第七章 篭絡する医師 4
マリアージュと執事長のキリムに伴われ、ダイがガートルード家を再び訪れることになったのは、安息日があけて三日目の午後のことだった。
早めの昼食の後マリアージュに化粧を施して、ダイも身なりを改める。
ガートルード家の招待に応じた翌朝、採寸が行われて仕立てられた衣服だ。比較的簡素な黒の上下で、女物の衣装でないことにダイは安堵していた。結局、ダイの性別は公にされないままに終わっている。ガートルード家に対しても性別曖昧なまま通すのだろう。ダイとしても、今更女扱いされたところで当惑するだけである。
昼過ぎに出発し、ガートルード家には日差しが一番眩しい時刻に到着した。
正門を通過した馬車は正面玄関に廻される。ガートルード家の使用人たちは既に待ち構えており、先日ミズウィーリ家を訪ねてきたあの執事長が背後に整列する部下たちと共に、自分たちを出迎えた。
「ようこそおいでくださいました。マリアージュ様」
深く礼を取る男を、マリアージュは先日の苛立ちをぶつけるように睥睨する。
「出迎え、ご苦労様です。お招きいただきありがとう」
そっけない労いの言葉に不快を表すこともなく、面を上げたラハルは微笑した。
「いえ、ご足労いただきありがとうございます」
ではご案内いたしますと、彼は踵を返す。二列に分かれ頭を下げ続ける侍女たちの間を、ダイはマリアージュの背を追いかけながら通過した。
相変わらず見事な美術品の並ぶ廊下を抜けて、屋敷の最深部へ。前回は足を踏み入れなかった場所だ。応接間らしき部屋に通されて待つことしばし、灰色の髪を撫で付けた恰幅の良い壮年の男が現れる。
マリアージュが立ち上がり、ダイも慌ててそれに倣った。
「ごきげんよう。本日は我が化粧師をお招きのこと、誠にありがとうございます」
全く有難く思っていなさそうな冷ややかな声音で挨拶を述べたマリアージュは、丁寧に、深く一礼した。
「いや。こちらこそご無理を言っておいでいただき、ありがたく存じます。ご機嫌麗しくあらせられるようで何よりです。マリアージュ様」
マリアージュは眉をひそめる。男に名を呼ばれることすら我慢ならないといった気配だ。男がそれを咎める様子はない。彼もまた、マリアージュに対する慇懃無礼な態度を隠しもしていなかった。
口元に笑みを湛えていても、目は全くもって笑っていない。
無論、それはダイに対しても同じである。
「お初にお目にかかる」
そういって男は手を差し出してきた。薄い手袋に包まれた手だ。
「ガートルード家の当主、バイラムと申します。噂はかねがね」
「……ダイと申します。今日はお招きいただき、ありがとうございました」
形式的な握手は一瞬で終わった。バイラムの手はダイのそれを握り返すこともなく離れていく。
こちらを値踏みするような彼の目に、ダイは嫌悪感を隠せなかった。
「リヴォート殿は? ご相談したいことがあったのですが」
バイラムは当然ヒースが同伴すると思っていたのだろう。辺りを見回す彼に、マリアージュは冷笑を向ける。
「ヒースは参りません。本日はキリムを連れて参りました。もし我が家のことで相談がお在りでしたら、彼に。ヒースと同等に我が家のことをよく管理してくれているものです」
紹介を受けて、マリアージュの席の背後に控えていたキリムが一礼する。バイラムはそうですか、と微笑したものの、明らかに肩透かしを食らったような面持ちだった。
バイラムが椅子に腰掛けると同時、侍女が台車を押して入室してくる。紅茶や甘い香りを漂わせる菓子が卓の上に並び終わったところで、彼は本題を切り出した。
「さて、それではマリアージュ様とお付きの方は、私めがご相手させていただくとして、ダイ殿。貴方には我が娘のわがままに付き合っていただきたい」
「早速? 肝心のご令嬢が姿を見せていらっしゃらないようですけれど?」
まだ姿を現さないアリシュエルを、マリアージュは棘のある言い方で揶揄する。
バイラムは鷹揚に笑って見せた。
「いえいえ。誠に申し訳ありません。我が娘ながら出来が悪く、準備に戸惑っているようです」
一瞬、マリアージュを立てたように見えた。
が。
「しかし出来の悪い娘ながら、次期女王にと推してくださる方が多く、ありがたい限りです」
満面の笑顔で、彼はまともに喧嘩を売ってくる。
場の空気が氷点下まで急降下する。ダイは蒼白になりながら、キリムに目で助けを仰いだ。しかし彼は無表情のまま控えているだけで、何の動きも見せない。マリアージュだけが、堪えきれなくなって来たのか青筋を立て始めている。
(マリアージュ様!)
ダイは表情で必死に訴えた。
(堪えて堪えて! 今怒ったら負けです! にっこり笑ってください! にっこり!)
