第十章 懊悩する青年 3
男は無言でダイを先導する。あれほどダイの行く手を阻んだ人の波が、面白いように割れていった。
彼はダイの手を引きながら、足が縺れるほどの速さで進んでいく。
ほどなくして人の疎らな場所に辿り着き、ヒースは振り返って雷を落とした。
「……どうやったら逸れたりするんですかっ!? あなたはっ!!!」
「ご、ごめんなさいっ」
その声量に、ダイは身を竦ませる。しかしヒースは容赦なく、立て続けに怒声を浴びせかけた。
「ぼうっとしているから迷子になったりするんです! もう少ししっかりしてください!! 城の中なんですよ!? たとえ迷ったからといってむやみに歩くものじゃないでしょう!! 貴女には驚かされますよ! いろんな意味でね!!」
腰に手を当てた男は、嘆息に一度言葉を切った。
「……ヒ……リヴォート様が、わざわざ探しに来てくれたんですか?」
「えぇ」
ヒースは即答した。ダイを見下ろすその目は、変わらず冷ややかだった。
その顔を、直視できない。
他でもない彼が迎えに来てくれたのだと思ったとき、あれほど胸を焦がした狂喜も、今は静まり返っている。
ヒースが再び嘆息する。その拍子に、肉厚の葉が彼の肩からひらりと落ちた。
「……リヴォート様は、どこで私を最初に見つけたんですか?」
彼の衣服にひっかかる枝葉に目を留め、ダイは呻いた。
「あちらの庭ですよ」
ヒースは顎で方向を示唆する。
「正確に言えば、庭に入る前、ですかね。距離があったので呼び止めることができなかった」
「……じゃぁ、追いかけてきてくれたんですか?」
ダイの足跡をそのまま辿って、探し歩いてくれたというのか。
「えぇそうです。追いかけざるを得ないでしょう。責任がありますからね」
使用人たちの監督者としての責任が。
一音一音、言い含めるようにして紡がれる、厭味たらしい言葉に、かちんとくる。
「……責任者だったら、別にしゃしゃりでてくる必要、ないんじゃないですか?」
「……えぇ?」
眉間の皺を深める男に、ダイは語気を強めて言った。
「リヴォート様が探しに来る必要はないんじゃないですか、って言ったんです!」
ダイはヒースの手を振り払い、距離を取って叫んだ。
「責任者なら責任者らしくきちんと引っ込んでいてくださいよ私は放っておいて!」
「……はぁ!?」
愁傷とは程遠いダイの態度に、唖然とした顔でヒースは叫び返す。
「どういう意味ですかそれは!?」
「そのまんまの意味ですよ! 責任者が率先して動いてどうするんですか! 他の人を動かせばいいでしょう!? 大体別にリヴォート様が探してくださらなくてもそのうち一人で帰り着いてました!」
「一人で帰れるなら、何故こんなところで立ち往生してるんですか!?」
「リヴォート様だってお城で案内もなしに一人でうろうろするってどうなんですか!?」
「あいにくとつい先ほどまで城の方と一緒にいましたよ!! 貴女を探してね!!!」
「じゃぁ他の皆は!?」
「控え室で待ってますよ!」
「探しに来たのはリヴォート様だけってことですか!?」
「薄情だと思わないでくださいよ! ティティアンナなんて自分を責めてた!」
「誰もそんなこといってないじゃないですか! わたしがっ……言ってるのは……っ!!」
叫びながら、ダイは自分の考えが誤っていないことを確信する。
口を噤むヒースを見返し、ダイは拳を握り締めて呻いた。
「何で、リヴォート様が来るんですか……? なんで」
何故、他でもないこの人が、自分を探しに来るのだろう。
何故。
一体どれほど長い間探し回ってくれていたのか、男の髪は滲む汗で皮膚に張り付いている。よく見れば肩口には生垣の葉が引っかかり、手には枝で傷つけたのではないかと思しき擦り傷があった。
「嫌いなら……放っておいてくれればいいんですよ……?」
最後の最後まで徹底的に、突き放してくれればいい。
「私を監督する、責任があるから?」
確かにヒースには責任がある。当主代行の彼は使用人を執事長と共に纏める立場だ。
しかし。
「……それは、あなたが出てくる理由には、ならないんですよ……」
責任あるというのなら、それこそ彼は用意された席で、皆を監督しながら待っていなければならなかった。代わりに動ける者は、いたのだから。
「なんで出てきたりするんですか?」
彼の目はどこまでも暗く、冷えて、ダイを拒絶する。
「なんで、ヒースが、探しに来るんですか……?」
それでも最後の一線で、彼は自分を助けようとする。
だから、嫌えないのだ。
