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第六章 集会する偽装者 1


 灰色の雨が、窓を叩く。
 静寂に満ちた部屋。痩せ細った女の腕が伸ばされる。触れる指先はひび割れていた。砕け散る時を待つばかりの、女の命を象徴するかのように。
『お願い――……』
 女は懇願する。その目には狂気が宿っている。自分の姿は映っていない。目を閉じる。病魔に蝕まれた女の身体を抱き返し、囁いた。
『わかっています。わかっている。だからもう』


「ダイ」
 今日の予定について改めて復習していると、ティティアンナから声が掛かった。ダイの対面に腰掛ける彼女は、窓を指先でこんこんと叩く。
「もう着くわよ」
 彼女が示した先に、ダイは視線を動かした。高い塀と垣根の並ぶ通りが終わりに近づいている。今まで見たどの家のものよりも立派な門扉が通りの先に浮かび上がり、その向こうにはさらに果てない道と緑が見えた。
 ガートルード家への、入り口である。
 ダイたち使用人の乗る馬車、そして招待されたマリアージュとヒースが同席する馬車を含む行列が、彼の家の敷地に吸い込まれていく。
 昇ったばかりの朝日の眩しさに、ダイは目を伏せた。
 宴の一日が、始まるのだ。


 招待客と使用人は敷地に入った後に一度別れる。招待客は正門へ。使用人たちは裏門へ。
 屋敷の中に足を踏み入れたダイは、思わず感嘆の吐息を漏らした。
「はぁ……」
 圧倒されて、言葉も出ない。
 ミズウィーリ家の屋敷もちょっとした城のようだと思ったものだが、ガートルード家は絢爛豪華な城そのものだった。手入れの為された屋敷、という基準の話ではない。まるで、屋敷そのものが一つの美術品のような美しさである。
 精緻な彫刻と、魔術が施された廊下。咲き乱れる花々。その花弁からの芳香が香水のように空気を満たす。並べられた写実絵画。上品な細工物。工芸品。芸技の小国であるデルリゲイリアにおいて、芸術に投資しているということは何よりも尊ばれる。
「美術品、すごい数ですね」
「みんなガートルード家専属の職人によるものらしいわよ。さすがよね」
 隣を歩くティティアンナの言葉に、この家は一体何人の職人を抱え込んでいるのだろうと、気が遠くなる。
「ミズウィーリ家に、職人なんて一人もいないですよ」
 二つの家の違いに大いに慄いて呻いたダイに、すかさずティティアンナの指摘が入った。
「あら、貴方だって化粧を扱う職人じゃない」
 いわれてみれば、その通りだった。
 現在ダイたちが向かっている先は、屋敷の一角に位置する広間である。ダイを含む招待客の使用人たちはそこに集められ、屋敷を使用する上での注意点や、今回の催し物の細かい内容、問題が起こった場合の対処についてなどの、打ち合わせを行うのだという。とはいっても参加する使用人は、この宴に丸一日参加する中の上、ないし、上級貴族の家に仕えるものたちに限られていた。到着した先に集っていた人数も、馬車の数から概算したダイの予想を大きく下回っている。少ないとは決して言えぬ人数には違いないが。
「ティティ!」
 見慣れぬ使用人が一人、群集を掻き分け手を振りながら駆け寄ってくる。面を上げたティティアンナは、ぱっと顔を輝かせた。
「わぁ久しぶり! 元気してた!?」
「してたしてた!」
 ティティアンナと手を取り合って女は飛び跳ね、互いの近況についてやり取りを始める。彼女は他家に勤める侍女であるらしかった。ティティアンナだけではなく、この宴に同行している他の同僚たちも皆、他家の顔見知りと気軽に挨拶を交わしていた。どうやらこういった場所が、使用人たちの交流の機会となっているようである。
「あぁ、それにしてもミズウィーリ家の人たちっていいわねぇ。マリアージュ様が女王候補になられたのに、なぁんにも変わらないんだもの」
