第五章 防衛する後裔 1
ルグロワ河はクラン・ハイヴ内でも指折りの水量を誇る河川だ。その源流は切り立った崖に囲まれたすり鉢状の湖で、平時なら夜であってもおびただしい数の妖精光が水面を飛び交い、満天の星のただ中を再現する、美しい景勝地だった。
いまその湖は傾いだ月光の影に入り、闇色に塗りつぶされている。緩やかな水音だけを響かせる湖面には、一隻の船の姿だけがあった。
ゆらゆら、ゆらゆら。水の流れの行き止まりでくるくる回る木の葉のように、ゆっくり旋回しながら。
風が吹いて甲板の上を吹き攫う。
巻き上げられた衣服が帆桁に引っ掛かり、はたはたと翻る。
それを取り戻そうとする人の姿は、もはや船のどこにも見られなかった。
ばさっ、と、資料を卓上に投げ出し、マリアージュは乱暴に席に着いた。大陸会議で使用する魔術具の起動を待つ。一、二、三。イライラしながら数を数えつつ、扇状に広げた資料類に目を通す。その間にも、背後でひっきりなしに文官が出入りし、様々な報告をマリアージュにもたらした。
「中級貴族一家で奥方が。下級貴族三家ではパタム家のご息女を除いて全滅です」
「城下の登録されている十六の教会、礼拝堂のうち、教師が三名、道女が七名……」
「司祭および貴族街側の関連施設は無事ですが」
「目の当たりにした者たちが恐慌状態で門前に殺到」
「警邏隊と暴動」
「陛下」
魔術師長が魔術具から離れてマリアージュに告げた。
「起動いたしました」
その声で魔術具の板に光が灯る。
ただし、マリアージュのものを除くと二枚だけだ。この深夜の呼びかけに反応した国はドッペルガムとゼムナムだけだった。
「この急な呼びかけに応じていただきありがとうございます」
『こちらこそ。むしろこちらからお声がけをしようとしていたところです』
『そちらも大変そうですね』
ゼムナム宰相のサイアリーズが即応し、ドッペルガムの女王たるフォルトゥーナがその後に続く。二か国とも、デルリゲイリアと同様の状況なのだろう。彼女たちの声に混じるざわめきが、慌ただしく動く人の気配を伝えてくる。
『ファリーヌ女王たちは……』
『ドンファンを初め三国は教会の影響が濃いですから……まだ余裕がないのでしょう』
「陛下たちがご無事であればよいのですが」
マリアージュはため息交じりに呟いた。資料のうち一枚は各国との招力石を用いた遣り取りの結果が記載されている。ドンファン、ゼクスト、ファーリル。大陸会議参加国の女王は無事であるという一報は入ったものの、以降の連絡がない。マリアージュが急いで打診した招集にも応じなかった。
もう一名、反応がない人物に思い至って、マリアージュはサイアリーズに尋ねた。
「アクセリナ女王はご無事ですか?」
『えぇ。現在は混乱する貴族を見舞っておいでです』
サイアリーズが答えた。
『お伝えが遅れて申し訳ございません……。この会議における政治判断の全権を、陛下はわたくしに委ねられました。……その流れも含め、このまま我が国の状況をお話しても?』
「えぇ、お願いします」
時間が惜しい。状況はひっ迫しているし、加えてこの魔術具は満月が地平に沈むまでしか使えない。それまでに状況の確認と情報交換、そして叶うなら国家間の今後の動きを決定しなければならない。
マリアージュの促しに、では、と、サイアリーズが口を開く。
『北方、クラン・ハイヴ方面より真昼に近い光量を有した柱を視認できた直後、我がゼムナム国内では多数の人員が光となって消失いたしました。貴族、平民、関わらずです。被害の中心は聖女教会急進派。どうやら彼らが消える途中、その手を取ったものも巻き込まれるようで、最初に消えた者たちを中心として、官民に被害が出ました。幸いなのは直近で得た情報から隠れた急進派もすべて監視対象としていましたので、事態の把握が迅速だったことでしょうか』
「失礼。ファリーヌ女王たちに急進派の情報は共有を?」
『いたしました』
「そう。……申し訳ありません。報告を続けてください」
マリアージュは途中で口を挟んだことを謝罪した。問題ございません、と、サイアリーズが話を続ける。
