第六章 集会する偽装者 3
「ヒース、来なかったわね」
両手を腰に当て、鼻息荒くマリアージュが呻く。
淑女にあるまじき仕草に、ダイは思わず呻いた。
「マリアージュ様、もう少し、つつましく。つつましく」
「ヒースみたいな口うるさいこと言わないでよ。誰が見てるっていうの?」
「でもその仕草は美しさとは程遠いです。せめて人前では改めてください」
マリアージュは露骨に顔をしかめたものの、いつものように扇を投げつけてきたりはしなかった。その代わり、舐めるような観察の眼をダイへと向けてくる。彼女は明らかに、ダイの格好を面白がっていた。
「お願いしますから、そんな風に見ないでください」
「見ないでって言われてもねぇ」
無理よ、とマリアージュが断言する。嘆息を零して、ダイは自分の姿を見下ろした。
身につけているものは、いつもの上下ではない――ふんだんに透かし織りの生地を用いた、晩餐会用の衣装である。
胸の高い位置で切り替えされ、下に向かってふわりと裾を広げるそれはマリアージュのものとは異なり、膝の辺りで丈が切り揃えられている。細かく重ねられた襞。一見黒いだけに見える衣装にはびっしりと精緻な刺繍が施されており、光が当たると薔薇の模様が裾にかけて浮かび上がるという芸の細かいものだ。
無論、女物の。
衣装だけではない。嫌がらせのように黒髪の髢(かもじ)を被せられ、僅かではあるが、装飾品で飾り立てられている。素顔にその衣装では違和感があるからといって、化粧までさせられた。鏡に映った顔はいつもとは別人。
どこからどう見ても、少女である。
「どこから調達してきたんですか? この衣装」
「なんか荷物に紛れ込んでたらしいわよ」
「はぁ……? そんなことってあるんですか?」
「普通はないわね。……私が子供の頃の服だけど……まったく、ねぇ」
マリアージュが寄越してくる視線には、考えを放棄したくなるほど様々な意味が込められている。
そのうち一つは、呆れ、だろうか。厭味かもしれない。よくもここまで似合うものだ、とマリアージュは言う。ダイも自分のことながら感心してしまったほどだ。漆黒の衣装は自分の月色の目によく映った。子供用といわれるだけあって露出度も少なく、ダイの身体の平坦さを上手く隠している。髢も元の髪色が漆黒なこともあってよく馴染み、長い髪をした自分は、母の姿を思い起こさせた。やはり自分は、彼女とよく似ているのだ。
「まぁその格好なら、アリシュエルを近くで見れるでしょ」
晩餐服を身につけて子女に紛れ込んでしまえば、誰にも咎められることなくアリシュエルに近づけるだろうとの発想らしい。発案はもちろんマリアージュである。
「アリシュエル様を見たいだなんて言うんじゃなかった……」
ダイはつい先ほどの迂闊な発言を呪った。
「さっき着替えるときにそれ見つけて、ダイに着せたら面白そうねって話してたのよ」
「さようですか……」
マリアージュのこの思いつきは、晩餐会の退屈さに対する意趣返しを含んでいるに違いない。ダイは気疲れに肩を落とし――マリアージュの視線の色の変化を気取って、眉をひそめた。
「マリアージュ様?」
「説明してもらうわよ」
帰ったら、と、主人は言う。
何を、とは訊き返さなかった。
目を伏せ、ダイは承諾に頷く。
「はい」
マリアージュが求める説明は、この身体についてだ。
成長し始めた段階で、時を止めてしまった身体。その意味。その理由。
この、歪さを。
初対面のとき、まだ子供ではないかとマリアージュに評された。
年の割に華奢なダイを慮ってかどうかはわからぬが、マリアージュが身体の話題に触れたのはその時のみだ。単純に興味が無かったのかもしれない。しかしいくら無関心でも、あのように目にすれば尋ねたくなるのも無理はない。どのように説明したものかと考えるだけで、頭が痛かった。
ふと、間近で、何者かの密やかな囁きが聞こえた。視線を上げたダイの目に、そう遠くない場所で言葉を交わす婦人二人の姿が映る。口元を隠す扇から見え隠れする、侮蔑と冷笑に満ちた視線。その不躾な視線に、傍らのマリアージュが眉をひそめる。
「ダイ、私の傍から離れないのよ」
「……はい」
ティティアンナからは忠告された。貴族社会は狭い。珍しい顔は目に付きやすい、と。
