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第九章 煩悶する少女 2


 馬鹿な、と。
 そこにいる誰もが、そう思っただろう。だがガートルード家の女主人に、冗談を口にしているような様子は見られなかった。
 彼女は凪いだ目をマリアージュに向け、静かに言葉を繰り返す。
「信じられぬようでしたら、何度でも申し上げましょう。私たちガートルード家一門、および我が家に従う全ての者は、貴女を女王として推挙することを、お約束いたします」
 ルディアの宣言に、皆が瞬きすら忘れて凍てついている。その中で、ヒースだけが唯一動いた。
「……理由を教えていただきたい」
 マリアージュの斜め横の椅子に腰掛けて蒼の目を細める彼は、ルディアの思惑を図りかねている様子である。
「我が家は女王候補を失いました。ならば我が家は他家と同じようにいずれかの候補者を選らばなくてはなりません。……熟慮した結果、残された女王候補の中でマリアージュ様が一番女王に相応しいと思えた。それでは、理由になりませんか?」
「なりませんね」
 ルディアの回答を、ヒースは即座に否定した。
「どう熟慮すれば、マリアージュ様が相応しいという考えに至れるのか、それが不思議でなりません」
 主人を貶めているとしか思えぬ発言に、ルディアのほうが眉をひそめる。だがマリアージュはヒースを咎める気になれなかった。少々の遠慮のなさなど、当に慣れてしまっている。今は彼を叱咤するよりも、ルディアの真意を探るほうが先だった。
 ガートルード家一門が、マリアージュを女王として支持する。
 それは女王候補者たちの勢力図を、根底から覆してしまうことを意味する。
 かつてアリシュエルがいた、最有力候補という位置。
 そこに、マリアージュを推すと、ルディアは述べているのである。
 女王候補者及び元当主の失踪。俄かに沸いて出た醜聞に、ガートルード家から離反する者も現れるだろう。それでも、絶対的だった彼(か)の家の力が消え失せるわけではない。ガートルード家一門から推挙されるということは、図らずもマリアージュの女王選出が確定的になるということと同義なのだ。
「マリアージュ様を女王として選ぶことが、我が家の繁栄のためになると思った。その答えでもご不満ですか?」
 ルディアの問いに、ヒースが首肯する。
「仰る通り、マリアージュ様を女王に選ぶことは、ルディア様、貴女のお家の為となるでしょう。マリアージュ様を支持する家は少ない。だからこそ、マリアージュ様が女王になられた場合、ガートルード家は一種の発言力を持つことになる」
 ヒースの言わんとしていることは理解できた。マリアージュは候補者達の中で、女王の座から最も遠い場所にいる。仮にマリアージュが女王として選ばれれば、ガートルード家傘下の者たちは言うだろう。我らが家の支持あってこその、玉座だろうと。
 ルディアが恩着せがましくその点をついてくるとは思えないが、こちら側としてもその恩義に報いるための考慮はしなくてはならない。
「故に」
 ヒースは続ける。
「他の家の者たちは結託し、ガートルード家の転覆を図るでしょう。女王候補が互いにいる以上、協力関係になれないのがホイスルウィズム、カースン、ベツレイムの三家です。だが女王選が終わってしまえば話は別だ。自分たちを差し置き甘い汁を吸いに動いたガートルード家を、共通の敵と見做すことは大いにありえる。さすがのガートルード家も、三つの家を一度に相手にすることは荷が重いはずでしょう」
 マリアージュははっとなってヒースに視線を移した。彼の言う通りだった。ガートルード家一つが上手く立ち回ったとあっては、三家にとって状況は面白くないはずである。
 そして共通の敵を持つと、人は対立関係にあっても簡単に結びつくものだ。
