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第六章 集会する偽装者 2


「あら、ヒースはどこ行ったわけ?」
「リヴォート様は先に行かれました。後で迎えに来られるとのことで」
「……何よあいつは。乙女の着替えも待ってられないっていうの?」
 男の風上にも置けないと憤慨するマリアージュに苦笑して、ダイは彼女に椅子を勧めた。乱暴に腰掛ける彼女の足元で、晩餐服の裾がふわりと広がる。美しい衣装。ダイは装いを改めたマリアージュを眺めた。
 午餐と晩餐の衣装はそれぞれ形が異なる。露出度が抑えられた午餐服に対し、晩餐服は胸繰りの大きく開いた作りをしている。布地もまた異なっている。厚手の生地で作られる午餐の衣装に比べ、今マリアージュが身につけている晩餐会のためのそれは、紗に薄布を重ねて光沢を出したものだ。
 その色は一見すると漆黒にも見える、深く暗い緑。そしてそれはマリアージュの髪の紅茶色を鮮やかに映す。胸の高い位置を絞り、身体の線に沿って幾重もひだを作りながら足元へと広がっていく衣装の型は、彼女の身体のまろやかさを引き立て上品に仕上げていた。
「ティティ、少し灰色がかった薄紅色の花、持って来てましたよね? 出しておいてくれますか?」
 仕度部屋で午餐用の衣装を片付けているティティアンナに声を掛ける。開け放たれた扉の向こう、彼女は数個の小箱を小脇に抱えた状態で問い返してきた。
「いくつー?」
「二つ。あと、真っ白な花あります? 小さめの薔薇がいくつかあるといいんですが」
「うんわかった」
 手を上げ、親指と人差し指で丸を作るティティアンナに微笑み返して、ダイはマリアージュに向き直った。
「失礼します。まず髪を」
「ん」
 断りを入れ、彼女の前髪を邪魔にならない位置で留めていく。汚れてしまわぬように衣装を余すところなく布で覆い、手を清めた。
「一端、全部落とそうと思ってます」
 化粧を落とす品一式を引き寄せながら告げたダイに、マリアージュが眉をひそめる。
「時間掛かるんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。四半刻以内で収めてみせます」
「わかったわ。好きになさい」
 顔に関して、マリアージュはダイに異を唱えない。唱えたことがない。煩わしがって選択を投げるのではない。信頼を寄せて彼女はダイに顔を預けてくれる。それは自分にとって、最高の誉れだった。
 任せられたからには彼女の期待を裏切らぬよう、宣言した時間内で期待に添う化粧を施さなければ、顔師の名折れだろう。
 マリアージュの化粧を落とし、肌をほぐしながら最終的な仕上がりを決める。化粧水と乳液を付けて肌を十分に落ち着かせてから、ダイは化粧の工程に移った。
 色板と筆を、円卓の上に広げる。海綿、綿布、手ぬぐい、以下、細々とした道具を仕度し終え、ダイは陶器の小瓶を取り上げた。中を満たすのは、化粧の下地となる液体だ。用いるのは肌に明るさを出す下地。マリアージュの身につける暗い色目の衣装に、彼女の肌の明度が引きずられぬようにする為だ。手の甲に一滴だけ落とし、それを指ですくい取って、マリアージュの肌に馴染ませていく。
 次は練粉。午前中からの疲れが滲む肌に、練粉を幾重も重ねるとくすんでしまいそうだったので、マリアージュの肌色に一番近く粘度の高い練粉を目周りに付けるのみに留め、粒子の大きさや色の異なる白粉を何層も重ねることにした。塗布には海綿ではなく、筆。目周り用の練粉には固めの細筆を。付けた後、指で馴染ませる。白粉には大振りの毛足の柔らかい筆を選び取った。筆に付いた余分な粉は布に落とし、マリアージュの肌に必要な分のみを乗せていく。肌の仕上がりは衣装の光沢を邪魔しないようなさらりとした質感を心がけた。
 肌が終われば、次は色味。目元や口元だ。
 晩餐会の衣装が決められた時点で、化粧の色組みは何種類か用意していた。しかし最終的には、会場の様子や照明を確認してから決めることにしていたのだ。照明が蝋燭なのか招力石なのか、はたまた天井に直接組み込んだ魔術の術式によるものなのか。種類によって光の色は異なってくる。そうすると、化粧に用いる色も変えなくてはならない。
 晩餐会の広間の主な照明は、贅沢に招力石を用いた装飾燭台。僅かに青みを帯びる招力石由来の光の下では、赤みの強すぎる色は用いることができなかった。