 周囲を軽く見回して、女が囁く。ティティアンナが首を傾げた。
「そう?」
「そうよぉ。女王候補の家なんてどこも似たり寄ったりだけど、ガートルードの子たちなんてひどいわよ。今日だってさっき廊下で会ったとき、つんとおすまししちゃって。アリシュエル様の自慢話ばっかり。最後にはこっちをこき下ろし。普段、貴族組にやられている腹いせね。こっちに当たってくるんだから、たまったものじゃないわ」
「貴族組?」
 聞きなれぬ言葉を耳にして、ダイは思わず訊き返していた。
「あれ、なぁに。見ない顔の子」
 ダイの存在に、初めて気が付いたらしい。きょとんと目を丸めた女は首を傾げ、ダイをしげしげと眺める。
「うん。うちに新しく入ったの」
「へぇ」
 よろしくね、という女の明るい挨拶に、ダイはぺこりと頭を下げた。
「はい、よろしくお願いいたします。……それで、貴族組って?」
「ダイはあまり馴染みないかもね」
 苦笑しながら、ティティアンナが答えてきた。
「上級貴族って中級や下級の貴族の人たちを従えているって、わかる?」
「はい。一応」
 花街の客であった貴族の子爵たち同士の行動から、元々ぼんやりとは理解していたし、門のこちら側に来てからは一般教養として習いもした。
 簡単に言えば、貴族は徒党のようなものを組んでいて、上級に値する貴族はその頭のような存在だ。上級貴族は下に付く貴族を保護し、時に便宜を図る。その見返りとして、下級貴族は有事の際には必ず駆けつける。手足となって領地の管理を補佐したりもする。
 従える貴族の数も、上級貴族の条件として定められているらしい。
「上級貴族の家にはね、その家に付く貴族の子女が、行儀見習いとして働きに来るのよ」
 それが貴族組、とティティアンナは解説した。続けて彼女の友人が補足する。
「そして私たちみたいな、親の代から仕えてる専従の使用人とは仲が悪いわけ。生まれ育ちもそうだし、仕事内容だってもちろん違う。とにかく腹立つことが多いんだけど、相手は曲がりなりにも貴族様だから、どうしても私たちのほうが煮え湯を飲まされることが多いってわけ」
「……なるほど」
 納得に頷いて、ふと気がついた。
「あれ、でもミズウィーリ家って」
 その貴族組らしき人間がいない。
「うん」
 意味を汲み取ったらしいティティアンナが、ダイに肯定を示した。
「うちにはいないの。従っていた家の方たちも年々減っていたし……マリアージュ様が女王候補になって、ようやっと、支持してくれる家があるぐらい。それも上級貴族の条件ぎりぎりの数ね。その方たちも、自分の領地を治めるのにお忙しいはずよ」
「こういうところにも権勢が現れるわよねぇ」
 ティティアンナの横で、女が溜息をつく。
「ティティ。貴女には悪いけど、やっぱり女王はアリシュエル様かしらって思うわ。ガートルードの使用人はあんなのでも、アリシュエル様は……よく出来ていらっしゃる」
 詩歌を好み、舞えば妖精の如く。誰にでも優しく公平で、美しい。
 ティティアンナは、苦笑に肩をすくめただけだった。
 会話の終わりを見計らったかのように、ガートルード家の使用人たちがぞろぞろと列を成して入室してくる。皆、見目麗しいが、揃って誂えた人形のように無表情だった。しかしその数たるや、集められたこちらと匹敵するほどである。ミズウィーリ家に仕える全てを集めても、彼女たちの半分もないだろう。
 ダイはティティアンナの袖を引いて尋ねた。
「ティティ、あの中の誰が貴族の人たちなんですか?」
「ダイ、あれはみんな私たちと同じよ」
 ティティアンナは呆れた眼差しで見つめ返してくる。
「貴族の人たちは招待客のお相手。今頃マリアージュ様たちをもてなしている頃よ」
 ――……この調子では、確かにマリアージュが女王に選ばれるなど、夢のまた夢で終わりそうだ。
