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第九章 煩悶する少女 5


 大通りを抜け、目立たぬ場所で馬車を降りる。日暮れ頃に同じ場所で落ち合うよう、不安そうな御者に命じて、マリアージュは早く街を案内しろとダイをせっついた。
「いっておきますけど、花街までは結構歩きますよ」
 マリアージュが案内先に指定した裏街は王都の面積の大半を占める。その中でも技術者達の職場は裏街の半ば、そして花街は城壁寄りの、最も奥に位置していた。ここからはかなり距離がある。
 ダイの忠告に、我侭な主人はそっけなく言う。
「構わないわ」
 賑々しく人が往来する陽光に照らされた大通りを行きながら、ダイは傍らのマリアージュを見上げた。化粧も控えめに、街娘らしく装いを改めている。不用意に周囲を見回すこともなく、堂々と通りを闊歩してくれるために浮世だった雰囲気はない。それでもその存在感は、群集の中にいて圧倒的だった。女王候補として選ばれたことは決して伊達ではないのだ。そこにいるだけで人目を惹いてしまうということがよくわかる。
「馬車に乗らないと、本当に大変なんですからね」
 一瞬見とれていたことを隠す為に、ダイは語気を強めた。
「結構よ。言ったじゃない。私は人が生活している場所を見たいのよ」
「上ったり下ったりとか階段もすごく多いですけど」
「だから、いいって言ってるじゃない。黙って歩きなさい」
「……はい」
 マリアージュは威勢良いが、ダイとしては気が気でない。道程はかなり入り組んでいるというのに。
 彼女が案内しろといった場所は、整備された商業区ではない。
 裏街なのだ。
 大通り沿いなど馬車でいつでも見て回れるだろうというのがマリアージュの言である。彼女の言う通り、裏街はそう簡単に見物出来る場所ではない。馬車がぎりぎり通過できる数本の通りを除けば、上下左右に曲がりくねった路地が蛛の巣の勢いで張り巡らされる区域だ。不慣れな者はまず道に迷う。ダイですら、全ての道を把握しているわけではない。マリアージュの足で、果たして付いて来られるのかはなはだ不安だった。
 裏街の問題は構造上だけの話ではない。治安のこともある。様々な人種が入り乱れて暮らしているのだ。気の良い職人がいれば、往来する人の身包みを剥がして生活する者も存在する。そんなところにマリアージュを連れて行くことはどうにも気が引けたし、面子が面子である。奇異の眼で見られるな、と案内する前からダイは溜息を堪え切れなかった。
 また何ゆえ、裏街を見てみたいなどと思い立ったのか。
 マリアージュは答えない。案内しろの一点張りだ。理由も聞かされずに彼女の我侭に振り回されるというのも本当に腹が立った。いつでも彼女を運び出せるように、馬車が往来する通り近くを選んで進む。そこも決して、平坦な道ではないのだ。
 裏街は密集する家とそれらを空中で結ぶ細い通路によって作られた、非常に立体的な迷路だ。どの道も入り組み、別の通りと上下左右に交錯し、迫り出す部屋のせいで急に幅狭くなったりする。真っ直ぐ平坦に伸びるように思えた路地が、角を曲がった瞬間に階段に変わることもある。道の頭上を別の道が通過していることもある。暗闇へ潜り込む道もあれば、太陽に向かって延々と伸びる道もある。
 そして複雑に入り組んだ通路そのものが、地味な作りである家の連なりの上に明暗はっきりとした陰影を作り、街並みをあたかも一つの芸術品のように浮き立たせていた。
「ダイ、歌が聞こえるわ」
 マリアージュが立ち止まり、ダイの袖を引きながら周囲を見回す。
「あぁ、あそこね。女の子が立ってる」
 アルヴィナが遠方の渡り廊下を指差した。その上で少女が両手を広げ、空に歌を捧げている。
「歌の練習してるんですね」
「あんなところで?」
「あの下に人集まってるみたいよー。あれ、舞台なんじゃなぁい?」
「あ、かもしれないです」
「ちょっとちょっと! 舞台じゃないでしょ! だってあれ単なる建物の屋上よ!?」
「でもあの下広場みたいだから」
「あーそうですね。ちっちゃい広場がそういえばあの辺りありました」
 この距離だと近場の家に邪魔されて見えないが、あの渡り廊下の下は路地が広くなっている。広場、というと語弊があるかもしれないが、人が集まる場所には違いない。
