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第七章 篭絡する医師 3


 覚悟を決めて、扉を叩く。
「はい」
 返事は、ヒースのものだ。
「ダイです。戻りました」
「入ってください」
「……失礼いたします」
 即座出された入室許可に、ダイは断りを入れながら応接間の扉を開ける。普段は滅多に足を踏み入れることのない部屋だ。それなりの広さを有する部屋の中央には、石を削って造られた低めの円卓が鎮座し、それを挟み込むようにして長椅子が置かれている。脚の部分にまで彫刻が施され、背の部分全てが刺繍で覆われた一品だ。紅茶を一滴零すだけでダイの首が飛ぶような。
 似た類の最高級の調度品が趣味よく並ぶ、迎賓室。
 そこには現在、見かけない顔の執事らしい身なりをした御仁、彼と向かい合って腰掛けるヒース、そして一人用の椅子に座るマリアージュ、計三人の姿があった。
 ダイの主人である少女の顔ときたら、不機嫌極まりないものである。今にも物を投げてわめき散らしそうな様相だ。立ち上がってダイを迎えたヒースの顔も苦笑に彩られている。
 ダイは歩み寄って、客人に一礼した。壮年の男もまたすっと椅子から腰を上げ、礼を返してくる。
「お初にお目にかかります。私、ガートルード家の執事長をしておりますラハルと申します」
「初めまして。ダイと申します」
 ラハルと名乗った男が着席すると同時、ヒースが手招く。
「ダイ、こちらへ」
 彼の隣の空間に、ダイは大人しく腰を落とした。
 向かい合って早々、ラハルが本題を切り出してくる。
「それではもう一度。今回のご依頼の件ですが」
「化粧師を貸し出して欲しいと」
 言葉尻を先んじて口にしたヒースに、ラハルは頷いた。
「アリシュエルお嬢様たってのご要望なのです。近頃マリアージュ様のお美しさには目を瞠るものがある。化粧師という職を私どもの近くで見ることなどまずありません。今回、ぜひその腕前を披露していただきたいということで」
「……えーっと、それは、ガートルード家で化粧をしてほしい、ということ、なんですよね?」
 口を挟んだダイに、ラハルは一度動きを止めた。その様子に、しまった、と心中で舌打ちする。ヒースはともかく、単なる抱えの化粧師であるダイが会話を遮ることは不敬に当たるのかもしれない。自分はいいが、教育のなっていない使用人を抱えて見下されるのはマリアージュだ。
 しかしラハルはマリアージュを侮蔑した様子もなく、淡白な様子で頷いただけだった。
「そうです。そして今回、アリシュエルお嬢様はこともあろうにご自分のお顔に触れさせることを許すとおっしゃっております」
 確かに、さっきの件でマリアージュを見下した様子はない。
 しかしその言い方は、最高の栄誉ではないかと、押し付けがましいことこの上ない。
 むっつりと黙り込んだマリアージュがますます表情を険しくする。癇癪一歩手前である。
「ダイ。引き受けるか引き受けないかは任せると、マリアージュ様はおっしゃっています」
 彼女の表情を盗み見ていたダイは、ヒースの一言に蒼白になった。
「わ、私が決めるんですか?」
 思わずダイは声を上げた。ヒースはえぇ、と肯定しながら同情の眼差しを向けてくる。
 ガートルード家の依頼は、安易に断っていいほど軽いものではないはずだ。同じ上級貴族、そしてその娘は女王候補。しかし立場的にはガートルード家のほうが上位にある。下手をするとダイの一言で今までヒースが積み上げてきた他家との付き合いを無為にさせられる可能性もある。
 それを、自分の判断に委ねると。
 この場から逃げ出したい。全力で逃げ出したい。ダイは思わず天井を仰いだ。
 断れ、というマリアージュの圧力がひしひしと伝わってくる。見下しているという意識すら持たぬほどの自然さでラハルから侮られているという屈辱に、彼女は怒り心頭に違いない。が、隣にいるヒースの表情を読む限り、ここで否と答えると確実に不味い状態に陥るのだろう。
 なぜそんな重要な選択をこちらに任せてきたりなどするのか。
 迷いに迷った末。
「……マリアージュ様がお許しくださるのなら、お引き受けいたします」
 ダイは答えた。
「ガートルード家とミズウィーリ家の、更なる友好のため」
 選んだ回答に、後になってマリアージュから散々八つ当たりの罵りを受けたことは言うまでもない。


 叫ぶ、物を投げるなど、まだ可愛いほうだ。
