第六章 集会する偽装者 5
無言のまま、歩くことしばし。
ようやく到着した控えの部屋に足を踏み入れたダイは、ティティアンナとマリアージュに迎えられた。主人は先に戻っていたらしい。ダイを一目見るなり椅子から立ち上がった彼女は、つかつかとこちらに歩み寄る。
一瞬だった。
「まりあ」
ぱん!
弁解する、暇もない。
小気味良い音が部屋に木霊する。それに一瞬遅れて、ダイの頬を痛みが襲った。
ダイの頬を力一杯ひっぱたいたマリアージュが、荒い息を吐き出して叫ぶ。
「あんたね、動くなって私は言ったでしょ!!」
「……す、すみません」
叩きつけられる怒声。謝罪しつつダイは呆然と彼女を見つめ返した。じわりと頬を侵食する痺れに放心したからという訳ではない。マリアージュの浮かべる表情が気に掛かったからだった。
頬を紅潮させて唇を戦慄かせた彼女は、今にも――泣きそうだった。
たまらなくなって、呼びかける。
「マリア様」
マリアージュは一睨みでその言葉の先を押し留め、ダイの横をすり抜けた。ヒースを突き飛ばすようにして部屋の外へ飛び出す。
「マリアージュ様!」
主人を追いかけるかに見えたティティアンナがふいに立ち止まり、こちらと扉の向こうを見比べる。ダイは苦笑した。
「マリアージュ様のところに行ってあげてくださいよ、ティティ」
「……ダイ、マリアージュ様は本当に心配してらしたのよ」
「知ってます」
『マリアージュは、人一倍優しいでしょう?』
アリシュエルの問いかけを思い出しながら、ダイは笑う。
「すみません。貴女にも、心配を掛けてしまった」
「いいの。私の責任でもあるんだわ」
神妙な面持ちで呟いて、彼女はマリアージュを追走した。扉の閉じられる音が響き、続けてヒースの嘆息が聞こえる。
「全く、マリアージュ様にも困ったものだ。大丈夫ですか?」
「えぇ。大丈夫です」
ダイは頷いた。頬は痺れているだけだ。痛みはない。
ダイの手を引いて、ヒースが言う。
「私は手当ての道具を取ってきます」
こちらを椅子に座らせた後、彼もまたマリアージュたちに続いて部屋の外へと姿を消す。一人取り残され、ダイは椅子に重心を預けながら息をついた。
本当に、色んなことのある夜だ。
しかし自分は、マリアージュの下に戻ってきた。いつもの場所に戻ってきたのだ。
そう思って気を緩めた瞬間、どっと疲労の波が押し寄せてくる。
(いけない。このままじゃ、寝てしまう)
ダイは身体を起こし、靴を脱いだ。上半身を屈め、痛む場所を確認する。踵の部分が擦りむけて血が滲んでいる。これでは、上手く歩けぬはずだ。傷の自覚が遅かったのは、酒ないし緊張や興奮のせいだろう。
椅子から立ち上がり、ひょこ、と足を引きずって、ダイは衣裳部屋に向かった。ヒースが戻ってくるまでに間があるだろう。それまでに、着替えてしまいたかった。
庭の見える出窓に手を突いて夜空を眺めていると、背後から躊躇いがちにティティアンナの声が掛かった。
「マリアージュ様」
「……うっさいわね。何も言わないでよ」
「まだ、何も申しておりませんよ」
苦笑して肩を揺らす侍女に、マリアージュは項垂れてみせる。そう。彼女はただ、呼びかけただけだ。なのに、叱られるような気分になっていた。
「ひっぱたくつもりは、なかったのよ」
硬く目を閉じて、弁明する。
「だけどつい」
「大丈夫です。マリアージュ様が心配されていたからだって、ダイはわかっていますよ」
「私、あの子のこと別に心配してなんかいないわよ。……不安だっただけ」
「不安?」
「変なのに……捕まってないかとか」