 マリアージュは、不可解そうな表情を浮かべている。
「あそこに行ってみます?」
「いく」
 ダイの提案に、マリアージュは即答だった。
 路地を右折し、階段を下る。一瞬、地下深くに潜っているかのような錯覚を覚えるものの、その道は即座に上りへと転じた。急勾配な坂を抜け、歌い手の真下に出る。
 マリアージュの私室と比べても狭い、僅かに開けた空間。
 そこに、子供が集まっている。
 皆、まだ片手の指の年に足りるかといった程度の幼さだ。一様に手を叩き、少女に向かって歓声を上げている。
 ダイたちが様子を見つめていると、彼らはふいに声を揃えて歌いだした。
 澄んだ声が朗として路地の壁に当たり反響する。一人が歌い損ねて気恥ずかしそうに笑うと、他の子供達も一緒に腹を抱えて笑い出した。
 家の二階同士を繋ぐ廊下の上で、その子供たちを見下ろしながら、少女は歌い続ける。
「あの子、ずっと歌ってて疲れないのかしら」
 逆行の位置に立つ少女を、額に手を翳して見上げながらマリアージュが呟いた。ダイも少女を仰ぎ見る。
「平気そうですね。……多分、礼拝堂の聖歌隊の人なんだと思いますよ」
「せいかたい?」
「歌い手です。礼拝堂で、祈りのときに歌を歌ったりするんですけど」
 そこまで説明したところで、貴族たちの祈りの様式は自分たち市井が行うそれとは違うのだと思い出した。市井はそれぞれ、住まいの近くにある礼拝堂に集まって祈る。その時刻によっては、子供達が歌や寸劇を披露した。彼らの親もまた歌手や俳優であり、そういった場所で場数を踏みながら、受け継いだ技に磨きをかけていくのだ。
 が。
「マリアージュ様たちにはそういうのないですもんね」
 貴族たちの礼拝は、主神と聖女に祈りを捧げて、終わりだ。
「……ないわね」
 マリアージュが神妙に頷く。
「こういうところは練習場所なんです。結構あるんですけど、大抵誰かしら、何かを練習したりしています」
「ふぅん。……そうなのね」
 生返事をダイに寄越し、マリアージュはしげしげと広場を眺める。彼女の胡桃色の双眸が、物珍しげにあちこちへと向けられている。その横顔を見つめながら、ダイは胸中でそっと自問した。
 ――……本当に、彼女は何故、裏街を見たいなどと言い出したのだろう。
「ダイ、ダイ」
 唐突にアルヴィナに袖を引かれ、ダイは振り返った。
「どうしたんですか?」
「あそこあそこ」
「え?」
 アルヴィナは懸命に指差すが、何も見えない。示される路地の奥には、暗闇ばかりが凝っている。仕方なく目を凝らし続けていると、ふいにその暗がりから人影がぼんやりと浮かび上がってきた。
 影の形作る見覚えある輪郭に、ダイは瞬いて叫ぶ。
「ミゲル!」
 呼ばれた当人は狐目を見開き、紫煙に薄く黄ばんだ歯を大きな口から覗かせ笑った。
「ダイ、アルヴィー、こんなところで何やってるんだわさ?」


 裏街の一角で雑貨店を構えていた男は、彼の所に出入りしていた医者の男を標的とした襲撃に巻き込まれ、そのまま行方がわからなくなっていた。
 アルヴィナから耳にした店の状態を鑑みる限り、ミゲルは一度もかつての住まい兼仕事場に戻っていない様子だった。無事に生き延びていることだけは襲撃に居合わせた情報屋の男から聞き知っていたが、それでも窮屈な生活を強いられているだろうと思っていた。
 しかし、だ。
「ただいまなんだわぁ」
「おぉ、おかえりぃ」
 目の前で熱い抱擁を交わして互いの安否を確認しあう男二人を見る限り、心配するだけ無駄だったようである。
 広場で再会したミゲルに案内された場所は、路地をさらに奥へと進んだ先にある細工師たちの町だ。ここの組合を纏める男とねんごろになって匿ってもらっていたらしい。最後に会ったときよりもどことなくつやつやして見えるのは、決して気のせいではあるまい。
「ダイ、なんなのあれ?」
 眉間に深い皺を刻んだマリアージュが、ミゲルたちにちらちらと視線を送りつつダイに尋ねた。
「なんなのって……あぁ、ミゲルは男色家なんですよ。二人は恋人同士なんですよ、多分」
「だんしょくかって……男が男を好きになるっていう、あれのことよね?」
「はい」
