第一章 模索する調停者 1
ぼっ、と、火が灯された。
ひとつ、ふたつ、みっつ。装飾燭台の蝋燭に次々と。続いて魔術の灯篭から光が消されていった。室内の魔力濃度を調整するためだという。
デルリゲイリア王宮内で月光の最も射し込みやすい小会議室。特別に運び入れた月長石製の円卓は、倉庫の中で眠っていた骨董品だ。その中央には黒い半球状の魔術具が据え置かれている。表面の樹状模様からは青白い光が覗く。黒の表面に明滅するそれは、あたかも雷光のようだった。
魔術の灯りがすべて潰え、室内の明度が一段落ちる。
ヴ、と、虫の羽音に似た音が響いた。
淡い青に発光するひし形の板が計六枚、宙に格子状に展開する。板にはそれぞれ名前が刻まれていた。ドンファン、ファーリル、ドッペルガム、ゼクスト、ゼムナム、そして、商工協会――すべて、大陸会議にてひとつの円卓を囲んだ国々と、傍聴者の名である。表示された名の文字色が、青から緑へ変化する。
魔術具が正しく起動していくその様を、ダイは円卓に座すマリアージュの背後に控えながら見ていた。
『――女王マリアージュ?』
ドンファンの板を横切って線が閃くと共にかの国の女王の声が響いた。
室内に控えていた魔術師と文官たちが動揺を隠しきれずに震える。ダイの位置から見える、ロディマスの顔もやや強張っていた。マリアージュだけが机の上で手を組んで平然とした顔でいる。彼女は小首をかしげ、音声の主に呼びかけた。
「女王ファリーヌ。……こちらの声が聞こえておいでですか?」
『えぇ、とても』
寸刻も置かず、ファリーヌから返答があった。
『わたくしも聞こえております』
ゼクストの板に線が走る。かの国の女王が、感嘆らしき吐息を零した。
『ここまで明瞭に聞こえるだなんて……。これがあるなら、前回も小スカナジアまで赴かなくてもよかったのではありませんか?』
『女王ロヴィーサ、そうおっしゃらないで。これは前回の会議で各国の友好が確かめられたからこそ、商工協会のご厚意で、このように使えているのです』
『朕は前に皆と会えてうれしかった』
記憶にあるより明朗な活舌で述べた女王はゼムナムのアクセリナだ。
『あの会議は、たくさんの者たちが交流できたから、とてもよかったのだ。違うか?』
『――えぇ、女王アクセリナのおっしゃる通り』
別の女王の声が女王たちの会話に割り込んだ。
『とりわけわたくしたちのような小国にとって、皆々さまと友誼を結ぶ機会を得るという意味でも、とても有意義なものでした。……ごきげんよう、皆さま。おおよそ一年ぶりではありますが、お元気そうなお声を伺えて、大変うれしく存じます』
『わたくしもです、女王フォルトゥーナ』
ファーリルの女王リュミエラが、ドッペルガムの女王に同意を示した。リュミエラは板の向こうでちいさく笑ったらしい。気配を揺らしたあと、嘆息する。
『このような事態での会合でなければ、もっと嬉しいものだったのですけれども』
『……名残惜しいですが、歓談はいったんここまでといたしましょう』
ファリーヌの進言に、ぴり、と、小会議室の空気が張り詰める。
『――これより語りしこと偽りなく、これより契りしことはしかと叶えん……』
決まりの宣誓を唱和したのち、ファリーヌが厳かに宣言する。
『それではこれより、大陸会議を始めます』
険しい表情を浮かべて円卓に着席する女王たちの姿が見えるかのようだった。
ペルフィリア領タルターザ、クラン・ハイヴ領エスメル市の中間にあたるラマディ平原は、本来であれば二国の平和的な会談の場となるはずであった。ペルフィリア側の要求である流民流入制限政策も、前回の大陸会議で批准した、相互協力の原則に則ったもので問題はない。なぜそれが軍事衝突に転じたのか。現地入りの諜報員からは、会談の天幕が突如として爆散したと報告が上がっている。双方どちらが仕掛けたものなのか判別つかないまま、混乱した下の兵たちが交戦したらしい。ペルフィリア宰相ディトラウト・イェルニが行方を途絶させたことから、かの国が責任をクラン・ハイヴのエスメル市に追及。関与を否定した市長グラハム・エスメルがペルフィリアの使者を殺害し、結果、二国の全面戦争へ。
『エスメル市長は……確かにあまり、理性的な人間には見えませんでしたが、そこまで冷静さを欠くものでしょうか』
ゼクストの女王が漏らす。ダイはグラハム・エスメルとは挨拶を除いてまともに顔を合わせていない。だが目を通した議事録からは、彼が視野狭窄ぎみで、自尊心が高い人間であったことは伺えた。
