第五章 錯綜する使用人 6
「それではこちらが今までの調整の記録です」
宛がわれた部屋に荷物を置き、侍女に案内されながら屋敷を回る。最初に顔を合わせた若い執事が頼んでいた書類を持って現れたのは、アルヴィナが屋敷の外壁の術式を見ている最中のことだった。
「ありがとう」
礼を延べ、受け取った紙の頁をぱらぱらと繰る。黄ばんだ用紙はあまり何度も捲ると破れてしまいそうだった。念のため、目を通すついでに〈保持〉の術を掛けておく。
何事かを耳打ちされ、案内役だった侍女は執事と入れ替わりに姿を消した。人手の少ない家だ。積もる仕事もあって自分一人にばかり構ってはいられないのだろう。それでも必ず誰かが張り付いているのは、監視のために違いない。
魔術の調整は、たいてい代々契約をしている魔術師が執り行うものだ。それを自分のような出自不明の魔術師に術の調整の話を持ちかけなければならぬというのだから、魔術師の人材不足もここに極まれりというものである。世の中の流れに、アルヴィナはひっそりと苦い笑いを漏らした。
侍女頭だという老女の言う通り、記録によればこの屋敷の基礎に組み込まれた術は、二十年ほど前に調整の手が入っている。担当した魔術師は魔の公国メイゼンブルから派遣されてきた者だった。
彼の国を滅ぼしたのは魔女だという。
皮肉なことだ。魔女によって生まれた国は、魔女によって滅ぼされる。
思うことは色々あるが、何はともあれ今は仕事だった。気軽に受けた仕事だが、手抜きをするつもりはない。ダイを取り巻く状況を記した書簡をヒースから受け取っていたので、なおさらである。新しく得た友人の立場を上向かせることは無理でも、波風立たせないようにはしたかった。
「これね……」
屋敷の壁面、柱の基礎部分に刻まれた魔術文字を見つけ、アルヴィナは指を這わせた。ぱち、という音を立てて燐光が散り、陣と術式が宙に投影される。驚いたのか、背後に控える執事の青年が息を詰めていた。
「ふーん。けっこういい定義名使ってるのねぇ」
定義とは、術式が安易に書き換えられぬようにする為の、鍵のようなものである。
メイゼンブルの術者らしい複雑な定義だ。自分にはあまり意味を為さないが。
アルヴィナは定義を外し、顕になった陣の全体部分を俯瞰した。とん、と次の文字を弾く。術式が次々に展開されていく。
魔術をきちんと働かせる為には、術式の中に効果の対象物の情報を詳細に記さなければならない。しかし時間が経つにつれて、書き込んである情報と状況がそぐわなくなってくる。例えば建築物ならば、建て増しなどで大きさが変わると、術は力を発揮しなくなってしまうのだ。そういった新しい状況と合致するように術式を書き換えてやることが、『調整』だった。
術式の調整は専門ではなかった。こういったものが得意なのは今頃根城でかび臭い書物と格闘しているだろう友人のほうである。しかし他人の組んだ術を眺めることは楽しい。いい頭の体操になる。
調整のために調べる必要のある事項を、手元の紙に記していく。全て書き終わると、展開していた陣を閉じて、次へ移動。執事の青年が、影のように付き従う。
屋敷の周囲は整えられた植木で取り囲まれている。緑に満たされた庭を散策するようなつもりでぷらぷらと屋敷の壁面に沿って歩き、魔術文字を見つければ術式を確認する。今日はその、繰り返しだ。
「ねぇ、あんた」
ふと声を掛けられ、アルヴィナは芝生に膝を突いたまま背後を振り返った。
「一体、何やってんの? 見ない顔だけど」
いつの間にか、執事の青年は姿を消している。代わりに佇んでいたのは、紅茶色の髪を背に落した少女だった。
「術の調整です。今日から雇われたのよ。一時的に、だけど」
