第九章 煩悶する少女 4
「……納得いたしました」
ヒースはついに白旗を揚げ、マリアージュに向き直った。
「日暮れまでにはお戻りください。あと、どこを回られるのか、予定だけは教えていただきます」
「日暮れまで、ね。……いいわ。行く場所を仕度しながら考えるから、後で教える」
「かしこまりました」
「ダイ!」
「は、はい」
唐突にマリアージュに名を呼ばれ、ダイは背筋を伸ばす。ヒースに外出を認めさせたことで機嫌が回復したのか、彼女は愛想よくダイに笑いかけた。
「仕度するわよ、付いてきなさい」
「……はい」
ダイの気のない返事にも咎めの言葉を寄越すことなく、マリアージュは足取り軽やかに部屋を出て行く。
彼女に続き、アルヴィナが踵を返した。
「私もお仕事してくるわねぇ。ちゃちゃーっと終わらせてお部屋寄るから」
「え? あ、はい」
「それじゃ。ヒースもまたね」
「えぇ。頼みます」
ヒースの相槌に彼女は微笑み返し、ひらりと手を振って退室していった。
「……アルヴィー、部屋ってどこだかわかるのかな……」
何も訊かずに行ってしまったが、アルヴィナはマリアージュの仕度部屋がどこなのかわかっているのだろうか。
「使用人の誰かをつかまえて訊けばわかることです」
漏れた呟きに、思いがけず男が言葉を寄越した。
「この屋敷はそこまで広くはない」
淡白な声音だ。抑揚も何もない。
それでも反応が返ってきて、ひどく嬉しかった。跳ねるようにしてヒースに向き直る。しかし視界に入ったものはいつもと変わらぬ冴え冴えとした蒼の双眸だ。
感情の宿らぬ彼の端麗な造作は、まるで精巧な人形のそれのようで、温度というものが感じられない。
無造作に机の上に置かれた彼の手も。
きっと冷えているのだろう。
「……何か用事が?」
ぼんやりとヒースを見つめていたダイは彼からの問いかけに、苦笑しながら首を振った。
「何もないです。失礼しま……」
退室の挨拶を口上しかけたダイは、ふと思いついて衣服の腰を探る。衣服に縫い付けてある物入れの中から、目的のものを探り当てて面を上げた。
「あの、これ、アルヴィーが、作ったって、お土産にくれたんですけど」
手のひらを開いて、確認する。
銀色の、包み紙。
アルヴィナの作った、飴玉だ。
「リヴォート様は、いただき、ました?」
眉を僅かにひそめたヒースは、いいえ、と否定に頭を振る。どうやら二人の面会は仕事の話に終始していたらしい。
なら、とダイはヒースの傍に歩み寄った。
「あの、飴玉で。甘くて、美味しいんです。あ、いえ、そこまで甘すぎないから、多分、リヴォート様でも食べられると思うんですけど……」
傍に立つと、ヒースの纏う空気がダイを拒絶していることがよくわかる。手のひらの飴玉を直接手渡そうとしても、きっと断られるだけなのだろう。
「ほんとうに、おいしかったですし……疲れには甘いものが効くって、いいますから。ここに、置いておきますね」
書類の載った彼の机に包みを転がして、ダイは一歩、後ずさった。
男は、ダイを見ない。
徐々に、彼の拒絶は度合いを増してくる。彼がダイをその瞳に映すのはもう、他者の目があるときと、仕事の報告のとき、そして犯してしまった失態を責めるときのみだ。
置いた菓子も彼の口の中に入らず、無造作にくず入れの中に放り込まれてしまうだけなのかもしれなかった。
「……それじゃ、失礼いたします」
「えぇ」
そっけない応答。
わかってはいたが、軽く失望を覚える。
頭を下げ、ダイは退室した。
泣きたいとは、もう思わない。
ただ、どうしてこんな風に捩れてしまったのか、理由を知りたいだけだった。
部屋に一人取り残され、手元に置かれた銀の包みをつまみ上げる。アルヴィナの手製だというのなら、味は保証されていた。
その包みを握り締め、ヒースは席に戻った。椅子の背に重心を預け、天井を仰ぎ見ながら口元を歪める。
「……子供ですか、私は」
早く機嫌を直せと言われて菓子を与えられる、拗ねた子供のようだ。
