第六章 集会する偽装者 7
「私に男として生きるように仕向けたのは、母でした。男として生きれば、娼婦にならなくてもいいから。先ほどの、職人制の話に戻りますけれど、娼婦の子供が男の場合、父親の職を選ぶこともできるようになりますので」
娼婦と男娼では継承される技術が異なる。父親が男娼である場合を除き、芸妓の下に生まれた男子を芸子とする為には、わざわざ男の師を探さなければならなくなる。その手間を省けるように、花街では男子に限り、職の選択の余地というものが与えられるようになるのだ。
自分が本当に男だった場合も、然り。
「貴女の父親は、画家だった」
ヒースが呟いた。
「娼婦ではなく、そちらの職を貴女に選ばせるために……?」
「あんたに身体を売らせたくなかったってこと?」
「えぇ。……ただ、それは私の身体を売らせたくなかった、訳じゃない」
ほろ苦く笑って、ダイは呻いた。
「父を、なんです」
こちらの含みのある物言いに、マリアージュが眉をひそめる。
「……どういう、こと?」
一体どこから、語るべきか。
揃って怪訝な表情を浮かべる皆を見回しながら、逡巡したのは僅かな間だった。ダイはまず、母について述べることから始めた。
「私の母は花街で一番多く客をとる娼婦でした。誰からも愛されて誰からも求められた。貴族はもちろん、母を求めて一山越えてきた他国の客も数多かった。母を妻に、と望んだお客も多かったそうです。金の卵である母を、花街はもちろん手放そうとはしませんでしたが」
絶世の美女かと問われれば否だと答える。容貌はあどけなく、立ち振舞いも幼かった。二十半ばで亡くなったのだ。記憶する限り、まだ、娘のような母だった。
「けれど母は随一の花形でありながら、他の芸妓たちに比べて身体を売ることをとにかく厭っていました。誰よりも多く、その身体を求められたからかもしれない。私の祖母、つまり母の母に当たる人が、客に乱暴されて亡くなったと聞いていますから、そういうことも理由の一つなのかもしれない。なんにせよ、母は春を鬻(ひさ)ぐその行為をとても憎んでいた」
いや、それだけではない。
亡き母の虚ろな眼差しを思い返し、ダイは独白のように呟いた。
「……いいえ。きっと行為だけでなく、母は周りの全てを憎んでいた」
この国も花街も人も血も技も才も。
何もかもを。
沈黙する周囲に苦笑し、ダイは話を続けた。
「そんな母にも、愛した人がいました。たった一人だけ。……それが、私の父です」
「……あんたの父親? その、画家だったっていう?」
マリアージュが口を挟む。
「えぇ」
微笑んで、ダイは彼女に頷き返した。
「父は裸婦の絵を描くために母の客になったんです。本当に、それだけの為に父は母と会い、あの人を娼婦としては扱わなかったんでしょう」
その結果、母は父に安らぎを見出したのだ。
「母は、父を愛しました。強烈に」
文字通り、狂うほどに。
他者から向けられる愛情を、彼女はそのまま父に注ぎこんだ。
しかし。
父は死んだ。
「父が死んだのは私が首も座らぬうちです。父は私が流行り病に罹ったと知って、薬を探して方々を歩いて。私は助かったけれど、結局父のほうがその病に罹って死んでしまった。それから……母は、本当に、父を愛しすぎていたんでしょうね。少し、おかしくなってしまった」
彼女は、その目に何も映さなくなった。
父の幻影以外、何も。
「緑の黒髪、月色の瞳、白磁の肌」
いつだったか、ヒースが準えたダイを形作る色彩。
その時のことを思い返したのか、彼は僅かに顔をしかめる。まだ出逢って間もない頃、女だったらさぞやと、ヒースはダイの容姿に賛辞を贈った。彼は本当に自分のことを男だと疑いもしていなかったのだから、真実を知ってひどく驚いただろう。
ダイは小さく笑って言った。
