BACK/TOP/NEXT

第六章 集会する偽装者 6


 誰が彼女を責められただろう。誰も彼女を責められなかった。誰が彼女を壊したのか。それは彼女を愛した皆だった。彼女に少しでも生きていて欲しかった。だから彼女が愛した男の写し身を歪めてしまうことを許し、助けた。
 それは、愛だったのか。
 それとも、罪だったのか。


 ガートルード家から帰宅した後、マリアージュは侍女に付き添われて一度自室へと戻った。湯浴みをして着替える為だ。その間ダイたちも一時解散し、休憩を挟む。誰も彼もがくたくただった。
 皆が疲れているなら、話を翌朝に持ち越してもダイは構わなかった。しかしこういうことは一刻も早く知りたいと、マリアージュが声高に主張した。ヒースやティティアンナも同意見だったらしい。事情説明は各々の身づくろいが終わった後、ヒースの部屋に集まってすることとなった。
 湯浴みに際し、衣服を脱いだダイに、共に脱衣所に入っていたティティアンナがしみじみと呟いた。
「本当に女の子なのねぇ」
「一応は」
 苦笑しながらダイは頷いた。そう。身体の作りはどうあがいても、男のそれにならない。普通に成長している状態なら、筋肉を付けるなりして男の身体に多少近づけることは出来たかもしれない。しかし時を止めてしまった身体は筋肉はおろか、脂肪すら寄せ付けない有様だった。細い裸身は子供のものではないが、少女のものといっても違和感がある。
 詳しいことは後ほど話すということもあり、ティティアンナは遠慮したのか、ダイの身体について話題を振ったのはその一回だけだった。後は水道が使えるようになったことの快適さで盛り上がった。アルヴィナが術式の調整を終えた為、わざわざ一階の井戸から水を汲み上げる必要がなくなったのだ。これは労働する側にしてみれば、大きな助けである。
 ほこほこと温まったところで、ティティアンナとも別れて自室へ。そこで荷物を置いて即座、ヒースの執務室に向かう。
 部屋は、薄暗かった。
 城を望める玻璃の壁面から、月明かりが差し込んでいる。そのため足元に不安を覚えることはない。しかしこれから座談会をしようというには暗すぎる。
 ダイは部屋の隅に置かれた、銀の燭台に歩み寄った。その上では柱のように太い蝋燭が、天井に向かって突き立っている。
 蝋燭の芯に火を入れようとしたダイは、燐寸の姿が見えぬことに気が付いた。
 周囲を漁っても、目的の物は見当たらない。
 燭台の周りをぐるぐる回っていると、背後から男の呆れた声が掛かった。
「何やってるんですか? 貴女は」
「ヒース」
 現れた部屋の主は腕を組み、戸口に背を預けている。なんとなく覚えた気恥ずかしさに笑いながら、ダイは彼の傍に歩み寄った。
「明かりをつけようと思ったんですけど、燐寸が見当たらなくて」
「あぁ、私の机の引き出しに入っていますからね。待ってください」
 壁から背を離したヒースはダイの横をすり抜け、机の方へと歩いていった。
 いつもの席の前で立ち止まり、ヒースは迷わず一番上の引き出しを開ける。彼はしばらくその中に視線を向けていたが、ふいに顔を曇らせた。
 首を傾げるダイの前で、ヒースは次々と引き出しを開けていく。
「ないんですか?」
「えぇ。おかしい。昨日間違いなく入れたんですが……あ」
 何かに思い当たったのか、ヒースは床に膝を突いて身を屈めた。
 急に視界から消えたその姿を追い、ダイは机の正面から彼の横へと回り込む。
 ヒースは引き出しの下の細い隙間に、手を伸ばしていた。
「落ちてしまったんですか?」
 ダイの問いに、ヒースは身体を起こして頷いた。
「えぇ。仕舞うときに奥から落ちたんでしょうね。……代わりのものを取ってきたほうが早いか」