しかし注目も浴びる一方で、下手に一人歩きするよりはマリアージュの傍にいた方が誤魔化しやすいらしい。ミズウィーリ家に従う貴族の娘だと言い訳できるからだという。元々マリアージュを支持する下級貴族の子女は滅多に姿を現さない為、珍しい顔でも不審に思われることはない。一人二人ならば招待がなくとも連れ歩いて構わないらしかった。
ヒースが帰ってきていれば、マリアージュの暴走を止めてくれていただろう。しかし彼が戻る前に指定の刻限は迫り、不安に倒れそうな様子のティティアンナに見送られ、控え室を後にすることとなったのだ。
黙ってマリアージュに付き従いながら、ダイは緊張と不安から胃が重くなっていくのを感じていた。本当に、どうしてこんな目に。
しかし胸中を蝕んでいたその陰鬱な気分は、会場に足を踏み入れた瞬間に襲ってきた、目も眩むばかりの光に吹き飛ばされた。
「……っ」
歌。音楽。舞。むせ返るような香水の香り。男女の、笑いさざめき。
場を満たすものは、花街にありふれるそれらと似通っている。しかし、絶対的に異なる。
装飾の施された柱。一枚絵のような壁面。天井を飾る招力石の灯り。
舞い踊る男女。
正装した楽師たち。そこから奏でられる音楽。朗と響く歌。
豪華絢爛。
その一言に尽きる、世界。
「ダイ」
ダイは我に返った。焦点を定めた視界の中で、立ち止まったマリアージュが躊躇いがちに手を差し出してくる。
「来なさい。言ったでしょ。離れないで」
「……はい」
手袋に包まれたその手を、ダイはおずおずと握り締めた。
マリアージュはダイの手を引き、広間を奥へと進み始める。集う者たちは皆、女王候補者に道を開けながら、彼女が連れて歩く珍しい顔に訝りを隠さなかった。かといって、彼女に声を掛けようとする者は、誰一人としていない。
手を引かれながら、ダイはマリアージュを盗み見る。
背筋を伸ばし、他者に道を譲らせる彼女の顔は、紛れもなく上級貴族の淑女のものだ。凛として、美しい。
そこに、女王になれるはずなどないと癇癪を起こす、少女の面影はない。
あるのは、上級貴族に数えられる家を背負い、女王候補として選ばれた娘の姿だ。
この姿のどこが、美しくないというのだろう。
マリアージュとダイは会場の端で足を止めた。壁を背に会場を見渡すと同時、頃合を見計らったように給仕がやってくる。彼の持つ盆には淡い桃色の液体で満たされた玻璃の高杯が複数、載せられている。
「ダイ、とりなさい。何でもいいから。二つ」
「は、はい」
命令されて、おぼつかない手つきで近くの杯を選ぶ。両手を塞ぐ杯をどうすべきか迷うダイの手から、マリアージュは一つだけを取り上げた。
「それはあんたの分よ」
彼女がダイの手元に残された杯を目で示す。
「え、と、ありがとうございます」
「飲みなさい」
「……はい」
緊張から喉の渇きを覚えていたのは確かだ。ダイは素直に杯に口をつけ。
「こふっ」
喉を滑り落ちた液体の味に、咳むせた。
「ちょっと、どうしたの?」
マリアージュが目を丸めて尋ねてくる。ダイは無造作に口元を拭いかけ、手が絹に覆われていることに気付いて渋面になった。過っても口を押さえて手袋を汚さぬよう、その手を胸元にやる。そしてダイは小さく咳き込みながら、マリアージュを仰ぎ見た。
「けふこふっ……こ、これ、お酒、ですか?」
「そうよ。……飲めないの?」
「苦手なんです……。マリアージュ様飲めるんですか?」
「もちろん。ちょっと変わった味してるだけじゃない」
「そ、んなことないと思うんですけど」
喉を焼きながら滑り落ちていく酒は、果実酒なのか、微かに甘い。色も手伝って、一見して酒とはわからなかった。警戒していなかったものだから、一口でかなりの量を飲み干してしまっている。
飲酒を自覚したとたんに顔が火照り、思考が鈍り始める。
(あぁ、これだから駄目なのに)
アスマも早く酒ぐらい飲めるようになれと言っていたが、平衡や理性の奪われていく感覚がどうしても好きになれないのだ。酒に影響を受けぬ者もいるらしいが、ダイは駄目だった。酒はすぐにダイの意識と身体を侵蝕する。
「ダイ」
のぼせてきた顔を手で仰いでいたダイは、マリアージュの呼びかけに顔を上げた。
「はい」
「あれがメリア・カースンよ。隣にいるのが、クリステル・ホイスルウィズム」
マリアージュが扇の陰から指差した場所には、二人の少女が佇んでいた。マリアージュと同じ、女王候補者。口元を扇で隠しながら、談笑している。
「仲いいんですか?」
「あの二人? 全然」
ダイの問いをマリアージュは頭から否定する。
