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第七章 篭絡する医師 1


 遠き地。
 海に隔てられた祖国を思うとき、彼女は懐かしむことはあれども戻りたいとは思わない。あの頃、自分は人形だった。人になりたいと願った人形は、全てを失って舞台から降りることを余儀なくされた。
 彼女はそれを憎まない。
 今はただ、二度と土を踏むことのない場所に生きる人々の、幸せを願うばかりだ。




「あぁ、もう、最悪」
 真綿の詰まった腰当と枕を敷き詰めた長椅子の上、仰向けに横たわるマリアージュは、眉間に深く皺を刻んだ状態で愚痴を零してばかりいた。
「何日も何日も、最近なんで私こんなに頑張って出歩いているのかしら」
 胸を大きく上下させて嘆息する彼女に、ダイは言った。
「最近は素直に招待された先に出向いて下さるので助かってるって、みんなが言ってますよ」
「別に他人のために出歩いてやってるんじゃないのよ! 私は!」
 マリアージュが乱暴に椅子の背を叩いて抗議する。その拍子に、彼女の頬に当てていた手の位置がずれてしまい、ダイは思わず渋面になった。
「マリアージュ様、あまり動かれると変なところに指当たっちゃいます。もうちょっと力抜いていただけますか?」
「あんたが余計な口を挟まなければ大人しくしていてあげるわよ」
 鼻息荒く会話を打ち切り、マリアージュは胸の上で手を組んで目を閉じる。同時に、手に掛かる重みが増した。虚脱の吐息がマリアージュから漏れる。
 彼女の頬に触れる手の位置を調整し、ダイは肌の手入れを再開した。
 ダイの素性がマリアージュに知られて既に安息日を四回ほど過ぎ、季節も移行しつつある。ますます他家へ顔を売り込みにいくことが多くなったマリアージュにとって、今日は久々の休みだった。化粧を重ねてばかりの肌を労わって、現在入念な手入れの真っ最中である。
 マリアージュの頭が来る位置に椅子を置いて腰掛け、彼女の顔を逆さに覗きこみながら肌をゆっくりと揉み解す。香りのよい乳液をたっぷりとつけた手は滑り良く。呼吸の速度に合わせた動きは緩やかだ。
 気分も落ち着いてきたのか眉間の皺を徐々に緩めたマリアージュは、目を閉じて大人しく身をゆだねていた。
 穏やかな時間。
 静寂を破ったのは、軽い叩扉の音だ。
「誰?」
「リヴォートです」
 マリアージュの誰何に応じて、扉の外からヒースの声が返ってくる。
「入りなさい」
 マリアージュは目を閉じたまま、入室の許可を出した。
「失礼いたします。こちらにダイがいると聞いたのですがお借りして……も、と思いましたが、無理ですね」
 扉の前で用件を述べかけたヒースは、こちらの様子を見て肩をすくめる。身なりを余所行きに整えているところをみると、彼はこれから出かけるらしい。
「急ぎ?」
 瞼を持ち上げ、マリアージュがヒースを一瞥する。彼は頷いた。
「はい。今から出なければなりませんので」
「ここで出来る用事?」
「できます。彼女に少し用事を頼みたいだけですから」
「じゃぁいいわよ。話せば?」
「ありがとうございます」
 承諾に謝辞を述べ、一枚の封書を手に歩み寄ってきたヒースは、マリアージュとこちらの傍らで足を止める。主人の頬に手を触れさせたまま顔を上げて、ダイは尋ねた。
「用事って何ですか?」
「今日午後からアルヴィナと会うと、ティティアンナから聞いたんですが?」
「はい」
 ダイは肯定に頷いた。あらかじめ渡されていた招力石を通じ、久々に会ってお茶がしたいとアルヴィナから連絡が来たのだ。彼女と会うために今日は午後から休みを取り、買出しも兼ねて街へと下りる予定である。
「ではこちらの封書を彼女に渡していただけますか? かなり遅くなりましたが、先日の仕事の報酬の件です」
 そう言ってヒースは封書を軽く掲げた。
「あちらの円卓の上に置いておきますから」
「わかりました。……リヴォート様は今日も外に出られるんですね」
「えぇ。ですが夕方には戻っている予定です。アルヴィナから何かあれば報告に来てください」
「わかりました」
「よろしくお願いいたします。……あぁあとそれから」
