第七章 篭絡する医師 5
ダイは、アリシュエルの口から零れた名前に耳を疑い、言葉を失った。
「今、ロウエンって……言いました?」
「えぇ、言いました」
幻聴かと確認したダイに、アリシュエルはあっさりと肯定を示す。
「……ダイ、貴女のことは彼から聞いていたの。花街で化粧師をしていた、女の子の話」
「……え……えぇ?」
ダイは立ち上がり、混乱に喘いだ。頭が状況に付いていかない。
アリシュエルは、デルリゲイリアの上級貴族だ。亡き前女王エイレーネを縁戚に持つ、ガートルード家の長女。そして、最有力の女王候補である。
一方、そのアリシュエルが親しげに名を口にするロウエンは、ダイの知己である裏町の医者だ。気がよく、優男で、どこか抜けている。医者としての腕は一流だが――それだけだ。彼が診る患者は貧乏人か、金をいくら積んでもいいから正規の医者には掛かりたくないという輩ばかり。先日東大陸に存在する国の貴族出身であるとは判明したが、デルリゲイリア国土における彼は決して輝かしい経歴の持ち主ではない。
いわば、光と闇。決して道を共にするはずのない二人がなぜ、知り合いなのか。
しかも、単なる知人、という様子ではない。
アリシュエルの様子を見る限り――……。
「あ、あなたと、ロウエンは」
「ロウエンは私の想い人です」
どこか誇らしげに、アリシュエルは断言した。
「恋人同士です、と言ったほうがわかりやすいですか?」
雷に打たれたような衝撃とは、このことを言うのだ。
ダイは椅子にへたり込み、呆然とアリシュエルを見返した。こちらの視線に、彼女はほろ苦く笑う。
「……驚かれることはわかっていました。信じてはもらえないだろうと」
「信じます。信じはしますが……」
そうでなければ、彼女がロウエンを知っていることの説明が付かない。
「ど、どうやって知り合ったんですか?」
どう考えても接点がない。ダイとて、ヒースに誘われなければ貴族社会に足を踏み入れたりはしなかっただろう。それほど、市井にとって門のこちら側とは遠い場所なのだ。
「……彼と出会ったのは一年ほど前です」
アリシュエルは頬を淡く上気させて、ロウエンとの馴れ初めを口にした。
「お披露目として女王候補が門のあちらに下りたことを知っていますか?」
「あぁ、最初の頃、何度かありましたね」
女王選定が始まってから半年の間、女王候補が目抜き通りを行進することが幾度かあった。アリシュエルがロウエンと出逢ったという一年前とは、丁度その時期の終わり頃だ。
「具合が悪くなってしまった私は、通りから離れて侍女と共に宿を借りて休みました。そのとき私を診てくれた医者が、その宿で食事を取っていたロウエンだった」
それから幾度かの偶然と必然を経て、想いを重ねるに至ったのだとアリシュエルは述べた。
彼女の言う時期は、ロウエンが花街にあまり姿を見せなくなった頃と一致する。
ヒースと共にミゲルの店で鉢合わせしたロウエンは、生活をしばらく昼寄りにずらしていたようだった。アリシュエルに合わせていたのだと思うと、全てが腑に落ちる。
最近は昼型でね、と照れくさそうに笑った、彼の表情の意味も。
理解できてしまう。
「ご当主は……それを?」
「知っています」
ダイの問いに、アリシュエルは顔を曇らせた。
「お母様に抜け出すところを、見つかってしまって。あの人はお父様の言いなりだから、すぐに報告を。……もちろんお父様が、許すはずなどありません。夜会や昼食会といった時を除いて、私には見張りが付くようになりました。……ミーアもお父様の幼馴染なのですよ。私をしっかりと見張っている」
「見つかったの、いつの話ですか?」
「もう、二月ほど前になるかしら」
二月ほど前というとおそらく、ダイがロウエンと再会した前後だ。あの時、彼は夜型の生活に戻そうかと迷っていたようだった。
アリシュエルと、会えなくなったから。
しかし以後、彼がアリシュエルと会えていないと仮定すると、おかしな点が一つある。
「……私、ついこの間、街でロウエンと会いました」
ダダンに追い回されているロウエンと。
彼は、ダイに予言を残した。
この、ガートルード家の招待について。
「彼はガートルード家が私に化粧の依頼を持ちかけてくるだろうことを知っていました。……それは、貴女が彼に伝えたんですか?」
「えぇ」
アリシュエルは頷いた。ダイは嘆息する。
「……でしたら、貴女は一体いつ、どうやってそのことを彼に伝えたんです?」
ミゲルの店で久方ぶりに会った時、彼はダイが花街を出たことを知らなかった。つまりダイがミズウィーリ家で働いていることをロウエンが知ったのは、あの時以降ということになる。
