第五章 錯綜する使用人 7
術の調整に、以前はメイゼンブルから派遣された魔術師が三人一組で取り組んでいたらしい。貴族の屋敷らしい広さの敷地の中に組み込まれた魔術の仕掛けの数は、本来ならば一人でこなすには手に余る。とはいえど、アルヴィナにとってすればそう難しいことでもない。集中して取り組むこと五日、作業もようやく終わりに近づいていた。
優先すべき術の調整にある程度めどがついたところで、併せて注文を受けていた水道のそれに取り掛かる。
(こういう調整も出来なくなったのねぇ)
感慨深くため息をついて、アルヴィナは胸中で独りごちた。朋友の言うとおりだ。世界は急速に変わりつつある。
ミズウィーリ家の屋敷に張り巡らされた水道は、五百年ほど前に滅びた機械の王国(クラフト・クラ・フレスコ)製のからくりを併用した術だった。長年調整されぬ間に、地下水の流れと水深が変わってしまったのだろう。〈保持〉の術を掛けられたからくり自体は生きているが、肝心の水を汲み上げる術式が無意味と化している。
「ごめんなさぁい。今こちら入っても、大丈夫かしら?」
扉の開け放たれた入り口から顔だけを出して、アルヴィナは厨房を覗き込んだ。食器や調理器具、食材といったものが所狭しと並ぶ空間には、小柄な小太りの男が一人。彼と何事かを相談している青年と中年の婦人が一人。
「なんだ? ここになんの用だ?」
アルヴィナの声掛けに応じて、小柄な男が前に進み出てくる。雰囲気からして、彼がここの責任者だろう。
「ハンティンドンさんから伺ってないかしら。魔術の術式の調整をさせていただいているアルヴィナです」
「あ……あぁ。うん。あんたがそうなのか」
五日も寝泊りしていれば、使用人の大半とは既に顔見知りだ。しかし厨房師たちとはまだ面識を持っていなかった。肉厚の手を差し出して男は笑う。
「厨房長のグレインだ。……で? ここに何の用事が?」
「もちろん、魔術の仕掛けの調整に。そちらの流しを見させていただきたいのだけれど」
厨房の一角を占める流しの中には、鍋や皿が積まれている。その隣には水瓶と井戸。それらを一瞥したアルヴィナに、グレインと名乗った男は頭を掻いてアルヴィナを奥へと導いた。中年の婦人が彼の傍らから顔を出し、人の良さそうな笑みを浮かべて口を挟む。
「椅子か何か持ってこようか?」
「いいえ。大丈夫よありがとう」
彼女に微笑み返して流しの前に立つ。壁には飾りと化した蛇口が据え付けられている。その周囲には、細かく掘り込まれた魔術文字。
腕を伸ばし、アルヴィナは指で文字をなぞった。即座、宙に展開される陣。定義解除を求められる。文字を動かしながら、鍵を外す。術式が現れる。
予め手に入れていた地下水の流れの地図を見ながら調整を行っていると、物珍しそうな表情でグレインが作業を覗き込んできた。
「はぁ、魔術の調整ってそんな風にするのか」
「ご覧になられたことはない?」
「前に魔術師がこのお屋敷に来たときは、外回りだけだったからこっちまで来なかったんだ。だから見る機会がなかった。あんたさんは一体何の魔術を調整してるんだ?」
「水道ですよ。これが調整できたら、井戸から水を汲み上げる必要がなくなるわねぇ」
「それは本当か?」
アルヴィナは術式から目を離さぬまま頷いた。
「えぇ。本当よ」
「すごいな」
グレインは腕を組み、いたく感心した様子で首を幾度も縦に振った。
「水道が使えるようになれば楽だなぁ。みんなも上の階にいちいち水を運ばんでよくなる。あれは疲れる仕事だからなぁ」
「ろ過の術が動くようにしておきますから、水を汲み置く必要もなくなりますよ」
「そいつぁ……場所が広くなるな」
アルヴィナは流しの傍らに鎮座する巨大な瓶を一瞥した。縁に魔術文字が刻まれたそれは、一般家庭でも普通に見かける貯水用の水瓶だが、設置にかなり場所を取る。
「正直いやぁ、外からくる魔術師ってどんなもんかと思ってたんだが、たいしたもんだなぁ。城のやつに頼んでも、来てくれさえしなかったのに」
女王が不在の間、城に勤める者たちはよほどのことがないかぎり不干渉を決め込むようだ。たとえ依頼の相手が上級貴族だとしても。
「それにしても」
城の魔術師たちの愛想の無さについてぶつぶつと不平を漏らしていたグレインは、ふいに黙り込んで顎を杓ると、小さく唸った。
「同じ外から来たっていうのに、ダイとはえらい違いだなぁ。あいつはあんなに役立たずだっていうのに」