「……ヒースが、私のこと嫌いになったならそれでもいいです」
ダイは顔を伏せて呻いた。
「でも何が嫌いになったのか教えて欲しいです。それが駄目なら、最後まで冷たくして置いてください。じゃないと……困る」
「何故、困るんですか?」
「何故? 当然じゃないですか!!」
ヒースらしくない惚けた問いに、ダイは歯噛みした。
「だってこれから、ずっと一緒に仕事していくのに! ずっと一緒にいるのに、一緒にいたいのに! 理由もわからずに冷たくされてたらしんどいですよ! ティティに冷たくされたときも、すごくしんどかった! ヒースはそれをわかってるじゃないですか!」
侍女頭との一件の後、ティティアンナから距離を置かれた。僅かな間だったが辛かった。
それを男は知っている。ダイを気に掛けて励まし続けたのは、他でもない彼だったのだから。
「最後まで……最後まで冷たくされてたら、こっちだって、やり方があるのに!」
ぎりぎりで優しいから。
助けようとするから。
差し伸べられるその手を取らずにはいられなくなる。
まだ見放されていないのだという安堵と、これからも拒まれつづけるのだろうかという苦悩が相克する。
「どうして……!!」
ダイの追求に、男は僅かに顔を歪ませるだけだ。
「ヒース……っ!!」
「だまりなさい!!!」
しん、と。
水を打ったかのように、一帯に静寂が訪れた。
一人ひとりの頭を木槌で打ち据えたかのような少女の怒声に、誰もが目を白黒させている。
ヒースがふいと顎を上げ、目を眇めた。ダイもつられて面を上げ、彼の視線の先を注視する。
中庭に面した露台に、一人の少女が立っていた。
マリアージュだ。
女王候補の演説が不明瞭ながらも聞こえていたので、傍が会場なのだろうとは思っていた。が、近いどころではない。ここは、観客席の真っ只中だった。
木立と花、そして水路に囲まれた広大な中庭。露台がよく見える中央部分に、賓客用の席が設けられている。その周囲に、来賓の侍従と思しき人々が集っていた。先ほどダイの行く手を壁のように阻んでいた群集は彼らのようだ。
観衆にゆっくりと目線を廻らした彼女は、不快そうに唸った。
「……あんた達、人が話そうという時に騒がしいわ。……黙りなさい」
しかし既に皆、口を開くことはおろか、身じろぎ一つしていない。ただ唖然とした表情で、女王候補を見上げていた。女王を決する演説の場で候補者が観衆に怒声を浴びせるとは、誰も予想していなかったことだろう。少なくとも他の候補者は、朗らかな笑顔を絶やさなかったに違いない。
「愛嬌を振りまくとかいう発想がないんですかあの方は……」
ヒースが頭に手を当てて嘆息を零した。
「本当にいつも通り命令するなんて……」
喉元からこみ上げてくる笑いを、ダイは必死にかみ殺す。振舞い方について悩む彼女に、普段と同様に命じればいいと助言したのは自分だが、まさか本当に実行されるとは思っていなかった。
辺りは静かだった。場をあれほど支配していた興奮も熱気もない。心地よい風だけが頬を撫でる。
まるで誰も存在していないかのように、静寂が場を支配していた。
ダイは改めてマリアージュを見上げた。
――……華やかさよりも、超然とした美しさを目指した。
長い髪は細かく結った後、余さず一つに纏め上げた。そうすることで濃さを増した髪色は、陽光を浴びると赤に艶めく。その色に映えるよう、髪に挿す二輪の野薔薇には、白を選んだ。
纏う衣装は光沢ある真紅に、金糸を織り込んだ黒の薄絹を重ねたもの。彫刻施された露台の柵越しに、その裾の赤と黒が風に踊り、真夜中の極光のように幻想的だった。
マリアージュはかつて言った。
他の女王候補と比べ謗られる己に、自信がないのだと。
誰が彼女を、美しくないと言ったのだろう。
彼女はこんなにも、他を圧倒してそこに在る。
「……貴方達はそれぞれ、もう自らの女王を決めているのでしょうね」
露台の端ぎりぎりに立った彼女は柵に手を添え、静かに語り始めた。
「だから敢えて改めて、私を選べとは言わないわ」
ダイはぎょっと目を剥いた。傍らのヒースも色を失くしている。当然だろう。
マリアージュはあらかじめ用意していた原稿と異なった内容を口にしているだけではない。あろうことか己を選ぶ必要などないと言ってのけたのだから。
ダイたちの驚愕を他所に、マリアージュはとつとつと語り続ける。
「私には力がない。今この場に女王候補として立っていることすら、私には信じがたい。当然、女王になったとしても貴方たちの望み一つ一つ叶えてあげる余力はないわ。……他の候補達がどうなのかは知らないけれど」