ロウエンとアリシュエルは、一体どんな方法を用いて連絡を取り合ったのか。
「直接会って伝えました。私達はもう一度だけ、会うことが出来たんです」
切なげに表情を歪めて、アリシュエルは答えた。
「私が最後にロウエンと会ったのは、あの夜です。貴女が、可愛らしい姿で迷子になっていた夜」
ガートルード家主催の、宴の日の夜。
「ロウエンは危ない橋を渡って、門のこちら側に潜り込み、貴族の従僕に成りすまして会いに来てくれた。貴女とお会いしたのは、彼と会ったすぐ後だったんですよ、ダイ」
「……あのとき私が誰か、もうわかっていたっていうんですか?」
ロウエンの知人だとわかっていたから、彼女はあのように迷子になっていた自分に優しかったのだろうか。
ダイの問いに、アリシュエルは否定を返してきた。
「いいえ。貴女があのときの子だとわかったのは、今しがたです」
「よくわかりましたね」
「あら、声が同じですもの」
くすくす笑って、アリシュエルは言う。そんなものかと思うと同時、自己主張するまで全くダイだと気づいてくれなかったヒースを詰りたくなった。一目会っただけのアリシュエルが気が付くのに、どうして彼にはそれが出来なかったのだろう。
「……貴女のことはわかりませんでしたが、知ってはいました。ロウエンは時々、街のお友達についてお話してくれた。その中に、貴女のことも」
医者の男は恋人に、自分たちのことをどのように語ったのか。
彼と過ごした時間に想いを馳せているのか、アリシュエルの表情は柔らかい。
が、その表情も長くは続かなかった。口元を引き締めた彼女は、話を本題に引き戻す。
「あの夜、彼は貴女がミズウィーリ家の化粧師として働いていることを私に教えてくれました。そして提案してきたのです。貴女をガートルード家に招待し、連絡役を担ってもらおうと」
当人の事情を無視して、何を勝手なことを。
巻き込まれるこちらの身にもなってほしいと、ダイは渋面になって黙り込んだ。
「……ごめんなさい」
謝罪しながら、アリシュエルが長い睫を伏せる。
「貴女にとって、とても迷惑なことだと、わかっています。それでも、貴女以外に頼れる人がいなかった」
面を上げ、まっすぐダイを見据えてきた彼女は、身を乗り出して懇願する。
「お願いです。一回でいいの……」
そうやって瞬きする睫に雫を乗せるアリシュエルを、一体誰が突っぱねられるだろう。
「……何をすればいいんですか?」
折れたダイに、女王候補の娘はぱっと顔を輝かせた。蝶の羽音のように微かな声でありがとうと囁き、彼女はゆとりある袖口の中を探る。
「彼に、手紙を渡して欲しいんです」
「手紙?」
「これです」
ダイは、手の中に押し込まれたそれを見下ろした。
手紙と呼んでよいものかと疑いたくなるような、小さく折りたたまれた紙片。恋文と呼ぶにはあまりにも素っ気無い。
吹けば飛ぶような紙切れだ。しかし、手に重く感じた。
「今回は、お受けいたしますけれど」
アリシュエルから受け取った手紙を、そっと握り締める。
「本当に、これっきりにしてください」
「お約束します。この、一回だけです」
硬く誓うアリシュエルに安堵して、ダイは呻いた。
「よかった。また何度もアリシュエル様の化粧に呼ばれるのかと思った」
「……私のところに化粧においでになるのはご不満かしら?」
ダイが依頼を聞き入れたことで、気が軽くなったらしい。アリシュエルは悪戯っぽく微笑んだ。
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
不満どころか、し甲斐がある。彼女の白い肌ならばどんな色をのせても映えるだろう。マリアージュの肌色では倦厭されてしまう色も、アリシュエルならさぞや似合うに違いない。
しかしダイは、マリアージュの化粧師だ。
「こっちに頻繁に足を運ぶのはちょっと……乗り気しないです。マリアージュ様の機嫌、すぐ悪くなりますし」
たった一日のことであるにも関らず、マリアージュは屋敷を出発する前から不機嫌も此処に極まれりという感じであったのだ。二回目は御免被りたいというのが本音だった。ミズウィーリ家は状況的にガートルード家からの誘いを断り辛い。最初から招待しないでくれると助かる。
ふと気がつくと、アリシュエルが口元に手を当てて忍び笑いを漏らしていた。
「え、えーと?」
「貴女って、正直すぎるって言われません?」
笑いながら指摘され、ダイはあぁ、と反省した。馬鹿正直に主人の反応を暴露してしまったわけだ。これは不敬に当たる。
