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第六章 集会する偽装者 8


 長い一日。まるで激流に呑まれているかのようだった。
 全てを話し終えて解散し、自室に戻って毛布の中に潜り込んだはいいものの、目が冴えてしまい眠れそうにない。明日は安息日だったが、かといって寝坊してもいいというわけでもなかった。少しでも睡眠を確保する為に硬く目を閉じ、寝返りを繰り返す。しかしそのまま一刻が過ぎようかという段になって、とうとう眠ることを諦めた。
 起き上がって裸足を床に下ろす。ぺたぺたと足音を鳴らしながら衣装箪笥に歩み寄り、ダイは下段にある引き出しを開けた。
 下着類に埋もれるようにして、化粧箱がある。
 母の形見である、螺鈿細工の。
 その場を引き返し、寝台の縁に腰掛ける。箱を膝の上に載せて、ダイはその蓋を開けた。
 収められているものは、他人の目からすれば取るに足らないものだろう。しかしダイにとってどれも捨てられないものばかりだった。
 その中の一つ、手のひらほどの大きさの絵を、箱に指を差し入れて取り上げる。
 アスマから渡された、父の描いたそれ。
 蓋を閉じて箱を元の場所に戻す。箪笥から取り出した上着に袖を通し、絵を小脇に抱えると、ダイは靴を履いて外へと向かった。


 使用人が住まいとしている別館と本館の間には、見張りの塔がある。二つの館を渡り廊下のように繋ぐ塔だ。普段は通過するだけのその空間で足を止め、ダイは壁面に据え付けられた螺旋階段へつま先を向けた。手すりを掴み、階(きざはし)を一歩一歩確かめながら上っていく。
 到着した先は子供ほどの高さしかない屋根裏部屋だ。天井に設置された扉を開けば、屋上である。
「わ」
 びゅ、と。
 強く吹いた風が、ダイの髪を揺らした。
 上着の裾が翻り、ばたばたと音を立てる。持ち出した父の絵を落とさぬようにしっかりと胸に抱いて、ダイは屋根の上に出た。
 定期的に点検の入る屋上には、人が一人通れる道が作られている。足を踏み外さぬように注意深く進み、見晴らしの良い場所でダイは腰を下ろした。
 夜明けが近いのか、闇色というよりも群青に近い空の色。城側にある山脈の頂は僅かに白み、細い爪跡のような月がうっすらと顔を覗かせている。
 城壁近く、きらきらと輝いている場所は花街だ。もうまもなく、一日が終わる頃だろう。
 眠りに沈む街は静かだ。強風に煽られたのは屋上に出た時だけで、今は梢も沈黙を保っている。動くものといったら、ミズウィーリ家の庭にある林から飛び立つ鳥一羽ぐらいなものだ。夜明けに見かける鳥にしては大柄で、群れから離れた変わった鳥だった。
 ふと静寂を、こつりという足音が割った。
 ダイは驚きに振り返った。屋根の上を歩いてくる影がある。
「……何やっているんですか? こんなところで」
「ヒースこそどうしたんですか? 夜明け前ですよ」
「その言葉、そのままそっくり返しますよ」
 ダイの隣で立ち止まった男は、肩をすくめて空を仰いだ。
「あまり、眠れなかったもので。気分転換を。……貴女も?」
「はい。……多分、気が昂ぶっているんだと思うんですけど」
 様々なことがありすぎて疲労困憊だ。だというのに眠れないのは、気が高じてしまっているからだろう。
 そのまま続ける言葉が見つからず、ダイは口を閉ざして街に向き直った。膝の上に置いていた絵を何となしに取り上げ、指先で弄ぶ。
「……それは?」
 ダイの手元を指摘し、ヒースは首を傾げる。見慣れぬものだと、彼の目が述べていた。
「父が描いた、絵です」
「お父上の?」
「はい」
 油絵の表面を、指でなぞりながら頷く。
「見せて、あげたくなったんです。父に。これに父の魂が宿ってるわけはないんですけど。でも、なんだか見せたくて……ここが、今、私の生きている場所です、と」