無論、そのような理由でダイは自らの菓子をこちらに寄越した訳ではないだろう。彼女の口ぶりから、疲労を滲ませる自分を純粋に労ってのことに違いない。
そんな風にして欲しいわけではない。
こんなに冷たくしている。こんなに突き放している。理由も話さずに、徹底的に拒絶している。
苛立ち、憎み、罵り、厭ってほしかった。
なのにダイはただ哀しそうに目を伏せ、こんなふうに自分を労わる。
期待と異なる彼女の反応に苛立って、対応を厳しくして、そしてさらに、傷つける。
いつまでこんな不毛なことを、繰り返せばいいのだろう。
手の甲から腕にかけて巻きつけられた白い包帯が目に入った。ダイを庇ったときに出来た傷がその下にある。浅いものだったが、一度傷口が開いてしまったせいか治りが遅い。
その包帯に指を滑らせ、細く息を吐く。
最初にこの傷の手当てを施した男の言葉が、脳裏を過ぎった。
『余裕があるときだけでいい』
「……少しでも優しくしてやってくれ、か」
医者の男は、この言葉を自分に落とした。この国を出る己への、餞別代りに叶えてくれと。
些細な、願い事だ。世界のどこかで平和を貪る男の願いごと、叶えてやる義理などなかった。
だが、男は死んでしまった。
「餞別ではなく、遺言になってしまった」
男の生は断絶され、聞き流されるべき願い事は楔となって突き刺さる。
友人の死を受け、ただでさえ表情に精彩を欠く少女を痛めつける自分を、医者の男はまぼろばの地で呪っていることだろう。
――……それでも。
窓の外、広がる蒼穹。庭の向こうに見える城。その背後に横たわる山脈。
鳥が、飛んでいる。
羽を広げ、斜めに滑空している。
小さな包みを握り締める手にもう一方の手を重ね、目を閉じて呻いた。
「余裕など、ないんだ」
どこにも。
街へ向かう馬車の中。
守りを掛けておくわねと、ダイとマリアージュに何やらまじないを施した後、アルヴィナが問いに口を開いた。
「ダイ、ヒースと喧嘩してるの?」
マリアージュの髪結いに苦心していたダイは、危うく櫛を取り落とすところだった。
「な、なんなんですか突然?」
マリアージュの髪から手を離してダイはアルヴィナに叫ぶ。対面の席で背を丸め、膝の上に頬杖を突いていた魔術師は、きょとんとして口ごもった。
「え……だって気になったから」
「何がそんなに気になったんです?」
「気になるわよぉ。だって目だってマトモに合わせてなかったじゃなぁい? それにいくらお仕事中だからってダイへの対応やたら冷たいし。怖いぐらいだったものぉ」
「喧嘩なんてしてませんよ……」
溜息混じりに呻き、ダイは改めてマリアージュの髪結いに集中した。
本当は化粧だけでなく髪結いも屋敷で行い、仕度を全て整えてから出発するべきだった。しかし魔術の調整の確認を終えたアルヴィナと合流してすぐ、時間を惜しんだマリアージュが馬車の中でやれとダイに命令したのだ。
貴族は華やかさを出すために髪を背に落とすこともあるが、市井の子女は長くした髪を纏めているのが普通だ。ダイのように髪が短い女は例外であって、アルヴィナのように髪を軽く結わいて背に流すだけというのもないわけではないが珍しい。今日は目立たないようにアルヴィナにも自分で髪を結ってもらっている。
「あんた達まだ仲直りしてなかったわけ?」
窓枠に気だるげに肘を預け指の背に頬を乗せたマリアージュが、ダイを横目で見ながら尋ねてきた。
「鬱陶しいからさっさと仲直りしときなさいっていったでしょ」
「だから、喧嘩なんてしてないんですよ、マリア様」
編み終えた房を一旦髪に留め、次の房を指ですくい取る。
ダイは繰り返した。
「喧嘩なんて、してません」
「喧嘩じゃないならなんなのよ?」
マリアージュは苛立たしげに、髪を結うダイの手を払いのける。その顔には、呆れがありありと張り付いていた。