「最悪よ。あぁやって二人で殺伐とした褒め合いをしてるの」
「……はぁ」
傍目には非常に仲良く見えるというのに、真実はわからぬものだ。良好な関係をそこまで装う必要が、一体どこにあるのだろう。ダイには理解できない。
「近くでなんかはらはらしてる人たちがいますけど」
「あれはあの子たちのお付よ。下級貴族の取り巻き」
扇をぱちんと畳みながら、マリアージュは嘆息する。
「あんたもそんな風に見られてるってことよ」
「……はぁ」
なるほど。一人二人連れ歩いても問題ないというのはそういうことか。
「いつもは、そういう人たちを連れてくるんですか?」
「時々呼んだりするわよ。でも、いつもは誰も連れて歩かないわ。連れて歩けない、が正解だったのかしらね」
自嘲の笑みを零すマリアージュを、ダイは絶句して見上げた。その視線に気づいたのか、彼女は肩をすくめる。
「なによ。だって本当のことでしょ。うちには、お金っていうやつが、少ないんだから」
マリアージュは言った。
「なにをするにもお金が掛かるって、あんたが私に教えたんだから。だから私、知ったのよ。下の家の子を連れてきて晩餐会に出してあげるには、うちが世話しなきゃいけない。それにも、お金がかかる。だけどそれをすることができないのが、うち。だから連れて歩くのは、時々、だけよ。本当に時々ね」
今宵ガートルード家に招かれた貴族たちは皆、そのことを知っているのだろう。だから彼女は侮られてしまう。
そして慇懃無礼に彼女を誉めそやす。何故、このような家の人間が女王候補に選ばれたのか、という嫉妬と侮蔑を込めて。先ほど、ダイたちにあからさまな視線を投げてきた二人の婦人は、きっと、珍しくお付を連れたマリアージュをあげつらっていたのだろう。
悔しさと怒りに、下唇を噛み締める。
「ダイ。やめなさい」
「え?」
「唇が傷つくわ。なんて顔してるのよ」
「……だって」
こんな世界に身を浸していては、マリアージュが癇癪を起こしたくなるのも、無理はない。
ダイ自身、たったこれだけの短い時間、身を置いただけで暴れたくなるのだ。
ダイの顔を覗きこみ、マリアージュは可笑しそうに笑った。
「変な子。……あぁほら、あっちにシルヴィアナがいるわ。シルヴィアナ・ベツレイム」
ダイの肩を叩いて、マリアージュは広間の一角を指し示す。その先には男と礼を交し合っている娘がいた。彼女がシルヴィアナ。どうやら一曲踊り終わったところらしい。
「変ね」
マリアージュが扇の先を顎に押し当てながら唸った。
「肝心のアリシュエルが見当たらないわ」
きょときょとと周囲を見回し、やっぱりいない、とマリアージュが呻く。肝心の人物がお留守では、ダイがここにいる意味もない。
どうしたものかとマリアージュと顔を見合わせていたダイは、視界に入った人影に振り返った。
そこに佇むのは、亜麻色の髪と瞳をした、朗らかな笑みを浮かべる青年。
「……ロディマス」
マリアージュの呼びかけに青年はにこりと微笑み、彼女の手を取った。
「失礼、マリアージュ。ご機嫌麗しく。ご挨拶が遅れまして申し訳ない」
「女王候補一人一人に挨拶をして回っていらっしゃるのですか、殿下。……どっか消えていなくなれ」
「一曲誘いに参りましたのに、つれないですね。普通なら、僕が誘いに来れば誰だって顔を赤らめますよ」
「それは殿下に誘われれば誰だって興奮で頬を赤らめましてよ」
「君は違う」
「だって私あんた嫌いなのよ」
「はっきり言うなぁ」
「死ね。いなくなれ」
「……えーっと」
話の流れが読めず呻いたダイを認め、青年は大きく目を丸めた。
「おや、これは可愛らしいご令嬢。僕としたことが今まで見逃していただなんて」
そう言って、彼はこちらの手を取る。その手の甲に口付けそうな気配に、ダイは総毛立った。
硬直するダイの目の前で、マリアージュがしごく冷静に男の手を叩き落とす。
「気安く私のものに触らないで頂戴」
「その気の強さがたまらないね。なぜ皆アリシュエルをいいというのかわからない」
「みんな気違いなだけよ。あんたは変態」
「いや、僕はひどく真っ当なつもりなんだけど」
苦笑を浮かべる男は、ダイに向き直り、改めて礼を取った。
「初めまして、ですね。ロディマス・テディウスと申します」
「……初めまして」
マリアージュの陰に隠れながら、ダイは控えめに礼を返す。
「あれ。反応が薄いね」
男はダイに不審そうな目を向けた。
「この子は田舎から出てきたばかりであんたのことは知らないの」
