第九章 煩悶する少女 3
侍女のメイベルがダイを呼びに来たのは、三杯目の紅茶と戸棚の奥に隠していた茶菓子を綺麗に平らげて、だらだら世間話に興じている最中のことだった。マリアージュが呼んでいるらしい。
ということは、ヒースも執務室に戻っているはずである。メイベルにアルヴィナの案内を頼み、手入れし終えた化粧道具を手早く片付ける。纏めたそれらを提げて、ダイはマリアージュの部屋へ急いだ。
部屋の前では茶の仕度をしていたらしいリースとすれ違う。気だるげに椅子に身を預けるマリアージュが、侍女の退室に際して開いた扉の隙間からダイを手招いた。一礼して入室し、部屋の片隅に化粧鞄を置いて尋ねる。
「ルディア様との会談はいかがでしたか?」
「さい、あくだったわ」
マリアージュは即答し、身体をさらに深く沈ませた。
「最悪、ですか?」
「えぇ」
「どのように?」
彼女は答えない。ずるずると椅子の上で身を滑らせていくだけだ。
ダイは肩をすくめ、卓の傍に歩み寄った。その上に置かれていた、リースが準備したと思しき湯気を立てる紅茶を受け皿ごと取り上げて、焦点合わぬ様子のマリアージュに手渡す。
「相当お疲れの様子ですけど、少し午睡されたらいかがですか? 化粧は落としておきます? 腕でも揉み解しましょうか?」
呼ばれた理由を探して、ダイは選択肢を並べた。ルディアとの面会がどう長引くかわからなかったということで、午後以降の予定は久方ぶりに空けてある。マリアージュは傍目にもひどく疲れて見える。今日はもう休んでしまうほうがいいと思った。
手足を揉み解す為には準備が必要になる。盥に湯、手ぬぐいは無論のこと、肌の乾燥が見られるから、保湿力が高く精神を落ち着かせる香油をいくつか用意して。いや、時刻的には早いが湯殿の仕度をして、半身浴にしたほうがよいだろうか。
「……ダイ」
つらつら考えを廻らせていたダイは、マリアージュの暗い呼びかけに我に返る。
「はい」
そして続いた命令に、思わず思考を止めた。
「あんた、街を案内しなさい」
「……はい?」
街、とは。
「どこの街のことでしょうか?」
ダイは大真面目に訊き返した。彼女の意図する『街』の意味を、うまく汲み取ることができなかった――否、どれほど考えても、街の意味はたった一つしか思い浮かばなかった。
ダイの理解の悪さに対してか、マリアージュは苛立ち顕に口先を尖らせる。
「街っていったら街よ。門の向こう。そこ以外どこがあるの?」
やはり、とダイは肩を落とした。
「またなんで? どうなさったんですか? いきなり」
「いいでしょ別に。案内なさい」
「よくないですよ」
ダイは反論し、口を窄(すぼ)めた。
「マリアージュ様は女王候補なんですよ。一介の化粧師でしかない私にすらあっちへ行くには警護が付くのに、マリアージュ様が行くとなればぞろぞろ人連れて行かなきゃならないです。そうなったら街は大騒ぎになりますよ」
「何でよ? 護衛連れて歩くのって珍しいの?」
「もちろんです」
ダイは即答した。貴族ならば警護の人間を連れて歩くことは当たり前だ。だからマリアージュの認識がおかしいわけではない。しかしこういった感覚のずれには、時折ひどく疲れさせられる。
「護衛なんて連れて行ったら一発でどこかの偉い方だってわかっちゃいます。門のこちら側の人たちは空気が違うんで、ものすごく目立つんですよ。厄介な人たちに狙われたりとかしちゃいます」
ダイの補足にマリアージュはふうんと大きく頷いた。
「空気、ねぇ……」
肘掛に頬杖を突いた彼女は、口元を不服そうにまげて指先で髪を弄び始める。勢いを殺がれた様子のマリアージュに、諦めてくれたのかとダイは胸を撫で下ろした。
しかし、そうは問屋が卸さない。
「じゃぁ護衛連れて行かなければいいじゃない」
すばらしい思い付きだとばかりに、マリアージュは目を輝かせる。ダイは背中を伝う冷たいものを感じながら、笑みを引き攣らせた。
「マリアージュ様と私、二人で街に降りるってことですか?」
「そうよ」
「いえいえいえ余計に駄目でしょうそれは!!」
単純に街へ降りようとするよりもさらに質が悪い。
ダイの主張に、マリアージュは不快そうに眉をひそめた。しかし彼女の心中など知ったことではない。
「リヴォート様だってお許しになりませんよ!」
「あんたね、誰が主人だと思ってんの。私がいいっていえばいいに決まってるじゃない」
「そ、そういう問題じゃないですよ!」
「じゃぁあんた、あいつがいいっていえば案内すんのね?」
「……もともとマリアージュ様のご命令に逆らえる立場にはないですが」