他の候補者は支持者たちにその見返りとして、様々な便宜を図ることを約束している。
しかしマリアージュはどの支持者に対しても要望を叶えてやるつもりはない、自分を選んだところで旨味はないと宣言した。
いくらガートルード家一門から支持を受けているとはいえ、マリアージュの行いは、正気の沙汰とは思えない。来賓席では、今頃ルディアが青くなっていることだろう。
「……何、考えてるんですか……」
たとえ当人が約束をしていなくとも、ヒースは様々な交渉を通して中級下級貴族たちにマリアージュへの支持を呼びかけている。彼女はそれを足蹴にしたのも同然だった。
異様な演説に、俄かに不穏な空気を増した観衆を、マリアージュは見据える。
「だけどこれだけ、私は貴方達に約束をするわ」
マリアージュは絹の手袋に包まれた指先を天に真っ直ぐ向けた。
「私が女王である限り、私は、貴方たちをすべて同列に扱う。貴方達がどんな攻防を繰り広げようと関与しない。尽力にはそれに見合う報酬を。怠惰と罪には制裁を。そして貴方達が、いえ、私も含めて、今までと同じような形で日々を暮らしていけるように、私なりの方法で力を尽くす」
一度言葉を区切り、マリアージュは微笑んだ。
微笑んだように、見えた。
そしてそれは、とても美しいものだと、ダイにはわかった。
「私には力がない。だから助けなさい。貴方達が守り受け継いできた家と叡智が、私を助けることを信じます」
それは、女王候補者としての、演説ではない。
それは、女王が家臣に向けた宣下、そのものだった。
「私は祈らない」
マリアージュは宣誓する。
「誰に祈るわけではない。貴方達にこれまでと変わらぬ日々を。更なる研鑽と、繁栄を、私が約束いたしましょう」
演説が終わり、女王候補に投票すべく貴族たちは聖堂へと向かう。
その反対方向に先導するヒースを追って、ダイは歩いていた。互いに無言だ。細い中庭を行く二人分の足音だけが、規則正しく響いている。
沈黙に飽きて、ダイは男の広い背中に話しかけた。
「マリアージュ様、大丈夫でしょうか?」
返答は、期待していない。
「練習してたのと違いましたし、いきなり怒鳴り声から始まるからびっくりしましたけど、私はすごくよかったなって思うんです」
マリアージュが皆に約束した『変わらぬ日々』とは、ダイが望んだことだ。自分の意見を取り入れてくれているのだと思うと、ひどく嬉しかった。
「でも、みんなの反応が他の人たちのときと全然違うんで、心配です」
他の女王候補の演説が終わった時、観客は皆、歓声を上げて彼女らを讃えていた。しかしマリアージュの時は彼女が露台から姿を消しても微動だにせず、静まり返ったままだったのだ。
「あれはよい演説だった」
思いがけず反応があり、ダイは瞬いた。
歩みを止めぬまま、ヒースは続ける。
「貴族は上下関係に縛られる。それゆえに、自分たちよりも上のものに、助けろと請われることに恍惚を覚える。あの演説は皆の自尊心をくすぐったでしょうね。命令され慣れている彼らからすれば、あの方の口調など些細なことだ」
「マリアージュ様が……女王になる?」
「えぇ。なるでしょう」
淡白な声音で、ヒースは断言した。
ガートルード家の支持を受け、確定的となった女王の座。だが中立派の票の動きによっては、状況を覆される可能性もある。
「騒がしかったのは皆、話半分に聞いているからだ。野次と変わらない。……マリアージュ様については、誰もが皆、何も言えずに聞き入っていた」
立ち止まったヒースは、訝るダイを振り返って言った。
「なりますよ、女王に」
(なら、どうして)
男を見上げながら、ダイは思った。
(そんなにかなしそうなかおをしているの)
マリアージュを女王にすることは、この男の悲願だった。そのために、彼はずっと身を粉にして働き続けてきたのだ。ようやっと積年の努力が報われると、喜んでよいはずである。
しかしダイを見下ろす蒼の眼は、絶望の縁に立たされた人のそれのようだった。
過去を振り返れば、マリアージュが自立していくにつれて、彼は苛立ちを深めていったようにも思える。
――……もしかしてこのひとは、マリアージュが女王になることを望む一方で、彼女自身には女王になる努力を、して欲しくなかったのではないだろうか。
その考えが何を意味しているのかは、わからない。
ただ、肌がぞわりと粟立っていく。