マリアージュが手元の資料の表面をそっと撫でて意見する。
「直にその場を見ていないわたくしたちが、そこを議論しても意味はないかと。……問題は、これからです」
ペルフィリアとクラン・ハイヴの開戦の第一報を受けて、どの国も混乱した。デルリゲイリアも例外ではない。ペルフィリアもクラン・ハイヴもデルリゲイリアから見ると隣国だ。加えてとりわけ二国は広大な面積を要する国々で、その広さは大陸のおおよそ四分の一に達する。西大陸の宗主国であったメイゼンブルが健在だったころには、大陸の隅々までいきわたっていた街道が、いまなお方々で綻びを見せ、要所の交通が分断され気味なのも、元をさかのぼれば二国が過去に国境で小競り合いをしていたことに端を発する。休戦協定を結んで数年。平和を訴求した大陸会議で協定の延長に合意し、一年も待たずこれだ。強大な二国が大陸会議内の決定内容を放棄することは、会議における他の決定すら揺らがしかねない。
前回の会議にて結んだ協力体制を、より強固なものとしておくこと。そして二国の全面戦争の状態緩和に向けて、協調路線を探る事。このふたつを議題として、方々が様々な調整を施し、今回この遠隔的な大陸会議の開催にまでこぎつけた。
『現状の詳細な確認を行いましょう――ボルス?』
『我が陛下に代わりまして、このボルス・ベルンメクが失礼いたします』
ファリーヌの呼びかけに応じて、かの国の宰相、老齢の男の声が響いた。
『わたくしめから、当国が把握する限りの現状を、ペルフィリア、クラン・ハイヴ、それぞれの観点よりご説明申し上げます』
ダイの傍に控える文官たちが筆記に構える。
『まず、ペルフィリアです』
ダイも脳裏によぎるやさしい人たちの面影を意識の隅へと押しやり、拝聴の体勢を取った。
『タルターザを起点に民衆の移動が始まっております。西と北へ……北は王都ですな。大陸間移動の無補給船がありますから。その殿をする形で、ペルフィリアは防衛線を張っております。タルターザ近郊には一個大隊。そこから東に向けて国境沿いに中隊規模を点在。そのほかの関所も封鎖されました。女王セレネスティは移動する民の制御にも苦慮されておられる様子で、会議室から出てこぬことのこと』
『よく調べましたね』
感嘆をにじませた声はサイアリーズのものだった。ゼムナムの女宰相。ダイたちが小スカナジアで世話になった、気さくで、けれど抜け目のない麗人は、鋭くドンファンの宰相へ追及する。
『イェルニ宰相の安否は把握しているようでしたか?』
『……お伺いの意図を?』
『宰相はペルフィリアの柱でしょう。女王セレネスティも傑物ではありますが、この事態をひとりでどうこうできるとは思いません。宰相の生死の如何によって、わたしたちは対策を打つ手を早めなければならない』
『違いありませんな。……宰相の行方は不明です。それを伏せているかもわかりませんが、状況はよろしくないかと。……宰相とともに軍の将も不在のようです』
『将?』
『ヘルムート・サガン総大将――ペルフィリア騎士団の総長です。どうやらイェルニ宰相の伴をされていたのはかの御仁だったとのこと』
ペルフィリアにおける名家サガンの長老。片眼鏡の洒落物好きの好々爺。
――おじょうちゃん。
マリアージュの手がふいにダイの指先を後ろ手に握る。ダイは目だけを動かして主人を見下ろした。彼女は宙に投影された板をじっと見据えたままだ。ダイは内心苦笑しながらマリアージュの手を一度だけ握り返して離した。魔術具から生み出された板に視線を戻す。
主人にここまで心配されていては世話ない。
『軍の統制はとれている、のかしら』
フォルトゥーナが疑念を零す。幸いなことに、と、ドンファンの宰相は返した。
『ただ何故かの方をイェルニ宰相が伴われたのかわかりかねますが』
『戦争になるような会談ではなかったはずなのよ。宰相の護衛に上の人間が護衛として付き添っても無理はないわ』
『とはいえ、宰相は専属の近衛をお持ちのはずですが……。それに真実、互いを警戒していなければ、タルターザ砦でなければ、エスメル市庁舎でもない、荒野のただ中を会談場所に選んだりはしないでしょう』
女王と宰相たちのやり取りに、その通りだ、と、ダイは心中で同意した。
ディトラウトはゼノを筆頭に、少なくない数の近衛を持っている。近日に増やした新参は信用を置くに足らなかったからかもしれないが、ゼノたちを置き去りにする理由はないはずだ。彼らならディトラウトに付いて行きたがっただろう。
(危機を感じていたから、ゼノさんたちを連れて行かなかった……?)