こちらの百面相に気づいたらしい。瞬いたマリアージュは露骨に表情を変えた。なにやってんのあんたは。そんな呻きが聞こえてきそうである。
しかし、ここでマリアージュに癇癪を起こさせるわけにはいかないのだ。キリムは優秀だが、ヒースのように家同士の交渉に長けているのかどうかわからない。マリアージュが仮に癇癪を起こしたとしても、彼が場を上手く納められるか判然としないのだ。
ダイの意思が通じたらしい。
バイラムに向き直ったマリアージュは青筋を立てながらもダイの望み通り嫣然と微笑み、紅茶で満たされた茶器を優雅に持ち上げる。
「出来が悪いだなんてとんでもない。今頃彼女をさらに美しくするために、大勢の侍女たちが準備に四苦八苦しておいでなのでしょう」
バイラムの敵意を受け流してくれたマリアージュに拍手喝采を送りたい気分だったダイは、次の瞬間に凍りついた。
「寄って集まって、客人の到着に準備を間に合わせることも出来ない使用人ばかりを抱えて、バイラム様もアリシュエル様も大変ですわね。そこをいくと、私の使用人は優秀ですわよ」
アリシュエルは優秀だが抱える家臣たちは愚図であると、喧嘩を売り返したマリアージュに、バイラムの目元が痙攣する。
「……何せそれが評判を呼んで、このようにバイラム様にご招待いただけるぐらいなのだから。ねぇ、ダイ」
(私に振らないでくださいよ!!!!)
話の矛先を向けられ、ダイは胸中で絶叫した。
マリアージュはそ知らぬ顔で紅茶を啜っている。あとはお前が受け答えろといわんばかりだ。
場の空気が氷点下を超えて絶対零度の域に到達したころ、扉を叩く音が主神の助けのように沈黙を砕いた。
「誰かね?」
「アリシュエルです」
「あぁ、入りなさい」
かちゃり、と鍵の擦れる音を立てて扉が開き、お待ちかねの人物が現れた。薄く化粧を施し、すっきりとした線の水色の衣装を身に纏ったアリシュエルは、羽織った透かし織りの上着の裾をふわふわ揺らして一礼する。
「お待たせしてごめんなさいマリアージュ」
「いいえ、アリシュエル。とても楽しくお話をさせていただいていたところよ」
本当に申し訳なさそうなアリシュエルに対して、立ち上がったマリアージュは嘘全開な笑顔で応じる。一体どこが楽しい会話だったのかと、ダイはぐったり項垂れた。
「ダイ」
マリアージュに呼ばれ、ダイは慌てて立ち上がる。目線で、アリシュエルに向き直るように指示された。
「同じ女王候補のアリシュエルよ。ご挨拶なさい」
「ダイです。……マリアージュ様付きの化粧師をしています。よろしくお願いいたします」
ぎこちなく挨拶したダイに、アリシュエルはきらきらとした笑顔を浮かべた。
「アリシュエルです。マリアージュとは同じ女王候補として、仲良くしていただいているのよ」
本心からと思われる口調で彼女は述べる。ダイはそっとマリアージュを盗み見た。案の定、彼女は口端を不機嫌そうに曲げている。
「突然お呼びだてして、本当にごめんなさいね」
歩み寄ってきたアリシュエルは腰を屈め、ダイと目の高さを合わせて謝罪した。
「最近マリアージュが以前にも増してとても素敵だから、噂の化粧師さんがどうしても気になって、お父様にお願いしてしまったの。今日はよろしくお願いいたしますね」
「は、はい……」
アリシュエルが口を開く都度、マリアージュの苛立ちの募る様が手に取るようにわかる。いい子面して、という彼女の叫びが聞こえるようだった。
「それではマリアージュ。化粧師をお借りいたします」
「えぇ。……ダイ、粗相をしないようにね」
「が、がんばります……」
むしろバイラムの下に残されるマリアージュのほうが気がかりだ。しかしアリシュエルを待たせるわけにも行かない。キリムに後は頼んだと視線を送りつつ、ダイは後ろ髪を引かれながら応接間を後にした。
アリシュエルに案内されて通された部屋は、応接間よりもかなり奥まった場所にある部屋だった。大きめにとられた縦長の窓が並ぶ、明るい部屋だ。書架や戸棚が壁面を埋めている。中央には丸い円卓と白い椅子が置かれていた。
「私の勉強部屋なのよ」
散らかっていてごめんなさい、と謝ってくるアリシュエルに、ダイは頭を振った。
「本当だったらお客様をお通しすべき部屋ではないのだけれど、こういった場所のほうが落ち着かれるかしら、と思って」
こちらの顔色を窺うようにして彼女は言った。ダイとしても、彼女の気遣いはありがたかった。豪奢な部屋に通されても、気が引ける。
卓の上に置いてある開かれたままの書付を押しやって、アリシュエルは言葉を続けた。
「お茶の途中だったのに抜けさせてしまいましたね。こちらにも何か用意させましょう。ミーア、お茶の用意を」
「はい」
部屋の入り口近くに控えていた侍女が、承諾に頷いて踵を返す。退室しかける彼女を、ダイは慌てて呼び止めた。
「ま、待ってください」