 ダイに掴み掛かり泣き喚いて暴れる。彼女があのように癇癪を起こすのも久しぶりだった。だからなおさらだろう。その勢いたるや凄まじいものがあった。落ち着かせようとしたダイや侍女たちに手足を振り回して抵抗し、その爪で存分に人を引っかき、医者のロドヴィコから鎮静剤を与えられてようやっと、マリアージュは眠りに落ちたのだ。
「……貴女は正しい選択をしましたよ」
 マリアージュを寝かしつけた後、報告に訪れたダイをヒースは同情を込めて労う。なんと言葉を返せばいいのかわからず、ダイは、はぁ、と生返事で応じた。
「あそこで断っていたら、関係にひびが入るところだった」
 嘆息するヒースに、ダイはよかった、と安堵に笑った。ガートルード家からの依頼を引き受けた理由はロウエンのことが脳裏を過ぎったということもあるが、ヒースの懇願の眼差しに従ったところが大きい。
「それにしてもどうして私の化粧を見たいなんていう話になったんですかね?」
 ガートルード家の依頼は前触れなかった。完璧裏方である自分を呼び出すなど、一体何があったのか。
「別にそれは可笑しな話ではありませんよ」
 ダイの疑問に、ヒースは答える。
「貴族がよい職人を抱えたがることは貴女も知っていますね? 家同士で自慢しあうこともよくあることだ。例えば評判の歌い手を雇っていれば他の家の招待に伴っていき、歌を披露させることもある。今回の化粧もそれの延長でしょう。貴女はこのミズウィーリ家が抱える唯一の職人だ……貴女の化粧は、評判良いですよ」
 ふ、と笑って彼は付け加える。
「貴族の価値観を塗り替えるほどにね」
「……どういう意味ですか?」
 ダイの問いに含み在る笑いを浮かべたヒースは、席を立って背後の窓に向き直った。玻璃の壁面。その向こうに貴族たちの屋敷と城が見える。
 門の、こちら側の世界。
「私は以前、貴族たちの間で化粧をすることは娘の器量が良くないことを暗に主張するようなものだ、といいました。覚えていますか?」
「……覚えています」
「ですが貴女がマリアージュ様に施す化粧は、そういった価値観を完璧に覆してしまった。……最初に、マリアージュ様の雰囲気が変わったことに気づいたものは、化粧が変わっただけかと近づいていった。当然、マリアージュ様を嘲るためでしょう。しかし貴女が施した化粧はあの方に自信を与え、あの方本来の他者を従える力を引き出していった」
 ダイが知り得なかったマリアージュとその周囲の変化を、ヒースは淡々と語った。
「マリアージュ様に気圧された彼女らは後になって、あぁ化粧が変わっただけではないか、と気付く。しかし本当にそれだけなのか。化粧をしただけであんなにも人は輝き、人を惹きつけられるようになるものなのか。……夜会に出向くことのない貴女にはわからないでしょうが、近頃は貴女のような専門を抱えて化粧をしてくる子女も増えましたよ。話題もよく口に上る。マリアージュ様が最初だ、というのもよいのでしょうね。上級貴族の始めたことを真似しただけだという体裁が整う」
 長い話を終えて振り返り、ヒースが微笑む。
「貴女の化粧には、力がある」
 ダイは照れくささに顔をしかめた。
「褒めすぎですよ」
 化粧自体には力などない。化粧は、当人がもともと持つ力を後押しするだけだと思っている。
 もしも貴族の価値観が変わったというのなら、それはダイの化粧を信じてくれたマリアージュの力によるものだ。
「……まぁ、そんな様子ですからね。アリシュエル嬢が興味をもたれたのも無理はない」
「あの人こそ、化粧する必要なんて全然なさそうですけれどね」
 何せ、存在自体が光を放っているような人だ。聖女のような透明感。
 不用意に弄ればせっかくの素材が損なわれてしまいそうである。
「あぁ、そういえば貴女は彼女に会っていましたね……」
 ガートルード家に招かれた日の一件を思い出したらしく、渋面になってヒースは呻いた。彼はダイの性別を取り違えていた頃のことを思い返すたび、苦い顔をする。
「えぇ」
 笑いながら、ダイは頷いた。
「迷子だったのを助けていただいて。……いい人そうでしたよね」
「彼女は本当に出来た人だと思います。出来すぎている。私から見てもね。……貴女が彼女に会ったこと、マリアージュ様は知っていますか?」
「え? 知らないはずですけど」
「でしたらそのことは以後、誰にも口外しないように」
「マリアージュ様に知られちゃ駄目ってことですか? ……機嫌が悪くなられるから?」
 とにかく彼女はアリシュエルを痛烈に意識している。その名前を出すだけで機嫌が急降下するほどだ。そんなマリアージュがガートルード家の使者を目の前にして、よく耐えたと思う。客人が去った後の荒み様は最悪だったが。
 ダイの問いに、ヒースは首を横に振った。
