第十章 懊悩する青年 2
「雨が降るわね」
隣を歩くアルヴィナが指差す方向を、ダイは仰ぎ見た。彼女の言葉に反して、空には染め抜きの青が広がっている。雲一つない。
マリアージュたちに遅れて、ダイたち使用人も全員ではないが、城に入った。今は案内の兵士に付き添われ、控え室へと向かっている最中である。
「本当に雨降るの?」
ティティアンナの向ける疑わしげな視線を受け流し、アルヴィナは頷いた。
「うん」
「全然そうは見えないけどねぇ」
「家を出るときに雨雲を見たの」
とは言うものの、実際は魔から読み取ったのだろう。ダイはアルヴィナの横顔を眺めながら推察した。
「大丈夫なのかしら……」
そのようにティティアンナが不安顔になるのは、これから女王候補たちの演説と、選出された女王を公にする行進があるからだ。両方とも屋外で予定されている。
「大丈夫。降っても夜からだわ」
その頃には全てが終わっていると、アルヴィナは請け負う。ティティアンナは安堵に顔を緩ませた。
「よかった」
「ティティ!」
前を歩いていた侍女たちに呼ばれ、ティティアンナが足を速める。先を行く一団に紛れていく彼女の背を目で追っていたダイの隣で、アルヴィナが感慨深げに呟いた。
「いよいよねぇ」
「そうですね」
ダイはアルヴィナに同意した。
「ようやく……女王選が終わる」
エイレーネが崩御してから空白だった玉座がようやく埋まる。長かった女王選出の儀が終わりを迎えるのだ。誰が女王として選ばれても、ダイの生活はこれから一変するだろう。
「そういう意味じゃないよ」
アルヴィナが苦笑した。
「ひと段落したら、ヒースと仲直りできるでしょってこと」
虚を突かれ、ダイは目を見開いた。ここしばらく隅に押しやっていた問題が、頭を擡げて意識を侵蝕する。
「仲直りっていうか……。できるかどうかもわからないですよ。あのひと、変わらずあぁですし」
ヒースから拒絶され始めて、どれほどの日が経ったのだろう。もうここまで徹底して冷たくされると、怒りや悲しみを通り越して、笑えてしまう。
これまでは今日という日を前にして互いに多忙を極めていたので、顔を合わせることも滅多になかった。その分まだ耐えられていたが、今後は同じようにはいかぬだろう。
マリアージュが正式に女王となった場合、他の面々は女王静養の別宅として扱われるミズウィーリ家に残り、ダイと彼の二人だけが城に上がる。正しくは、女王の側近として城で再雇用されるのだ。万が一、マリアージュが選ばれなかった場合でも、ミズウィーリ家を支えていく同志である。どのような結果になったとしても、関係を修復する必要があった。
だが、その方法についてはお手上げだ。
「もう、どうしたらいいのか……」
嘆息するダイの髪を、アルヴィナは労わるように撫でた。
「今日、慰労会があるんでしょう?」
「あぁ、聞きました?」
今宵、ミズウィーリ家では使用人たちに酒が振舞われる。ヒースの発案らしい。なにも今日でなくともとは思ったが、マリアージュが女王になると使用人一同で集まることは難しくなると言われて納得した。
「うん。丁度いいじゃない。美味しいお料理とお酒挟んでゆっくり話し合えば」
「料理はともかく、私お酒駄目なんですって……」
「ヒースは大丈夫なんでしょ? お酒って人を陽気にして口を軽くするし。大丈夫、結果が出れば一息吐いて、ちゃんと話してくれるよ」
「……ならいいんですけどね」
初めのころは大丈夫だとダイも自身に言い聞かせていたが、もはや楽観的になれぬほどに、失望を繰り返している。
「アルヴィナさん!」
ダイの頭を撫でていたアルヴィナも、ティティアンナたちに呼ばれる。ダイに目配せを送り、彼女は歩幅を広くして前の一団に追いついていった。
