間章 二つは選べない 2
ティティアンナから距離を置かれていると気が付いたのは、マリアージュとのことが落ち着いて、数日経ってからだった。
会わないな、と思った。ダイのほうもまた仕事をさせてもらえる、もとい、マリアージュのお目付け役をさせられるようになってしまったため、単純にティティアンナと仕事の予定が合わないだけかと思っていた。しかしそれにしては彼女とあまりにも予定が重ならない。その上、控えの間で顔を合わせても、ティティアンナは挨拶だけ交わして忙しなく立ち去ってしまうのである。
一体どうしたことかと思っていた矢先、ヒースから事情を聞かされた。曰く、ティティアンナは自らダイと予定が合わぬように願い出たのだという。
これには、相当気を滅入らされた。マリアージュから遠ざけられたとき以上に。
かたんっ
「……と、すみません」
手元が狂い、滑り落ちた髪留めの一つが足元の床を叩く。マリアージュの髪を軽く留めてからダイは腰を屈め、落下したそれを素早く拾い上げた。私物であったことは幸いだった。これがミズウィーリ家所有のもので万が一破損でもすれば、到底ダイには弁償できない。
ダイは拾った髪留めを傍らの円卓の上に置いた。誤って使わぬように、他の道具と距離を空けておく。その様子を椅子に腰掛け眺めていたマリアージュは、気だるげに口を開いた。
「珍しいわね、あんたがそんな風に物を落とすの」
「落とさないように気をつけてはいるんですけど……」
落としてしまった髪留めを横目で見ながら応じつつ、ダイはこっそりと嘆息をついた。注意さえしていれば落とすはずのないものを取り落としてしまうのは、上の空で作業をしている証拠だ。人の顔や髪に触れているときは、相手のことだけに集中していなければならないというのに。
「すみませんでした」
謝罪を重ねて手を拭い直す。マリアージュは手元の鏡から面を上げて肩をすくめた。
「いいわよ別に」
連日、夜更けまでの晩餐が続いていたためか、彼女はひどく眠たそうだった。今日は久方ぶりに一日中屋敷にいるということで寝坊を決め込んでいたようだが、さすがに昼を過ぎるのは、と侍女に起こされたようである。昼を回ってすぐに部屋を訪ねたのだが、マリアージュは着替えしか済んでおらず、侍女は化粧と髪結いを丁度よかったとばかりにダイに押し付け退室してしまった。どうやら彼女は眠りを中断してしまったせいで、主人に愚痴られていたらしい。
昼下がりの柔らかい日差しが絨毯の上に落ちている。部屋を満たす気だるく緩慢とした空気は、マリアージュの心中を反映しているかのようだった。
髪をほぼ結い終わり、最後に簪を挿して仕上げる。マリアージュのゆるく波打つ紅茶色の髪の上部を、軽く編みこんで頭の上で団子を作っただけだが、彼女の愛らしさを前に出すまずまずの出来だった。
「次は顔を」
声を掛けるが、マリアージュは本当に眠いらしく、うんと頷いただけで反応が鈍かった。髪や顔を触っている間に舟を漕ぐことは珍しくはないので、さっさと化粧を進めていくことにする。髪結いのための品を片付け、代わりに化粧道具を広げる。今日は外に出るわけではないので、化粧は薄く施すだけでいいだろう。
手を拭き、化粧水と乳液と下地と。肌の上に順番に重ねていく。練粉ではなく、白粉を筆で軽く被せて。
「目元はされますか?」
「適当にして」
瞼を閉じたまま軽く手を振ってマリアージュが答える。ダイは淡い金と灰みの強い濃茶の色を選んで、彼女の目元を彩ることに決めた。金の粉は瞼全体に、茶は縁を。普段はさらに目周りを縁取っていくが、今日はこれでおしまいだ。
眉を軽く整え、頬紅は淡く血色が浮き出る程度に。唇は筆で蜜蝋を注すだけに留めておいた。最後に余分な粉を落として、完成。
「終わりましたよ」
