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間章 二つは選べない 1


 父のことは覚えていない。ただ父のことを語るとき、頬を染める母は稚い少女のようであり、そして世を捨てた老婆のように枯れても見えた。誰からも愛された母。その母がまさしく狂うように望んだ、ただ一人の男。
 彼が生きていれば、と考える。
 生きていれば――こんな歪さを身体に宿したまま、生きることはなかったのだろうか、と。




「合格でしょう」
 ダイの礼儀作法を一通り審査して、ローラは言った。侍女頭の教育は厳しく、ダイに一片の甘さも許さない。その彼女が合格というのだから、間違いないのだろう。
 安堵に胸を撫で下ろし、ダイは笑った。
「ありがとうございます」
「いいえ」
 応じる侍女頭の声は冷ややかで、拒絶の色がありありと窺える。それも仕方ないことだ。彼女がダイを罷免しようとした騒ぎから幾度か安息日を数え、月も移っているとはいえ、気まずさがきれいさっぱり消える訳ではない。それでもローラは私情を挟んでダイの教育の手を抜くようなことを一切しなかった。全て仕事の内、ということだ。その割り切り方が、彼女らしい。
 礼儀作法の注意を纏めた書付の角を揃え、関連書物と一緒に小脇に抱えて歩き出す。扉の前でローラに向き直り、ダイは再び頭を下げた。
「ありがとうございました」
 返事は期待していない。ダイが礼を述べて部屋を辞するとき、ローラの瞳はいつも眼鏡の奥で光を失っている。皺の刻まれた細面から表情一切を消し去って、無言のまま彼女は仕事に戻るダイを見送るのだ。
 しかし、今日ばかりは異なっていた。
「ダイ」
 思いがけず掛けられた声。
「……はい」
 身体の強張りを自覚しつつ、平静を装ってダイは呼びかけに応じた。
 侍女頭に与えられた書斎。両壁面を書架が隠している。窓の前に佇むローラの表情はこの時間、逆光で見えない。
「貴方はどうして私に丁寧に礼を述べるとき、そんな風に笑っていられるのですか?」
 問いは淡々と響き、それに込められた意図をダイは読み取ることができなかった。
「……どうして、と、言われましても」
「あの後――……」
 アルヴィナとグレインの摩擦をきっかけに、ダイが職を辞するか否かの話に発展し、結局はマリアージュの沙汰で残留が決まった、あの後。
「私は確かに最後まで貴方の作法を見ると申し出ましたが、正直言って貴方に断られると思っていました」
「断る権利なんて私にはないです。私はリヴォート様から、作法のほうは引き続きハンティンドンさんが見るからって言われたので」
「権利はなくとも、訴えることはできたでしょう。……貴方が彼と上下を抜きにして個人的に親しいことは知っています。なのに貴方は、嫌だと訴えることすらしなかった」
「えー、まぁ、そう、ですね」
 ダイは曖昧に頷いた。
 確かにローラの教師継続を告げる折に、ヒースはこちらの心象を案じてくれた。拒絶を示すことぐらいはできただろう。
 本当に、嫌だと思っていたならば。
「別に、私ハンティンドンさんが礼儀作法の講師でいいって思ってましたから」
 ダイが示した答えに、ローラは訝りの声を上げた。
「何故?」
「教え方が、お上手だからです。わかりやすいし、覚えやすい」
 それが偽らざる本音だ。
 侍女頭という立場故に経験を積んでいるということを差し引いても、ローラは教え方の上手が抜きん出ている。多少気まずかろうが彼女に礼儀作法を見てもらえたほうが、上達はうんと速いとわかっていた。無論、厳しく容赦ないということを胸中で付け加えるのも忘れなかったが。
「……私と顔を合わせるのが、嫌ではなかったのですか?」
「気まずいかどうかって言われたら、そりゃぁ……否定はしないですけど」
 しかし元々自分と彼女の間にはある種の緊張感があったのだから、気まずさなど今更である。
 ダイの返答に、ローラが考え込むように沈黙する。面を伏せる彼女を見つめながら、ダイは言った。
「意外です」
 ローラは顔を上げて怪訝そうに呻いた。