 まだ何か用事があるのか、と首を捻ったダイに、ヒースは目を細めてふわりと笑う。
「気をつけて、楽しんで」
 ついつられて、笑い返した。
「ありがとうございます」
 ダイに一つ頷き返し、ヒースは表情を引き締める。彼はマリアージュに向き直り、丁寧に一礼して退室の挨拶を口にした。
「ありがとうございました。それでは失礼いたします」
「え、えぇ……」
 素早く踵を返した彼は、円卓の上に封書を置く。そして扉の前でも一度腰を折り、部屋を出て行った。
 二人だけに戻り、肌の手入れを再開する。
「……ちょっと」
 半眼でこちらを見上げ呻くマリアージュに、ダイは瞬いた。
「どうかなさいました?」
「どうかなさいました、じゃないでしょ。なんなの? 一体なんなの?」
「え?」
 マリアージュの声はかなり低い。不機嫌そうなその声音に、ダイは目を泳がせた。
「……えーっと、午後から街に行ってくるのだめでした?」
「じゃ、な、く、て! あんな笑い方するヒース、初めてみたわよ!!!」
 びし、と扉を指差してマリアージュは叫ぶ。
 驚きに、ダイは手を止めて尋ねた。
「……そうなんですか?」
「そうよ!! なにあの気色悪いの!!!」
「気色悪い?」
「だってあいつの笑い方とかっていったらいっつも人をこ馬鹿にしたみたいなのとか目笑ってないのとか呆れましたといわんばかりの笑い方とかそんなんばっかりでしょうが!!!!」
 ひどい言われ様だ。
 ダイは口元を歪めて、彼を弁護した。
「リヴォート様って結構あんなふうに笑われますよ。ほわほわして可愛いですよね」
「あれのどこをどう見たら可愛いなんて表現が出てくるのあんたは! っていうか、そうじゃなくて! 私はあんなふうに笑ったこと見たことがないって言ってるの!!」
 ばん、と椅子の背を叩いてマリアージュは主張する。ダイは天井を仰ぎながら、思案した。
 ヒースはマリアージュに対して辛辣なところがある。それは女王候補としての責を投げがちだったからだろう。だが今、彼女は受けた招待を無碍に断るようなことはしなくなった。積極的とはいわずとも、動いていることは確かである。
 口元を曲げたマリアージュに、ダイは微笑みかけた。
「最近マリアージュ様も癇癪起こされなくなりましたから、リヴォート様もマリアージュ様にあんな風に笑ってくれると思いますよ?」
「……私はあんたの口の遠慮のなさに呆れるべき? それともすっとぼけ具合を詰るべき?」
 いらいらするわ、と呻いたマリアージュが、ダイの方へ両手を伸ばす。あ、と思った瞬間、ばちんと音が響き、両頬が彼女の手に挟まれていた。
 そしてしばらくの間、ダイはひよこ口の刑に処され、悲鳴を上げることになったのである。


「あははははは!!!!」
 対面の席で頬杖を突いていたアルヴィナが、今朝の一幕を聞き終わるなり盛大に笑い声を上げた。
 午後、以前も共に入った喫茶店で彼女と落ち合ってから一刻ほど。久方ぶりの再会に話が弾んだ。アルヴィナがミズウィーリ家の仕事を終えた後のことに始まり、ガートルード家における一件と続け、最後に触れた話題に対する彼女の反応が、こうである。
「おかしい! なぁにもうすっごくおかしい!」
「……すみませんアルヴィー。何がそんなに面白いのかさっぱりわからないです」
「いいのよぉわからなくて。でも上手くいってるのね。よかった」
 眦(まなじり)に浮かんだ涙を指先で拭って、彼女は言う。
「肝心のご当主に必要とされているみたいだし、大丈夫だとは思ってたけど、私の不用意な一言であんなことになってしまっていたから」
「心配かけてすみません」
「楽しそうでなによりだわ」
 くすくすと忍び笑いを漏らし、アルヴィナが紅茶に口をつける。ダイも皿の上の菓子を匙ですくい取って口に運んだ。
「女の子だとわかってもみんなが変わらなくてよかったね」
 ダイの今の状況を心から喜んでくれるアルヴィナに、ダイは頷いた。
「結構心配してたんですけど、そこはあっさりと」
「ダイも全然変わらないし」