「……言われます。すみません。アリシュエル様も、お気を悪くされませんでしたか?」
「私は平気。そういうことを聞けて楽しいの。……そうね。何度も貸し出しされるのも、貴女もお嫌でしょうし。……マリアージュは私を嫌っているみたいだから、なおさら怒ってしまうわね」
「アリシュエル様はマリアージュ様のことお嫌いではないんですね」
「私、あの人のこととても好きなの。前にも言いませんでした?」
「仰ってました……」
前回会ったとき、アリシュエルは憧憬の目でマリアージュのことを語った。その彼女の様子に、意外さを覚えたものだ。
「ロウエンと出逢って、私は色々なものの見方が変わりました」
白い雅な手を膝の上で重ね合わせて、アリシュエルは言う。
「お父様やお母様たちのことも。私を取り巻く貴族の方々のことも。そして、同じ女王候補の皆のことも。今と昔ではまったく違ってこの目に映る」
わかる気がすると、ダイは思った。
自分もまたマリアージュに仕える前と今では、目に映る世界の広さがまったく違う。異なる価値観に出会うと、新しい世界の扉が轟然と音を立てて開いていくのだ。その感覚は、よく理解できる。
「ダイ、私は、夢物語のように聞いていたのよ」
微笑んで、アリシュエルは囁いた。
「ロウエンが語る、彼の周りの人たちの話。そのお話の中に出てくる、男の子のふりをして生きることしかできなかった化粧師の女の子」
それがまさか。
アリシュエルと同じ、女王候補付きの化粧師になっているなどと。
「いえ、もう、私もびっくりですけど」
花街の中でもとりわけ親しい部類に入るロウエンと、マリアージュが天敵と見做すアリシュエルが恋仲だという事実は、青天の霹靂もいいところである。
「……何度もいうようだけど、私はマリアージュが好きなの」
秘め事を打ち明けるように、頬を紅潮させてアリシュエルは囁いた。
「だからロウエンのお友達である貴女が、マリアージュの化粧師であることはとても嬉しいのです」
「どうしてそんなにマリアージュ様のこと、お好きなんですか?」
ここまでアリシュエルがダイの主人を好いているとは思わなかった。何か理由があるのだろうか。
アリシュエルは遠い眼差しに目を細め、その柳眉を微かに歪めた。
「……偽りばかりのこの世界で、あの人はとても真っ直ぐなの」
彼女の言葉に込められた意味をなんとなく気取り、ダイは目を伏せる。
アリシュエルの言う通り、マリアージュは真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、我侭とも言う。
だが迷子になってしまったダイを本気で心配して叱り付けてくるような、優しい少女だ。そして決して媚は売らない。
泣き出しそうな目で、世界を睨み据える女王候補。
ダイの主人。
複雑な思惑が絡み合う貴族社会の中で、自分というものを失わずに立とうとする彼女のその姿に、アリシュエルは惹かれているのだろう。
「あの人本当は、アリシュエル様のことをそんなに嫌ってないですよ」
女王候補は計五人。アリシュエルとマリアージュ自身を除けば三人いる。しかしマリアージュの口に上るのは、アリシュエルのことばかりだ。
「多分、マリアージュ様もアリシュエル様の色んなことが羨ましいんだと思います」
単にマリアージュはアリシュエルを毛嫌いしているだけかと今まで考えていたが、本当はそうではないのかもしれないと思えてきた。可愛さ余って、というところか。
美しい人の定義について初めて問うた時、マリアージュは真っ先にアリシュエルを槍玉に挙げた。女王候補に最も近い少女と、最も遠い少女。対極に位置する彼女らはおかしなことに、互いを憧憬の対象としているらしい。
「私、マリアージュを羨ましいと思うことがもう一つあるんです」
「何ですか?」
アリシュエルは笑った。
「貴女みたいなお友達が、とても近くにいること」
本当に羨ましいと目を細める彼女に、ダイは違う、と主張したくなる。
マリアージュは友人では、ない、とは思う。
彼女は仕える家の主人で、ダイの雇い主で。
――……ただそれだけか、と問われると、否、と答えるけれど。
友達。友人。そもそもそういった言葉は、どのような存在を指すのだろう。
ダイは手元の手紙を見た。これを渡す相手も、ダイの友人には違いない。しかしダイが一方的に思っているだけで、果たして彼は友人と思ってくれているのか。親子ほどとはいわずとも、自分達の間にはそれに近い年の隔たりがある。
では、同じように年が離れているティティアンナは?