「え?」
「意外だなって、思ったんです。その……私が気まずいかどうか、訊いてくるなんて」
 以前から、ローラと自分との間には壁がある。透明な壁。それは、ダイに市井と貴族を隔てる壁と門を連想させる。
 貴族は市井の心象を、慮ったりしない。言い方は悪いが、ローラもこちらに関心などないのかと思っていた。
「不思議に思っただけです」
 ずれた眼鏡の位置を指先で戻しながら、ローラが答える。
「あのことがあっても、貴方は以前と変わらない。普通は顔を合わせたくないと思うでしょう」
「ハンティンドンさんもですか?」
 不躾かもしれないと思いながら、ダイは尋ねた。こちらも不思議に思っていたのだ。一体何を思って、ローラは礼儀作法の講師を続けることを申し出たりしたのだろう。
 自分と顔を合わせたくないのであれば、彼女の方こそヒースに訴えればよかったのだ。ローラは使用人の中でも最古参。ヒースも彼女の意見を無碍には出来ない。例え、先日のようなことがあってもだ。
 無言を返してくるローラに、ダイは続けて尋ねた。
「……ハンティンドンさんは、お屋敷から出ようとは、思われなかったんですか?」
 ――……気まずさなど、自分たちの間では些細なことだ。
 彼女と、他の使用人たちとの間に生まれてしまった、軋轢に比べれば。
 あれ以降、他の古参の使用人たちはローラと距離を置いている。マリアージュに辞めろとまで言われたにもかかわらず、ローラはこの屋敷で以前と変わらず仕事を続けている。そしてこんな風に、自分とも関りを持つ。野次馬に徹していた使用人たちがどんな厚顔だとローラに対して陰口を囁きあっていることも、ダイは知っていた。
 長年苦楽を共にしてきた仕事仲間たちからそのように蔑まれることは、どれほどの苦痛をローラにもたらしているのだろう。新参の自分ですら、彼らから遠ざけられることは耐え難かったというのに。
「思いませんでした」
 ミズウィーリ家を出る可能性を、静かに、しかしはっきりと、ローラは否定した。
「私は、この家で生まれ、この家で育ち、この家にずっと仕えてきました。他に行くところなどありません」
 予想通りの、回答だった。
「ダイ、貴方は若いからわからぬでしょう。もうこの年になると、生き方を変えることなど出来はしません」
 そんなことはない。
 反射的に、ダイは思った。そんなことはない。生き方を変えることは誰にだってできる。
 しかし、口に出来なかった。誰にでも出来ることは、誰にでも容易いことと同義語ではない。
「出来るものも、います」
 ダイの胸中を読み取ったかのように、ローラは続けた。
「しかし私はそうではない。私はそこまで強くはない。愛着在るこの家に残っていたほうがまだいい。……マリアージュ様になんと言われようと、私は私が、この家に、ひいてはマリアージュ様にとって良いと思うやり方で、仕えていこうと思っています。……皆の口さがなさも、時が経てば落ち着くでしょう」
 ローラの声音は文章を朗読しているかのように、淡白なものだった。
 感情の色を宿さぬからこそ、彼女の言葉はダイに深い感慨を抱かせる。慰めなどいらぬのだろうとわかってはいるが、言葉を探さずには居られない。
「私は生まれてから今まで、ずっと門のこちら側で暮らしてきました」
 ローラの声音が沈黙の帳をそっと押しのける。
「門のこちら側で暮らし、そしてミズウィーリ家に仕えていることが、私の誇りでした。リヴォート氏が優秀だということはわかっていますし、貴方の化粧師としての腕が抜きん出ていることもわかります。……ですが、頭でわかってはいても、感情が追いつかない。貴方達に、気を許すことはできません。親しくすることなど、とても」
「それでいいと思います」
 ダイは肯定を示し、窓辺に立つローラを改めて見返した。
「古いとか新しいとか門のむこうとかあっちとか関係なく、私もハンティンドンさんもマリアージュ様に仕えてる。それでいいんじゃないですか?」
 ローラが最後まで自分の礼儀作法を見ることを決めた理由は、おそらくそれがマリアージュの為になるからだろう。ローラは本当に、マリアージュの為に仕えている。