 女王になれるはずなどないと、ひたすら主張するマリアージュの気持ちが大いにわかり、ダイは絶句して立ち尽くしたのだった。


 裏方とはいえ、初めて参加する貴族間の宴。
 一日を通し関っていけば関っていくほど、ガートルード家とミズウィーリ家の差は圧倒的だった。使用人を含めた家の規模。支持する家の数。何より、他家の使用人たちの間ですら誉めそやされているアリシュエルの評判。
 マリアージュだけではなく他の女王候補者と比べても、それは非の打ち所のないものだった。
「帰りたい」
 午餐を終え、戻ってきたマリアージュが開口一番口にした言葉がそれだった。無理もない。アリシュエルが女王になると確信している空気が至る所に漂う。裏方にいるダイの所にまで届いてくるのだから、表舞台に立つマリアージュにとっては、不快どころの話ではないだろう。
 朝の茶会、昼餉、昼下がりの茶会と、一つ一つ予定が消化され控えの部屋に戻ってくるその都度、マリアージュの機嫌は悪化の一途を辿っていった。むしろ午前中に騒ぎ出さなかっただけ、彼女としてはそうとう我慢したのではないだろうか。
「最悪。最低。だからこんなところに来たくなかったのよ。みんなでアリシュエル賛歌でも歌ってなさいよ!」
 大体ねぇ、と涙すら滲ませてマリアージュは呻いた。
「アリシュエルの父親が、一番趣味悪いわ。人をこき下ろしたいわけ!? 心にもない世辞ばっかり言って。馬鹿にするにもほどがあるわ! 気持ち悪いったらありゃしない!」
 我慢の限界だと手に持っていた扇を床に叩きつけ、マリアージュは地団太を踏む。怒りをぶつけられた哀れなそれを拾い上げるダイの横で、ヒースが冷静に口を挟んだ。
「マリアージュ様、それが普通です」
「何よ、私の頭がおかしいっていうの!?」
「そんなことは申しておりません。単純に、笑顔を取り繕い、互いを褒めあって、家同士の交流を深めていくことが社交界の目的です、と申し上げています」
「気持ち悪い」
「えぇ。茶番劇だとは思いますよ。私も」
 マリアージュに同意するヒースも此処に来て疲労の色が濃い。ミズウィーリ家の代行として並々ならぬ働きぶりを披露した結果、名が知られるに至った彼を、どうやら招待主であるアリシュエルの父親が放さなかったらしい。
 きちんと正装し、髪を撫で付けた彼は冗談ぬきにして貴族の子爵に見える。その美貌、その有能さ。彼を求め、甘言を囁いて擦り寄る輩は跡を絶たないのだろう。
「茶番劇ですが、これがとても重要なのですからね」
 そう言って笑うヒースを、マリアージュは憤りあらわに睨め付ける。
「……わかってるの? あんた。招待受けた私たち女王候補者みんな、アリシュエルの引き立て役にされたのよ。私たちを意味もなく褒めるその裏で、でも私の娘には敵わないっていう、注釈が付いてんのよ」
「えぇ。存じております」
 さらりと肯定し、ヒースは続けた。
「仕方がありません。ミズウィーリ家とガートルード家では権勢が違いすぎる。そのような理不尽な扱いも、甘んじて受け流してこそ、女王の器というものですよ」
 ヒースの言葉は正しい。
 慰めを一切含まぬ、諫言だ。そのことを理解しているからだろう。反論することもなくマリアージュは唇を引き結び、苛立たしげに踵を高く鳴らした。彼女はそのまま着替えのために、ティティアンナを伴って隣の部屋へと移っていく。
 扉越しに響くマリアージュの怒声。ティティアンナのたしなめる声。
「ヒース、冷たいですよ」
「慰めの言葉は貴方が掛ければいい」
 しれっと応じるヒースに、ダイは嘆息を禁じえなかった。
「……私思うんですけど」
 気を取り直し、マリアージュ達が着替えの為に消えた部屋の扉を見つめながら、話を切り出す。
「マリアージュ様って、他人の感情にすごく敏感ですよね」
「そう思いますか?」