次の陣を宙に展開し、アルヴィナは答えた。
「あぁ、そんなことも言っていたわね」
少女の独白が風に紛れて耳に届く。
かさり、と土を踏みしめる音。すぐ傍らに並んだ少女が、驚いたように胡桃色の目を丸める。
「なにこれ」
「んー。このお屋敷を長持ちさせるためにかけてある、魔術の陣」
「初めて見るわ」
「こうやって宙に展開するのは、魔術師にしかできないの」
宙できらきらと輝く魔術の陣を、指先でぱちりと弾く。陣はそのままくるくると回りながら少女の目の前へ移動し、燐光を残して掻き消えた。
頬を紅潮させて、少女は大きな目をますます見開く。
アルヴィナは微笑んで、仕事を再開した。
少女は、動かない。
「お散歩中?」
さらさらと紙にこの陣の調整に必要な情報を書き込んでいきながらアルヴィナは尋ねる。
「そうよ」
少女が即答する。問われることを待っていたかのような速さの返事だった。
「いい日和だものね」
空を仰ぎ、アルヴィナは言った。
晴れ渡った空と温かな日差し。今日は散歩日和だ。
少女は腰を下ろすこともなく、その場に立ち尽くしたままだった。眉間に皺を寄せ、拳を作って佇むその様子は、アルヴィナの仕事を観察しているというよりは、挑みかかろうとしているようにも思える。
噛み締められた下唇。胡桃色の双眸の奥に煩悶を感じ取って、アルヴィナは仕事の手を止めた。
「こういうのが珍しくて見ていたいんだったら、お隣どぉぞ。座ってね。それとも何か、私に言いたいことでも?」
図星をさされたことに羞恥を覚えたのか、彼女の顔がみるみるうちに赤く染まる。しかし彼女は立ち去らなかった。
アルヴィナが指し示した場所に腰を下ろし、少女は膝を抱えて口を開く。
「……あんたにとって、付いていきたい人間ってどんなのか教えなさい」
命令口調にも驚いたが、話の前後が見えぬ内容に、アルヴィナは思わず鸚鵡返しに尋ね返した。
「ついていきたい、にんげん?」
「そうよ。付いていきたい、人間。従いたい人間よ」
抱えた膝に立てた指に強く力を込めて、少女は呻く。ふわふわと風に踊る髪はよく手入れされ、身につけている衣服も簡素だが仕立てよいものだ。
彼女の正体を確信する。しかしアルヴィナはそ知らぬ顔で、そうねぇ、と思案した。
「貴女はどう思ってるの?」
「正しいかどうかわからないから訊いてるんじゃない!」
あれが人に物を尋ねる言い方か、という反論をぐっと堪える。逆におかしくて笑ってしまったほどだ。苛立ちを顕にして口先を尖らせる少女は、こちらの態度に気分を害したらしい。不機嫌そうな面持ちで腰を浮かせる。
「正しいかどうかなんていいのよ」
アルヴィナは少女を押し留めた。
「貴女はどう思ってるの? 間違いなんてないから、言って御覧なさいな」
「……正しくないと、人は従わないでしょうが」
「いいえ。従う人が変わるだけ」
「どういう意味よ……?」
それは自分で考えろと、アルヴィナは微笑んだ。一から十まで説明してやるほど親切ではない。
「貴方は、どんな人なら、人が付いていくと思うの?」
「美しい人」
アルヴィナの問いに即答した少女は、浮かせていた腰を落として膝に頬を預けた。蹲るその様子は、殻に篭る雛のようである。
「……でも、よくわからなくなったわ」
「どうして?」
「訊かれたのよ。じゃぁその美しい人ってどんな人って。でもわからないから……そもそも美しい人の周りに人が集まるっていうのが間違ってるんじゃないかとか思ったんだけど」
「美しい人の周りに人が集まるのは間違いではないわ。美しい花の周りに蝶が集まる。美しい月は愛でたくなる。それと同じ。美には力がある」
「じゃぁ、どうしたら美しくなれるわけ?」
少女は苛立ちを訴えるようにアルヴィナを見上げた。