「嘘吐きなさい! あんたいっつもものすごく口答えしまくってるじゃないの!」
「わっ! いひゃいいひゃいひゃい!」
ぬっと伸びてきた手に頬を力いっぱい引き伸ばされ、ダイは悲鳴を上げた。その抓り方には、肉を捻じ切る勢いのひねりが入っている。
「はひははま! いひゃい! いひゃい!」
悲痛なこちらの訴えを右から左へときれいに受け流し、ダイの頬をこれでもかというほど弄んで、ようやっとマリアージュは満足したらしい。ダイの身体をぺしっと押しのけて、彼女は突如立ち上がる。
席を離れるマリアージュの背に、ダイは熱を持った頬を撫で擦りながら尋ねた。
「ど、どこへ行かれるんですか?」
足を止め、マリアージュはダイを振り返る。
「ヒースのところよ」
あんたも付いてきなさいと命じる彼女に、ダイは蒼白になった。
「リヴォート様に許可を貰いに!? 本気で街へ行かれるおつもりなんですか!?」
「は? わかってないわねあんたも」
腰に手を当てたマリアージュは、睥睨に顎を持ち上げる。
「許可を貰いに、じゃないの。今から街に行くわって言いに行くだけよ。あと、あんた連れてくからっていうこともね。いきなりいなくなったって、大騒ぎされても困るし」
さも当然のように言われ、ダイは呆然とその場に立ち尽くした。マリアージュときたら、警備などいらないと、ダイ一人を連れて今にも飛び出しそうな気配である。
本当の本気で、彼女は街へ降りるつもりらしい。
しかも、今から。
それはまずい。
非常にまずい。
「ああぁぁああぁの! マリアージュ様!」
何故、街に行きたいなどと突如言い出し始めたのか。理由を追求することは後回しにして、とにかく別の話題で気を引こうとダイは叫んだ。
が。
「うぐ!?」
飛来した何かに額を直撃され、鋭い痛みに言葉を失う。ダイは思わずその場に蹲って頭を抱えた。
「なにやってんのよ!」
既に廊下に飛び出していたマリアージュが、投擲に上げていた腕を収めて叫ぶ。
「さっさと付いてきなさいよ! ぐずぐずしてると扇投げるわよ!」
「もう投げてるじゃないですか……」
足元に落ちている哀れな扇を拾い上げてダイは嘆息を零し、颯爽と身を翻すマリアージュの後を、よろよろと追った。
ヒースの執務室はマリアージュの部屋の真下にある。階段を下りてしまえばすぐの距離だ。その短い間に彼女を引き止めるなどという神業、無論出来るはずがない。マリアージュは部屋着の裾を捌いて足早に廊下を駆け、ヒースの部屋に飛び込んでいってしまう。
彼女の後に続いたダイは、部屋の中央で目を瞬かせるアルヴィナと、執務の席に着いたまま呆れ顔で閉口するヒースを視界に捉えた。
マリアージュが到着してから自分が入室するまでの僅かな間に、主要なやり取りは既に終えられていたらしい。
「駄目です」
却下を示したヒースは席を立ち、樫の机の前に回りこんだ。そのまま彼は無言でマリアージュに席を勧める。その蒼の目は主人に敬意を払う所作とは対照的に、恐ろしく冷ややかだった。
マリアージュは勧めを無視し、ヒースを睨み返す。
「駄目も何もないわよ。私が決めたことをなんであんたが却下できるわけ?」
「仰る通り、私にその権利はないかもしれませんが、今すぐというのは堪えていただかなくては困ります。街に降りたいのであればまた別に日を設けます」
「それっていつのこと? あんたのことだから、どうせのらりくらりと日を延ばすんじゃなくて? あのね、今じゃなければ遅いのよ。今がいいの。あんたがなんと言おうと私は街へ行くわよ」
「馬車から降りないとお約束いただけるのでしたら手配いたします」
「あんたね、私は街に降りたいっていってるのよ。街を通過したいっていってるんじゃないの。街の中を、自分の足で、歩きたいっていってるわけよ。その出来のいいお頭(つむ)でわからないわけ?」
マリアージュの厭味はいつにも増して辛辣だ。何が彼女をそこまで急き立てているのか、ダイにはさっぱりわからない。
ヒースもヒースで冷ややかな笑顔に殺伐とした空気を漂わせてマリアージュに応じる。
「では護衛をお連れください」
「いやよあんたのことだからぞろぞろ人をくっ付けるんでしょうが」
「当然です。マリアージュ様、先ほどのルディア夫人のお話を忘れられたのですか? ご自分の立場というものをきちんと認識していただかなくては困ります」
「立場ぐらいちゃんとわかってるわよ、しつこいわね! じゃぁ護衛一人ぐらいなら許すわ。早く手配しなさいよ」
「馬鹿を仰らないでください。ダイと二人で出るというのなら、最低でも三人は欲しいところです」