『状況の件ですね。とにかく、混乱と怯えがひどいので、我が国では陛下が皆を見舞い、落ち着かせるべく力を尽くしておいでです。地方の状況はまだ確認中となっております……似た有様かと思いますが。……そちらはいかがでしょうか?』
『概ね同じです』
フォルトゥーナが回答する。
『被害はやはり聖女教会急進派――聖女の復活に執着していた人々が中心です。ただご存知の通り我が国は聖女教会との関わりは薄いですから』
ドッペルガムの民の多くは、貴族の庇護、つまり、聖女の血筋の守りから弾かれた者たちから成る。日常の冠婚葬祭における取り仕切りは教会が行っているものの、メイゼンブル貴族の流れをほとんど組まないドッペルガムは教会との関係が希薄だ。
『王城内では外交系の官に若干の消失者が。市民は受け入れていた流民と、外部から派遣されていた司祭で消失が確認されました。……城下以外の状況は確認中となっています』
「デルリゲイリアでも同様です。……王都で見られた貴族の消失はまだ若干名。この被害の少なさは、わたくしが再び即位した際に、聖女教会と繋がりのあった貴族と関係が希薄になったからなのですが――」
デルリゲイリアで聖女教会とか関わりが深かった家はマリアージュを女王から降ろすべきと主張した家ばかり。王都に彼らの関係者はほぼ残っていない。
「ただ、城下の流民関係で、消失が多数、見られました」
目の前で人が消えた。衣服や装飾品の類を残して。文字通り光の粒となって消失した。
それを目の当たりにした人々の恐慌が方々に伝播して、どこもかしこもいま混乱の最中にあるということだ。城からの手が及ぶまでに時間と距離を要する地方はもっとひどい有様かもしれない。
その中でもデルリゲイリアの、とりわけ城下は、まだ最悪を免れている方だ。
理由は、ひとつ。
「……消失を誘引したものは、腕輪です。聖女教会の信者の証。野ばら飾りの銀の腕輪」
ジュノからの警告を受けて、教会特使の足取りを丹念に追い、彼らから手渡されたとわかったものは強引に接収していたからだ。
その最も多く集められたものが、野ばらの飾りと鎖を組み合わせた腕輪だった。
「その中の一部があの光の柱と呼応して発火。保管していた一室が焼けました……。それで消失者の周囲に問い合わせたところ、腕輪をしていたという証言が得られました。城下での確認はまだですが……」
『こちらでも確認いたします』
『こちらも――……』
ふたりの為政者が文官たちを調査に走らせる。彼女たちの指示する声を聴きながら、マリアージュは組んだ手に額を押し当てた。
「あれがおそらく、生贄の羊の徴。聖女を生み出すための魔力をかき集める手段のひとつだったと、うちの魔術師はみています」
『会議で使っている、あの板があるでしょう?』
城下へ送り出した《使い魔》の鳥を見つめて、アルヴィナは解説をそう切り出した。
『どういう風に魔力を集めるつもりなのか、疑問だったけれど、理論はあれと同じ。月を経由して魔力を遠隔へ送る……いえ、今回は引っ張ったのね。腕輪を付けた人の、内在魔力を』
万物は魔力でできている。
ヒトは高密度の魔の入れ物だ。日ごろ、外の魔力と濃度が釣り合うから、人は人のカタチを保っている。
だが、何かによって魔力を強く、計り知れないほど強く、吸引されたら。
人は砕け散るのではないか。
当人が耐久しうる濃度をはるかに超えた魔力が外から人を圧迫すると、その器が歪む――畸形化するように。
「腕輪にすべてその役割を果たしたわけではないようです。ごく一部に、魔術が仕込まれていて……それが今回」
『聖女の儀式に応じて、起動した』
マリアージュの言葉尻をフォルトゥーナが引き取った。
『……おふたりにはお伝えしていた通り、ルグロワへ送り出した者たちから、儀式開始の連絡が来ていました』
そう、ドッペルガムからその知らせがあって、だからこそ自分たちは初動が早く、早急に状況を確認できたのだ。
『聖女が生まれたのか否かはともかく、件の魔術装置は起動したのでしょう』
『無力化工作は間に合わなかった?』
『ルグロワ河源流近隣にそれらしき場所はありました』
「あった……確認できていたのですか?」
『その通りです』
フォルトゥーナが苦さの滲む声で肯定した。