あの化粧師の造詣は、マリアージュの目から見ても美しい。冗談半分で昔の自分の衣装を着せて、なんら問題なく着こなせてしまうことに腹が立った。最初は大広間まで引き出すつもりなどなかった。しかし芽生えた嫉妬がそうさせたのだ。
連れ出すのなら、決してダイから目を離しては、ならなかったのに。
ダイの身体は時を止めてしまっている。それを、今日知った。貴族の中にはあのような身体を望む好色がいることも知っている。自分は皆が言うように色んなことに疎いけれど、気付いていることもあるのだ。
「だって、あの子は――……」
「マリアージュ様」
マリアージュの言葉を遮って、ティティアンナが笑った。
「それは不安ではありません。心配と、いうのですよ」
「どこが違うのよ」
低く呻いたこちらに、侍女は笑い声を一層高くする。普段であれば怒鳴りつけるところだが、今はその気力もない。
大きく嘆息して、マリアージュは再び空を見上げた。
扉を叩く寸前、ヒースは何故か躊躇いを覚えた。手元の医療用具と、手ぬぐいに視線を落とす。自分は一体何をしているのだろう。ここにきて頭を擡げる問いを、彼は目を閉じて反芻する。
本当に、何をしているのだろう。
しかしここで立ち止まっていても仕方がない。入室を知らせるために扉を叩く。返事がない。訝りながら扉を開くが、化粧師の姿は見当たらなかった。
誰も、居ない。
どこへ行ったのかと眉をひそめたヒースは、気配を探った。奥の部屋で、何かが動いている。
(あぁ、先に着替えていたのか)
扉越しに衣擦れの音を聞いて、納得する。あの衣装は冗談を抜きにしてダイによく似合っていた。しかし彼にとっては窮屈なだけだろう。手当てを後回しにしても、早く脱ぎたかったに違いない。
衣裳部屋に、歩み寄る。
「ダイ」
扉を軽く叩いて、彼は気配の主を確かめた。即座、返事がある。
「ヒース?」
ぼんやりとしたダイの声。もしかしたら、眠ってしまっていたのかもしれない。
苦笑して、彼は扉を押し開いた。
続けて、かなり慌てた声。
「あ、ちょっとま」
扉を開いた体勢のまま。
ヒースは、ダイを見つめて瞬いた。
沈黙が、流れる。
「……えっと」
気まずそうなダイの声に我に返り、ヒースは早口で告げた。
「着替えが終わったら、出てきてください。手当てを」
「……はい」
「あと、頬も冷やさなければ」
「わかりました」
「それじゃあ」
「はい」
静かに扉を閉じて、手に持っていた道具を円卓の上に置く。そして覚束ない足取りで長椅子に近づき、倒れこむようにして腰掛けた。
疲労に気だるい身体を横たえる。天井を仰いで、目元を覆った。
(見間違い)
ではないと、勘が告げている。
思えば予兆はあちこちにあったのだ。しかしその都度、自分はそれをねじ伏せてきた。
ねじ伏せざるを得なかった。そうでなければ――……。
とてつもない穴に滑り落ちてしまったかのような、虚脱感。
ヒースは下唇を噛み締めながら、主神のあまりにもひどい悪戯に低く呻いた。
動揺を押し殺して、閉じられた扉。
(これは……わかりました、よね)
別に隠していたわけではない。進んで話そうとしなかっただけだ。マリアージュに対しても説明しなければならなかったから、丁度よかったのかもしれない。
ダイは手に握っていた衣服をすべり落として姿見に歩み寄った。
細い身体。しかしその線は僅かにまろみを帯びている。衣服で覆い隠せばわからなくとも、さすがに下着一枚では他者を欺けない。
鏡に指先を触れさせる。
そして、ダイは睨み据えた。
母が死んだそのときから、
彼女の願いを叶えるため、
成長途中で止まってしまった、
子供でもなければ大人でもない、
磨きぬかれた鏡面に映りこむ、
ひどく歪な、
――……少女の、身体を。