首周りの汚れを防ぐために覆っていた布を取り去って、ダイはマリアージュに声を掛けた。浅い眠りから目覚めた彼女は欠伸を手で隠しながら膝元に置いていた手鏡を取り上げ、その磨かれた鏡面を覗き込む。
「凝った結い方」
ぽつりともたらされた感想に、ダイは首を傾げた。
「そうですか?」
えぇ、とマリアージュは手鏡を膝の上に伏せ置きながら頷いた。
「あんた顔だけじゃなくて髪もできたのね」
「んーまぁ、出来ないことはなかったんですけど……」
髪結いの専門ではなかったので、経験が少ない。基本は押さえているものの、知識も技量も、化粧のそれらに比べれば雲泥の差がある。
「でもやっぱり難しいものはまだ無理ですね。これから勉強していかないと」
「こういうのも勉強してできるようになるもんなの?」
「化粧もそうですけど、一応基本的な知識みたいなのがあって。あとは練習とか実践ですね。勉強したことをいかに応用できるか、は全部経験にかかってくるんです」
「練習ねぇ……」
肩にゆるく落とされた髪を指先で弄りながらマリアージュは呻いた。
「……化粧は練習する必要ないんじゃないの?」
「そんなことないです」
化粧道具を鞄の中に収めていきながらダイは即座に否定した。
「化粧も人の顔を長く触っていないと、手が動かなくなっていきますし……勘が鈍るんです」
「それじゃあんた私の顔触ってないときはどうしてたわけ?」
「それはティティが」
顔を貸してくれたのだ、と。
反射的に答えたダイは、ほんの半月ほど前と現在の、彼女との関係の差を思い返して渋面になった。喉の奥からこみ上げてくる、針を飲み込んでしまったときのような痛み。
「ティティが何?」
マリアージュが言葉の続きを催促してくる。ダイは笑顔を取り繕った。
「えぇっと、顔を触る、練習台になってくれていたんです」
「……ふぅん」
質問したのはマリアージュだというのに、彼女の返事は気のないものだ。しかしそれはいつものことだった。
ダイは肩をすくめ、道具の片づけのために身を返した。
「ダイ」
ふいの呼びかけ。
彼女の声音は、不機嫌一歩手前だった。何か気に障るようなことがあったか、と怪訝さに首を捻る。
そして。
ぼふっ
「ふぶ!?」
振り返りざま面を上げたダイの顔面を、柔らかな、しかし重量のあるものが直撃した。
突如急襲してきたそれの勢いに押されて、数歩よろめく。背後に踏み出した踵が円卓の脚を蹴った。腰に天板の角が当たる。
気が遠くなるような痛みを堪えつつ、ダイは床に落下しようとしていた『それ』を宙で受け止めた。
ちかちかする視界に目を細め『それ』の正体を確認する――マリアージュの腰と椅子の背の間に挟まっていたはずの、羽毛がたっぷりと詰まった腰当だった。
マリアージュの不機嫌極まりない顔が掴み上げている腰当の向こうに見え隠れする。ダイは渋面になりながら肩を落とした。
「一体どうしたんですか、マリアージュ様」
「目障り」
「……は?」
「目障りっつってんの。ティティアンナのことでそんな辛気臭い顔するんだったらよそでやって頂戴。鬱陶しい」
ティティアンナとのことを思い返して険しくなってしまった自分の表情を、マリアージュは見咎めたのだろう。
「……すみません」
ダイはマリアージュに腰当を差し出しながら謝罪した。
「……ご存知だったんですね」
「あんなにくっついて仕事してたっていうのに、ここ最近ばらばらでしか動いてないんだから、そりゃ私だって気づくわよ」
「そうですか……」
一向に受け取られる気配のない腰当を引き寄せ、肩を落としてダイは呻いた。マリアージュは脇息に頬杖を突き、ダイを半眼で見上げてくる。
「あんた今度のガートルードの招待にくっついて来ることになったんですってね」
「……早耳ですね」
「メイベルが言ってきたのよ。それ、ティティアンナもいくんでしょ? あんた今度の招待に同行するとき、四六時中そんな顔してるつもり? 鬱陶しいのよ」