「……ほ、ほんとうにいるのね……」
「結構いますよ」
「あんたは平気なの? あれ見て平気なの!? 鳥肌立たないの!?!?」
「え?」
 びし、とミゲルたちを指差し、マリアージュは叫ぶ。ダイは改めて彼らを見つめ直し、肩をすくめた。
「当人たち、幸せそうでいいんじゃないですか?」
 ダイの返答に、何故か彼女はげんなりとした様子で肩を落とした。
「……今……あんたがすごく大物に見えたわ……」
「あははははははははっ!!!」
 マリアージュの横で、アルヴィナが爆笑する。一体自分の何がそのような反応を引き起こしたのか、ダイにはさっぱりわからなかった。
 ミゲルを出迎えていた男が彼を放し、こちらに歩み寄ってくる。ミゲルの好みらしい鼻梁の通った目元涼しげな美丈夫だった。目の前で立ち止まった彼は少し腰を屈め、ダイの背後の二人をまじまじ観察し始める。
「べっぴんばっか連れて羨ましいなぁ。俺にも分けて欲しいぐらいだ」
 彼は豪快に笑いながら、マリアージュとアルヴィナに秋波を送った。それを受け、マリアージュが青ざめながらざっと身を引く。
「あ、あぁ、あんた、男が好きなんじゃないの?」
 ミゲルとの仲を見せ付けた直後に女に興味を示すとは、マリアージュも思っていなかったらしい。声を裏返して呻く彼女に、男は微笑む。
「俺は可愛いやつが好みだ。あんたらも俺の好みだよ。どうだい今晩?」
「ありがとうございます。でも遠慮しておきます」
 マリアージュは嫌悪感に倒れそうな按配だが、ダイにしてみれば軽い挨拶程度の誘いである。
 ダイは誘いを受け流し、男の肩越しにミゲルを見つめながら忠告した。
「あんまりあちこちに色目使うと、ミゲルに刺されますよ」
「そりゃぁ気をつけておかなきゃな」
 笑いに肩を震わせる男に、悪びれた様子はない。このようなやり取りは、彼にとって挨拶にもならぬのだろう。
「自己紹介が遅れたな。ギーグだ」
「ダイです。こちらこそ、挨拶が遅れて失礼いたしました」
 差し出される男の手を握り返して、ダイは微笑んだ。
「こっちはアルヴィナ。私の友人。こちらはマリア様。他国からのお客様なんです」
「それで街を見学したいって? 好奇心旺盛だな」
「ミゲルから聞きました?」
 ミゲルが工房の責任者の下に匿われていると知った時、ダイは彼に見学を許可してくれるよう口添えを頼んだのだ。ミゲルは早速話してくれていたらしい。ダイの問いにギーグは、あぁ、と肩をすくめて応じる。
「聞いたよ。見学だろ? かまわんぜ。少々堪えるかもしれんがな。……おい!」
 話を区切った彼は、後方にいた若衆の一人を呼んだ。ダイとそう年の変わらぬ少年が、駆け寄ってくる。
「こいつが案内する。要望があったら言いつけてくれ。ただ、立ち入りを遠慮してもらいたい場合もある。そのときは悪いが……」
「もちろんです。これ以上の迷惑は掛けません。ありがとうございます」
 いくらミゲルの知人とはいえ突如押しかけてきた部外者である自分達に、工房の案内を許可してくれただけでも御の字だ。
 ダイの返答に、ギーグは満足げに笑って、用件は済んだとばかりに若衆たちのもとへと歩いていった。
 その背を見送っていたダイを、少年が促す。
「行きましょう」
 ダイは少年に頷き返し、案内を始める彼の後をマリアージュたちと共に追った。


 ギーグが見学を許可した場所は、皮細工の工房だった。
 居住空間となっている雑多で狭苦しい石造りの部屋をいくつか通り抜け、屋外の通路に出る。細長い道。左側には水路が通され、右の壁際にはくすんだ色の扉が並んでいた。
 この通路を抜けた向こうに、工房があるのだという。
「なんか、すごい臭いなんだけど……」
 石畳を歩きながら、口と鼻を押さえてマリアージュが呻く。彼女の言う通り、鼻が曲がってしまいそうなほどの酷い臭いが充満していた。汚物の臭いである。
 この臭いに慣れているらしい。涼しい顔をして少年は答えた。
「細工に使う革をなめしてるんです」
「なめす?」
 訊き返すマリアージュに、ダイは補足した。
「牛とか豚とかの皮を、マリア様もご存知の、固くて滑らかな状態にするっていうことですよ」
「……どういうこと?」
 マリアージュはますますわからない、と顔をしかめる。少年は立ち止まり、右にある扉の一つをおもむろに開いた。