 指を止めたダイは、城下街を見渡した。都を一望出来るのは、ここが門のこちら側、しかも城に近い位置にあるミズウィーリ家の屋敷であるからこそだ。
「……お話が終わって、お休みなさいを言ったとき、マリアージュ様、おっしゃったでしょう? 明日は肌の手入れだからって」
『安息日だからっていつまでも寝てるんじゃないわよ。化粧を何度もした次の日は肌の手入れをしなきゃ傷むっていったのはあんたでしょ』
 寝坊するなとダイに命じたマリアージュの傍らでは、ティティアンナが複雑そうな視線を彼女に向けていた。寝坊常習犯は、マリアージュのほうだからだ。
 思い出し笑いに口元を緩め、ダイは誰に向けるわけでもなく問いかける。
「それって、明日からも普通に、ここにいてお仕事していいってことですよね……?」
 ダイが花街出身であるという素性を明かしたとき、マリアージュはヒースに食ってかかった。この仕事を引き受けるときにも思っていたことだ――上級貴族の子女が、娼婦の顔師に顔を触られるなど、汚らわしくてたまらないだろうと。
 マリアージュの反応を見ながら、今度こそ解雇されるかもしれぬとダイは覚悟していた。しかしそれは、杞憂に終わったようである。
 もう、隠し立てしていることは、何もない。
 自分を偽る必要も、何もなくなったのだ。
 そんな場所が、あるとは思っていなかった。
「ダイ」
 ダイは傍らに立つヒースを仰ぎ見た。彼は微かに笑い、ダイの膝元を一瞥する。
「その絵、見せていただいてもいいですか?」
「いいですよ」
 ダイが差し出した絵を、ヒースはそっと受け取った。壊れ物を扱う時のように。
 まじまじ絵を眺めた彼は、そこから視線を動かさぬまま尋ねてくる。
「……これは、貴女たち?」
「えぇ。……母と、私です」
 アスマから受け取った絵は、母と赤子の肖像画だった。ダイが生まれた後すぐに描いたのだろう。微笑む母は、このとき幸せの絶頂にあった。過去の彼女の幸福を絵の中に見出すその都度、ダイは苦しくなる。愛する男を失った彼女の絶望は、いかほどであったのだろうか、と。
 何を思ったか、ヒースはおもむろに絵をひっくり返した。木枠の隅を注視し、彼は瞠目する。
 そしてそこに刻まれる文字を、右手の指先でなぞっていった。
「妻、リヴ、娘……ディアナと。エムル・セトラ。……ディアナ?」
「あぁ、私の、名前です」
 失われてしまった。
 女としての。
「父が付けてくれた名前なんですよ」
「……そうか」
 絵から目を離し、ヒースは呻く。
「貴女の、ダイという呼び名は、この綴りの頭の部分を」
「そうです。別読みさせたものですね」
 この、署名があるから。
 アスマは絵を隠していたのだ。彼女以外誰も覗き込むことのない、書斎の戸棚の奥に。
 この絵に記されている名は、ダイの性別を明かすものだったから。
「私は、この名前を母に呼んでほしかった。誰も、呼ばなくなった名前。父と母とアスマと私、四人しか知らない名前です。……けれど結局、あの人は呼んでくれませんでしたね」
 最後まで。
 彼女は、ダイを見なかった。
 彼女がダイを見つめるときは、父の面影を追うときだけだった。
「……あの人は私を見ませんでしたが、私に辛く当たっていたわけではないんですよ、ヒース」
 彼からの痛ましげな視線に苦笑して、ダイは言った。
「母は気持ちが落ち着いているとき、私に唄を歌い、よく絵を教えてくれました。父から習ったそうです。母はあまり……上手ではなかったですけれど。父や母の絵を描くと、あの人はよく喜んでくれましたよ。化粧も、絵の延長なんです。本当に小さい頃、私は絵を地面や壁、紙に描いていました。それが、今は人の顔の上に、移っただけです」
 描き方や道具、画材が、多少、変わっただけだ。
 絵を描く目的が、変わっただけだ。
 自分の化粧には、父の血と技が根底にある。