友人の名前を耳にして、アルヴィナは手を止めた。知れず、眉をひそめる。
「……どういう意味?」
思いのほか唇から漏れた声音は低く、自分自身を驚かせたほどだった。問いの矛先を向けられたグレインはこちらを怒らせたと思ったのか、慌てた様子で言葉を取り繕う。
「あ、あぁ……そうか、あんたダイの知り合いだったって」
「私がこのお仕事を頂戴できたのも、あの子を通じてなのよ。友人を貶されて、あまりいい気分はしないかしら」
不要になった陣を乱暴に閉じて、アルヴィナはグレインに向き直った。
「あの子はとても腕のいい顔師だと、私の知り合いは声を大にして主張するし、私もその通りだと思うのだけれど」
ミズウィーリ家に滞在中、時間を見繕って一度ダイに顔を触ってもらった。ミゲルが太鼓判を押し、ヒースが保証し、ティティアンナが褒め称えるダイの腕は、アルヴィナの目を通しても確かなものだ。自分が戯れに作った品々が、ダイの手にかかるとあそこまで人を美しくする道具になりえるのかと感動したほどである。
「なのにどうして役立たずなんていう言葉が出てくるのかしら?」
「だ、だってそうだろうが」
抑揚のないアルヴィナの声音に気圧されたのか、グレインは呂律の上手く回らぬ舌で反論する。
「ダイはマリア様を怒らせたんだ。だからずっと暇してるんだろう。大体、マリア様の肌がどうのこうのとか言って、こっちの仕事にまで口を出してくる」
続けてグレインは、ダイがどのように彼の仕事に関ったのかを、唾棄する勢いでアルヴィナに語った。化粧を施す主人の肌の状態を見て、ダイはグレインが出す献立に、注文をつけることがあったという。
「あいつに、一体料理の何がわかるっていうんだ?」
「ダイは別に貴方の料理を貶しているわけではないでしょう。敬意を持って、ただ頼んでいるだけじゃないのかしら。ダイが言っているのは、栄養学のことよ」
アルヴィナの言葉が理解できぬのか、厨房長は顔を歪める。アルヴィナは舌打ちしたくなった。どうやら魔術だけではなく、学術的なことも世界から消えつつあるらしい。
「知らないの?」
料理に携わるものが、栄養学を知らぬとは。
蔑んだわけではない。しかしつい零れた問いには、そのように男の耳に聞こえたとしても仕方がないような、暗澹とした響きが宿っていた。
グレインの顔が、さっと朱に染まる。彼は震えた声で叫んだ。
「きさま!」
「ダイ! 丁度いいところに!」
作法の講習からダイが解放されたのは、昼を少し回った頃である。昼食を取ろうと控えの間へ歩いていたところを駆け寄ってきたリースに腕をとられ、ダイは目を剥いた。
「ど、うしたんですか?」
「あんた、責任取りなさいよ!」
「え? 何の?」
ダイを引きずるようにして階段を駆け下りながら、リースは答える。
「あんたが連れてきた魔術師とグレインが、厨房で口論してるって」
一体何が理由でアルヴィナとグレインの二人は衝突したのか。厨房に到着したダイにそれを説明できる者は誰も居なかった。最初から現場にいたらしいグレインの助手たちも、蒼白な面持ちでおろおろとするばかりである。野次馬と化した使用人たちにより、半ば突き出される形でダイが厨房に足を踏み入れようとしたまさにその時、興奮した様子のグレインが飛び出してきた。
「ダイ!」
こちらの姿を認めた厨房長は、ダイの姿を認めるや否や、肩口を両手で乱暴に掴みあげてくる。
「お前、役立たずなだけでなく、こんな女をうちに引き入れやがって!」
「っつ」
痛みに渋面になったダイは、グレインの肩越しに駆け寄ってくるアルヴィナを見た。怒り心頭という様子のグレインとは対照的に、彼女はひどく冷静な面持ちだった。
「ちょっと止めなさいな。ダイは何も関係ないでしょう?」
その冷めた制止の声音が、なおさら男の怒りを掻き立てたらしい。ダイを突き飛ばし、グレインはアルヴィナを振り返る。
「五月蝿い!」
体勢を崩したダイは数歩背後によろめき、壁際で尻餅をつく形となった。強かに打ちつけた腰から這い上がる痛みに意識が霞む。展開についていけず、視界に散る星の向こうで繰り広げられる口論――グレインが一方的に喚きたてているだけのようにも思えるが――を眺めていたダイは、差し伸べられた手に瞬いた。
「ダイ、大丈夫なの!?」
手の主を仰ぎ見る――ティティアンナだ。
「はぁ、大丈夫です」
ダイの隣に膝を突いたティティアンナは、血の気の引いた顔でダイの顔を覗きこんだ。