 見てみろ、と道を開けた少年と入れ替わりに、ダイは前に進み出た。マリアージュとアルヴィナが後に続く。
 扉の向こうには、小さな部屋を挟んで、池があった。
 空の色を写さぬ、鉛色の池。屈強な体躯の男達が下半身を水に浸し、平げた赤茶の何かを木の箆(へら)で丁寧に擦っている。
 嘔吐感をもよおすほどの酷い臭いが、ぬるい空気に混じって吹き付けた。
 顔色を変えた自分たちを見て、少年が静かに扉を閉める。
「地方の村から運ばれてきた牛や馬の皮を、ここでなめします。腐った内臓や血がこびり付いているので、こんな臭いがする。まずこの部屋で洗い、柔らかくした皮を、次の部屋に持っていって、鳩の糞を混ぜ込んだ水で洗います。この通路に並ぶ部屋を順番に移動して出来上がった革は、最後に細工師の工房へと運ばれる」
「地方の村でやるんじゃないのね」
 唯一平然としているアルヴィナが、扉を眺めながら呟いた。
「この近隣だと王都だけに潤沢な水がありますからね。東にも革細工の村があって、そこでも革なめしをしていますよ」
「ふぅん。……さっきの部屋、悪臭を閉じ込める術式はめ込んであったのに、ここでも臭うのは、この水のせい?」
「えぇ」
 アルヴィナの問いに肯定を示した少年は、水路に視線を落とした。
 茶けた水の流れる水路。
「それぞれの部屋からいくつか濾過の術式を通過してこっちに流れ込んでくるんですが、調整の魔術師がいなくなってしまって、最近あまり水が綺麗にならないんです」
「最後はどこに流れるんですか?」
 好奇心から出たダイの質問に、少年は石畳を指差した。
「下水です。まぁ、その頃にはきちんと濾過されてますからご心配なく」
 説明を終え、彼は踵を返した。
 どこも魔術師不足が深刻化しているらしい。ダイはそっと隣の友人を無言で見上げた。
 しかしさすがにここでの調整依頼は受けたくないと思ったらしい。アルヴィナはそっと視線を外す。そんな彼女に苦笑しかけたダイは、身体を折って壁に寄りかかるマリアージュの姿を視界の端に捉え、慌てて彼女に駆け寄った。
「マリア様、大丈夫ですか?」
 マリアージュの背を擦りながら、ダイは顔を覗きこんだ。悪臭にあてられたのだろう。その顔が蒼白を通り越して土気色だ。
 アルヴィナがダイの肩越しにマリアージュの様子を窺い、気遣わしげに提案する。
「大丈夫? 背負いましょうか?」
 しかしマリアージュはダイの腕を支えに姿勢を正すと、よろよろと歩き始めた。
「け、結構よ……」
 通路の少し先で待っていた少年に、彼女は尋ねる。
「ねぇ、この扉の向こう。全部見ていっていいの?」
 ダイは驚きに叫んだ。
「マリア様!?」
 今にも倒れそうな様子のくせに、一体何を言い出すのだ。
 目を剥くダイを、彼女はぎろりと睨みつける。口を出すな、とその目が告げていた。
「ねぇ、見ていいの?」
「構いませんけれど……」
 問いを繰り返すマリアージュに、少年は躊躇をみせながら肯定する。早くここを抜けて休んだほうがよいのではないかと、彼もまた思っているのだろう。
 周囲の思惑とは裏腹に、マリアージュは主張する。
「じゃぁ見せて。全部見たいの」
「マリア様」
「ダイ」
 彼女は土気色の顔をしたまま振り返り、決然と言った。
「私は、見るために、来たの。この街を、見るために来たのよ。だから……見ることのできるものは、全部見て帰るわ」
 わかったわね、とマリアージュはダイに念を押し、扉を開けるよう少年に指示を出す。
 呆然としていたダイの肩を、アルヴィナが軽く叩いた。
「やりたいようにやらせてあげなさいな。いざとなったら私、介抱するから」
 友人を仰ぎ、ダイは呻く。
「介抱って……」
「背負うぐらいはできるからね」
 片目を閉じて、アルヴィナは前方を指差した。
「ほらほら、置いていかれちゃうよ」
 アルヴィナの指摘に、ダイは正面に向き直った。彼女が示す先で、マリアージュがいつの間にか次の部屋に入ろうとしている。
 本当に、マリアージュは何を考えているのだろう。
 ダイはますます困惑し、腹の底から息を吐いた。


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