「そう考えると、マリアージュ様ではなく、三つの家の女王候補者いずれかを支持したほうが自然です。ミズウィーリ家はこの三つの家と縁が薄い。家の状況次第では他家に協力することはあっても、アリシュエル様のこともありますから、結託、とまではいかないでしょうし、家の力も……仕えている私にとって非常に残念なことですが、強くない」
 薄く笑うヒースを見つめながら、マリアージュはよく言うわ、と呻いた。力の強くない家だからこそ、雇われの彼がここまで好き勝手できるのだ。その状況を、彼が喜んでいないはずがない。
 ここでそれを口に出すほど、愚かではないが。
「どの候補者を、支持すべき、と、貴方はお考えになられるのですか?」
「シルヴィアナ・ベツレイム様です」
 控えめに問うルディアに、ヒースは即答した。
「カースン家とホイスルウィズム家は女王選を差し引いても、もとより友好関係にあるとはいえない。たとえ結託したとしても突き崩すことは簡単でしょう。ですがベツレイム家は穏健派で、カースン、ホイスルウィズム両家と共に悪くない関係を保っています。三家が互いに協力しあうのだとすれば、ベツレイム家が鎹(かすがい)となる可能性が非常に高い」
 ヒースの説明を聞きながら、マリアージュはガートルード家の夜会での出来事を思い返していた。メリア・カースンとクリステル・ホイスルウィズムの仲が最悪だと、ダイに教えてやったのは自分だ。あの二家は親子共々、非常に仲が悪い。一方、一人で悠長に男と踊っていたシルヴィアナの人当たりは、アリシュエルに次いで悪くなかった。
「シルヴィアナ様を支持してベツレイム家を押さえ、家の安全を確保。当主交代後の混乱の沈静に力を注ぎ、落ち着いた暁に、徐々に皆を掌握していけばいい」
 ヒースが説明を締めくくる。
 ぱちぱちぱち、と。
 軽い拍手の音が部屋に響いた。
 長椅子に腰掛けたルディアが賞賛の眼差しをヒースに向けて、手を叩いている。
「あなた、貴族の生まれではないのでしょう? よくそこまで私たちのことを把握していること。特にカースンとホイスルウィズムなんて、互いに仲良しを装うので必死ですのに」
「この数年の間に、勉強させていただきましたよ。誰でもわかることです」
 柔らかく微笑んだかに見えたヒースは、表情一切を消し去ってその双眸を細めた。
 威嚇するような、眼差し。
「……ですから、解せない。何故貴女ともあろうお方が、マリアージュ様を支持なさるのか」
 マリアージュはガートルード家にとって何の利益ももたらさない。むしろ危険に晒す可能性のほうが高いというのに。
 集まる追求の視線に、ルディアが苦笑を漏らす。
「私は、生れ落ちたときから私の家に尽くすことが私にとっての幸せであると、教えられて育ちました」
 彼女は、抑揚を殺した声音で語り始めた。
「家の繁栄が私に幸福をもたらすのだと教えられ、それを疑いませんでした。いえ、今も疑っておりません。家の繁栄は私の周囲のものに生活の安定と充足をもたらす。そして私によりよく仕えてくれるようになる。私は家の繁栄のために我が身を差し出すことを厭いませんでしたし、家のためになるのなら、と、あの男の好きにもさせてきました」
 あの男。
 それが一体誰を意味するのか、マリアージュにもわかる。バイラムだ。行方不明だというガートルード家の元当主。アリシュエルの、父親。
「家の繁栄は、あの子の、アリシュエルの幸せだと、信じてもいた」
 ルディアは言葉を続けた。
「女王という地位のもたらすものが、あの子を幸せにするのだと信じてもいました。……そのアリシュエルも、もういません」
 アリシュエル・ガートルードの幸せは、別のところにあった。
 全てを失った彼女は、この国を捨てて旅立っていった。
 自分と友人になりたかったなどと口にした時の、彼女の儚い笑みが思い浮かんで、マリアージュはそっと下唇を噛み締める。
 彼女は隣国を旅している最中だろうか。それとももう、この大陸にいないのだろうか。