「……この、エムル、というのは」
「父の名前ですね。エムルが名、セトラが姓です。だから私の本当の名前は、ディアナ・セトラになります」
 今となっては。
 アスマと自分しか、知らない。
 誰も呼ばない。
 呼ばなかった、はずの。
「ディアナ・セトラ」
 ヒースが、ダイが告げた名前をそのまま繰り返す。ダイは驚きに瞬いた。呼ばれるとは、思っていなかったからだ。
「ディアナ」
 虚空を眺め。
「ディアナ」
 まるで音を、舌先で確かめるかのように。
「ディアナ」
 何度も。
「……ディアナ」
 繰り返し。
 ヒースは、ダイの名前を呼ぶ。
 彼の背後には、暁近くになって、白を帯びてきた空。
 端整な横顔と糖蜜色の髪が、夜明けの光を孕んでいる。
 優しく細められた蒼の瞳は、空の色を写し取ったかのようで。
 ダイは、泣きたくなった。
 息苦しいほどの、幸福を、覚えたのだ。
 ――……こんな綺麗な人が、私の名前を呼ぶ。
 もうずっと。
 ずっと。
 忘れられていた、名前を。
「不思議な感じです」
 胸の奥に温かさが灯り、奇妙なくすぐったさを覚えて、ダイは彼に笑いかけた。
「……その名前を呼んでくれたの、貴方が初めてなんですよ、ヒース」
 生まれてから今までに。
 数え切れないぐらいの人に出会ったのに。
 誰もその名を呼ばなかった。
 隠されていたから当然だとはいえ、実の母も、育ての母も。
 誰も。
 その名を呼ばなかったのに。
 ヒースは、ダイを見下ろして驚いたように瞬いた。息を呑み、何かを言いたげに唇を開く。そしてこちらの姿を、彼はその瞳の中に映し出した。
 瞬きすらない、開かれたままの蒼の双眸に、性別曖昧な自分の姿が閉じ込められている。
「……ヒース?」
 彼の反応を怪訝に思って、ダイは首を捻った。
「……いいえ。何でもありません」
 目を伏せて、ヒースは笑う。
「私、何か変なこといいました?」
「言ってませんよ」
「本当ですか?」
「えぇ。……ディアナ」
 微かに掠れた低い声で囁かれ、ダイは身体を強張らせた。
「……なんなんですか?」
 思わず口先を尖らせ、低く呻いた。失礼、と降参の意を示し、ヒースは口元に笑みを浮かべる。ひどく、柔らかい微笑だった。
「どちらがいいですか?」
「……どちらって?」
「名前です。……ダイと呼ぶのと、ディアナと呼ぶのと」
 それは、当然――……どちら、なのだろう。
 ダイという名前はあまりに馴染みすぎている。急に名前を変えるというのもおかしな話だ。周囲も混乱するだろう。
 けれど。
 せっかく、陽の目を見たのに。
 突如、ヒースが肩を揺らして笑った。
「そんなに真剣に悩まなくても。……仕事のときはこれまで通りダイと呼びますよ。二人のときはディアナと呼びましょう」
「……混乱しませんか?」
「貴女が仕事のとき私を敬称で呼び、普段は名前で呼ぶのとどこが違う?」
 彼の言う通りだった。言われてみれば、自分も彼の名前を呼び分けているのだ。
 沈黙するこちらに、彼は絵を返却してくる。
「ありがとうございました」
「……どうも」
 父の絵を引き取り、ダイは顔を伏せた。なんだか気恥ずかしい気がするのはどうしてだろう。
「ディアナ」
 呼びかけられ、上げた視線の先にあるヒースは、それこそ春先の陽のような、とてもとても、優しい微笑みを湛えていた。
 彼が、囁く。
「呼びますよ。貴女が望むのなら……何度でも」
 偽りのない。
 本当の、名前を。
 ヒースが何気なく手を差し出してくる。首を傾げながら手を取った瞬間、勢いよく身体が引き上げられた。夜が完璧に明けるまえに、眠っておくべきだと彼は言う。それもそうだと頷いて、ダイは先に道行く彼の後を追ったのだった。


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