「ちょっと退いてもらっていいですか? 私がやりますよ」
 場所を譲ってもらい、ダイはその場に身を伏せた。引き出しと床の間に手を伸ばして、指先で小さな箱を探り当てる。手繰り寄せたそれを拾ってみせて、ダイは笑った。
「とれました」
 ダイも見慣れた燐寸の箱。それを受け取って、ヒースも顔を綻ばせる。
「ありがとうございます。では早速火を」
「はい」
 お茶の仕度をしてからこちらに来る予定のティティアンナも、そろそろ姿を現す頃だろう。先に自分が来ていると彼女は知っているから、暗い部屋だと驚かれるに違いない。
「……ヒース?」
 中腰になったダイは、一向に動く気配のないヒースに呼びかけた。
 早く明かりをつけるべきだというのに、彼は手元の箱を弄んで、その場から離れる気配を見せない。
「……どうか、しました?」
「え? いえ……」
 頭を振った彼は、小さく笑った。
「大きさが、違うのだ、と、思って」
「え? あぁ……手の、ですか」
「えぇ。私は指先を隙間に入れるので精一杯だったから」
 燐寸の箱を、机と床の間から取り出す時。
 ダイは苦を覚えなかった。
「全然、大きさ違いますよ」
 ほら、と手の平を彼に向けて差し出す。彼は笑って同じように手を差し出し、ダイのそれに重ねてきた。
「本当に、全然違う」
 一回りも、二回りも。
 ヒースの手の方が、大きい。
 大きさだけではない。曲線を帯びたダイの手と異なり、彼のそれは節くれだっている。骨格のはっきりとした男の手だ。こんなところにも、性差は明確に現れる。
 力強いその手は、いつもダイに労わりを以って触れてくる。彼の存在に、真綿で包まれ守られているかのような安堵を抱く。
 彼が守るものは自分ではないのにと、苦笑する。
 大きさ比べもおしまいだ。そう思って戻しかけたダイの手を、ヒースのそれが引きとめた。
 男の指が、ゆっくりと、自分の指の間を滑る。
 組み合わされていく、手。
「……ヒース?」
 彼は目を伏せ、その親指の腹でゆるゆると、ダイの手の甲を撫ぜている。押さえつけているわけでもない。擦るというにも少し違う。羽で表面を撫でるような、柔い感覚。
 何かが、じわりと、身体を侵食していく。
 肌が、さざめくような、痺れ。
 今まで経験したことのない感覚に、ダイは息を詰めた。
「本当に」
 ヒースの唇が、動く。
「どうしてこんな小さな手を」
 伏せられていた蒼の双眸が、ゆっくりとダイを捉える。
「男のものだと思ったり、したのだろう……?」
 囁かれる自問。
 く、と細められる目。
 改めて思う。
 ヒースはひどく、綺麗だと。無論、容貌も端整だが、それ以上に、その目が。
 永遠に続く、白砂の原野の空の色に似た、透明で深い、静かな蒼。
 その瞳に、捕らえられる。
 上手く、呼吸が、できない。
「……は」
 男の手は離れない。その親指は輪郭を確かめるようにダイの手の甲を滑っている。手を振り払うこともできず、逃げることもできず、ダイは胸苦しさに喘ぎながら目を伏せた。
 脈打つ血流の源を押さえ、閉じる瞼に力を込める。
(くるしい)
 呼吸が、詰まる。
 助けて、と、叫びたいような。
 何もかも投げ出して、蹲りたいような。
 身体の中を駆け巡る、奇妙な衝動。
 閉じた視界の向こうで、男の気配が微かに動く。そして続けて響いた叩扉の音に、ダイは強張っていた身体を跳ねさせた。
「ダイ? ……リヴォート様? おいでですか?」
「ティティ」
 がちゃっ
 ダイの返事と扉の開閉音は、ほぼ同時だった。
 茶道具一式の載った盆を持ったティティアンナが、驚いた様子で立ち止まる。
「く、ら……え? どうなさったんですか? 明かりもつけず」
「燐寸を、机の下に落としてしまって」