幾重も階層を重ねた上下左右に広大な城。立ち入れる場所は限定されているとはいえ、その範囲だけでもミズウィーリ家、否、ガートルード家の屋敷を軽く飲み込む広さがある。二人の兵士が先導していなければ、たちまち迷ってしまうだろう。殿(しんがり)を務める兵士は、好奇心旺盛な侍女に絡まれて、慇懃な態度で城の構造を解説している。彼らを横目で眺めたダイは、ふと視界を過ぎった絵画の筆致に瞬いた。
絵に呼ばれ、足を動かす。壁に掛けられたそれに張り付いて、ダイは呻いた。
「おとうさん」
画家の署名は、父のものだった。
聖女と騎士を主題とした宗教画だ。ダイもよく知る魔の公国建国史の一節を、深みのある油彩で描いている。
――紅き国を打ち立てし聖女は、子らの安らぎを魔に願いて、その御身をまぼろばの地へと預け給う。
聖堂の棺に横たわる彼女の死を、傍らに跪き、床に突き立てた剣の柄に額を押し当てて騎士は嘆く。
――天は世の楽を極めし緑の園。地は苦難にて魔を縛する獄の如し。主よ。獄より解放されし我らが愛しき聖女に、永劫たる安寧を。
(……母の為に金を積むぐらいだから、それなりに腕あるって聞いてたけど)
城にまで、このような巨大な絵画を寄贈していたなどとは知らなかった。
絵の角に残された見知った筆跡を指でなぞり、ほう、と息を吐く。
そしてダイを取り巻く静寂に、我に返った。
ざっと、血の気が引く。
広い廊下には誰もいない。
自分一人だけが、残されていた。
「は? ダイが?」
城に到着し、ミズウィーリ家用として宛がわれる部屋へ移動している最中に、逸(はぐ)れてしまったのだという。
もたらされた報告に、ヒースは頭痛を覚えた。
「私のせいだわ……ちゃんと見てなかったから」
「ティティアンナ。ダイは子供ではないですよ」
皆、外見からダイを幼子のように扱うが、彼女は十五だ。自分の面倒は自分で見られる。ティティアンナが責任を感じる必要は全くない。だいたい、殿役の兵士は一体何をしていたのだろう。彼こそ職務怠慢で咎められるべきだった。
「ヒース」
先ほどまで案内の兵士たちと話しこんでいたアルヴィナが、歩み寄ってくる。
「兵士の人たちがダイの顔わからないっていうから、誰か来て欲しいらしいんだけど、私行ってくるね」
「待ってください。……私が代わりに行きます」
ヒースを意外そうに見つめ返した彼女は、首を捻る。
「でもヒース、忙しいんでしょ?」
「すべて終わりましたよ」
もうできることは何もない。
手出しできることは何もない。
だが、予感していた。
今日で、終わり。
全てが、終わり。
その形が見えたとき、自分は歓喜するのだろうか。
それとも絶望するのだろうか。
ヒースは微笑んだ。
「貴女たちは待機していてください。私がダイを探しに行きましょう」
馬鹿すぎる。
(また迷子になるとかって、どうなんですか自分……)
とぼとぼと歩きながら、ダイは胸中で呻いた。回廊は閑散としていて人気なく、随所に配置されているはずの兵士の影すら見当たらない。これでは、ガートルード家で迷ってしまった時と同じだ。
案内されている時は気づかなかったが、回廊はかなり入り組み、幅の違う通りが至るところで交差していた。階段もある。皆がどこへ向かったのかわからずうろうろしている間に、元の場所へ戻ることもできなくなり、完璧に迷子になった。
これを馬鹿と言わずして何と言おう。ダイは溜息を吐き、何度目かわからぬ角を曲がった。
そして今までとは趣異なる景色に、足を止める。
「あれ」
庭園だった。
どこか物寂しい、長らく人から忘れられている気配の漂う庭だった。花はなく、揃いの形に剪定された緑がぐるりと敷地を囲み、別棟との間を隔てている。
そちらの方から、歓声が風に乗って届く。
(あ、みんな、もしかしてあっち側?)