「あぁ、そうなの?」
「そう。だから放っておいて頂戴。私に何の用事?」
「だから言ったじゃないか。一曲踊りませんか、と」
「嫌。帰って」
一言の下にマリアージュはロディマスの誘いを切り捨てる。そんな彼女を彼は面白そうに見やって、肩をすくめた。
「おや、いいの?」
とん、と壁に手を付き、マリアージュから逃げ場を奪って彼は笑う。
「ここで僕の誘いを断ると、君のところの侍従の働きを無為にすると思うけど」
「誰?」
「ヒース・リヴォートだっけ」
慣れた名前がまだ知り合って間もない青年の口から飛び出して、ダイは反射的に身体を震わせた。男は微笑んでいる。しかしその微笑は相手を威圧するに十分な迫力を備えていた。ヒースが他家の客人と相対する際に浮かべる冷笑と似通ったそれ。
ロディマスは続けた。
「まだ顔拝んだことないんだよね。なんと凄いことに、貴族でもないのに招待客として今日こちらにお出ましになっているらしいじゃないか。だから見に来たんだ」
「……殿下がこういうところにいらっしゃるのも、珍しいと思ったわ。あいつが目的なのね」
「働き者らしいね。噂だけはよく聞く。君に仕える美貌の青年は、君を女王にするために働き蜂の如く飛び回っているみたいじゃないか。僕の誘いは、君のためにも、そんな彼にも利、あるものだと思うけど? 次期女王陛下」
「私は候補者の一人に過ぎないわよ。誰もがアリシュエルがなると思っているわ」
「僕は君がなると面白いと思っているから、一票を投じるつもりでいたけど、さて、その一票も君のわがままであえなく」
「わかったわよ!」
あぁ、と頭を振って、マリアージュが折れた。
「踊ればいいんでしょ。踊れば。足踏まれても知らないわよ!」
「それぐらい除けられる」
飄々と笑う男に手を取られ、彼女は嘆息を零す。
「ダイ」
「はい」
鬼のごとき形相で勢いよく振り返ったマリアージュは、ダイに静かに厳命した。
「いい? ここから離れるんじゃないわよ。絶対離れないの。壁に張り付いてなさい。誰に絡まれても知らぬ存ぜぬにこにこしてなさい。ヒースの真似事をするの。わかったわね」
「……はい」
ダイが頷いたのを確認し、マリアージュはロディマスと連れ立って歩き出す。
「今日の君は格別美しい。誘わずにはいられなかった」
手の甲に口付けるロディマスの足を傍目に見てわかるほど命一杯踏み抜き、マリアージュは言った。
「寝言は寝てから言いなさいよ」
笑顔を取り繕いつつ殺伐としたやり取りを交わして人の群れの中へと向かう彼らを、はらはらしながら見届けながら、ダイはどこか安堵してもいた。ロディマスの態度は、マリアージュを一個人として認めるものだったからだ。貴族の誰も彼もがマリアージュを見下しているわけではないらしい。構われることに嫌な顔を見せたマリアージュも倦厭の言葉を吐いてはいたが、そこまで嫌悪しているようには見えなかった。敵ばかりにみえた社交界において一人でもロディマスのような人間がいるというのならまだ救いだ――彼が何者なのかは気になるところだが。
中身を残した酒の杯を近くの給仕に返していると、音楽が始まった。マリアージュに命ぜられた通り、壁にぴたりと背をくっつける。そうやってダイは、マリアージュの踊りを見守ることにした。
マリアージュたちの為に、皆が場所を空けたようだ。人の輪の中心で、二人は一礼する。ロディマスがマリアージュの手を取り、そこまではよかったのだが――……ダイの主人は、踊りの相手の足を見事に踏ん付けた。
わざとか、と思いきや、そうではないらしい。
(あぁ、また)
ロディマスの足を踏みかけ、衣装の裾に躓きかける。それをどうにか優雅な踊りとして取り繕うロディマスには賞賛を贈らねばなるまい。ロディマスの先導の上手さは目を見張るものがある。しかしそれを相殺して余りある、マリアージュの、踊りの下手さ。
(……苦手っておっしゃってたけど)
歌も踊りも好きではない。苦手だと彼女はいつだったか漏らしていた。容姿と同じように己を過小評価して述べているのかと思っていたら、こちらは本当だったらしい。
「もし、そこの方」
はらはらと彼女の踊りを見つめていたダイは傍に立つ人の気配に、声を掛けられるまで気付かなかった。
はい、と返事をしかけ。
驚きに、瞠目する。
一体、いつの間に集まったのだろう。
気が付けば十数人の男女が、壁さながらにダイを取り囲んでいた。