「いつもは普通を装ってるから放っておいてるけど、最近あんたたちが二人にならないことに気づいてないとでも思ったわけ? 普段は名前で呼び合うほど仲良しこよしだったってことぐらい知ってんのよ、私も。仲直りしておきなさいっていってから、どれぐらい経ったと思ってんの?」
「……本当に喧嘩はしてないです」
「でもなんだか普通におしゃべりできない感じなんでしょ?」
頬杖から顔を放し、肩をすくめてアルヴィナが問うてきた。返答に困り、ダイは押し黙る。その沈黙こそが、肯定を示してしまっていた。
「喧嘩してないなら、そんなふうになったきっかけがあるんじゃないのぉ?」
「それは――……」
反射的に口を滑らせそうになったダイは、喉をぐっと詰まらせた。
今も時折思い出す。
頬に触れた男の指先、腕の力の強さ。
そして、蒼の双眸に宿った熱を。
だめだ。
「い……いいたくないです」
無理だ。口に出せるようなことではない気がする。
アルヴィナは一度目を見開いたあと、形良い唇を歪めてどこか愉快そうに笑った。
「ふぅん? いったいなんなのかしらぁ……?」
「でもいつまでもヒースとあんたがおかしくなってたら、いくら鈍な周りも気づいてくるでしょ」
身体を起こしたマリアージュが、手に持っていた扇の先を顎に押し当てながら言った。
「というか私は今まで全然気づかない周囲の鈍感さに呆れるわ。なんて馬鹿なのかしら」
「いえ、まぁ、私達滅多に接点ないですし」
「でもわかるでしょ」
いや、普通はわからない。
ヒースと自分が単なる同僚以上――友人であると、ダイは思っている――だと、気づいている人間が仮にいたとしても、ダイの気鬱さの理由を、短絡的にその関係に結び付けて考えることはないだろう。それを女王選に見るほうが普通だ。それほどまでに、最近の自分達には接点がない。
マリアージュの人間関係への嗅覚のようなものには、しばしば驚かされる。
「どうやったら元のあんたたちに戻るわけ?」
マリアージュの問いに、ダイは肩を落とした。
「そ、そんなの、私が知りたいですよ……」
「でもこのままじゃぁ駄目よね。話し合いが必要だわ」
先ほどの面白がるような表情を消し去り、アルヴィナが心配そうにダイの顔を覗きこむ。
「ダイ、貴女ちゃんとヒースとお話した?」
「話しするような時間ないですよ、アルヴィー」
そんな余裕があればとっくに話し合っていると、ダイは胸中で呻いた。
「は? 話するだけで元に戻れるなら、早いじゃない」
肩透かしを食らったとばかりに、マリアージュが口を挟む。
「なに、話し合い? そんなのであんた達の陰気臭いのが直るなら、ヒースの時間ぐらい私が抑えるわよ」
「やややや、やめてくださいよマリアージュ様!」
「なんでよ?」
提案を棄却され、マリアージュがダイを睨む。さっさと解決すればいいじゃないと、胡桃色の目が告げていた。
だが、とダイは思った。今は駄目なのだ。きっと。駄目なのだ。
「ヒースは、疲れてるだけなんだと思うんです」
主人と魔術師、二人の視線を受けながら、ダイはしどろもどろに口を開いた。
「忙しくて、女王選が近くなって、ぴりぴりしてるだけなんだと思うんです。そこに、私が失態演じたりすることがあるから、こう、さらにいらいらしちゃうんじゃないかなって思ってます」
以前からぼんやりとは思っていたことだ。
それは口にすることで説得力を増し、マリアージュたちに論じながら、ダイは腑に落ちたような気分を味わっていた。
そう、ヒースは疲れているだけだ。
彼はマリアージュの父親が亡くなって以降、彼女を女王に押し上げるために一人で尽力し、他の貴族たちの矢面に立たされてきた。単なる雇われでありながら当主代行を務める彼に風当たりは強かっただろう。口に出したくないような辛いこともあったはずなのだ。
全ては、マリアージュを女王にするため。
今はその追い込みの時期だ。彼に圧し掛かる重圧、緊迫感は想像を絶する。気を張らないほうがおかしい。そのうえ立場的なものもあって、ヒースはダイと違ってミズウィーリ家の使用人たちに簡単に甘えたりすることができない。