迷走している間に、移動していた館とは別の場所に入り込んでいたのか。
下手に迷路の如き廊下を行くより、最短距離を突っ切ったほうが早いだろうかと、欄干を越えて庭に出る。生え揃った芝生は青々として柔らかく、季節を考えれば奇妙なほどだった。ところどころに魔術文字の刻まれた石柱があるから、術式で植物の生育を管理しているのかもしれない。
わっと。
ひときわ大きい歓声が上がる。
しかも、距離が近い。
ダイは声の方角に見当を付け、駆け出した。芝生を踏み荒らすことに罪悪感を覚えたが、この場にじっとしているわけにもいかない。
密に生え揃っている垣根は存外高く、ダイの歩みを阻まなかった。時折、枝葉が髪や衣服の端を引っ掛けたが、それだけだ。小柄な身体に、この時ばかりは感謝した。
植木を潜り抜け、そうして辿り着いた場所には。
「……へぇ? 珍客だね」
一人の少女が、護衛に付き従われて座していた。
城を歩き回った末にようやく見つけた小柄な人影は、声を掛ける前に柵を乗り越えて庭に出た。注意深く周囲を見回した後、駆け出していってしまう。
「何を考えてるんだ……」
ヒースは思わず毒づいた。城は移動できる区域が制限されている。無論、彼女が突っ切ろうとしている庭は、不可侵領域だ。他の使用人たちから彼女が逸れたのは、故意ではないと断定できる。しかしこうも歩き回られれば、城の兵士たちから警戒されかねない。どうして大人しく、逸れた場所で待っていられなかったのか。
彼女は恐ろしく聡明で、恐ろしく頑固で、そして恐ろしく、間が抜けている。
「どうかしましたか?」
ヒースと共にダイの捜索にあたる兵士の男が尋ねてくる。彼女の姿に気づかなかったらしい。
庭の垣根の奥へ姿を消していく化粧師を意識しつつ、ヒースは答えた。
「あちらとあちらで人影が動いたんです。が、どちらを追いかけるべきかと」
男はヒースが指し示した二方向――庭とは明後日の方角にある廊下の先を交互に見やり、頷いた。
「わかりました。私はあちらへ参ります。リヴォート殿はあちらへ。真っ直ぐ進めば、最初の回廊に戻り、我々の 仲間が待っています。もしお探しの方が見つからなければ、そのままお戻りください」
「はい。お手間おかけいたします」
ヒースの承諾を確認し、男は廊下の奥へ駆け出していく。その背を見送り、ヒースは踵を返して庭の柵を越えた。
ダイの足跡を追いながら、嘆息を零す。
幾度となく繰り返した問いが、また胸の奥で頭を擡(もた)げた。
――……自分は一体、何をやっているのだろう。
何故、アルヴィナを引き止め、代わりにダイを探しに出たりしたのか。全て任せてしまえばよかったのだ。それなのに要らぬ労苦を買っただけでなく、許可なく庭に出る彼女を庇うために兵を振り切ってまでいる。
馬鹿げている。
本当に。
ヒースは舌打ちしながら生垣を掻き分ける。ダイが通過したことを、折れた枝葉が教えてくれた。その痕跡を注意深く辿る。肉厚の葉が手を強く押し返し、時に傷つけた。
遠くから集会する人々の歓声が聞こえた。彼女はおそらくこの声を頼りに移動しているのだろう。
柔らかい低木の枝がしなる。弾かれた葉が、横切る腕を思い出したように叩いていく。
ようやく垣根を越えて息を吐いたヒースは、人の気配に息を呑んだ。
ぽかりと空いた空間に椅子が据えられ、小柄な人影が座している。確認の為に向き直ったヒースは、唾を嚥下した。誰何の問いを投げかけるまでもなかった。
刺繍施された光沢ある薄布ですっぽりと頭を包み込んでいるため、顔の輪郭はわからない。しかし鷲と剣をあしらった国章の刻まれた淡い蒼の衣装を纏う者など、その紋が示す国の中でも限られていた。
来賓として招かれているのであろう、隣国ペルフィリアの女王。
セレネスティ・イェルニ・ペルフィリア。
護衛一人を従えただけの女王は、突然の来訪者に目を丸めていたが、やがて子供のように手足をばたつかせてけらけらと笑った。
「あははははおかしい! まぁったく誰も来ない場所だと思ってたのに、なんかいろいろ通るねぇ!」
ヒースは眉をひそめた。色々、ということはつまり、自分の前にも誰かがここを通ったということを意味する。
可能性は一人だ。彼女の所在を尋ねるべきか逡巡するヒースに、女王は絹に包まれた右手を持ち上げ、真横を指し示した。
「いいよ。僕は今、機嫌がいい。何も言わず通ることを許そう?」
予告なき侵犯者に、寛容を。
女王は薄く笑って付け加える。
「……早くね」
ヒースは我に返って一礼した。女王の指差す方向へ足早に向かう。
焦燥から、胸の奥が早鐘のように煩い音を立てていた。
庭を抜けたことに安堵する間もなく、ダイは人の波に飲み込まれていた。
(ほんとう、迂闊さを呪いたくなる……)
辿り着いた先は屋外の広場で、興奮の渦にある老若男女で溢れていた。彼らが一体どのような種の人々なのかを確認する間もなく輪に引き込まれ、現在もみくちゃの状態である。