「この色はね、父の色なんですよ。父からそのまま、譲り受けたものなんです。母は私を娼婦にしたくなかったんじゃない。最も愛した父の色が、自分の憎む身体を売るという行為によって、どこか見知らぬ誰かに汚されてしまう。それが何よりも、許せなかったんです」
「……そんな、こと?」
ティティアンナが愕然とした様相で呻く。
「えぇ。そんなことです。そんな、つまらないことなんです」
狂人の行動の理由は、正気の人からすればひどくつまらぬものだ。夫の色を持った娘が娼婦となる。それで愛した男の何が汚されるというのだろう。他でもない、彼はもう死んでいるのに。
しかし、ダイの母はそうは思わなかった。彼女は夫に連なるものが汚されることを厭ったのだ。だから誰の手にも届かぬように、彼女は愛した男の遺品を焼いた。絵も、画材も、一切合財。炎によって浄化されたそれらが、まぼろばの地へ召された彼の下に送り届けられることを祈って。
「母が私に男であることを強いたのは、もしかしたらそれだけではなく、ある種の罰だとでも思っていたのかもしれません。父が病を得て死んだのは、私が流行り病に罹ったせいなのだ、と」
ダイに病をうつされて、彼の人は床に伏し、命を落としたのだ、と。
「それは違うでしょう」
ヒースがやや語調を強めてダイの言葉を否定した。
「貴女のこと関係なしに、貴女の父上は病に倒れたかもしれない」
「そうですね。でもヒース、問題は、母がどう考えたか、なんです」
自分は今、可能性のことを話しているわけではない。
「母は、間接的にとはいえど父を奪った私を憎んでいましたよ。けれど同時に、父の遺産である私を生かさずにはいられなかったんだと思います。母は私を育てるために働いて働いて、客をたくさんとって死にました。そして私に願ったんです。死の間際に――……父を、汚さないで」
客を、取るなということだ。
女に戻るな、ということだ。
「……そんな、親の理不尽に振り回される必要が、どこにあったの?」
ティティアンナが涙ぐんだ声音で呻いた。ダイは微笑む。
「私は子供だったから、選ぶことなんてできなかった。だけど子供だったから、精一杯、あの人の願いは叶えたいと思っていたんです。……母が死んで、さすがに五年も経てば、色々おかしいことがわかりますけれど」
でも、命を懸けてでも叶えてあげたかった。
いつも寂しそうに泣いていて。
いつも寂しそうに父の名前を叫んでいて。
そして一度もきちんと、こちらを見なかった。
哀れな母。
――……彼女の願いごとを叶えれば、一度ぐらい、名前を呼んでもらえるかと思っていたのだ。
「ねぇ、気になるんだけど」
沈黙を守っていたマリアージュが、手を上げて口を挟む。
「あんたの母親が亡くなった後にまで、なんで男のままい続ける必要があったの? 職人制って、違反したら厳しい罰則でもあるわけ?」
「そんなに厳しい罰なんてなかったと思いますよ」
思案する表情を浮かべて、ティティアンナが言う。
「親と違う職に就こうとすると、難しいっていうのはありますよね。組合が違いますし。でもある程度の理由があってきちんと申請すれば、よかったんじゃないかしら」
「そうですね。二人のおっしゃる通りです」
そう。職人制に厳格な刑罰は存在しない。
国としては。
「でも、花街だけはそうはいかない。娼婦を母に持つ女であって、身体的に問題はないのに芸妓でないだなんて、そんな例外は認められない」
「何故?」
「例外が一人でもいれば、娼婦でいたくない子たちによって、騒ぎが起きてしまうからですよ、ティティ。身体を売ることに嫌悪を覚えるのは何も母だけではありません。なんらかのきっかけで全てを厭い、花街から足抜けしたくなる芸妓も、いないわけではないんです」
例えば、母のように恋をすると致命的だ。懸想している相手以外の男達に、女たちが拒絶反応を起こしてしまうことも少なくない。そうならぬように、裏方は細心の注意を払う。芸妓の惚れた相手が、彼女を引き取り幸せにできるようならいい。だが大抵は泥沼になってしまう上に、芸妓自身も使い物にならなくなってしまうからだ。