「化粧で取り繕ったって同じよ。生まれつき綺麗じゃなかったら、やっぱりどうにもならないんだわ。どんな人が綺麗か、なんて、生まれつきに綺麗な人に決まってる」
「生まれつき綺麗でも、醜くなっていく人はたくさんいるわ。逆に美しくなっていくものもある」
「だから、どうしたら綺麗になれるっていうのよ!?」
少女は地団太を踏む勢いで立ち上がった。興奮に頬は紅潮し、涙の膜が薄く瞳を覆っている。
「質問を変えましょう」
アルヴィナは衣服に付着した土埃を軽く払いながら立ち上がった。
「貴女は、美しい人はどんな風に見える?」
「……どんな風に?」
「ただ、美しいだけ? それとも、何か他に感想はある?」
単に美しいだけならば、人は付いていかない。美しさに何かを思うから、人は従い、時に恐れるのだ。
目を伏せ、僅かに黙考した少女は、そうね、と呟いた。
「……自信があるように見える。胸を張っているように。なんていうの? こう……ちょっとやそっとでは動じないように、見えるのよ」
「じゃぁ、それが貴女にとっての美しさなのね」
「は? 違うでしょ。美しいから自信が持てるんじゃないの?」
「いいえ。自信を持っているように振舞っている姿が、胸を張って、悠然と構えている姿が、貴女の目に美しく映るのよ」
違う? と尋ねてみたものの、少女は虚脱したまま答えない。アルヴィナは肩をすくめ、腰を落として作業を再開した。
「どうして私に訊いたりしたの?」
問いかけに、少女は押し黙ったままだ。アルヴィナは閉じていた陣を再展開し、折り畳んでいた紙を書付のために広げた。筆記具を取り出しながら言葉を続ける。
「私なんかより、周りの人たちに尋ねるのが一番早いのではないかしら」
「……訊いたところでまともな返事がくるはずないわよ。私と会話することだって嫌がってるんだから」
「あらぁ。じゃぁ一体誰が貴女に美しい人について尋ねたの? その人には訊かなかったの?」
ヒースの手紙と少女の様子を照らし合わせれば、誰が、などと問わずとも答えは明白だ。しかしアルヴィナは敢えて少女に尋問した。
少女は唇を引き結んだ。風が揺らす梢の音だけが、しばし耳朶を震わせる。
「……はなし、たくない」
躊躇をみせて口を開いた少女に、アルヴィナは宙に踊る術式から視線を動かさず続けて問うた。
「その、質問してきた人と?」
「そう」
「どうして?」
「……だって、説教臭いんだもの」
思いがけぬ返答に、アルヴィナは肩をこかせて少女を仰ぎ見る。
「説教、くさい?」
「そうよ、説教臭いの」
肯定を示した少女は腰に手をあて、大仰に嘆息を零した。
「こうしてくださいあぁしてください。こうなんですあぁなんです。この質問したときだって、私に怒鳴りながら言ったのよ。腹が立って仕方がないわ」
「貴女ってば腹が立つ人の問いをそんなに真剣に考えてるの?」
見ず知らずの自分に尋ねてくるほどに。しかもその質問を投げかけられてから、もう一月は経っているだろうに。
その矛盾がおかしくて、アルヴィナは小さく笑った。気分を害したのか、少女はこちらを睨み付けて低く唸る。
「考えてちゃ悪いわけ?」
「悪くなんてないわよぉ。もちろん。ただどうして、そんなに真剣に考えてるのかしらって思ったの」
アルヴィナは少女を仰ぎ見た。まろやかな線で形取られた輪郭、すらりと伸びた四肢、気が強そうな面差し。浮かぶ表情は幼いが、その双眸は人の目を直視することを躊躇わない。
少女はよく通る声音で明言する。
「だって、あの子、私のために怒ったんだもの」
指先を握りこむ手に力を込めて、彼女はさらに言った。