「……ですね」
ダイは心から、マリアージュに同意した。
彼女の言う通りだ。しかもティティアンナと顔を合わせるのは、ガートルード家へ向かうマリアージュに同行するときだけではない。その打ち合わせのために、これからどのような態度を取られようとティティアンナとは会わなければならないのだ。
沈黙を挟んだ後、マリアージュが気だるげに口を開いた。
「……ティティは、あのとき、あんたを唯一庇ったんでしょ」
「あの時?」
「あの時っていったらあの時よ。……えぇっと、名前なんていったかしら。あの魔術師とグレインが喧嘩して、あんたが、ローラに追い出されそうになってたときよ」
「あぁ、はい」
ようやく理解し、ダイは頷いた。が、どうしてマリアージュがあの時のことを引き合いに出すのかわからず、一拍遅れて首を捻る。彼女は頬杖を突いたまま、呆れにも似た目をダイに向けて話を続けた。
「庇ったけど、あんたを庇いきれなかったんでしょ、ティティは。そう聞いたわよ」
「……あぁ、あれは」
仕方がなかったのだ。
誰だって単なる仕事仲間か生きる場所かを二者択一に迫られれば、後者を取らずにはいられない。
「どうしようもないことですよ」
「でもティティはあんたにいいとこ見せようとして失敗したわけよ。それを勝手にへこんで、勝手にあんたに合わせる顔がないって思ってるだけなんじゃない? 恥ずかしがって逃げ回ってるだけよ」
意気地なし、とマリアージュはティティアンナを詰った。
「馬鹿はティティなんだから、あんたがそんなしみったれた顔する必要がどこにあんのよ」
言いたいことは終わったとばかりに目を閉じて、マリアージュは深く息を吐く。椅子に沈み込んだ主人を、ダイは唖然となりながら見返した。
堪え性がなく、気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こすミズウィーリ家の若き主人にして女王候補者。憤っているときは相手の事情も構わず部屋から蹴りだすことも多々あるので、うつけ者だのなんだのと散々陰口を叩かれているが、実際のところ、彼女は決して暗愚ではない。むしろ人の機微に非常に聡いのだ。
「何よ、意外に頭いいのねっていうその目は」
黙りこくったダイをじろりと睨めつけ、マリアージュが呻く。ダイは慌てて首を横に振った。
「そそ、そんな目してないですってただ感心しただけで」
マリアージュの言には、一理ある、と、感服していただけで。
しかし彼女はダイの弁明を信じてはくれなかった。
「嘘おっしゃい! どもったって無駄よあんた!」
「いえ本当に……うわっ!」
腕を乱暴に引き寄せられ、身体の均衡を欠く。気がつくとマリアージュの顔が間近にあった。彼女の手がダイの両頬を挟んでいる。その場に膝を突いたダイは彼女を見上げ、困惑に声を張り上げた。
「ちょ、マリア様一体なにふぐ!」
両方の頬にぐぐぐぐ、と圧力が加えられる。呼吸の不自由さにダイは涙目になった。
「はふへへまひはひゃま! ひはいひはい!」
解放してくれ、とマリアージュの手首を掴んで懇願するが、彼女は一向に止める気配を見せない。ぐりぐりとダイの頬を圧迫しては時にびろりと引き伸ばし、顔の変形を楽しんでいる。
「にこにこにこにこ、こっち馬鹿にしてるのっていうヒースみたいな笑顔も腹が立つけど、あんたのその露骨に考えが出るのももうちょっとどうにかしなさい! このっ」
「ふひはへんふひはへんって!」
まるで菓子の生地を捏ねるかのようにひっぱったりねじったり押しつぶしたり、マリアージュはダイの顔をこの上ないほど弄ぶ。抵抗する気も失せて、ダイはその場に崩れ落ちた。
ようやく手が止まったのは、かなり間を挟んでからである。気が済んだのかと、ダイはぐったりとなりながら視線を上げた。