「マリアージュ様、あの子は常に、貴女こそ女王に相応しいのだと口にしていました」
 呼びかけられ、マリアージュは面を上げる。視線の先に、つい先ほど思い浮かべたアリシュエルの微笑と、そっくり同じものがあった。
 ルディアは言う。
「あの子の幸せの在り処を見誤り、道具同然に切り捨ててしまった。その罪に、私は報いなければなりません。もしもそれでも納得できないのであれば……貴女方に迷惑をかけた、その詫びとでも思ってくださればいい」
 そういう、ことか。
 マリアージュは目を伏せる。
 何故ルディアが自分のような人間を、女王に推すなどというのか、不思議でならなかった。今ようやく納得した。アリシュエルを放りだしてしまったことへの自責の念から、ルディアはマリアージュへの支持を表明したのだ。
 そのことに、落胆したわけではない。むしろ不思議な安堵を覚えた。
「勘違いしないで戴きたいのは、私は決して娘の思いに添うためだけに貴女を選んだのではないということです、マリアージュ様」
 先ほどとは打って変わったルディアの硬質の声に、マリアージュは首を傾げる。
「どういうことでしょうか?」
「貴女を女王に選ぶことは、ガートルード家の繁栄のためである。これもまた真実だということです」
 ルディアはアリシュエルのものとよく似た淡い笑みをいずこかへ追いやり、冴え冴えとした叡智と責務を負う者特有の厳しさをその身に纏った。
「私はガートルード家に従うものたちの命を背負っている。母親の感傷一つで彼らを危険に晒すわけには参りません。たとえアリシュエルの願いであっても、貴女が私たちの害になるのであれば、私は決して貴女を女王に推すなどと口にいたしませんでした」
「……なら、何故……?」
 困惑に呻くマリアージュに、ルディアは決然と述べる。
「私が貴女を女王として推すのは、貴女こそ、この国をすばらしい方向へ導いていけると思ったからです」
『貴女なら、この国をきっとすばらしい方向へ、導いていけると信じている』
 娘がかつて口にしたことと、全く同じことを。
「この国は今、新しい時を迎えようとしている。次代の女王はこの国を守り抜いていかなければならなりません。女王には、親の思惑や貴族間のしがらみに縛られるわけではなく、自らの足で立ち、動き、道を選び取ることの出来る者こそが相応しいのです」
「……私が、そんな人間であると?」
 マリアージュの問いかけに、ルディアは微笑む。
 その無言の肯定に、思わず拳を握り締めて独りごちていた。
「買いかぶりすぎよ……」
 そう。買いかぶりすぎだ。
 マリアージュはゆるゆると否定に頭を振り、ルディアに主張した。
「私はルディア様やアリシュエルが期待を寄せるに値するような人間ではありません……!」
 ルディアたちはまるでマリアージュが何者にも囚われぬほど強いかのように言う。しかしそうではない。最初から親族が少なく、両親さえ夭逝している自分には、縛るものが最初から無かっただけだ。
「自分の足で……? 私はただ、したいようにしてるだけだわ。厭味を言われても、アリシュエルのように笑って受け流すことなんてできないし、苛々したときには、皆に当たることしかできない……!」
 自分勝手で、矮小で。
 女王候補者となることを承諾したのも、崇高な想いがあったわけではない。父の思いに報いれば、誰かが目を向けてくれるのではないかという自分勝手な理由からだ。女王になればもっと召使が増える。その程度の認識しかない。
 なかったのに。
「……己を過大評価しないというのも、とても大切なことなのですよ。マリアージュ様」
 ふと笑って、ルディアは言った。
「貴女は、女王になりたくはないのですか?」
 なりたくない。
 ルディアの問いに対して即座浮かび上がった回答を、マリアージュは飲み込んだ。許されぬ答えだと、わかっていた。
 女王になる意向がないのなら、候補を辞するべきだ。しかしそれはできない。マリアージュが、ひいてはミズウィーリ家の人間が、生き残るために。
