どうなさったのですか!?」
「まずい――始まった」
「セイスさん、何が……」
「アァアアアァアアッ……ああああああっ!!」
レイナが悲鳴を上げながら、もんどり打って倒れる。尋常でない苦しみ方に戦慄していたダイは、彼女の手足が黒ずみ、その輪郭が煙のように揺らぐ様を見た。
「な、に……」
「いたいいたいいたいっ、ああぁあああっ!!」
水上げされた魚のように跳ね、ひとしきり床を転げたあと、彼女は肌色から黒へ波打つ足で立ち上がり、この空間の出入り口の方へ俄かに駆けだした。門の向こうの闇の中へそのまま消えていく。
「っつ……お待ちください……!」
シーラがレイナの後を追う。
シーラから解放されたセイスが、ダイの下へ駆けてきて跪いた。彼はシーラが持っていたと思しき剣の柄で、床をこんこんと叩いてダイの注意を引いた。
「意識ははっきりしている? どこか、感覚がないところは? おかしなところがあれば言って」
「は、はい……」
ダイは改めて自分の身体を見下ろした。両手指をゆっくり握りしめて拳を作る。氷のようだった指先にはきちんと温かさが戻り、両足にも力が入るようになっていた。
「ちょっと……気持ち悪くて、喉が痛いですが。さっきほどでは……」
ダイの申告にセイスはあからさまなほど安堵の表情を浮かべた。
「よかった。……手、触っていい?」
「え、はい。あの……いったい、何が」
「これ、アルヴィナさんが作ったんだよね?」
ダイの手を取り上げ、そこの手首に絡まる銀樹の鎖を矯めつ眇めつし、セイスが言った。
「やっぱりあのひと、とんでもないな……。これがなかったら、まずかった。君、畸形化の一歩手前だった」
「へ……え!?」
「ここにアルヴィナさんは来てる?」
「来て、ないですが……」
「君は国に早く帰って。あの人に治療してもらって。魔を抜くんだ――アルマルディみたいになるよ」
僕はそれができないから、と、悔しそうにセイスが呻いた。
メイゼンブル大公アルマルディ。かの国の最後の王アッシュバーンの妹、メイゼンブル公家最後の生き残りである彼女は、国の崩壊の折に魔力を浴びすぎて、少しの魔術にも過剰反応する病を患っている。
彼の示唆する意味を悟って、ダイは口元をひきつらせた。
その彼の傍にジュノと彼に支えられたイネカがやってきた。
彼女がセイスを呆然と見下ろす。
「君、は――……もしや、五番の」
「ご無沙汰です、室長」
「よく、無事で」
「あなたはよく生きていられましたね」
セイスにしては珍しく嫌悪の滲む声だった。傍らで聞いていたジュノが不快そうに顔をしかめている。
彼らの反応を無視し、セイスがダイに向き直る。
「急ぎ、ここを出る。レイナを放置するのはまずい」
「レイナ様……あれは、どうしたんですか?」
「聖女に足る魔術師を作る魔術が失敗している」
「え……?」
ダイは瞬いてセイスを見返した。
(いえ、でも、レイナさま)
元々レイナは魔術師ではなかったはずだ。よしんばそうであったとしても、よほどの術者でない限り、魔術の行使には呪がいる。先ほどの様子を思い返すに、セイスですらそうなのだろう。
だが儀式の後のレイナは魔術を使っていた。セイスを吹き飛ばし、首元に絡まった鎖を砕いていた。無詠唱だった――アルヴィナと同じだ。
「背負うよ」
セイスが宣言してダイの腕を引っ張る。
ダイは慌てて彼から逃れるべくもがいた。
「ま、待ってください。あの、自分で立って行きます。セイスさんは先に……」
「君を放置して行く方があとあと面倒」
「あの、えっと、ですが背負っていただくと、わたし、たぶん、気絶すると思うんです……」
彼いわく、畸形化の一歩手前だったせいか、吐き気はまだ続いている。気力を振り絞らなければ、今でさえ昏倒しそうなほど瞼が重い。慣れない異性の背を借りたら、確実に意識が刈り取られる。
セイスは肩をすくめると、ダイを強引に背負ってあっさり言った。
「気絶してて」
ドッペルガムの魔術師長は容赦がなかった。
色鮮やかな蹴り球が空に向かって跳ねた。
それを追いかけて、子どもたちが遊んでいる。
砂に煙るくすんだ青空。それでも眩しい日差し。豊かな河川の恵がもたらす水しぶきが、陽光を受けて虹色に輝くなか響く、子どもたちの楽しそうな笑い声。
自分はそれらをいつも遠くから眺めている。
『お父さま。お父さま。どうしてボクは皆と遊んではいけないの? 外へ出て行けないの?』
『それはね、レイ。お前のためだよ』
ごめんね、と、父は言う。
やさしくて、やさしくて、そのやさしさに、付け込まれ続けた父。
『お前を守るためだよ』
そうすることでしか、娘を守れなかった弱い父。
蹴り球が、跳ねる。
暗転。
紅色の玻璃のかけらが西日に煌めいている。
玻璃製の、とても美しい、野ばらを模した髪飾りの成れの果て。
『この子が、レイ様のものを――なんと、なんとお詫びしたらいいか!』
『違う。わたし何もしてないもん。何もしてないの!』
『このっ……謝りなさい!』
年上の幼馴染の女の子。使用人一家の子。唯一の遊び相手。外に遊びに行きたがった彼女を強引に引き留める。代わりに、きれいなものをみせてくれるならいいよと、彼女が言ったから、お父様が用意してくれた髪飾りを見せようとして、手を滑らせて壊してしまった。
だれのせいでもなかった。
でも、女の子のせいにしたかった。
だって、ボクは、どこにもいけないのに。
彼女しかいないのに。彼女が、わがままをいうから。
いつか君が女の子に戻れたときのためにねって、お父様がくれたのに。
何も言わないでいたら、女の子が母親に別室に連れられて行った。
ぱぁんと肉を叩く音がする。
扉がゆっくり閉じられる。
その隙間に垣間見える友だちの目は怒りに燃えていた。
暗転。
敷布が赤く染まっている。
自分を起こしに来た女の子が言った。
『病気かもしれない』
『大人の人に相談しよう』
『XXXX様は? 旦那様のお友だち。レイ様にいつもおやさしいから』
それは女の子のいたずら心。
女の子を羨んで、ちょっとした事故を彼女のせいにした、罪深い自分が引き起こした――……。
暗転。
大人の男の手が迫ってくる。
ボクの衣服を引きはがし。
膚に手を掛けて。
ましろのそれにべたべたと。
きたない手形がついていく。
生ぬるい吐息が、胸元にかかって。
暗転。
暗闇を駆けていく。
どこへ逃げても、下卑た笑いがついてくる。
たすけて。たすけて。
どうしてだれもたすけてくれないの。
どうしていつもボクだけが。
わたしだけが。
わたしだってよわいのに。
たすけてほしいのに。誰も助けてくれないから強くなっただけなのに。強いあなたが弱い我々を助けるのは当然のことだと、大勢の人たちが逃げ出すわたしの足を捕まえる。
おまえは聖女の血の濃い女だから。我々のものだと、たくさんの男の人たちが追いかけてくる。
たすけて、たすけて。
なんでわたしだけが。
どうしてわたしだけが闇色なの。
どれだけ努力しても、光のあたる外にいけないの。
キラキラ輝けないの。
たすけて。
――暗転。