 ダイの手を解放して立ち上がったヒースが、微笑んで彼女に応じた。
「今、ダイに取ってもらったところです」
「あぁ、そうなんですか」
 すかさず燭台に歩み寄った彼は、手早く蝋燭に火を付けた。芯の焦げる臭いが微かに漂い、部屋が一気に明るくなる。
 ダイも立ち上がり、ヒースを見つめた。
 明かりは灯った。しかし彼は振り向かない。じりじり燻りながら揺らめく蝋燭の炎先を、見つめている。
 その背から心中を読み取ることは、難しい。
「ダイ、こっち手伝って」
「あ、はい」
 手招かれ、ダイはティティアンナに駆け寄った。円卓の上に載せた四人分の茶器に彼女が紅茶を注いでいる間、ダイは椅子を用意する。四脚揃え終わったところで、丁度よくマリアージュが現れた。
「あぁ、眠い」
 手で欠伸を隠しながら部屋に入ってきた彼女は、解かれた長い髪を肩から払い落としながら席に着く。
 続いてヒース、ティティアンナ、ダイの順で、マリアージュに倣い椅子に腰掛けた。
 一度ヒースと目が合ったものの、どのような表情をしていいのかわからず、ダイは口元を引き攣らせた。ヒースは、苦笑いを浮かべている。
 先ほどのことは、一体、なんだったのだろう。
 だが今、それは横に置いておくべきだった。
 気を取り直し、ダイはヒースに微笑みかける。面食らった様子ながらも、彼は目元を緩めてダイに応えた。
 紅茶を啜りながら、マリアージュが気だるそうに呻く。
「まったく、なんでこんな夜中に集まってお茶会しなくちゃならないのかしら。みんな寝てるわよ。しかもガートルードから帰ってきて、くったくたの時に」
「すぐにダイに説明させたほうがいいと仰ったのは貴女様です、マリアージュ様」
「何よヒース。あんただってこういうのは早くしたほうがいいって、諸手を挙げて賛成したじゃない?」
 マリアージュの反論に、ヒースは答えない。彼は瞼を閉じ、彼女の苦言を右から左へと聞き流している。
 発言を無視されたことに腹を立てていくマリアージュを、ティティアンナが慌てて制した。
「ま、まぁ。とりあえず、早く寝るためにもダイに早く説明してもらわないといけませんから。ね? マリアージュ様」
「……それもそうね」
 納得した様子のマリアージュに、ティティアンナが胸を撫で下ろした。
 いつ話を切り出そうか頃合を見計らっていたダイは、ヒースに尋ねた。
「ヒース、話す前に訊いておきたいんですけど」
「何ですか?」
「このこと説明するために、私全部話さなきゃいけないんですけど、いいですか? 私の生まれのことも。前の、職場のことも」
「前の職場? あんた劇場かどっかで働いてたって言ってたけれど、そこのこと?」
 口を挟んだマリアージュに、ダイは微笑を返す。劇場とは明言していない。彼女の解釈を、自分は否定しなかっただけだ。
 自分の性別についても同じ。自分は、否定しなかった。そして、肯定もしなかった。
 結果、彼女らは自分を男だと思い込んだのだ。
 ヒースがどこまでダイの出自をマリアージュたちに伝えているかわからない。だが花街のことを告げていないところをみる限り、自分の生まれはマリアージュたちにとって馴染みにくいものなのだろう。
 それを、話してしまっていいのかどうか。
「もう、どうしようもないでしょう」
 ヒースは言った。
「私としても何がどうなっているのか知りたいですから。話してください。全部」
「わかりました」
 頷いて、ダイはまず、この国の制度について触れることにした。


 世界に存在する国の多くは、国名よりも二つ名と呼ばれる銘によって、判別されることのほうが多い。
 例えば、滅んで久しい西大陸随一の大国であったメイゼンブル。メイゼンブルが国名で、魔の公国もしくは聖女の紅国が二つ名だ。銘は皆、国の在り方そのものを象徴する。