「単純に機嫌どうこうというよりも、貴女がアリシュエル嬢を悪く思っていないということが、マリアージュ様を不安にさせる」
「……不安?」
「マリアージュ様は、貴女がガートルード家に引き抜かれていってしまうかもしれぬと危惧しているのですよ」
 思いがけない言葉に、ダイは目を剥いた。裏返った声がついて出る。
「まさか!」
「……上位の家が、下に見ている家から高額の給金で腕の良い職人を引き抜くことはよくあることです。職人たちにとっても、上位の家につけば名声が上がる。……今回のガートルード家の依頼も、貴女の反応を見たかったというところでしょう。あちらにはおそらく、社交界で評判を上げた貴女をミズウィーリ家から引き抜く準備がある」
「でも私、門の向こう側出身ですよ」
 しかも花街出身だ。そんな人間を上級貴族の中でも随一と謳われるかの家が、相手にするとは信じがたい。
「そんなことは気にならないのでしょう」
 ダイの懸念を、ヒースが打ち消した。
「私だって同じあちら側の人間だ。ですけど、話を持ちかけられましたからね」
 あの、ガートルード家が主催する宴の日に。
 彼の家が、わざわざヒースを客として招待した裏には、そういう思惑があったのだ。
 想像していなかったわけではない。しかし当人の口から聞くと急に現実味を帯び、ダイの心中を重くする。
「そんな顔をしないでください。断りましたよ。……マリアージュ様も、あれで決して鈍いわけではない。どんなやり取りがあったかは薄々気づいているでしょう。……そういう経緯があって今回、あの家は貴女に手を伸ばしてきたわけです」
「……マリアージュ様が荒れるのも、無理はないですね……」
 肩を落として、ダイは呟いた。今も寝室で眠っているだろう少女を思う。泣き疲れたその様子は、孤独な子供の姿を連想させた。
 まだダイがミズウィーリ家に勤め始めたばかりの頃、マリアージュは頻繁に名声が目当てかと問い詰めてきた。ダイがガートルード家に引き抜かれるかもしれない。その可能性を目の当たりにした彼女の心中を、理解できないわけではない。
 だが、腹立たしかった。
 ミズウィーリ家から出るかも知れぬと安易に思われていたということに。噴飯物だ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「私はこの家から出たりしませんよ」
 マリアージュから、追い出されない限り。
 ここは、自分が自分であることを許された場所なのだ。
 手放す気になど到底なれない。
「それを聞いて安心しました」
 ヒースは微笑んだ。彼もまたマリアージュと同じように危惧していたのだろうか。ダイは苛立たしさからヒースを睨みつけた。
 降参の意を手振りで示した彼は、苦笑して弁明する。
「貴女がガートルード家に簡単に引き抜かれてしまうなどと、思っていたわけではないですよ」
「じゃぁなんなんですか? さっきの発言は」
「言葉を間違えたんです。嬉しい、が正しいですね。これからも、貴女と共に働けるかと思うと」
 ヒースの減らず口に、ダイは歯が浮きそうになった。返す言葉が見つからない。
 唖然として押し黙るダイをよそに、ヒースは話を続けた。
「それにこれでマリアージュ様の評判も上がるでしょう」
「……なんですか、それ?」
「いいですか?」
 ダイの問いを受け、ヒースは解説を始める。
「ガートルード家が貴女を誘うというのなら、ミズウィーリ家よりもかなり好条件だ。この誘いを貴女が断ることで、他の貴族たちは何を思うと思います?」
「……えーっと、礼儀知らず、とか?」
 せっかくの誘いを無碍に断って、何様のつもりかと憤るだろう。
「そうですね」
 ヒースは肯定した。
「ですがそれは、ガートルード家と、その家をゆるぎなく支持している家だけだ。そうでない家は、貴女を礼儀知らずと思うと同時に、こうも思うのですよ。……あのガートルード家の誘いを断わらせるほどに、腕の良い職人を惹きつけるミズウィーリ家とは、そしてその主であるマリアージュとは、どんな存在か、とね」
「あぁ!」
「特に下級貴族は、どの家についていれば一番安泰なのかということにひどく敏感だ。職人も同じです。私も化粧師や歌手といった業師とは少し違いますが、家の雑務に造詣ある、一種の職人として見られているようですよ。……方々から引き抜きの誘いを受けましたが、それを断ってここにいる。そして、次は貴女だ。……彼らは、私たちを注意深く観察して考えている。女王になった暁に家臣を優遇してくれる家はどの家か。どの、女王候補者なのか」