 ふと、ローラの肩から力が抜けたように見えた。光の加減で表情は窺い知れない。しかし、彼女は笑っているらしい。
「拒絶の言葉を吐かれたというのに、怒りもしないのですね、貴方は」
 呆れの響きを宿す声に、ダイは肩をすくめた。
「ここで怒ったら、ハンティンドンさんとずっと仲良くなれなさそうだから」
 今すぐには分かり合えなくとも、同じ職場にいるならば、いつかは和やかに話せるぐらいにはなりたいと思っている。ローラがどう思っているかは知らないが。
 嘆息に、侍女頭は肩を落とした。
「……今日合格したからといって、復習を怠ることのないように」
 唐突に転換された話題から、ダイは会話の終わりを知る。
「行きなさい」
 退室を促したローラは窓の外へと視線を移す。陽光に照らされた彼女の横顔は、ひどく憔悴して見えた。
 小脇の書付を抱えなおして、ダイは不器用な女に一礼する。踵を返し、そして静かに扉を閉じた。


 ローラの書斎から退室し、ヒースの部屋に向かう。礼儀作法の課程を一通り修了したことを報告するためだ。今日は昼まで執務室に篭っていると聞いていたから、今頃は机に積まれた書類を執事長と共に、頭痛に喘ぎながら処理していることだろう。
 本館に入り、廊下を進む。行き当たった階段を、絨毯を踏みしめるようにして下る。
(それにしても)
 先ほどのローラとの会話を思い返しながら、ダイはそっと息を吐き出した。
(怒らないのかって、本当によく訊かれるなぁ、最近)
 ティティアンナにも言われたし、マリアージュにも叱咤された。
(別に我慢してるわけじゃないんだけど)
 現にマリアージュの前で激昂して、それをきっかけに侍女たちから距離を置かれたぐらいなのだから。
 自分が憤りを覚えないのは、どうにもならないことに対してだけだ。
 例えば、ローラの生き方。彼女の感情。理性は容易く、押し流されていくのだということ。
 ローラを見ていると、母のことを思い出す。
 生き方を変えることの出来なかった、哀れな母を。
 自分を変えることが出来ないという点においては、自分も同じかもしれないけれど。
 ヒースの執務室は三部屋からなっている。マリアージュの部屋と同じ間取り。廊下に隣接する控えの間の扉を、気配を探りながらゆっくり開く。部屋には誰もいない。室内を進み、ダイは奥の部屋の前で立ち止まった。入室の合図として扉を軽く叩く。
「ダイです」
「どうぞ」
 間を置かぬ返事に、ダイは扉を開いた。
「あれ、キリムさんは?」
 部屋にいるのは、ヒース一人である。
「いま所用で出ています。彼に用事?」
「いいえ」
 軽いやり取りを交わして、扉を閉じる。ヒースは相変わらず樫の机の席を陣取り、右に積まれた書類の小山を崩しに掛かっていた。
 びっと、筆記具の金具が紙に擦れて音を立てる。署名し終えたらしい書類を左の箱に放り入れて、彼は手を止めた。
「晴れやかな顔ですね」
 ダイの顔を一瞥するなり、ヒースはそう感想を漏らした。ダイは微笑む。
「ハンティンドンさんから、作法の合格を貰いました」
「あぁ、これで一通り終了したんですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 祝辞に返礼したダイに微笑んだヒースは、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。そこに何かを書き付けていく。見覚えのある用紙。おそらくダイの教育に関する書類だ。
「丁度よかった」
 書類を引き出しに仕舞いなおしながら、彼は言った。
「近々マリアージュ様がガートルード家の招待を受けているから、こちらに同行してもらえる」
「ガートルード家に?」
 えぇ、とヒースは頷いた。
 ガートルード家は上級貴族の中でも最も力を持ち、多くの中級、下級貴族を配下に持つ家だ。女王の最有力候補といわれるアリシュエルの生家である。
「受けたんですか? 招待」
「あの家の招待は断れませんよ」
「……マリアージュ様、よく暴れませんでしたね」