 だがマリアージュは、女王になりたくないのだと、泣きたくなりながら自覚せざるを得なかった。本来ならばルディアの申し出は手放しで歓迎すべきことだった。だが胸を占めるのは拒絶ばかりだ。
 ルディアがアリシュエルのために自分を支持するというだけならば、まだ受け入れられた。
 しかし彼女は、国を導く力を見出したからこそ、マリアージュを選ぶのだという。
 無理だ、と思った。
 国のことなど考えられない。自分のことすら、こんなにも持て余している。
 過大な期待を掛けられた後に、襲い来る失望がどれだけ心を抉っていくか、マリアージュは知っていた。母が命を賭して生んだ自分が、美しい彼女とは似ても似つかぬ可愛げのない赤子だったとき、父はひどく落胆したという。その結果が、幼い頃の日々だ。
 期待など、掛けないでほしい。何も自分に望まないで欲しい。その重みが、玉座を倦厭させる。
「貴女には、力がある」
「なんの力よ!?」
 敬意を払うことも忘れ、マリアージュは叫んでいた。
「貴女の周りには、人が集まっている」
 ルディアは微笑み、ヒースを一瞥した。
「頂点に立つものの条件の一つ。それは、優秀な人間がどんな理由であれ周囲に集うことです。貴女にはそれがある。状況を把握し、冷静に判断し、貴女に諫言できる人々が。……違いますか?」
 そうだと肯定することもできず、違うと否定することもできず、マリアージュは押し黙った。
 まず、ヒースは確かに有能だ。何故彼が必死になってマリアージュを女王に仕立てようとしているのかはまだわからない。しかし信じてやってもいいかという気分にはなっている。それほど彼はミズウィーリ家に貢献して余りあるものがあった。
 そして、ダイ。ヒースが連れてきた化粧師。彼女も聡明な人間だ。マリアージュに対して的確に、振る舞いの良し悪しについて口を出してくる。たまさか空気を読まずに呆けもするが。
 彼ら以外の者達が、優秀であるかと問われれば、わからない。
 自分の周りに、果たしてルディアが言うような人間が集まっているのだろうか――ずっと、一人だったというのに?
 自信が、ない。
 思わず俯いたマリアージュの耳に、衣擦れの音が響く。
 視線を動かすと、衣服の裾を絡げ立ち上がる、ルディアの姿が目に入った。
「私たちのことはご心配なく。力量のなさを他の家のせいにして結託するような輩程度、どうとでもなりましょう。……ねぇ、ミーア」
 背後に直立して控える護衛らしき女に、ルディアは言う。
「えぇ、奥様。その通りです」
 ミーアと呼ばれたその女は、無表情のまま主人に頷いた。
 ルディアの腹心だろうか。見覚えのある顔をしていたが、どこで会ったのかまでは思い出せなかった。
「マリアージュ様」
 ヒースの目配せに忘我の域から引き戻される。マリアージュは退室するルディアに並び、玄関先まで付き添った。彼女の髪一筋の乱れなく結われた髪の眩さと、伸ばされた背が、かつて嫌悪しながらも憧憬の対象として追いかけていた少女の姿を思い起こさせる。
 その彼女らが自分を真っ直ぐに見るので。
 顔を上げないわけにはいかなかった。
「ごきげんよう、マリアージュ様」
 馬車を前に、ガートルード家の新しい当主は笑う。
「女王選も近く、お忙しいでしょうけれど、どうか、健やかにあらせられますよう」
 見送りに付いてきていたヒースが一礼する。
「ご足労、ありがとうございましたルディア様。此度の申し出、感謝いたします」
 男の端麗な横顔からルディアに視線を移し、マリアージュは言った。
「ガートルード家に、聖女の祝福が、あらんことを」
 ルディアは目元を綻ばせる。
 そして衣装の裾を摘み上げて、静かに腰を折ったのだった。


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