しかし彼女の手から顔が解放される気配は頓とない。
「……マリアージュ様?」
僅かばかり身を引いた彼女は、やけに神妙な面持ちでダイを見下ろしている。解放してほしいという意図を込め、ダイは頬を挟んだままのマリアージュの手に触れた。しかしその願いもむなしく、彼女は鷲掴みにしたダイの頬の肉を、展性を確認するかのように力いっぱい引き伸ばし始めた。
「ひひゃいひひゃいひひゃい!!」
手を振り回して訴えても、止めてもらえる気配は微塵もない。マリアージュはダイの頬を伸ばしたり押しつぶしたりを無言で繰り返す。その様子は、納得のいかぬ難問を確かめる研究者のようだった。
悲鳴を上げることすら疲れてきた頃、朦朧とする意識の隅でダイは扉の開く音を拾い上げた。
「失礼しま……」
聞きなれた声。
入室してきた侍女は、ティティアンナだ。
「あらティティ」
ダイの顔をびろーっと引き伸ばしながらマリアージュは侍女に向き直る。ダイは視線だけを動かし、絶句した様子の同僚を見やった。部屋に踏み込んだまま静止しているティティアンナは、目を皿のように丸くして凍りついている。瞬きすら忘れているらしい。
ひっぱられていた頬が、今度は骨の奥に押し込まれる。骨格が変わるほどの圧力を頬に覚えて、ダイは脱力した。マリアージュは細腕に似合わず、意外と力がある。
「ぷはっ」
ダイを責め苦から解放したのは、堪えきれぬといった様子で噴出した、ティティアンナの笑いだった。
「あはははははははっ、な、なんなんですかその顔! 何やってらっしゃるんですか!?!? あははははっ!!!!」
「ティティアンナ」
ダイをようやく解放し、マリアージュは椅子から立ち上がって腰に手を置いた。そして腹を抱えて笑い転げるティティアンナをびしりと指差す。
「あんたね、主人の前で大口あけて笑うってどういうこと?」
「す、すみませ、でもっ、あはははははははっ!!!」
マリアージュに指摘されさすがに口を覆いはしたものの、ティティアンナは笑いを収めるつもりはないようだった。もうだめ、と、縋るように扉の木面に手を添わせ、彼女は膝からその場に崩れ落ちる。こちらを向いた背中と肩は、小刻みに震え続けていた。
そんなに面白かったのか。
赤くなった頬を擦りながら立ち上がるダイの横で、腕を組んだマリアージュが溜息を零した。
「で、あんたは一体何の用事なのよ?」
「は、はい」
笑いをどうにか捻じ伏せたらしいティティアンナは腰を上げ、マリアージュの正面に向き直った。
「ダイをですね、お借りしたくて。リヴォート様から今度のガートルードの件で話し合うようにと」
「いいわよ。連れて行きなさい」
二つ返事で応じたマリアージュは乱暴に椅子に腰掛け、ダイに早く荷物を纏めるようにと顎で促した。まったく、片付けの邪魔をしたのはどちらのほうだと思った刹那、マリアージュの眉がひそめられる。
また考えが顔に出てしまったらしい。ひやりとしながらダイは身を翻し、片づけを急いだ。鞄を抱え、戸口で待つティティアンナの下へと駆け寄る。
「後でシシィがお茶を持って参りますので」
「わかったわ」
「それでは、失礼いたします」
ティティアンナと共に、ダイは退室の挨拶に頭を下げる。マリアージュは目を伏せたまま、さっさと行け、と手を振った。
マリアージュの部屋から同じ階の詰め所に移動する。がらんとした室内。侍女たちは皆、各々の仕事のために出払っているようだった。
ティティアンナは詰め所の中央に鎮座する長机の横を通り、空の水瓶と食器棚の置かれる簡易の炊事場へと進んでいってしまう。部屋の入り口で立ち止まったダイは、茶の準備に忙しなく動く同僚を見つめた。
「……ティティ」
マリアージュの部屋でこそ笑い転げていたティティアンナだが、扉を閉じてすぐ、その表情は強張ってしまった。無言のまま先導する彼女に付いて足を動かしながら、ダイは危惧した。これからも終始このままなのだろうか。