 アリシュエル・ガートルードはマリアージュにとって天敵ともいえる人物だった。マリアージュはとにかく彼女を敵視している。アリシュエルと顔を合わせる午餐や晩餐の会がある日には、マリアージュは荒れに荒れるので、そういった機会があまり続かぬようにと、ヒースも配慮するほどである。
「暴れましたが仕方ありません。以前ほど癇癪を起こされなかっただけいいでしょう」
「そこにどうして私が?」
「ガートルードの招待は一日がかりです。朝に集まり、昼餉を取って、午餐の会でお茶を取り、服を着替えて晩餐に」
「……うわ、きつそう」
「貴方の作法の教育が終わっていなければ、化粧を直すのに別の侍女に行ってもらうつもりでしたけれど」
「……合格一回貰っただけで行っていいんですか? そんなところに」
 第一回目の動向は、出来れば慎ましやかな場にしてほしかった。
「裏方ですよ」
 晩餐の場に出席でもするつもりかと笑うヒースに、ダイは口を尖らせながら呻いた。
「わかってますよ」
「ミズウィーリ家は控えとして個室を与えられるから大丈夫ですよ。そこでじっとしていただければ。手水場も併設されているはずです。何かの事情で廊下に出て、万が一誰かに会ったときには丁寧に会釈をすればいい」
 そういわれても、家の外から出ることにはやはり不安がある。それが顔に出ていたのだろう。ヒースが苦笑を漏らした。
「そんな顔をしなくても」
「そうは言われてもですね」
「私も行きますから、何かあったらこちらで対処します」
「……ヒースも行くんですか?」
 ダイは驚いた。ヒースがマリアージュに同行することなど、今まで皆無だったからだ。彼が交渉のために他家を訪ねることはある。しかし晩餐といった催し物に参加する姿を、ダイは見たことがない。
「えぇ。残念ながら」
 彼の表情は、ひどく憂鬱そうだった。
「私としても、あまりそういった場に出たくはないのですが。なにせ私の立場は一時的なものだから。……当主に挨拶だけして、控えの間に逃げるつもりですよ」
「逃げるんですか?」
「あまり顔を売りたくない」
 貴族の子女を勧められるなど御免被る、とぼやくヒースに、ダイは笑ってしまった。言われてみればありそうな話だ。彼の出自はあやふやでも現在の彼の働きとその容姿を考えれば、婿養子に、と望む家は少なからずあるだろう。
「いつなんですか? その招待」
「五日後」
「安息日の前日?」
「そうです。急ですがそのつもりで仕度しておいてください」
「仕度ってどんな風に?」
 マリアージュが受ける他家の呼び出しに随行したことなどないのだから、仕度の要領がわからない。
 ダイの質問に、ヒースがさらに顔を曇らせた。妙な反応である。
「仕度の内容は、ティティアンナに聞いてください」
 その一言で、ダイは彼の表情の理由を知った。
「……ティティは」
 言葉が上手く続かない。その途絶えた先を補完するようにして、ヒースが口を開く。
「衣装を変えますからね。彼女が貴方と共にマリアージュ様に付き添います」
 ティティアンナは衣装担当の侍女だ。衣装の運搬や片付け、出先での手入れ、衣装を汚してしまった場合の対処、状況を見ての衣装替えなど、様々なことに対処できる。
「アリシュエル嬢と顔を合わせて機嫌が悪くなったマリアージュ様を扱える侍女も、ティティアンナぐらいだ」
「……ですね」
 そしてミズウィーリ家に仕える侍女たちの中でも、比較的ティティアンナはマリアージュに臆することなく接することの出来る侍女だった。ダイが来る以前、癇癪を起こしたマリアージュの下へ真っ先に送られていた侍女がティティアンナだったらしい。
 あのマリアージュの天敵アリシュエルの生家へ招かれるというのなら、付き添いは彼女が適当だろう。
 しかし、だ。
「……大丈夫ですか? ダイ」
「えー……まぁ」
 ヒースの案じる言葉に、ダイは言葉を濁しながら天井を仰いだ。
 最近、彼に案じられてばかりだと思いながら。


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