「えぇ。そんなに気にしすぎたら疲れちゃうんじゃないかっていうぐらい、すごく相手の表情とか観察して、言葉の裏を読み取りすぎているような気がするんです。お世辞かそれとも本当に褒めてるのか、ちゃんとわかってるみたい」
 最初、マリアージュの社交界嫌いは、単なる自信の無さから来るものだと思っていた。しかし彼女が卑屈になってしまった根本は、浴びせかけられる虚飾された言葉にあるのではないか。心無い賛辞を受ければ受けるほど、彼女は自信を喪失していく。
 頻繁に心中を読み取られるのは顔に出てしまうが故かと思っていたが、ずばりとダイの考えを言い当ててくるのはマリアージュだけである。自分が露骨に表情を動かしているのではない。マリアージュの心を読み取る才能が、飛びぬけて高いのだ。
「だから、こういうところも、気持ち悪いって思うんだろうな……」
 単純に社交辞令だと割り切ることができればよいのに、マリアージュにはそれが出来ない。市井生まれのダイからすれば、彼女の感性はひどく真っ当だ。しかし、こちら側では辛いだろう。
「ヒースは、大丈夫なんですか?」
 ダイは傍らの男を見上げて尋ねた。
 ヒースもまたマリアージュと同じで、人の機微にひどく聡い。マリアージュと大きく異なって、彼は仕事として全てを割り切れてしまうが、かといって辛くないはずはない。押し殺したものは、どこかで軋みを上げるはずだった。
「大丈夫ですよ」
 見下ろしてきたヒースは、ダイの頭に手を軽く乗せる。
「慣れています。この程度のこと、どうということはない」
 そう言って、彼はふわりと笑った。
 繊細な砂糖菓子のような、あるいは、小春の日、玻璃を通して部屋を満たす温かい日差しのような、儚くも優しい微笑。
 ほんの時折、彼はこんな風に笑う。
 ミズウィーリ家では難題を背負い込んで厳しい顔をしていることも多いし、執事たちに指示を飛ばす声も鋭いが、生来はとても面倒見のよい、ひどく優しい青年なのだろう。マリアージュの父親とどんな契約を交わしたかは知らないが、そうでなければ彼が亡くなって以後もこの家をこんな風に支え続けるなど、出来るはずがない。
「さて」
 ヒースはダイの頭から手を離すと、そのまま襟元を正した。
「先に行きます」
「もう行くんですか?」
 晩餐会が始まるまでまだ時間がある。皆、マリアージュのように衣装替えに勤しんでいる頃合だ。
「煙草と酒と札遊びに興じるために、先に会場入りしている紳士たちがいるのでね」
 彼らとの交渉に、と、ヒースは笑う。先ほどとは打って変わった、薄ら寒さすら覚えるその微笑。
 これから彼にやり込められるだろう紳士たちに同情し、ダイは胸中で合掌した。
「着替えが終わる頃にまた迎えに来ますと、マリアージュ様に伝えてください」
「わかりました」
 ダイが請け負ったことを確認し、ヒースは扉のほうへと歩き始める。扉の開閉音が静かに響き、足音が遠ざかる。
 本当に、もう少し休んでいけばよいのに。
 当初、挨拶だけを済ませて逃げ回ると宣言していたヒースだが、口で言うほど休んでいるようには見受けられない。彼が控えの間になかなか戻らないのは、何も招待主の話から抜け出せなかっただけではないのだろう。積極的にマリアージュを売り込みに回っているに違いない。仕事熱心は結構だが、彼の疲労を見咎めるその都度、もう少し休めばいいのにと思わずにはいられなかった。
 もっとも、こちらも呆けてはいられない。マリアージュが着替え終わったら、自分の出番なのだ。
 水を飲みながら、卓の上に化粧道具を広げる。今日の昼が汗ばむ陽気だったことを鑑みれば、化粧は一度全て落としてもらい、最初からし直したほうが美しいだろう。
 盥に水を汲み入れ、道具一式を全て並べ終えたところで、丁度マリアージュたちが仕度部屋から顔を出した。


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