『源流の壁面を穿つ形で、いくつかの施設と魔術装置らしきものがあったとのことです。それらは無力化した、と、連絡が来ています。ですが……肝心の、レイナ・ルグロワ、教会の魔術師たち、そして儀式立ち合いを許された二名の姿は、どこにもなかった……!』
ダイとファビアン・バルニエ筆頭外務官のことだ。
フォルトゥーナの声は震えている。マリアージュだって叫びたい。だが、そう言っている場合でもない。
帰ってくるのだと、言った。
だから自分はそれを信じて、成すべきことをするしかない。
「ほかに共有すべき状況はございますか? ……――ないようなら、始めましょう。これから起こりうる事態の予測と、対策についての討議を」
『……イナ。レイナ』
声が、聞こえる。
『かわいい、レイナ』
相手を宥めようとする女の柔らかな声。
その声に耳をそばだてかけ、ダイは手首に熱を感じて瞼を上げた。
「あつっ……」
飛び起きて左手首の熱を払いのける。黒く変色した野ばらの飾りと鎖が、ぱっと宙に舞ってぼろぼろに砕け散った。ダイの手首には銀樹製の方だけが鈍く輝き続けている。
何が起こったのか、と、呆然としていると、顔前の感情の読めない、煙水晶の色をした瞳と目が合った。
「セイスさん……?」
「気分はどう?」
「えっと……眠い……? あと、左手首がひりひりします……」
「左手は魔術が起動したあとの余熱による火傷。あとで皮が剥けるかもしれない程度。睡魔は魔力圧に抵抗したあとの疲労だね。他に、何か気になるところは?」
ダイは砂が詰まったような瞼をのたのたと開閉し、首を横に振った。セイスがダイから離れて立ち上がる。
視界が明るくなって、ダイは眼前に広がる光景に息を呑んだ。
そこかしこで小さな雷が走り、火花が散って、半球状の空間は思いがけず明るい。けれどその明度は徐々に失われつつあった。まるで水が引くように天井から床へ。床に描かれる同心円も外側から内側へと、魔術文字に灯っていた光がゆるゆると消えている。
その中心にレイナがいた。蹲る彼女の周りには細い雷が走って近づくものを阻んでいる。
気絶していたらしい。ダイは慌てて身を起こした。
「レイナさ」
『レイナ』
ダイと被るように女の声が響いた。
場違いなほどあまりにやさしい声だ。
セイスが声の源を一瞥する。つられて見ると、レイナによく似た面差しの女が、壁の一角に投影されていた。
『レイナ。母さまは、紅の都へ参ります。どんどん貧しくなっていく中で、助けを求めるたくさんの弱い人々を救うためには大きな力が必要になると、思ったからです』
慈愛に満ちた声だった。
『そのためにあなたを置いていくことはとても悲しい。もしもわたしが聖女になれば、あなたに会うことは叶わないかもしれない。あぁ、でも――もしものために、ここをあなたに』
自分の娘を大切にすることより、大儀を選ぶ己に陶然とする声だった。
『あぁ、あなたもいつかここに来てね。きっと来てくれるわね。いい子ね。レイナ……』
「ふ、ふふふふ……」
密やかな笑いが場に響く。
魔術文字はいつの間にかあれほど眩かった輝きをすべて失っていた。
「あ、はははははははははははっ!」
レイナの哄笑がほの暗い空間に響き渡る。
彼女はひとしきり笑うと、立ち上がって手を振った。
「うるさい」
かし、と、映像が投影されていた壁に亀裂が走った。
「生まれたばかりの娘すら守れないくせに。だから聖女になれなかったのよ。レイナと違って」
彼女の細腰を縛る幅広の帯の裾がふわりと揺れる。
踵の低い靴は足音もなく、ひたひたと距離を詰める。
「お待たせしました」
レイナが囁いた。
ほんのわずかな囁きなのに、楽の音のようによく響いた。
「参りましょう、ダイ」
「……どこへ?」
「式典です。お祝いをしないと」
「……なん、の?」
「この世界が少し、キレイになったお祝い。ね、ダイはレイナにお祝いのお化粧をするために、来てくれたのでしょう?」
レイナの声は優しかった。本当にダイの化粧を楽しみにしていたのだということが窺えた。
なのに、怖い。
一歩、彼女が踏みしめるごとに圧を感じる。肌が泡立ち、喉の奥が詰まる。身体中に沸騰しているかのごとき熱を感じるのに、指先が氷を握らされたように冷たい。