それでも他人のいる場所に戻れて、人心地はついた。ダイに道を教えた少女には、感謝してもしきれない。
中庭の一角に席を設けていた少女は、他国からの賓客だった。本来ならば女王候補の演説を観覧していなければならぬ立場らしいが、退屈して席を抜け出し、あの場で時間を潰していたのだという。
(綺麗だった)
薄絹の隙間から覗いていた顔は端整で、零れる髪は黄金(こがね)色。象牙を思わせる肌は滑らかで、色粉を載せればさぞや映えるだろうと、化粧師としての腕が疼いた。
(それにしてもすごいひと)
ダイは改めて四方を見回した。周囲を固める人々は誰もが熱狂し、ダイの問い掛けに答える余裕をもたなかった。彼らの話の内容から、女王候補が近くで演説しているということはわかるが、それ以外のことはさっぱりだった。
人に酔い、意識朦朧とする。
今にも倒れそうだと思った瞬間、腕を強く掴まれ、ダイは驚きに飛び上がった。
「え!?」
ダイの細腕を、男の手が拘束している。
その腕伝いに視線を滑らせたダイは、かち合う薄い蒼の双眸に、嵐のように胸中を荒らす、泣き伏してしまいたい衝動を覚え、喉を詰まらせた。
(ヒース)
「あぁ、終わったわ」
演説を終えた女王候補メリア・カースンは、控えの間に入るなり安堵に笑みを零した。万事上手くいったと誇らしげな顔。そっと様子を窺ったマリアージュは首を捻る。
「自信満々ね、メリア」
「えぇ、皆、私の話をとてもよく聞いてくれたの。私が選ばれることは間違いないわ」
メリアは、陶然と目を細める。彼女だけではない。既に演説を終えた他二人も、同じように自らの選出を確信して戻ってきていた。彼女たちがこうも一様に同じ反応を見せることが、不思議でならない。
「その根拠は?」
「根拠?」
おかしなことを訊くなと言わんばかりに、メリアは顔をしかめる。けれど彼女がマリアージュに向ける眼差しは、すぐに哀れみを含むものとなった。
「可哀想なマリアージュ。これからのことが不安なのね。大丈夫。寄る辺ない貴女を見捨てたりはしないわ。話し相手として選んであげる」
「メリア。私は貴女に、何故女王になれると思ったのかと、訊いているの」
メリアは不快そうに眉をひそめる。
「口を慎みなさい。私が女王に何故なれないと思うの?」
「けれどクリステルもシルヴィアナも、同じように思っているわよ」
「それはあの子たちが身の程知らずなだけ。女王は私がなるわ。決まっているじゃない」
「だから何故?」
「お父様がそう仰ったもの」
「……は?」
予想していなかった余りに馬鹿げた返答にマリアージュは虚を突かれ、間抜けな声を上げた。
「お父様が仰ったのよ。下準備は全てしてある。女王となるのは、お前が上手くお願いできるかどうかに掛かっているって」
「お願い?」
「そう。演説を通して、投票する皆に。私、上手くやったわ」
メリアは微笑んだ。己が女王になることを、ひとかけらも疑っていない様子だった。観衆の演説に対する反応が、期待通りだったということなのだろう。
その内容は知っている。皆に慈悲を与え、庇護を与え、そして国土の幸せを願うというものだった。皆が幸せでありますように。臆面なく述べる彼女たちの姿に、マリアージュは嫌悪を隠せなかった。
「……メリア」
「なぁに、マリアージュ?」
上が下に見せる鷹揚さを装い微笑むメリアに、マリアージュは尋ねた。
「女王になったら、どんな国を作っていきたい?」
『貴女は女王になれたとしたら、どんな国を作っていきたい?』
かつて、アリシュエルがマリアージュに投げかけた質問をそのままなぞる。
「しらないわ、そんなこと」
メリアは即答した。
「アリシュエルもそんなこと言ってたわね。でも、お国のことを考えて、動かす人たちがいるのでしょう? 私が考える必要はないのではなくって?」
あとはおとうさまたちみんなにおまかせするわ。
ごく自然に責任転嫁する女王候補に、マリアージュは吐き気を覚える。その父とやらがどういう根拠に基づいて女王になれると主張しているのかも、彼女は知らないのだろう。
「マリアージュ・ミズウィーリ様」
案内の文官に呼ばれ、マリアージュは立ち上がった。傍に立てかけられた姿見が視界を過ぎる。そこに移った自分の顔に、マリアージュは微笑みかけた。
つい先ほどまで脳裏で暗唱していた、予め用意していた演説の内容を脳裏から消し去る。代わりに胸の奥で、闘争心の火が、揺らめいたのを感じ取った。
衣装の裾を絡げてゆっくり歩く。
行く手を阻むメリアの眼前で一度足を止め、マリアージュは言った。
「お退きなさい。メリア・カースン。歩みの邪魔です」
気圧されたのか、彼女は大人しく道を開ける。
マリアージュはそのままゆったりと、絨毯を踏みしめた。
文官が露台へと続く扉を開く。
熱を帯びた歓声が、ぬるい風と共にマリアージュを一気に取り巻いた。