かちゃ、と陶器の触れ合う音が部屋に響く。ティティアンナの肩が嘆息に大きく揺れ、ダイは反射的に身を引いた。
流しの縁に手を置き、ティティアンナがくるりと振り返る。部屋の入り口で棒立ちするダイに、彼女は苦笑して見せた。
「扉を閉めて、そんなところに立ってないで椅子に座って。すぐにお茶、入るからね」
柔らかい口調は、ダイがよく知る、親しみ溢れるティティアンナの口調だった。
「ティティ」
「うん。ごめんなさい。いいから、座って」
促され、ダイは大人しく席に着いた。古い木製の椅子が軋みを上げる。待つことしばし、ティティアンナは暖かな湯気を上げる紅茶をダイの前に置いた。自身も茶器を持ってダイの対面に腰を下ろす。
「ごめんね」
僅かに目を伏せて、ティティアンナは言った。
「うまくダイの顔、見られなくて。上手く、話しすることもできなくて。しんどい思いをさせちゃったね。あぁ、馬鹿みたい。ダイを遠ざけてるみんなが、あれだけ嫌だったのに、自分も同じことするなんて」
理由は違うけど、と悄然と肩を落とす同僚に、ダイは問い返した。
「理由?」
「うん。ダイが嫌いとか、疎ましいとか、そんなことじゃないのよ。あのね」
ダイと目を合わせたティティアンナは、茶器を握り締める手に力を込めた。
「あの、ね。グレインと、アルヴィナさんとの騒ぎのとき、ハンティンドンさんに選べって言われたでしょう。この家に残るか、ダイを庇い続けるかって」
こちらの反応を探るようなティティアンナの声音を聞きながら、ダイはあぁ、と目を閉じる。
マリアージュの予想は、当たっていたわけだ。
「そのときに真っ先に自分のことを優先した自分が許せなくて。ダイと顔合わせると、頭の中真っ白になっちゃって。……ごめんね。ごめんなさい」
下唇を噛み締め、大の大人が目を赤くしてぽろぽろと涙を零す様を、ダイは呆然と見つめた。
「ティティ、私は」
「ハンティンドンさんに年上ぶりたかったんだろうって言われて違うって思ったけど、違わないのかも。ただ頼られるのが嬉しかっただけかもとか、色々どんどん嫌な感情が覆いかぶさってきて、ダイの顔を見るのも嫌になっちゃって」
「ティティ」
「ごめんなさい、ダイ。本当にごめんなさい」
しゃくり上げ始めるティティアンナに、ダイは慌てた。まさか、こんなに泣かれるとは思っていなかった。携帯していた布を懐から引き出し彼女に差し出す。顔を紅潮させたティティアンナは、躊躇いを見せながらもそれを受け取った。
「ティティ、ごめんなさい」
長机の上に手を突き、身を乗り出して謝罪したダイを、ティティアンナは不思議そうな目で見上げてくる。
「どうしてダイが謝るの?」
「私が苦しめたでしょう?」
「そうじゃないのよ。……苦しんだのは貴方。間違えないで」
泣きながらティティアンナが紡いだ声は、叱責にも似た厳しいものだった。ダイは口を引き結んで腰を落とす。
ティティアンナはしばらくぐずぐず鼻を鳴らせていたが、ようやく涙を引っ込めて笑った。
「貴方、マリアージュ様から自分のせいにするのはやめなさいって、言われたんじゃないの?」
「……あー……よくご存知で」
すぐに自己犠牲に走るなと、事あるごとに罵られる。けれど自分が皆を苦しめている、という考えに走るのは習い性のようになってしまっていて、この思考の仕方はしばらく抜けそうにない。
「鬱陶しいって愚痴てらっしゃったから」
笑いに肩を揺らし、ティティアンナはマリアージュの軽口を暴露した。
「それに何。さっきの。リヴォート様に言われて貴方をマリア様の部屋に迎えにいくまで、私どんな顔したらいいのかものすごく悩みながら行ったのに。暗い気分が全部吹き飛んじゃったわよ」