ふっと、ダイの前に影が立ちふさがった。
セイスだった。
「近づくな」
レイナが立ち止まって不快そうに目を細める。
「勝手に上がり込んだ害虫さん。立派な騎士気取り?」
「それ以上、近づくと、君のせいでダイが死ぬ」
踏み出しかけた足をレイナは引き戻した。
渋面になったセイスが彼女へ追及する。
「いまの自分が何なのか、どうなっているのか、君、わかってないよね。……そんなものになるのに、いったい、何人を犠牲にしたんだ……!?」
セイスの珍しく荒れた声を聞いて、彼らの遣り取りを呆然と見ているだけだったダイの下にも、ようやく冷静さが戻ってきた。
「どうして……」
疑問がダイの口を突いて出る。
「どうして、司祭の方たちを、殺したんですか……?」
レイナは聖女となったのか。それとも別のものに変わったのか。ダイにはわからない。見たところの変化はない。
ただひとつ、いまのダイにはっきりとわかることがある。
いまわの際の悲鳴から判ずるに、司祭たちにとって自身の死は、未来に織り込まれたものではなかった。
レイナが殺したのだ。味方であるはずのものたちを。
レイナはダイに微笑んだ。
「あら、ダイやマリアージュ様には、最初からお伝えしていませんでした? レイナは世界をキレイにしたいの。ただ祈ることしかできない人たちを、一掃したいのです」
言っていた。確かに。けれども。それは。
「ペルフィリア、だけではなく……?」
「もちろんです。レイナが把握している限りすべてを消して差し上げました」
「……世界中、から?」
「残念ながら、西の獣の外まで術の範囲は及びませんし、把握しきれなかった人たちは、まだ残っているでしょう」
レイナはこう言っている。
この大陸でレイナが把握する、聖女の狂信的な信奉者はすべて、消したと。
戦慄するダイに、彼女は微笑んだ。
「この世界はね、ダイ。きたないのです。みにくいのです。皆、汗水たらす努力がきらいなのです。努力をしていても、祈るだけでどうにかなるならって、これまで大切にしていた日々の営みを簡単に放り投げ、親しさも関係なく、これまでのすべてを、踏みにじることができるのです。……ねぇ、ご存知? 例えば、治癒の術。聖女が生まれるまで、たくさんの種類があったのですって。なのに聖女がところ構わず人を癒してしまうから、無くなってしまったの。皆、聖女さまに頼ったのです。あぁ、聖女さま、うれしかったでしょうね。すごいすごいと褒めそやされて。頼られて。力を揮ったことでしょう。そうして聖女の手で、問題を解決されてしまった子らは皆、聖女さまがいれば何とかなると思って、それまでコツコツと、研鑽を重ねた術師を斬り捨てたのでしょう。だって、聖女に頼れば、すべて上手くいくのだもの。いまも――聖女を呼べば、すべて上手くいくと、思っているのだもの」
聖女に頼らない者たちは、きっと背信者として淘汰された。
正義感に酔った聖女と、それに甘えた民衆が生み出した呪いから、幾星霜を経ても脱却できず、子々孫々、いまなお救いを求めている。
聖女を欲している。
「そんなに求めるのなら、レイナが聖女になってさしあげる」
レイナは嫣然と微笑んだ。
「彼らの命と、引き換えに。聖女が生まれるのです。聖女が欲しい欲しいと、あれだけ叫んでいたのだもの。その礎になることぐらい、本望でしょう? 彼らの念願が、叶うでしょう? 彼らにとって、喜ばしいことの、はずでしょう?」
ダイは泣きたくなりながら首を横に振った。
言葉がでなかった。
レイナの言葉は真実で、そうではないと言い切れない。たとえそういう人ばかりであったとしても、あのように殺されていい理由にはならない。
けれどもレイナはそういう人たちに、群がられ、蹂躙されてきたのだろう。
それでも――……。
「きっと、レイナ様をただ、信じただけの方もいたはずなのに……」
彼女を慕って。彼女を応援するつもりで。そんな人が。
レイナが冷ややかに微笑んで断言する。
「聖女が無条件に自らを助ける。そのように考える方が愚かで他人本意で醜いのです。自分の弱さに居直ってばかりの汚い虫たちは、すべて消えてしまうがいい……!」