「ミーア」
アリシュエルもまた侍女を引き止めにかかる。ようやっと足を止めた彼女に、ダイは言った。
「えぇっと、いえ、私は、お茶はいいので。……化粧の準備で、盥と水を用意していただけると嬉しいんですが」
マリアージュの怒髪が天を突き破る前に、さっさと仕事を終えてガートルード家を辞去したい。
「いかがいたしましょう? アリシュエル様」
許可を請う侍女にアリシュエルは笑い、ダイが所望した品を注文に追加した。
「では、盥と水差しも持ってきてあげて。水は多めにね」
茶道具を持たぬようにとは言わなかった。
「かしこまりました」
お茶からは逃げられないらしい。長居決定である。
立ち尽くすダイの前に膝をつき、彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい。でも少しだけ付き合ってほしいんです。私、お父様にあなたを説得するようにといわれているの。あまり早く終わってしまうと、怪しまれてしまう」
「……せ、説得?」
「えぇ。あなたを、ガートルード家に引き抜くように、と」
来た、と。
ダイは表情を強張らせてアリシュエルを見返した。ヒースが言った通りだ。本当に、ガートルード家は自分を引き抜こうとしているらしい。
ダイが現した無言の拒絶に、彼女は苦笑を浮かべて立ち上がった。
「安心して。あなたをマリアージュから引き離そうなんて思っていませんから」
「敬語でなくていいですよ、アリシュエル様。……じゃぁ、この招待ってアリシュエル様じゃなくてご当主が?」
「いいえ。私があなたに会いたくて、お父様にお願いした。これは本当」
こちらへ、とアリシュエルはダイを円卓の傍に招いた。ダイに椅子を勧め、彼女も卓を挟んで向かい合う形で腰を下ろす。
そして彼女は、そっと声を低めて囁いた。
「挨拶が遅れて、本当にごめんなさい。また、会えましたね」
アリシュエルの発言に、ダイは腰を下ろしたばかりの椅子から安定を欠いて転げ落ちそうになった。
また、と言った。
また会えた、と。
「あ、あの」
「普段は本当に男の子の格好をしてるのね」
ざっと、血の気が引く。
アリシュエルは、夜会服を着て迷子になっていた娘がダイであると、気づいているのだ。
「い、いえ。あのですね」
性別を曖昧なままにしている以上、嘘でも、男だと主張しなければ。
そう思ったダイの口を、アリシュエルは指先で封じた。
「大丈夫。誰にも言いません。お父様だって、私と貴女が一度会っていることを知りません。それに……貴女に会う前から、私、マリアージュの化粧師が女の子だって、知っていたの」
「……どういうことですか?」
指を外して呻いたダイに、アリシュエルは声を潜めて笑う。
「それはね……」
アリシュエルが口を開きかけると同時。
叩扉の音が来訪者の存在を告げた。
「どうぞ」
アリシュエルの許可を待って入ってきたのは、ミーアと呼ばれた先ほどの侍女である。もう一人侍女を従えた彼女は、茶と菓子の乗った盆を携え歩み寄ってきた。
「卓の上に。水と盥はとりあえずあちらの棚の上にね。あとは私がしますから、下がっていいわ」
「旦那様からお傍近くに控えているようにと命ぜられています」
侍女はつんと澄ました表情のまま答えた。敬愛する女王候補に対する態度とはとても思えない。が、アリシュエルにも憤った様子はなく、言葉を紡ぐ口調は穏やかだった。
「でしたら部屋の外に。見知らぬ人が増えすぎるとお客様が緊張なさるわ」
ね、と同意を求められ、ダイは頷いた。このように持て成される機会は今まで皆無だ。知らぬものに囲まれていると緊張することは確かである。
「存分に腕を揮っていただくために、まずはお茶を楽しんでくつろいでいただきたいの。部屋のすぐ外なら、お父様の言うように『傍近く』に控えていることになるでしょう。それでももし何か言われるようでしたら、私がお父様に叱られます」
「アリシュエル様」
「さぁ、行って」
アリシュエルに追い立てられた侍女たちは不服そうな面持ちながらも指示に従い、一礼して部屋を出ていった。
「……なんだか、大変そうですね」
実に窮屈そうだ。同情したダイに、アリシュエルが苦笑を浮かべる。
「見張りなの」
「……見張り?」
思わず繰り返した言葉は、誰もに愛されているはずの彼女に似つかわしくないものだ。
「えぇ。私、よく部屋を抜け出すから。……今日素直に引き下がってくれたのは、貴女が居るからでしょう」
紅茶を器に注ぎいれながら、アリシュエルは言う。自嘲めいた笑いを浮かべる彼女に、ダイは表情を曇らせた。
「抜け出すって……」
「部屋。正しくは、この家。王侯貴族の住まう、門のこちら側を」
陶器同士の触れ合う音を響かせて茶器を置いた彼女は、儚く笑って言った。
「今日お招きしたのは、頼みごとがあったからなんです。……ロウエンの、友人である、貴女に」