「馬鹿!? 馬鹿っていったわね! ヒース! あんた主人に向かってもうちょっと口を慎みなさいよ!」
「マリアージュ様が私ども使用人を振り回すような我侭を慎んで下されば、喜んでそのようにさせていただきます」
そろそろこれは、本気で仁義なき戦いの様相を呈してきた。
ヒースは一歩も引く姿勢を見せないし、マリアージュは今にも奇声を発して物を投げ始めそうな様子である。手元に扇があれば、ヒースに投げつけていただろう。幸いにして、今それはダイの手中にあるわけだが。
ダイは傍らのアルヴィナを盗み見た。突如このような攻防を見せ付けられて、彼女はさぞ唖然としているだろうと思ったのだ。しかし腕を組んで二人の口論を眺める彼女は、この状況を面白がっている顔だった。
「だいたいねぇ!」
今にも笑い声を立てそうな魔術師を呆れ眼で見つめていたダイは、ひときわ声を荒げるマリアージュに、はっとなって視線を戻した。
「ダイが言ってたのよ! 護衛がたくさん付いてたら目立って変な輩に狙われるって!」
「私のせいですかっ!?!?」
思わず叫び返したダイは、三人からの視線を一斉に浴びて身を竦ませる。
向けられる中でもとりわけ鋭い視線は、ヒースからのものだった。薄い蒼の目がまるで氷を研ぐように細められていく様に、血の気がざあざあ音を立てて引いていく。
「ダイ、貴女がマリアージュ様に余計なことを言ったんですか?」
「……すみません。ですが」
射殺されそうだ。
その眼差しに言い訳も喉の奥で引っかかり、ダイは俯いて謝罪を重ねることしか出来なかった。
「……すみませんでした」
気まずい沈黙が場を満たす。
「……あのぉ、ちょぉっといい?」
その中を、突如軽く挙手したアルヴィナが、能天気な声で提案してきた。
「護衛ってこう、このお屋敷をぐるぐる歩き回ってる強面のお兄さんたちのことよねぇ。その人たちが目立つんで嫌っていうなら、私が護衛するっていうのはどう?」
「……貴女が、護衛を?」
「えぇ」
ヒースの問いかけに肯定を示すアルヴィナを、マリアージュが疑わしそうに振り返った。
「あんたみたいなのがどうやって護衛すんの? できんの?」
「どうやってかは、また危なくなったときにお見せするとして、護衛ぐらいはもっちろんできるわよぉ」
マリアージュの顔が不快そうに歪む。ダイはアルヴィナの袖を引き、彼女の失敬をたしなめた。
「アルヴィー、敬語敬語」
「あっら、失礼いたしました!」
口元に手を当ててふふ、と笑うアルヴィナに、ダイは脱力した。謝罪してはいるものの、魔術師に悪びれる素振りは微塵も見られない。
「おいそれとそう簡単に任せるわけにはいきません」
ヒースが厳しい表情をアルヴィナに向ける。彼女は男の冷淡な声に動じた様子もなく、間延びした声でアルヴィナは訊き返していた。
「あら? 私は信用できないーってことかしら?」
「えぇ」
もちろん、とヒースは言った。
「貴女が卓越した魔術師であることは認めますが……自分ひとりの身を守るのと、訳が違うのですよ、アルヴィナ」
「んー」
初めてアルヴィナは億劫そうに眉根を歪める。
「ここでいうと、貴方を納得させるのが一番の早道って感じなのかしらねぇ」
彼女が口元に人差し指を当て、低く呻いた、その刹那。
「……っ?」
ヒースの、表情が、凍った。
「……どう、なさったんですか? リヴォート様」
彼の奇妙な様子に、ダイは恐々問いかける。だが彼がそれに応じることはなかった。
「……何をしたんですか?」
アルヴィナを睨み据えて、ヒースは唸る。
「あらやだヒース、私の特技って何か知ってるでしょ?」
魔術師は、ころころと笑い声を立てた。
「……に、しては陣も何も見えませんでした」
「不可視にすることなんて造作もないのよ?」
「そんなことできるんですか? 貴女の家のときはそうではなかった」
「だぁって、いきなりそんなの使ったら、びっくりするのかなぁって思って。不可視に出来ない人が増えてきたって小耳に挟んだし。貴方も廃れてるっていってたでしょ?」
核心の伏せられたやり取り。だが、なんとなく意味は理解できる。
アルヴィナは、ヒースに魔術を使ったのだ。
魔術の才能が全くないならともかく、自分たちは魔の粒子ぐらいならば視認できる。だが魔術的な動きは、一切見られなかった。不可視、とは、つまりそういうことだ。
何も、見えなかった。けれど確かに何らかの魔術がヒースを支配下に置き、彼の顔色を変えさせたのだ。
「……貴女は、一体、何なのですか?」
ヒースの問いに、アルヴィナは答えない。
ただ彼女は嫣然と微笑み、小鳥のように首をすくめるだけだった。