 日和見主義の貴族たちは、マリアージュの元から離れたがらない自分たちを単なる雇われ人以上に厚遇されていると判断する。そしてその姿に将来の己の姿を重ねるはずだ。
 彼らのその物の見方は、女王選で優位に働く。
「……さて、ミズウィーリ家に探りを入れてくる家もさらに増えるでしょうね」
 薄く笑うヒースにダイは唖然となりながら、彼が味方でよかったと主神に心底感謝した。
「……どうかしましたか?」
 ダイの様子に首を傾げた彼は、歩み寄ってきながら尋ねてくる。
「……なんでもないです」
「あぁ、少し気分悪くしました?」
「え? なんで?」
「いえ、貴女を道具のように見たとも取れる、と思いまして」
 事態が少しでも優位に働くように、彼が動かす駒として。
 申し訳なさそうな様子のヒースに、ダイは笑って首を横に振った。
「違いますよ」
 本当に違うのだ。申し訳なく思うのは、むしろこちらのほうかもしれない。
 ヒースは優しいのに。
 本当に優しいのに。
 ほんの時折、水面の気泡のように浮かび上がる冷徹さに、違和感と薄ら寒さを覚えてしまうのだ。
 立ち止まった彼は首を傾げ、小さく瞬いた。
 その手が不意に伸びてくる。
 反射的にその場を退き、ダイは身を強張らせる。
 ヒースが手を宙でぴたりと止めた。
「……あ……っと」
「あ、あぁ」
 ダイは、彼から距離を取ろうとしたことに対して。
 そしてヒースはおそらく、おもむろに伸ばした手の所在について。
 互いに抱いた気まずさは沈黙となって現れる。
 中途半端に上げた手に視線を落として、ヒースは尋ねてきた。
「えぇっと……頬、どうしたんですか?」
「頬、ですか?」
「赤い筋が入ってる」
「あー。マリアージュ様に爪で引っ掻かれたやつですね。多分」
 頬を押さえて、ダイは呻いた。自覚すると同時、急に頬がひりついてくる。血は滲んでいないようだから、せいぜい蚯蚓腫れ程度の傷だろう。
「大丈夫ですか?」
「えぇ。平気ですよ。目立つようなら化粧で隠します」
「そういえば、痣も隠せるんでしたね」
 ヒースが感心に唸った。過去、彼の前で芸妓の顔に作られた痣を化粧で隠したこともある。その時のことを思い返しているのだろう。
 あれから、丁度半年が過ぎた。まだ半年。しかし、もう半年だ。ダイは懐古に笑った。
 一方ヒースは、渋い顔で忠告してくる。
「ですが化粧で隠すにしても、ちゃんと消毒をしてからにしたほうがいい」
 やけに物々しい言い方に、ダイは笑い出したくなった。大げさな。たかが引っかき傷ではないか。
「大丈夫ですよ。別に。大したことない――……」
「駄目です」
 びく、と。
 鋭い叱咤に、身体が震えた。
 恐々と、面を上げる。間近に佇む男は、僅かに眉を寄せてダイを見下ろしている。さして険しい表情ではなかったが、彼の纏う空気には苛立ちが含まれていた。
「貴女、顔に傷が残ったらどうするんですか?」
「顔に?」
 それがどうかしたのか、と瞬き、そこでダイはようやっとヒースの言葉の意味に思い当たった。
 自分は、女なのだ。女は大抵顔に傷が残ることを厭うものである。頭の中からそういった意識がすっかり消し飛んでいたことに、ダイは苦笑せざるを得なかった。
「ですね。気をつけます」
「ディアナ」
 それは、柔らかい音だった。
 ヒースは、名前を呼んだだけだ。
 ダイの本当の名前を呼んだだけ。この名前を呼んでほしいとダイ自身が望んだ。そしてそれを二人のときに限って、ヒースは叶えている。
 呼ばれただけだ。
 呼ばれただけなのに。
 どうして泣きたくなってしまうのだろう。
 それは長年の念願が叶ったことへの歓喜のためなのだろうか。それとももっと違う理由なのだろうか。
 この困惑を悟られぬよう目を伏せるダイの頬をふと、ひやりとしたものが触れた。
 ヒースの手。
 その指の背が、ダイの頬を一瞬だけ掠めていく。
「……ヒース?」
 ダイの問いかけに、ヒースは苦い笑いを返してきた。脇に下ろした己の手に後悔にも似た眼差しを向けた彼は、黙ったまま踵を返す。
「ガートルード家へ赴く日取りは、先方から連絡あり次第伝えます」
 玻璃越しに城を眺めながら、ヒースは言う。
「行っていいですよ」
 彼らしくない唐突な、話の打ち切り方だった。
 ヒースが一体何を思ってダイの傷に触れたのか、気にならなかったわけではない。しかしそれよりも、この奇妙な据わりの悪さから遠ざかりたい気持ちのほうが勝っていた。
 感情の読めぬ男の背中に頭を下げ、そのまま逃げるようにして、ダイは部屋を出たのだった。


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