「えーっと、なんかマリアージュ様を不快な気分にさせちゃったみたいで。こう、なんですか。処罰、みたいな」
「罰っていうか、じゃれあいよ。可笑しかった。あのダイの顔ってば」
「もう忘れてください」
マリアージュに捏ね繰り回された頬の痛みを俄かに思い返して、ダイは頭を振った。こちらのその表情がまた可笑しいといわんばかりに、ティティアンナは軽やかな笑い声を上げる。まったく、先ほどまで泣いていたことが嘘のようだ。
しかし彼女は唐突に笑いを収めると、腫らしたままの瞼を落とした。暗い影が鳶色の瞳の奥に宿る。
「どうして……大事にしたいものと、守らなきゃいけないものって、いつも一緒じゃないのかしら」
また、泣き出してしまうのではないか。
危惧しながら、ダイは慎重に言葉を選んで言った。
「えぇっと……でも、私も嫌ですよ。ティティが私のせいでこの家から出て行かなきゃいけなくなったりしたら。だから、あれでいいんです」
ティティアンナの目がこちらを映す。まだ何か言いたげな彼女に先んじて、ダイは素早く口を開いた。
「それに、ティティがこの家を離れたら、もう一人辞めなきゃいけないでしょう?」
「……それ、どういう意味?」
ティティアンナが露骨に顔色を変える。先とは違う意味で顔を朱に染めていく彼女に、ダイは微笑んだ。
「どうして結婚してないんですか?」
その問いに、ティティアンナはまるで天井から糸で引っ張られてかのように背筋を伸ばして凝り固まった。表情を強張らせたまま、彼女は叫ぶ。
「どどどど、どうして知ってるのダイってば!?」
「あ、二人だけで会ってるところを見てはないですよ」
花街では芸妓達が客に本気にならぬよう、注意深く見守っていなければならない。芸妓と客の間の色恋沙汰は、時に客の家を転覆させ、娼館に危機をもたらすこともあるからだ。他人のそれには、勘が働いた。
ぺしゃ、と机の天板に身を伏せ、ティティアンナは低く呻いた。
「その、時期がね。旦那様が亡くなられたり、マリアージュ様が女王候補になったり、色々、あるから」
「落ち着いたら?」
「そのつもり。……そのときは、ダイ、化粧してくれる?」
「えぇ。もちろん。光栄です」
花嫁に化粧をするなど滅多にないことだ。来る幸いの日に思いを馳せる。
姉のようなティティアンナ。幸せになってほしい人が、ここにいる。それはとても幸福なことだ。
男と寄り添った彼女は子供を生み、またその子もこの家のために尽くすのだろう。
「本当に、どうして気づいたの? ……誰も知らないと思ってたんだけど」
「私に冷たく接しなかったのは、リヴォート様と、ティティと、あとその人だけでした。ティティやリヴォート様みたいに、表立って庇ってくれるわけじゃないですが」
「……なるほどね」
顔を伏せたまま、はぁ、とティティアンナは息を吐き出す。ダイは苦笑し、べた、と伸ばされた彼女の手に躊躇いながら触れた。
「ありがとうございます、ティティ。貴女が居なければ、とても耐えられなかった」
「……貴方が頑張っていたからよ」
僅かに顔を浮かせた彼女は、面映そうに笑った。そしてダイの手を握り返す。
「あぁ、彼を嫉妬させちゃうかしらね。こんなところを見せたら」
「どうしてですか?」
「うん。将来有望そうだからダイは。いい男になりそう」
ダイは苦笑した。
「いい男にはなれないですね」
「あら、じゃぁ悪い子になるの?」
「悪い子には、なるかもしれません」
「なぁに、それ」
ふふ、と笑ったティティアンナは身体を起こした。ダイも手を離す。弟妹を見つめるように柔らかく笑って見せた彼女は、手付かずのお茶を指して言った。
「すっかり冷めちゃった」
上っていた湯気はすっかりなりを潜めている。
「これを飲んだら、また淹れ直して……そしたら、今度の招待のお話始めましょう」
ティティアンナに大きく頷いて、ダイは自分の分の紅茶を手に取ったのだった。