立ち尽くすダイの前で、ふいにヒースが目線を上げ、蒼の目を僅かに細めた。
「ダイ」
「え? わっ!!!」
呼びかけに応じて面を上げたダイは、視界に飛び込んできた影に驚き、反射的にその場を飛びのいた。顔をとっさに手で庇いながら、指の隙間から襲撃者の正体を確かめる。
「か、からす!?」
まるまると太った巨大な鴉が羽音を立てて、すぐ傍を旋回していた。
「ひっ」
鋭い鉤爪が鈍く輝き、ダイは声にならぬ悲鳴を上げる。
「ダイ!」
恐慌状態に陥りかけるダイの腕を、伸びてきた男の手が鷲掴んだ。
「落ち着いて!」
「え、えぇ、む、無理ですよ!」
「大丈夫だ!」
「何が大丈夫なんですか!?」
鴉に襲われて、冷静でいられるほうがおかしい。
涙目で反論し、ダイはヒースの手を振り払った。ますます攻勢を強める鳥に、たまらず頭を抱えて踵を返す。だが逃げ出す前に、鴉は大きく羽ばたいてダイの横を通り過ぎていった。
「あはははははっ!!」
知った女の笑い声が、ダイの耳朶を軽やかに打つ。
鴉はその重みを感じさせぬ様子で、彼女の肩にふわりと降り立った。
「ごめんなさいねぇ、この子が粗相して」
「アルヴィー?」
笑い混じりに謝辞を述べるアルヴィナを、ダイは呼吸を整えながら睨め付ける。目の前で立ち止まった彼女は、ちょこちょこと首を動かす鳥の頭をゆっくりと撫でた。
「その鴉……」
飛び回っていた時にはわからなかったが、見覚えがある。
「うん。前に紹介したよね。私の遣い魔ちゃん。ダイたちを見つけたら教えてって言ってあったの。ちゃんと見つけられて嬉しかったのね、この子」
先ほどの襲撃は、どうやら主人からの使命を達成して喜んでいたが故の行動らしい。
紛らわしい、と胸中で毒づきながら、心なしか腰の引けている自分を、ダイは情けなく思った。
「ごめんね、驚かせちゃった?」
「もんのすごく怖かったです!」
「えーでも、遣い魔ちゃんなのに?」
「見分けなんてつかないですって!」
「今、使役できる術者が少ないはずですからね」
アルヴィナの肩の上で身づくろいする鴉を一瞥し、ヒースが口を挟んだ。
「見分けられなくとも無理はない」
「あらぁ? そうなの?」
「……遣い魔とそうでない鳥って、どう違うんですか?」
ヒースには遣い魔と普通の鳥との区別がつくのだろう。先ほども彼はさして慌てていなかった。どちらかというと、悠長に構えていた節がある。
質問に応じる代わりに、アルヴィナはダイの方へと手を伸ばした。その腕の上を飛び跳ねながら、鴉が指先へと移動する。薄い手袋に包まれただけの彼女の手を、鴉の鉤爪が傷つけるのではないかと、ダイは内心ひやひやした。
「大丈夫よ。痛くないわ」
「え? わっ」
鳥が頭に飛び移る。その爪が肌に食い込むことを覚悟したダイは次の瞬間、予想外の感触に瞬いた。
「……え、と。何ですか? これ」
何かが載っているという重みはあるものの、それは鳥のものではない。
「遣い魔ちゃんはね、私の魔力で動いている幻術なの。核があるから、物体をすり抜けるとかいうことはないんだけど、人を傷つけるとかいうことはないのよぉ」
「……だから、大丈夫って言ったんですか? 幻だと知っていたから」
ダイの問いに、ヒースは肯定を示した。
「アルヴィナのこの遣い魔は見たことがありましたからね」
とはいえ、いくら見たことがあったとしても、そう簡単に見分けがつくものなのだろうか。
羽音を立ててアルヴィナの肩へと戻り、身づくろいを始める鴉が幻術だとは、目視しただけでは到底看破できそうもない。
「アルヴィナさーん! 見つかったー!?」
突如、天から降ってきた声に空を仰ぐ。頭上を跨ぐ渡り廊下の欄干から身を乗り出して手を振る、ティティアンナの姿が目に入った。彼女の方もダイの姿を認めたらしく、その顔に喜色を浮かべる。
「あ! ダイ! よかった!! リヴォート様は!?」
「ここにいますよ」
木の陰から歩み出たヒースに、ティティアンナは呆れた眼差しを投げかけた。
「リヴォート様! 兵士の方が怒ってらっしゃいましたよ! 勝手にいなくなるから! ダイと合流できていたならいいですけど、後で謝りにいってくださいね!」
「わかりました」
「ヒース、兵士の人から許可もらってたわけじゃないんですか?」
ダイは首を捻ってヒースを見上げる。しかし彼はだんまりのまま、目線を合わせるようともしなかった。
「とにかく、間に合ってよかった」
ティティアンナは言う。
「早くこっち戻ってきてくださいよ! そろそろ、開票の時間ですよ!」