「ペルフィリア東の民が移動を始めて、西の情勢はどうなのかしら、ベルンメク宰相」
マリアージュがボルスに問いかける。ダイは黙考を中断して主人の声に耳を傾けた。
「ペルフィリアの東部の穀倉地帯は収穫期を迎えているはずです。そちらへ派兵した気配は?」
『わかりません。そこまでは注視しておりません』
『何か憂慮すべきことがおありのようですね、マリアージュ王陛下』
サイアリーズが口を出した。
マリアージュが組んだ手に顎を載せて呟く。
「ペルフィリアの領地は元々複数の国だったものです。ペルフィリア本体は王都近郊から東にかけての一帯で、残りは六、七年前に併呑された地域のはずです。ペルフィリア本体は融和政策を取っていても、民間の感情は別のはず」
『あぁ……なるほど。民衆の感覚的には、東から逃げてきた民が、自分たちを侵略しにきたようにも取れる……安全弁としての派兵は必至のはず』
ファーリルの宰相が独りごちる。
マリアージュは頷いた。
「民の衝突を見のがすセレネスティ女王とは思いませんが、手を回すに至っていないのなら、最悪、内乱が起こるでしょう」
マリアージュの断言に沈黙が落ちる。
『……次は、クラン・ハイヴについてを』
やや置いてから、ボルスが説明を再開した。
『クランはご存知の通り、六つの自治都市から成り立っておりますが、エスメル市の先走りによって、最悪なことに、議会が瓦解しました』
『瓦解? 紛糾ではなく?』
『さようでございます、ウェスプ宰相』
ボルスがゼクストの宰相に肯定を返した。
『今回の事態の収束に向けて、各自治体は会議の開会を拒否しました。都市部は門を閉鎖。農村部が北部のエスメル市から逃げてきた民によって打撃を受けています』
『そんな……傍観を決め込んでいるっていうの?』
ファーリルの女王が信じられないと声を震わせる。
彼女にドンファンの宰相が神妙に告げた。
『傍観ならまだよろしいですよ。複数名は職務を放棄し、逃亡しました――エスメル市長、グラハム・エスメルが殺害されましたので』
『……それは、本当なの?』
『残念ながら』
フォルトゥーナの問いに宰相に代わってファリーヌが応じた。
『エスメル市はペルフィリアの進軍も受けて壊滅しました。残り五都市、ほとんどまともな回答はありません。唯一、落ち着いているのはルグロワ市です』
レイナ・ルグロワの治める都市だ。ルグロワ河のほとりに広がる、黄色の砂に晒された街。
マリアージュが眉間にしわを寄せて問う。
「ルグロワ市長は今回の事態に対し、何か声明を出しているのでしょうか?」
『何も。それがいっそう不気味なまでに沈黙を保っておいでなのです』
「イネカ・リア=エル議長はどうなされたのでしょう。……連絡はとらなかったのですか?」
クラン・ハイヴの影の女王として前回の大陸会議に出席したイネカ・リア=エル。彼女は各都市の市長とはことなり、他国との協調を重んじる女性だった。市長は放置しても、彼女なら今回の会議に臨み、事態を収束させる姿勢を見せたはずだ――本来なら。
『かの方は行方不明です』
ファリーヌがため息交じりに呟いた。
『いえ、元々、クラン・ハイヴ中を移動されている方ではありました。ただ前回の会議にて、直通の招力石は登録されておりました。ですが……』
「応答がない?」
『魔術師が言うには……生命反応が』
連絡に用いる招力石そのものが砕かれたか、あるいは登録された当人の命が奪われたか。
サイアリーズが問いを口にする。
『……最後に所在を確認された場所はどこなのでしょうか?』
『エスメル市のようですね。開戦の直前です』
『……ひとつ、よろしいでしょうか』
フォルトゥーナが発言する。目の前にいれば挙手していただろう。
『うちの国章持ちが情報を。……二国間の調印、どうやらイェルニ宰相のお相手はエスメル市長ではなく――ルグロワ市長だと』