 デルリゲイリアにも銘はある。
 芸技の小国。
 またの名を、芸『妓』の小国。


「芸技って、この国に職人が多いからってことよね」
「そうです」
 マリアージュの言葉に、ヒースが肯定を示して補足する。
「この国には土壌や天候の関係で特産となるものが少なく、地理上移動もしにくい。その代わりこの国は手先の器用さや感受性の高さを生かして、多くの職人を輩出してきました。絵画、詩歌、陶芸、彫刻。それだけに留まりませんが、職人たちの作り出す美術工芸品や歌劇などの娯楽を他国に輸出することでこの国は外貨を得て生き延びてきたわけです」
 それゆえに、芸技の小国と呼び習わす。
 ダイは微笑んで、マリアージュに問うた。
「その名前を名乗り続けるために、この国に敷かれた制度をご存知ですか? マリアージュ様」
「制度?」
 反芻する彼女に、ティティアンナが助け舟を出した。
「マリアージュ様。職人制のことです」
 職人制というのは端的に言えば、親と同じ職を継ぐ、という制度だ。あまりに適正がない――たとえば、手先を使う工芸人を親に持ちながら手を失っている、歌の一族で声が出ないというような場合を除き、子供は原則として親と同じ職に就く。
 それは血脈と共に才能を、そして技術を確実に研鑽し繋いでいくための制度だ。
 まさか貴族に仕える使用人たちにまで、その制度が適用されているとは思わなかったが。
 そこまで話して、ヒースは全てを理解したのだろう。こちらを見つめながら、徐々に顔を強張らせていった。
「マリアージュ様は、私が劇場で働いていたと思われたようですが、私が働いていたのはそういった場所とは少し違います。……劇をしたり楽器を弾いたりすることもある場所には違いないんですが」
「は? じゃぁどういうところよ?」
「花街です」
「はな、まち?」
 わからない、とマリアージュが繰り返す。一方、彼女の傍らに座っていたティティアンナは、ダイの言葉に硬直した。門のこちら側の女たちにとって、花街は忌避すべき場所だ。
「女の人が春を鬻(ひさ)ぐ……っていっても、わかりませんか。男の人に身体を売る場所です。芸妓というのは娼婦のことで、私は彼女たちに化粧を施し、性欲を吐き出しに来た客の下へ彼女たちを送り出す顔師でした」
「ヒース」
 がた、と立ち上がり、マリアージュはヒースを睨み据えた。
「あんたこれ、知ってたの?」
 汚らわしい手で触れられてきたことへの屈辱にか、マリアージュが声を震わせて詰問する。彼女を一瞥したヒースは、瞼を閉じて頷いた。
「えぇ。……彼女が働いていた娼館まで、赴きましたから」
「……あんった……!」
「ダイ、それがどうして性別を隠さなきゃいけないことに繋がるの?」
 今にもヒースの襟首を掴んで叫びだしそうなマリアージュに先立ち、ティティアンナが素早く口を開く。勢いを殺がれたらしいマリアージュは拳を震わせたまま、大人しく席に着いた。
 苦笑して、ダイは続ける。
「職人制は、花街にも適用されています。娼婦たちの間にも」
 あの花街で生きる芸妓たちは、明るい。
 他国からの客は言う。何故こんなにも彼女たちは明るいのか。他国の娼婦はもっと陰惨で、病み、饐えた香りを白粉と香水で誤魔化しているものだと。
 花街の女達は惨めではない。彼女たちは己の身体に、技に、誇りを持っている。それは母、祖母、それ以前よりも受け継がれてきた財産そのものだからだ。
 そして。
「私の母親も、娼婦です」
 かつて、あの街で知らぬものはいなかったという美しい華。
 ダイは胸に手を当てて、自嘲に嗤った。
「娼婦の娘は娼婦です。だから本当なら――私も、身体を売る女の一人に、ならなければならなかったんですよ」


BACK/TOP/NEXT