 色板を引き寄せる。目元はマリアージュの瞳の色に合わせることに決めた。使うものは粒子の細かい金と、明かりの下でもくすまぬ、灰色寄りの濃い茶を数種類。目元が派手になり過ぎないように、淡い色を細めに何層も丁寧に重ね、二重部分に奥行きを出す。目の際に入れる焦げ茶だけ、やや緑掛かったものを。衣装の生地色に、合わせてだ。睫には手を入れなかった。マリアージュの睫は十分長いし、その色は赤茶というよりも濃い茶色に近い。目周りに同系色を入れるだけで目の輪郭は十分に引き立つだろう。
 眉を整えた後に、瞼全体に金を。横から伏せたときの瞼を意識して、色の濃淡が自然であるかを確認する――大丈夫。次だ。
 唇には暗い赤を。質感は衣装に合わせつつ。目元と同じ金粉の入った蜜を紅の上にのせてしっとりとした艶を出す。頬紅は入れるか入れないかの程度に抑えて。
 最後に生成り色の粉を入れて目元を明るくし、余分な粉を落として化粧は完成だ。
 しかしこれでまだ終わりではない。
「次は髪を」
 立ち上がりながら、予め濡らしてあった布で手に付いた色粉を全て落とす。卓の上の化粧品を遠くに押しやり、ダイは鞄の中から櫛と髪結いの紐、髪用の留め針、そして針金を取り出して、空いた空間に並べ置いた。針金は髪を留めるために用いる、細く柔いものだ。
 午餐用に結っていた髪は衣装替えの際に既に解かれていた。まずは手で、それから櫛で、丁寧に梳(くしけず)ってゆく。ある程度艶が出たところで手を止め、髪は一房を除き、左側頭部の高い位置で全て結い上げた。
「ティティ、花」
「うん。これでいい?」
 背後で様子を見守っていたティティアンナがダイの指定した花を差し出してくる。特殊な加工によって時を止めた、装飾用の花だ。絹で作られたものよりも段違いに美しい。しかし値が張るので、庶民にはまず手が出せない代物だった。
「薄紅が先です。次、白」
 受け取った薄紅の花を、結い口に差し込む。その周囲を取り巻くように小振りの白い薔薇を。形を整え、花の根元を針金でぐるりと髪ごと巻いて、固定。
「あと蔓草……あー頼むの忘れてました」
「これのこと?」
「あ、それですそれです」
 葉の小さい蔓(かずら)もまた、痛まぬように加工のされたものである。髪を飾った花の根元にぐるりと巻きつけ、適度な長さで切る。どれもこれもが家が傾く前に仕入れられたもので好きに扱えとは言われているが、さすがに鋏を入れる際には緊張した。髪に巻いたそれの茎には、落ちてこないよう留め針を打ち込んでおく。
(髪結いもう少し勉強しておけばよかった)
 針金の部位が見えぬように苦心しながら、ダイは舌打ちしたい気分に駆られた。花街において、凝った髪型を作るのは全て髪結い職人の仕事だ。彼らからもう少し学んでいれば、髪ももう少し凝った結い方にできただろうに。化粧師の仕事ではなかったといえば、それまでだが。
 花の位置と髪型の出来栄えを確認する。それに納得がいけば、後は全体の釣り合いを見て微調整するだけだ。
「マリアージュ様、少し立っていただけます?」
「終わったの?」
「いえ。まだです。おかしくないか確認させてください」
 マリアージュから取り払った粉除けの布を畳みながら、ダイはティティアンナの位置まで後退した。それと同時に、マリアージュが衣装の裾を裁きながら立ち上がる。
 顕になる、その凛とした佇まい。
「……素敵ですわ」
 ダイの傍らで、ティティアンナが熱っぽく賛美の声を上げる。世辞ではない。本心からの言葉の響きに、マリアージュは頬を朱に染め、気難しい表情で小首を傾げた。
「……そう?」
「えぇ。お美しいですよ」
 ダイは目を細め、心から彼女を賞賛した。
 化粧と髪結いを終えたマリアージュは美しい。朝からの疲労の色すら庇護欲を掻きたてる憂いに見え、他者を惹きつける。化粧も髪型もマリアージュに気品を持たせ、且つ朝霧に押し込められた薔薇のような瑞々しさを引き出している。
 衣装と化粧がかなり落ち着いた雰囲気を意識したものだったので、もし彼女の若々しさが損なわれているようなら髪に用いたものと同じ花を用いて衣装を飾り、釣り合いを取ろうかとも思っていた。しかしこの様子では必要ないだろう。
「ティティ、これお願いします」
「はい」
 余った花をティティアンナに返し、ダイはマリアージュの手を取った。
「失礼いたします。こちらへ」
 そのまま彼女の手を引いて、壁際に立てかけられた姿見の前まで移動する。
「いかがですか?」
 マリアージュの全身を鏡の中に確認し、ダイは手を離して彼女に問いかけた。マリアージュは何も言わない。頬を紅潮させて僅かに口元を緩めただけである。
「……まぁ、いいわ」
 ぞんざいに言葉を吐いて彼女が鏡の前から離れたのは、ただ己の姿を確認するだけには長すぎる時間を費やしてからだった。