そして――……ヒースは?
マリアージュと彼女に仕える皆は、自分にとってどのような存在なのだろうと、ダイはふと思った。
「ダイ」
本題から逸れかけた意識を、アリシュエルが引き戻す。
「ロウエンは、安息日の午前中は花街の墓地にいると言っていました」
膝の上で手を握り締めるアリシュエルは、煙る金の睫を震わせた。
「その手紙を、お願い」
ロウエンに、渡して。
個人的に、アリシュエルのことは嫌いにはなれない。マリアージュと同じように、窮屈な世界でもがいている存在なのだということがわかるからだ。同時に、ロウエンの恋人でもある。
ロウエンはダイにとって友人であると同時に恩人だった。花街でダイの身体のことを診ていた医者が、ロウエンだったのだ。
彼らの依頼を、どうして断れるだろう。
ダイが了承に首を立てに振ると、アリシュエルは笑った。
その顔は、本当に美しく、そして愛らしいものだった。
長話を終えた後アリシュエルに施した化粧は、どうやらガートルード家当主の眼鏡に適ったらしい。冗談めかしにガートルード家の専属にならないかと最後に誘われたが、ダイは慎重に断りを入れた。それを耳にして、バイラムはアリシュエルの『説得』が失敗に終わったことを知ったのだろう。彼は一瞬だけ顔色を変え、アリシュエルを睨みつけていた。
バイラムに叱責を受けるかもしれぬアリシュエルのことが気になったものの、我慢の限界に歯軋りするマリアージュのほうがダイにとっては大事だった。これ以上彼女をガートルード家に留め置くと、怒りを爆発させて両家の間に問題を起こしかねない。ダイは丁寧に礼と挨拶を述べ、場をよくもたせたキリムと共にガートルード家を辞去した。
所用で家に残っていたヒースへの第一報はキリムに任せ、ダイはマリアージュの肌の手入れを優先させた。
マリアージュの化粧を落とし肌を整えていきながら、ガートルード家の当主がいかに鼻持ちならぬ貴族らしい貴族かを愚痴り続ける彼女に付き合う。アリシュエルとの会話の内容を尋ねられたが、ロウエンのことなど話すことは出来ない。案内された部屋が勉強部屋だったことと、彼女が女王となるために熱心に勉学に励んでいるらしいことだけを伝えると、マリアージュは黙り込んでしまった。
マリアージュの肌の手入れが終わってもあれやこれやと雑用をして、ガートルード家で起こったことの仔細を報告するためにヒースの部屋へ向かったのは、消灯時刻近くなってからである。
廊下をてくてく歩きながら、ダイはため息をついた。
(ロウエンのこと、どうしよう)
アリシュエルと二人きりになったことはキリムから伝わっているはずだ。ヒースにその時の状況を話さなければならない。しかしアリシュエルとの会話の大部分を占めていた、ロウエンの件についてどう告げるべきか、ダイは迷い続けていた。
単純に考えれば、報告したほうがよいに決まっている。なにせこれは単なる友人の恋の橋渡しでは終わらないのだ。アリシュエルは、女王候補なのだから。
それにアリシュエルの願いを叶える為には、近い安息日の午前中に休みを貰って花街を訪ねなくてはならない。そのことについても相談する必要があるだろう。
しかし、何かもやもやしたものが、ダイの中に渦巻いている。
ヒースの部屋の前に到着しても、心が決まらない。
立ち止まり思案に唸っていると、不意に扉が開いた。
「わ!」
「……と。なんだ、貴女ですか」
扉の向こうから顔を出したヒースが、小さく笑った。
「人の気配が動かないから誰かと思いました。今日の報告ですか?」
「……そうです」
「具合がいい。丁度ひと段落したところだ。……どうぞ」
扉を開いて、ヒースが道を開ける。蝶番の軋む音が夜の廊下に響いた。
このまま立ち止まったままでいるわけにもいかない。
ダイは覚悟を決めてヒースの横を通り過ぎ、大人しく部屋に足を踏み入れた。