「貴方今かなり痛かったんじゃない? 腰ものすごく強く打ったでしょう。頭は大丈夫? 窓枠にぶつけてたみたいに見えたけど」
「頭は打ってないですよ」
背中はぶつけたが、騒ぎ立てるほどの痛みはない。ダイはティティアンナを安堵させるために微笑み返した。
ティティアンナは悲痛そうな面持ちで息を詰める。そして立ち上がった彼女は、衣服の裾を翻してグレインに轟然と歩み寄った。
「ちょっと! グレインさんいくら腹立ってるからってこんな子乱暴に扱うとかってどういう神経してるの!?」
「ティティ!」
グレインに食って掛かったティティアンナに、ダイは驚きから瞠目して立ち上がった。
「ティティ、ちょ、大丈夫ですって!」
「大丈夫じゃないでしょう! 前にも言ったけどダイは怒らなさすぎよ! ちょっと下がってて!」
「ティティ、お前俺らとこいつらどっちの味方だ!?」
「こっちもあっちもどっちもないわグレインさん。私は道理の通っているほうの味方よ!」
グレインの詰問に噛み付くように返答したティティアンナは、厨房長と魔術師、そして使用人たちをぐるりと見回す。
「なんなのあんたたち。マリア様たちにびくびくしてる鬱憤を、こんな子にぶつけるなんてどうかしてるわ!」
「ぶつけるも何も、全部きっかけはこいつのせいだろうが!」
「でもマリア様がわがまま放題なのは、ずっと周りにいた私たちのせいよ!」
「それで首にされろってか!? 俺は親父や爺さんやひいじいさん、ずっと前からこの家で働いてるんだぞ!? ここを出て俺たちはどこに行けっつうんだ!?」
「そんなの私も同じよ! でもマリア様には旦那様や奥様がいないんだから、私たちが諫めてあげるべきだったんだわ! 違う!?」
グレインと比べると、ティティアンナのほうに少しばかり上背がある。彼女は腰に手を当て、文字通り男に上から言葉を浴びせかけた。
「私、恥ずかしかった」
喉を詰まらせる男に、ティティアンナは腰から手を離し、拳を作って主張する。
「新しく入ってきたばっかの、しかもこんな若い子に、私たちが言わなければならなかったことを言わせてしまっただなんて、私は大人として、すごくすごく、恥ずかしかった」
彼女の指先を握りこむ手に、力が込められる。静まり返る廊下。誰もが息を詰めて、興奮に肩を震わせるティティアンナを見つめている。彼女が今にも泣き出してしまいそうに思えて、ダイは彼女に手を伸ばした。
しかしその指先は、ティティアンナに触れぬまま強張り止まる。
「そこまでにしなさい」
氷の刃を思わせる冷えた硬質の声。
ダイは手を引っ込めて、声の方向を振り返った。
「ハンティンドンさん……」
足音もなく廊下を滑るようにして、真っ直ぐにこちらへと向かってくる女は侍女頭だった。眼鏡の奥の瞳は逆光で見えない。しかし他者を拒絶する眼差しは、いつもにも増して険を宿しているように思える。
彼女の斜め後方を、ヒースと侍女の一人が付いて歩いている。自分を呼びに来たリースと同様、彼女もまた侍女頭と当主代行を呼びにこの場を離れていたのだろう。
輪を作っていた人々が彼女らのために道を開ける。数歩距離を開けて立ち止まったローラは、ダイを軽蔑とわかる眼差しで一瞥した。
「また貴方ですか」
違うと主張したいが、完全に自分のせいではないとも言いきれない。ダイはローラを見つめたまま口元を引き結んだ。騒ぎの発端であるアルヴィナとグレインも押し黙っている。グレインはともかく、アルヴィナが沈黙を守っているのは、これ以上口を開いても余計に騒ぎが大きくなるだけだと踏んだからだろう。
ダイに代わって、ティティアンナがローラに反論した。
「違う。ダイのせいじゃありません」
「ですが話を聞いていると、そこのアルヴィナ嬢とグレインが最初に口論になったのは、ダイの話題だったと聞きましたが?」
違いますか、と尋ねるローラに、グレインは首を幾度も縦に振り、アルヴィナは不快そうに目を細めて肩をすくめただけだった。
「そもそもそこの魔術師を紹介したのもダイでしょう」
「ちが」
「ティティアンナ」
あくまで静謐さを感じさせるローラの呼びかけは、叱咤同然だった。
顎をそらし、前で手を重ね合わせたまま、初老の女は部下に言う。
「貴女は今まで一番若年だった。年上の風を吹かせたいのはわかりますが、ダイを庇い立てするのはおやめなさい。貴方に何も利益はありません」
「わた、そんなつもりじゃ……!」
「わかりました。それでは貴女も職を辞しますか?」
