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70 晩酌

 いつものことだが、エイが最初に酔いつぶれた。
 意識を失ってどれほどの時が経ったのか、エイが重い瞼を押し上げたとき、右僕射と女官長はまだ酒を酌み交わしていた。彼らはエイをこの席に呼んだ張本人。右僕射はまだわかるが、女官長も一見そう見えずとも酒豪で、二人とも涼しい顔をして淡々と酒瓶を空けていく。長椅子に横になったまま、エイは黙って彼らの横に並ぶ銚子を数え――……眩暈を覚えた。
 エイの身体には仮眠室から持ってきたのだろう毛布が掛けられている。酒も手伝ってか身体は温かく、心地よい気だるさに抱かれていた。起き上がることが億劫で、エイは薄く開けた瞼の隙間から二人の姿を見つめた。起きたことを告げることもしなかった。
 と、いうのも。
「しかたねぇなぁ、エイの奴は」
 他ならぬエイ自身が話題に登っていたからだった。
「溜め込みすぎなんだよ。まったく、酔っ払っても自制心が強すぎらぁな」
 卓を挟み、向かい合って腰掛ける男女の姿が、ランタンの明かりに透けて見える。
「お酒を口にして簡単に正体をなくすようでは困りますよ」
 イルバもシノも、かなり声量を落としていた。エイを起こさぬ為にだろう。
 女官長の白い手が雅に銚子を傾け、右僕射の手元の杯を酒で満たす。
「それにしたってなぁ、俺達の前でも弱音吐く前に酒で酔いつぶれるほうが先ってどんだけだよ」
「弱音を吐くことのなかなかできない立場にいらっしゃいますからね」
 やはり、この席は自分の為に用意されたものだったか。
 エイは瞼を閉じて、細く、息を吐いた。近頃仕事が立て込み、ろくに休みを取らぬ自分を彼らが案じていたことは知っている。ただ休めというだけでは、自分が書斎から離れぬことも彼らは熟知していた。この席は、エイを執務机から引き離す口実だった。
「ヒノトが定期的にでも戻ってきてくれりゃぁなぁ」
「ヒノト様は戻られませんよ。おそらく、最後まで」
 女官長の言う通りだった。ヒノトは戻らない。そのことに少し胸が痛む。エイが後見する少女は、相談なく学院へ住まいを移してしまった。都からは馬車で七日以上の道のりである。何故断りもなく、と初めは憤った。
 今はあちらでの生活がただ穏やかであってほしいと祈っている。というのも、戻ってくるという確信があるからだ。彼女は、戻ってくる。この腕の中に。
「どいつもこいつも、もうちょっと弱音吐きゃいいのに自分で解決しようとするからなぁ。こっちが落ち着かねぇよ」
 やれやれ、と右僕射は呻きながら酒を呷る。
「一人で解決できることを求められた方々ばかりですから。慣れぬだけですよ。甘えることに」
「不器用なこった」
「あら、人のこと言えますの?」
「その言葉、そのままそっくりお前に返すぜ」
 密やかな笑いが、部屋を満たす春の緩慢な空気を揺らした。月明かりばかりが美しい宵闇にぼんやりと浮かび上がる枝には、みっちりと薄紅の小さき花が咲き乱れている。春特有の強い風がぎしぎしと木々を揺らすたび、その薄紅の花弁のひいらりひらり舞い上がる様子が窓に映った。
「そういやラルトの奴もそろそろ休ませなきゃな。毎日あんなに遅くちゃ姫君の寝顔ばっかでつまらねぇだろ」
「そうですわね。あぁそうそう、この間、レンたちがアムロの方へ湯治に行っていたのですけれど」
「あぁ、そういやエイが言ってたな」
「そこのお土産話を聞いて、姫様が行きたがっていらっしゃいましたわ」
「なるほどなー。あ、じゃぁ近々ドーティオーテの視察行ってこいって蹴り出すか」
「蹴り出さなくてもよろしいですがそれとなくカンウ様に進言しておいてくださいませ」
 進言されるまでもない。エイはドーティオーテの視察を、どのようにすれば自然に皇帝と交代できるかぼんやり考え始めた。都内の予定を近くに入れて、皇帝の予定を引き取ってしまえばいいか。
「閣下はいかがですか?」
「あぁ、わるかねぇよ。最近そこまで主だった折衝がないからな。シファカはどうだ?」
「えぇ。最近は査定時代のお仲間の方とよく外に出ておいでですよ」
「そりゃぁジンが寂しがるな」
 はは、と右僕射は笑って、次は、と女官たちの様子を女官長に伺う。女官長もまた、左官や右官たちの話を聞きだしていた。
 最近あの子たちってば恋人探しに余念がないみたいで。知っていました? 桜の木に結ぶおまじないの話。あぁ、なんだそれ。あぁそういや若いやつらがそわそわしてるのは。実はですね、朔の日が。へぇ、そんなことになってんのか。でも賑やかになっていいことですこと。これからめでたい話も増えるだろうし、もう少しちびたちの面倒を見れる人間増やしたほうがいいな。俺が内政に干渉するのもどうかと思うが。わかりました、では私から陛下に進言して。そうだな、そうしてくれ。私の方でもそれ用の者たちを雇い入れることができるように下準備を。そういや話変わるがな、キリコたちが。あの子たちってば相変わらずですのね。あぁ、私も話変わりますが、先日庭師の方々が――……。
 酒を傾けながら、笑いさざめきつつ、二人は宮城の人々の様子を確認しあう。
 その声音は穏やかで、そして心に温かかった。
 いつの間にか、また眠っていたらしい。かたん、という陶器の触れ合う音にエイは薄く瞼を上げた。今日は店じまいか。二人が銚子と酒瓶を片付けている。
「あらいけない。私、酔い止めのお薬を忘れてきてしまっているわ」
「とりに行って来るか?」
「えぇ。すぐに戻ります。薬がないと明日カンウ様が辛そうですものね」
「明日の朝は余裕あるけどな」
 皇帝と宰相はそれぞれ都を離れていて、朝議もない。珍しく午前の予定が互いに空いている。だからこそ、右僕射はエイをこの席に誘ったのだろうが。
「お酒を勧めすぎたかしら……」
「いいんじゃねぇか? こんだけ酒入ってりゃ、よく眠れるだろうよ」
 いつの間にか傍近くにいた男が、エイの頭をぐしゃりと撫でる。それはいい大人に対してするような仕草ではなかったが、腹は全く立たなかった。むしろ父という存在が記憶から欠落しているエイに、あぁ、きっとこういうものなのだろうという理解を抱かせた。
 微かな酒の香り。ランタンの揺らめく明かり。毛布の柔らかな温かさ。そして、全てを取り巻く春の気配。
 なんだか笑い出したくなりながら、エイは再び深い眠りの中に落ちていった。