フォルトゥーナの国章持ちはファビアン・バルニエ筆頭外務官である。ドッペルガムにおける、諸外国の情報の担い手だ。
『……なぜルグロワ市長が?』
ペルフィリアが問題視する流民に最も関わり合いが深い市は最近接のエスメル市だ。だからこそ調印場所もエスメル市とタルターザの中間に設えられた。対してルグロワ市はタルターザから距離がある。その市長がわざわざ出張ってくる理由は多くない。
『議長の指示?』
『わかりません……彼女から話を聞かないことには』
だが肝心のレイナ・ルグロワは沈黙を保っているというのだ。
マリアージュが口元に拳を押し当てて黙り込む。
「……なぜクラン・ハイヴはペルフィリアと交戦できているのでしょう?」
これまで会議を静観していたロディマスが疑問を投げた。
「エスメル市は崩壊、各都市は沈黙、議会は瓦解。議長は行方不明。では、ペルフィリアと衝突している軍はどこのものでしょう? 指示はだれが」
『聖女教会です』
ボルスが答えた。
『ここが複雑なところですが。タルターザを攻撃している兵は、元はザーリハなどの西方から流れてきた元騎士階級です。それを聖女教会が吸収したようなのですが……傭兵として、エスメル市からの軍に多く組み込まれていました』
『傭兵ならなおさら疑問です。雇い主が不在となったのなら、ペルフィリアを攻撃する理由は失われたのではないのかしら』
『それがですな、ロヴィーサ王陛下、彼らは金銭のために参加したのではないようなのですよ』
『金銭のためでないのなら、何です?』
『聖戦、と』
小会議室に唖然とした空気が流れる。
それはどの国も同様だろう。
『せいせん、とは、なんだ?』
『教会にとって大儀のある戦い、ということです、アクセリナ王陛下』
「……ペルフィリアへの侵攻が、聖女の復活に、関係があるということ?」
『……聖女の復活、ですか?』
ファーリルの宰相が反応を示す。えぇ、と、マリアージュは頷いた。
「皆さま、聞かれたことはないかしら。ここのところ、聖女教会では聖女の復活が囁かれている。人々の祈りが聖女の復活を促すと。……そうね、ダイ」
「はい」
主人に説明を促され、ダイは口を開いた。
「祈ることで聖女が復活すると――その兆しがあるのだと、いま、民草の間では密やかな噂となっております。聞けば祈りによって魔術素養を得た子どもがいるのだと」
『それは本当なの?』
ドンファンの女王が食い気味に詰問する。
ダイはゆるく首を横に振った。
「あくまで市井の噂と捉えください、ファリーヌ王陛下。ですが……聖女を望む声は日に日に膨れ、ところによっては異様な雰囲気であると聞きました」
その噂を最初にダイの耳に届けた当人はディトラウトだった。ペルフィリア内で膨張する聖女教会の影響に彼は苦慮していた。当時はペルフィリアの脱出を企てている最中だったから、ダイはさほど気に留めていなかったが、デルリゲイリアに帰国し、同様のことを宣ったリリス・カースンの話を聞いて、さすがに気持ちの悪さを覚えた。
――妙な動きが密やかに広がっている。
ダイが市井の出身であることは各国代表者たちに知られている。彼女たちは聖女教会の噂をダイが故郷から得たと理解したようだ。深い追及はなかった。
『……その噂は、あまり、よくないものです』
ファリーヌが歯切れ悪く呻いた。
『今回の開戦で、多くの流民がまた生まれました。彼らの多くは聖女教会のアサイラムに救いを求めたはずです』
アサイラムは聖女教会が運営する保護施設である。聖女の慈悲の精神の下、商工協会より積極的に流民の保護にあたっている。
『もしも聖女教会が、聖女の復活を説いているのなら……それはやがて保護された者たちの、自助の精神を挫きます』
もちろん国は民を支援する。
だが、彼らにはいつか自ら立ってもらわなければ共倒れとなる。
「……一時、休会といたしませんか」
マリアージュが提案する。
だれも否を唱えなかった。