「私、本当のところ言うと男のふりしてるとかそういう感覚あまりなかったんです。ただ、相手が勘違いしているのを否定しなかっただけで。最初から男に生まれていれば、母を苦しめたり、花街のみんなに迷惑かけたりせずにすんだのになって思うことはよくありましたけど。……でも、ありのままを受け止めてもらえることって、やっぱり楽ですね」
 性別については、マリアージュもティティアンナもおかしいと思うところがあったらしく、やっぱり女の子だったのね、で片付いた。最初に勘付いていてよさそうだったヒースのほうが、衝撃を受けていたぐらいである。
 性別よりもむしろ、母親を娼婦にもつ花街育ちの自分を受け入れてくれたことのほうが、ダイにとって喜ばしいことだった。自分の素性を卑下したことなど一度もないが、貴族側の人間にしてみれば汚らわしい生まれだと思われていても仕方のないことなのだ。あのヒースでさえ、初対面のときに娼館に嫌悪を表していたのだから。
「そういえば、どうしてアルヴィーは私が男だって勘違いしなかったんですか?」
 ヒースがあれほどはっきりとこちらを『彼』と表現したのだ。いくら勘がよくても、大抵は皆その時点でダイの性別を取り違える。
 だがアルヴィナは、ダイが女であると確信していたようだった。
「お風呂のとき用意してくれた着替えの中に混じっていた下着、女物を出されて私すごくびっくりしましたよ」
 下着まで着替えを用意するアルヴィナの感性にも物申したい部分はあるのだが、その話は置いておくとして、彼女が性別を誤らなかったことにダイは一番驚いた。
「うーん、そうねぇ……理由を内緒にしてくれるんなら、教えてあげてもいいわよぉ?」
 人差し指を口元に当て、アルヴィナが条件を提示する。
「……あんまり言いたくない理由ですか?」
「ううん。ダイが女の子だってわかったのは、私にとってはどうってことのない技を使ったからなのね。なんだけど、使える人がすごぉく少なくなっちゃっているみたいだから。それに……ダイ自身がいい気分しないかもだし。……どうする? 聞く?」
 選択を迫られ、ダイは唸った。アルヴィナがいうからには魔術的な技を駆使したのだろう。となると、説明を受けても理解できるかどうかわからない。気分を害する、と注意を促されていることも気になる。しかし、ずっと疑問に思っていたことでもあるし……。
「んー。大丈夫です。教えてください」
 結局、ダイは好奇心に負けた。
「わかったわ」
 アルヴィナが承諾する。
「ダイの内在魔力を、視たの」
「……どういうことですか?」
 植物や生物といった形あるものの中を循環する魔力が内在魔力だが、それを視た、というのはどういう意味だ。
「ダイは時間わかるわよね?」
「……魔から読み取ることができるかってことですか? ……できますけど」
「それと一緒。魔の粒子はね、色んな情報を抱えているの。正確には、記憶しているのね。何千何万という、この世界が神によって創り上げられたときからの連綿とした歴史を全て記録している。人の中の内在魔力も例外ではないわ。内在魔力は生物の生から死までを記憶して、生殖行為によって次代へと受け継がれる。ダイのお母さんやお父さんの持っていた内在魔力の一部分が、ダイが生まれたときに流れ込んでダイを作っている。性別も流れ込んだ魔力の種類で変化する。お母さんのほうから性別を決定付ける魔を受け継いだのなら女の子。お父さんからなら男の子」
「……すみません。難しすぎて全然わからないです」
 専門的な話は理解不能だと主張したダイに、アルヴィナは苦笑した。
「そうね。じゃぁご要望にお応えして端折りまして……内在魔力には、色があるっていえばいいのかしら。女の子の色。男の子の色ね。それを視たの。年齢についてもそうよ。例えば、女の子だったら、赤い色だとするでしょ? でも生まれて一年目は赤みがかった白。二年目には薄桃色。三年目には桃色。四年目には……っていう風に、だんだん色が濃くなっていったりするっていえば、わかりやすい?」
「はぁ。要するに、時がわかるみたいに、年齢性別も内在魔力を視ればわかっちゃうってことですね」
「そうそう。私こういうの感覚でやっちゃうから、説明するのが難しいのよね……。ちなみに、出身地とかもおおざっぱにならわかったりするのよぉ」