「そんなひどい職なら、なくしてしまえばいいじゃない」
どこか呆れた様子で、マリアージュが言い放つ。
「そういうわけには参りませんよ」
ヒースが厳しい表情で主人の発言を諫めた。
「この国は芸妓の国です。技ではない。娼婦のほうの、芸妓。そんな二つ名があるほど、彼女らの社会はこの国に深く根付いて独自の社会を形成している。質の良さ……といっては失礼かもしれませんが、この国の芸妓たちの評判はひときわよく、他国から彼女ら目当てでくる客もいるほどです」
「……詳しいわね、あんた」
「まぁ、私も一応男なので」
マリアージュのぬるい視線を、ヒースは肩をすくめてやり過ごす。居住まいを正した彼は、それに、と言葉を続けた。
「この国が芸術面に精を出すようになったのも、もともとは娼婦たちが始まりだったといいます」
「は? 娼婦と芸術になんの関係があるのよ?」
「マリアージュ様、湯女のことです。湯女の」
「ゆな?」
ティティアンナの言葉を繰り返し、マリアージュは訝りの色をますます強める。
「火山帯に位置するデルリゲイリアには温泉が湧いていることはご存知ですね、マリアージュ様」
ゆっくりとした口調で、ヒースは解説を始めた。
「その宿場町が国へと変じていったわけですが、湯女はその湯治客を持て成す女たちのことで、娼婦の真似事をすると共に、歌や楽器、踊りに劇、そういった芸術を客に提供した者たちでした」
これが由来で、花街の女達は身体を売るばかりでなく、様々な芸を通じて客を楽しませたりもするのだ。
「次第に彼女らの中で芸に長けた者が技に磨きをかけていくようになり、その技が男女の別なくして受け継がれ、職人たちが生まれるに至った。つまり、芸技、芸の技の国と呼ばれるようになった始まりが、彼女たち娼婦です。しかし娼婦が集まる国ということで、人買いが次々に女達を売りに来るようになってしまった。そこで当時の統治者が、職人制を導入したのだといいます。他国から女達を売りにくる商人を退けるために」
娼婦も血筋で繋がる職人と定め、売り買いされるものではないと拒絶するための制度。
「……そういう歴史もあって、芸妓の子たちは国の礎であるという自負、脈々と受け継がれてきた技や美貌に対する誇りを持ちます」
ヒースの話を、ダイは引き取った。
「そして職人としての矜持が高いからこそ互いを監視して、逃げ出さないようにしている」
築いてきた歴史と、受け継がれてきた技術が、途絶してしまわぬよう。
あの、夢のように艶やかで美しく、底知れないほどに陰惨で淫猥な夜の街から。
何人たりとも逃げ出さぬようにと。
ダイは自嘲に笑いながら言った。
「娼婦の仕事はね、辛いんです。他の国の娼婦と比べれば雲泥の差だと客たちは言いますが、身体を売ることには変わりないんですから。辞めたいと願っている子も大勢いる。見習いから上がったばかりの、若い子たちなら、特に。女であるのに、母を娼婦として持つのに、芸妓でないなんて。あの町の軛から外れているなんて、許されるはずがない。例外が一人でもあれば、娼婦でいたくない娘達たちによって騒ぎが起こってしまう」
ダイは、小さな花街の社会を崩壊させるかもしれぬ危険因子だった。
「母が死んだ後、私に残されていた道は三つでした。女に戻り娼婦となるか、花街を出て行くか、男として生きるか。……私は子供で、花街を出て行って一人で生きるなんて無理な話でした。だけど娼婦にもなれませんでした。母が死んだとき、私は十。早い子ならば最初の客を取っていただろう年です。ですけれど私は、娼婦の娘ならば既に知っているであろう知識も何も持ち合わせていなかった。すぐに客を取ることはできませんでしたし、他の娼婦も、己の子以外に技や知識を伝えたりはしません。顧客との関係を、できる限り自分の子に譲り渡すためです。私は、娼婦にはなれない――ならば性別を偽って、ある程度の年になるまで、花街の片隅で生きるしかなかったんです」