だから彼は、自らではどうしようもない感情の揺れの捌け口に、ダイを選んだ。うぬぼれでなければ、ミズウィーリ家の中で一番近い人間だったから。
そう思うと、色んなことがすとんと収まりを見せる。
ヒースが自分を抱き寄せた意味も。その後の動揺も。苛立ち、拒絶しながらも、最終的なところではいつも自分を案じてくれている、その矛盾も。
苦しいとき、妙に人恋しいときがある。芸妓を求める客の大半は日常の鬱憤や緊張を紛らわすためにやってくる。それと同じだ。気が昂ぶってうっかり傍にいた自分を引き寄せた己に、彼は当惑したのだろう。ダイと関係を線引きしようとしたのは、二度とそういうことが起こらないようにするための自衛かもしれない。
大丈夫。彼は自分を拒絶しながらも、ぎりぎりで優しく必死になってくれる。
ロウエンが死んだとき、彼の手はずっとダイを支えていた。背後から、ダイの瞼を覆い、手を握り締める冷えた温度が心地よかった。
彼が支えてくれなければ、きっと自分は彼の死を受け入れられなかった。
まだ自分は嫌われているわけではない。ただ、それを信じる。
花街の女達は、確かに自分を慈しんで守ってくれたのだと、信じてきたように。
――……やさしさのりゆうをうたがってはいけない。
いきていけなく、なるから。
ヒースも、優しかった。最後の最後で、彼はいつも。その優しさを、自分は、信じる。
「もう少ししたら、きっと落ち着きますよ。今、時間がとれても、ゆっくりっていうわけじゃないですし、そんな短い時間でお話しても、中途半端になる気がしますし」
慌しい中、限られた時間で無理やり話していても、ヒースは気もそぞろだろうし、ダイも上手く言葉を紡げない気がした。
「……女王選が終わったら、どんな形であれ、きっともう少し気分が落ち着いてると思いますから、そしたら、仲直りできるように頑張ります」
ダイとてヒースのことばかりに感(かま)けていられない。彼と同じように、ダイもまたマリアージュの女王選に意識を集中させなければならない。
ダイは姿勢を正し、断りを入れて、沈黙しているマリアージュの髪を改めて手に取った。馬車が門のむこうに到着する前に、彼女の仕度を終える必要がある。
どことなく暗くなってしまった馬車の中の空気を変えるつもりで、ダイはマリアージュに尋ねた。
「……そういえばマリアージュ様、門のあっちに着いたらまずどこへ案内すればいいんですか?」
マリアージュは肝心の目的地をダイに告げていない。場所がわからなければ案内のしようもない。
返答する代わりに、マリアージュは一枚の紙片をぬっと取り出し、ダイに押し付けてきた。
今手に取っている一房を区切りの良いところまで結い終えて、ダイは紙片を覗き込む。そこには地名が走り書きで並んでいた。
蒼白になる。
「え? なぁにどこへいくことになってるの?」
ダイの顔色を見たアルヴィナが興味深そうに手を伸ばし、紙片を奪い取った。場所を確認するなり、彼女は口元に手を当てて笑う。
「あら、楽しそう」
いや、ちっとも楽しそうではない。
ダイは胸中で呻き、マリアージュに言った。
「リヴォート様、よく許可されましたね」
女王候補の少女は、ダイの発言を鼻で嗤った。
「馬鹿ね。なんで私がヒースに行き先の許可を求めなきゃいけないのよ」
「え? でも行き先教えてくれっていってましたよね?」
「だから馬車に乗る寸前、キリムに行き先を書いた手紙を託けてあげたわよ」
約束は守った、と宣う彼女に、ダイは唖然となる。
ヒースが行き先を教えろ、といったのは、おそらく事前に相談してくれ、という意味だったのだと思うのだが。
執事長から受け取った手紙を見て、盛大な嘆息を零しているだろう男の姿が思い浮かび、ダイは同情に天井を仰いだ。
紙片に書かれている目的地は概ね表通りを外れた場所ばかりであり――こともあろうことに、花街まで含まれていたのだから。