「へぇ? そうなんですか?」
 うん、とアルヴィナは首を縦に振った。
「本当に大雑把だから、たとえばデルリゲイリアとお隣のペルフィリア、どちらの出身ですか、なんていうのはわからないけれど……元が西大陸の人か、東大陸の人かどうか、とか」
「へー。便利ですね」
「昔の魔術師は、この技を使って王家の庶子が本当に王の血を引いているのかとか、判断していたの。さらに注意深く魔力を観察すると、色んなことがわかってしまう。……女の子だったら、純潔かどうかもわかってしまうしね」
 悪戯っぽく笑って付け加えるアルヴィナに、ダイはあぁ、と納得した。魔から細かい情報を引き出せるということは、当人の隠している秘密が筒抜けになってしまうということなのだ。だからこちらの気分を害するかもしれないと、アルヴィナは忠告してきたのだろう。
「普段はそこまで見えないように、眼を閉じているから安心して」
 ここでいう眼とは、内在魔力を視る技のことだ。
 ダイは微笑んだ。
「大丈夫です。ありがとうございます。……私の身体が年を取っていないってわかったのも、その技で?」
「そう。身体を成長させる魔力が上手く動いていないように視えたから、あぁこれは、と思って。ごめんね。やっぱり気分悪くした?」
 こちらの顔色を窺うアルヴィナに、ダイは首を横に振る。無理にこちらが聞き出したのだ。ここで彼女を気味悪がるというのはお門違いな話だろう。
「よかった」
 アルヴィナは安堵した様子で微笑み、新しく注ぎなおした紅茶にぽちゃぽちゃと角砂糖を入れた。この話をあまり引きずりたくなかったのか、彼女は話題を変えてくる。
「……あぁ、今度はヒースも入れてお茶したいわねぇ。彼の近況も聞きたいのに」
「あぁ、本当に忙しそうですから。……でも」
 楽しんで、と自分を送り出してくれたときの彼を思い出し、ダイは笑った。
「ヒースも、アルヴィーがそういってくれたら、喜ぶと思いますよ」
 選出の儀が終われば、彼の肩の荷も少しは下りるだろう。その時にはまた三人で同じ食卓を囲みたいものだ。
 アルヴィナはきょとんと目を丸め、こちらを見返してきた。瞬きを繰り返す彼女に、ダイは首を傾げる。
「アルヴィー? ……どうかしました?」
「……ううん」
 ふふ、と笑って、アルヴィナは言った。
「なぁんでもない。うん。いいなぁ。こういうことにしばらく関っていなかったから、おねーさんは俄然楽しくなっちゃうなぁ」
「……なんなんですか?」
 うふふ、と笑い続けるアルヴィナは実に不気味だ。胡乱の眼差しを向けるダイに、彼女はなんでもないと主張する。
「うん。ヒースはね、最初からダイに優しかったねって話」
「ヒースは最初から優しい人ですよ?」
「うん、知ってる」
 ダイは肩をすくめ、残りの菓子を平らげた。冷めた紅茶と共に、釈然としない気分を飲み下す。
「ダイ、身体のことは心配しなくていいよ」
 ダイと同じように紅茶を口に運んでいたアルヴィナは、空になった茶器を皿の上に置いて言った。
「きっとすぐに手足が伸びて、綺麗になるわ」
 会話の繋がりが、本当に見えない。
 身体が成長することと綺麗になることは、別物のような気がするのだが。
 なんにせよ、アルヴィナの発言はダイの魔力を視てのことに違いない。近々成長も始まるのかもしれないと淡い期待を抱き、ダイは彼女に頷き返した。
「ありがとうございます」
「いーえ。……全部食べた? それじゃぁ行きましょうか」
 席を立ち、アルヴィナが上着を腕にかける。ダイも椅子から腰を上げた。これから二人で、ミゲルの店に向かうのだ。
 料金を支払って通りへ赴く。相変わらずの人の群れなので、目抜き通りから一本外れた商店街を進んだ。こちらも込み合っていることには変わりないのだが人を掻き分けなくてよいだけ、散策する余裕が出る。
「ダイ!」
 アルヴィナと歓談に興じながら通りを歩いていたダイは、唐突に響いた呼び声に足を止めた。
 伸びてきた手が、乱暴に肩を引っ掴む。
 骨が軋むようなその痛みに、ダイは思わず息を呑んだ。


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