「ですが性別を偽るということは、容易いものではない」
ヒースが厳しい声音で指摘する。まったくもって、その通りだ。
ヒースの手を、ダイは思い返した。年を重ねれば重ねるほど、あのように骨格も大きさも、何もかもが性差として現れる。
「……希望は、五、六年。でも最初の予想は、二年。アスマ……事情を知っている、母の親友なんですけれど、彼女は下手をすれば一年で、花街を出なくてはならないだろうって、言ってました」
母が死んだとき、既に身体は二次性徴を始めていた。女への階段に、足を掛けていた。
衣服や仕草、表情。そういったものでは誤魔化しきれなくなるのも、時間の問題だった。
が。
「……まさか」
ガートルード家での着替えの折、目撃したダイの身体を思い返してか、マリアージュが唇を戦慄かせる。
「あんたの身体って」
「えぇ、マリアージュ様」
皆まで言われる前に、ダイは深く頷いた。
「……多分、少しでも長く花街にいたいっていう、願いが通じたんでしょうね。いいえ。あの時、私は、男として生きろという母の願いを真摯に叶えたかった。だから私の身体は、母が死んだその日から、成長を、止めてしまったんです」
背が伸びていないと気づいたのは、いつだったか。
他の若い娘達は皆すくすくと伸びていく。しかしダイの身体は一向に成長の兆しを見せなかった。筋肉も脂肪も付かず、胸のふくらみも中途半端に、月の障りが訪れる気配も一切ない。
「アスマは、全てを知っていた……?」
動揺を隠せぬ様子で尋ねてくるヒースに、ダイはもちろん、と返した。
「アスマだけじゃないですよ。母を知っていた娼婦、アスマの館にいた芸妓達の何人かは、私のことを知っています。年のとても若い子たちは、知らないですけれど」
「彼女たちは嘘を吐いていたんですか? 貴女が男だと」
「いいえ。……覚えていますかヒース。あの人たちは私を男として扱い、客に対してと同じように、冗談めかしに私を誘いはしますが、誰一人として私を男だと言ってはいないんです。彼、とすら私を呼んではいない。万が一、客に私のことが知られてしまったときの防衛線でしょうか。――……貴方たちが勝手に、勘違いしたのだ、と。……ヒース、貴方が彼女たちの私に対する扱いを見て、私を男だと勘違いしたのと同じように」
ダイの指摘にヒースは顔を曇らせる。娼婦達にまんまと欺かれてしまった己を、恥じているのかもしれない。
「ヒースの言い分も、わからないでは、ないんです」
瞼を閉じ、ダイは花街の女たちを思い返しながら呟いた。
「私もずっと思っていました。あの人たちが、私のことで他人を謀っていることには変わりない。あの人たちは優しい。私を守るために、全てを、黙っていてくれた」
ある意味、ヒースの言う通りだ。彼女たちは嘘を吐いていた。嘘を、吐き続けてくれていた。
言葉によってではなく、態度で。
「マリアージュ様」
話の矛先を唐突に向けられたマリアージュは、びくりと肩を揺らす。ダイは苦笑しながら続けた。
「私が元の職場に不満を持っていなかったのにこちらに移ったのは、女王付きの化粧師として名を上げたいわけではなく、元々新しい職場を探していたからだと申しましたね。それはこういう理由です。母が死んでから五年が経ち、最初はおぼつかない手つきだった化粧もそれなりになった。この身体は時を止めて、少年の仕草を取ることも自然となってしまったけれど、いつなんとき、私が花街の火種になるともわからない。私は、甘えているわけにはいかなかった。花街を、出なければならなかった」
大好きだった。母親のようなアスマも、明るい芸妓達も、ダイと共に働く花街の裏方たちも。
けれど、あの街で生きることはできなかった。生きる方法もあったのかもしれないけれど、思い当たらなかった。
ダイは目を伏せて、全てを締めくくった。
「これで、全部です」