「最初は私に怒鳴るとか最低って思ったわよ。主人にたてつくなんてあったま悪いんじゃない、とか。口答えするんじゃない、とか。……でも、あの子怒ったのよ。私を馬鹿にしてるのかって、みんなを怒ったの。私のために怒ったの」
そんな人間、今まで一人も居なかったと、少女は呟いた。胡桃色の双眸には、その愛らしさに相応しくない、暗い孤独の陰が宿っている。
「だから、考えてやってもいいと思った。それだけよ」
思いがけぬ回答。アルヴィナは虚を突かれて押し黙る。
訪れた沈黙に、少女は我に返ったらしい。彼女はさっと頬を朱に染め、踵を返した。
「ま、まぁ、頑張りなさいよ。私は行くわ。じゃぁね」
足早に立ち去るのは、本心を漏らしたことに照れくささを覚えたからだろうか。
遠ざかっていく少女の足取りは、まるで逃げるようだ。
知れず、笑いがこみ上げる。
思ったほど深刻ではないらしい状況に、アルヴィナは最後には声を立てて、その場で笑い転げたのだった。
*
「アルヴィーって、やっぱり大人なんだなぁ」
「は? 何の話?」
アルヴィナがミズウィーリ家に雇われて五日。明日には安息日に入ろうかという日の朝、朝食を取りながら物思いに耽っていたダイは、割り込んできた声に慌てた。口に出したつもりはなかったのに、考えが外に漏れていたらしい。
「ティティ」
傍らに腰を下ろしてきたのは、朝食の載った盆を手にしたティティアンナである。
「アルヴィナさんがどうかしたの?」
「え? いえ……。なんか、すごく平和なので、みんなと上手く付き合えてるんだなぁって……」
失言を聞かれてしまった具合の悪さに、ダイは皿の中に残った麦粥を匙でかき回した。別に彼女と使用人たちの間に摩擦が起きることを期待していたわけではないのだが、自分のこともあってつい不安が先に出る。
「確かに何にも問題聞かないね。魔術なんて久しぶりに見たってメイベルとかが言ってたぐらい」
零れ出た欠伸に一度言葉を切り、目を擦ってティティアンナは話を続けた。
「でも五日ぐらいで何いってんのよダイも。貴方だって別にすぐどうこうなったわけじゃないじゃない? むしろ上手くやってたと思うわよ」
「そうですか?」
「うん」
陶器の壷を引き寄せた彼女は、中に詰まった黒砂糖を匙で麦粥の上に振りかけながら頷いた。
「あの人ただお屋敷に組み込まれた魔術の調整してるだけで、そんなに人と係わり合いにならずにすんでるけど、貴方はマリアージュ様と直接関る機会が多かったんだから仕方ないじゃない。大人だからどうこうっていうよりも、そういう差があると思うわよ?」
「……そうですか」
「……そういえば、今日はなんか朝早いけど、なんか用事あるの?」
「これからハンティンドンさんに作法見てもらうんです。朝一番しか空いてないからって」
「……く、苦行ねぇ。頑張って」
ティティアンナの同情の眼差しに、ダイは苦笑しながら頷いた。確かに彼女の言う通り、侍女頭と二人きりで行う作法の補講は辛いものがあるのだが、すべきことが何も与えられないより遥かにいい。
本当ならばティティアンナともう少し雑談を楽しみたいところだが、作法の勉強へ向かうにも支度がある。ダイは立ち上がり、空になった皿を重ね合わせた。
とぽとぽと牛乳を皿の中に注ぎ入れながら、ティティアンナが朗らかに笑う。
「まぁ、心配しなくてもそのうちちゃぁんと問題が起きるわよ。早ければ今日ぐらい」
「不吉な予言やめてくださいよ」
げんなりしながらダイは呻いた。
問題は起きて欲しくない。何事もありませんようにと心の底からダイは祈った。最近は就寝前と朝方に、平和を主神に願うことが日課となりつつある。
しかし神は残酷だった。
ダイの真摯な願いもむなしく、ティティアンナの予言はその日の昼下がりを以って、見事に的中することとなったのである。