淡白な問いかけ。しかしその言葉の意味は重い。ティティアンナが驚愕の眼差しでローラを見つめる。一方のローラは、糾弾するようなティティアンナの眼差しに少しも動じることなく淡々と言葉を続けた。
「ただでさえ忙しいこの時期に、屋敷の空気を乱す者はいりません。選びなさいティティアンナ。安い正義感を振りかざして路頭に迷うか、それとも今まで通りミズウィーリ家に尽くすか」
選択を突きつけられ、ティティアンナが青ざめる。先ほどの威勢は見る影もなく、黙り込んだ彼女は唇を戦慄かせたまま、視線をゆっくりと動かした。
彼女の鳶色の瞳に自分の姿が映りこむ様を見つめ、ダイは微笑み返してやった。これが、現実だ。ティティアンナが職を選ぶことを当然と受け止め、恨まないという意思を笑みに載せて伝えたつもりだったのだが、彼女はますます顔から色を消してその場に立ち尽くすばかりだった。
「貴方にも納得していただきますよ、リヴォート様」
嘆息を零したローラが、背後のヒースを返り見る。
「ダイは解雇いたしますよ。これ以上火種を撒き散らすことを見過ごすことはできません」
「ダイが残ることはマリアージュ様の意向ですよ、ローラ」
ヒースの声も、かつてないほどに冷ややかなものだった。しかし彼の発言をローラは鼻で嗤う。
「あの方は何もわかっていらっしゃらない。今が大事なときです。だからこそ、他でもない私たちが、あの方に不要なものを遠ざけて差し上げなければなりません」
断言したローラはダイを睥睨した。卑しいものを見たとでもいうように顔をしかめ、彼女は言葉を吐き捨てる。
「だから門の向こう側からなど、人を入れるのは嫌だったのだわ。こちら側の道理を、何も理解していない」
「その言葉は聞き捨てなりませんね」
ローラの視線を遮るようにダイの前に回り込んだヒースが、彼女と対峙した。
「それは私への皮肉ですか? 私も門の向こう側の人間だ」
ヒースが後ろ手に、力強くダイの二の腕を握りこんだ。男の背後に押し込まれ、ダイは思わず彼の背を仰ぎ見る。
無論、この位置からだと表情は窺い知れない。しかし声は彼にしては珍しく、怒気を孕んでいるように思えた。
「火種を撒き散らす、という表現も感心しませんね。貴方のいう火種とは誰のことですか? アルヴィナのこと? けれど彼女は、貴女も納得の上で雇ったはずです。そもそも調整のための魔術師がいたらと最初に漏らしていたのは貴女だった。ダイは紹介したに過ぎない」
「確かに一度は納得しました。それは認めましょう。しかし考えを改めます。やはりどんな理由があったとしても、門の外からなど、人を雇い入れるべきではなかった。新しい風が必要だと、亡き旦那様はおっしゃっていましたが――……風など、貴方お一人で十分です。リヴォート様」
「あなたは」
「ヒース」
反論しかける男に、ダイはいつもの敬称を忘れて呼びかけた。ちらりとこちらに視線を寄越す彼の手を握り締め、訴える。
「もういいですヒース」
「ダイ」
「ちょっと手、離してください」
「ですが」
「これは、私の問題です」
きっぱりと宣言し、ダイはティティアンナとヒースを交互に見つめた。自分のために憤ってくれることは嬉しいが、蚊帳の外に置かれることは納得がいかない。自分が、当事者なのだから。
ヒースが困惑の様相で、ダイの腕から手を離す。大きな手。初対面の際に握手を交わしたときは、他人を拒絶しているかのように冷えた手だと思ったものだが、今は不思議なことに、彼の手のひらに安堵を覚える。
ヒースの手は、何かを庇護するための手だ。だからダイに安心感を抱かせる。だがそれはマリアージュの為のものであって、自分の為に使われ、彼がミズウィーリ家の他の者達と対立するようなことはあってはならない。ティティアンナも同じだ。彼女にとってここは家も同然だろうに、自分のせいで彼女が追い出されるようなことになったとしたら、逆に気分が悪い。
アルヴィナに目配せを送る。余裕ある面持ちながらも、彼女はこの状況を招いたばつの悪さからか、苦笑をダイに返してきた。
ダイは、ヒースの横に並んだ。侍女頭を正面から見据える。彼女に言われるまでもない。これ以上、この屋敷内部の雰囲気を壊したくないと思っているのは、こちらのほうだ。
以前、マリアージュに願い出たときと同じように、辞職を請うために口を開きかけたダイは。
「あんた達、これは何の騒ぎよ?」
この家の女主人の声を聞いた。