 しゃらり、と衣擦れの音を立て、マリアージュは元の位置に戻る。椅子に腰掛けた彼女は、口の端を笑みの形に曲げた。
 褒め言葉こそないが、彼女の微笑は満足の証だ。
「後はヒースが来るのを待つだけね」
 頬杖を突いて目を伏せるマリアージュに、ダイは頷いた。
「ですね」
「さすがのリヴォート様も絶対褒めずにはいられませんよ」
 ティティアンナは大判の透かし編みを広げながら口を挟み、それをマリアージュの肩に着せ掛けた。マリアージュはその夕焼け色に染められた透かし編みの前を掻き合わせ、ティティアンナに反論する。
「そうかしら。開口一番どんな言葉を言ってくるか、予想付くわよ」
「どんな台詞を言うと思うんですか?」
 ダイの問いに、女王候補の少女は目を伏せたまま即答した。
「“今宵はしとやかにしていらしてください。出なければせっかくの衣装と化粧が台無しになります”」
 妙に似ている口真似に、ダイは噴出した。確かにヒースなら言いそうだ。しかしどうして彼はマリアージュに対し、わざと怒りを煽るような態度を取るのだろう。甚だ疑問である。
 マリアージュの傍で固まっているティティアンナをちらと見やれば、彼女もまた苦笑に口元を引き攣らせている。ダイの視線に気が付いたのか、笑顔を取り繕った彼女は慌てた様子でマリアージュをたしなめた。
「ま、まぁ、マリアージュ様。そうおっしゃらずに。本当にお美しいですわよ。誰もがマリアージュ様を花と誉めそやさずにはいられないでしょう」
 ティティアンナに悪意はない。彼女は単純に、マリアージュを持ち上げようとしただけだ。
 しかしその一言がいらぬ人物を連想させてしまったようだった。
「この会場の花はアリシュエルよ。どうあがいてもね」
 マリアージュの皮肉に、場の空気が一瞬にして凍りついた。
「さっきも真剣にデルリゲイリア一、美しい花だの何だのって口説かれてたわよ。ご苦労なことだわ」
 いつもならば、煮えくり返るような嫉妬と己に対する失望をむき出しにしているというのに、今日のマリアージュの口調からは嫉妬も苛立ちも感じられなかった。淡白な響き。だからこそ、彼女の胸の内にあるものを読み取ることができない。
 それにしても、また、アリシュエルだ。
「そんなに綺麗なのかな……」
 皆、彼女を褒めるが、そんなにも美しいのだろうか。
(この、マリアージュ様よりも?)
「あぁ。あんたまだ見たことないの? アリシュエルを」
 耳聡くこちらの呟きを聞き取ったらしいマリアージュの問いに、ダイは小さく頷いた。
「はい。出来れば見てみたいぐらいです」
 この屋敷に到着して以降、誰も彼もがアリシュエル。ガートルード家の招待を受けているのだから奇妙なことではない。だが遠目ですら彼女を見たことがないため、いまひとつダイにはぴんと来なかった。
「あら、そうなの?」
 何気なく口にした希望に、マリアージュがやけに食いついてくる。先ほどとは打って変わった明るい――というよりもどこか腹黒い――彼女の笑顔に嫌な予感を覚え、ダイは無意識のうちに身を引いた。
「え、えぇ……まぁ」
 見てみたいことは確かだが、切望してはいない。別に急がずともマリアージュに仕え続けていれば、近々目にすることもあるだろう。
「マリアージュ様、まさかさっきの話を……?」
 ティティアンナが血相を変えて呻く。
「そうよ」
 ティティアンナとは対照的に、マリアージュの表情は嬉々としている。
 二人のやり取りからますます薄暗い予感が背筋を這い登り、ダイはこの場を逃げ出したくなった。
 女王候補者の少女が、扇の先で口元を覆い隠す。その陰に潜む瞬間、楽しげに歪められた彼女の紅色の唇を、ダイは見逃さなかった。
「丁度いいじゃない? 見てみたいって言ってるんだし」
「え、いや、そんなに急ぎはしませんが」
 遠巻きの断りは無論、無視された。
「それに貴族らしい貴族っていうものを目にしておくのもダイにとっていいんじゃないの? ねぇ?」
 いつになくにっこり微笑んで、マリアージュが同意を求めてくる。ここでうんと頷かなければ、彼女の手にある扇が飛んでくることは間違いない。ティティアンナに無言で助けを求めたが、彼女は同情の眼差しをダイに向けて手を左右に振ってきた。
 その動作の意味するところは、『ごめん、むり、とめられない』。
「ねぇ。見てみたい、わよ、ね?」
 癇癪を起こされているときのほうがまだいい。遥かにいい。
 マリアージュに承諾を強要されたダイは、彼女に仕えるようになって初めてそう思った。


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