
71 いさかい
執務机を挟み、ダイとヒースは一歩も引かぬ姿勢と取った。
「だから、今日は休ませなければなりません!」
「今日は休ませるわけにはいかないんです!」
両者に叩かれた机から、あやうい均衡で積み上がっていた書類の束がぐらりと落ちる。それを寸でのところで押さえつけ、ヒースは溜息を吐いた。
「ですから」
椅子に乱暴に腰掛けながら、彼は呻く。
「今日は休ませるわけにはいかないんですよ。女王候補全員が集うんですから。マリアージュ様だけ欠席するわけにはいかない」
「それはわかりますけど、でも今日休ませなければこじらせます! 顔だって真っ赤で一発でお熱あるってわかりますし」
根を詰めすぎていたのか、マリアージュが体調を崩した。しかし今日はよりによって昼から夜まで女王候補が主賓の会がたて続けに入っている。他の会ならともかく、どちらも女王候補の生家からの招待だ。欠席するなどもってのほかだった。
ここで休まなければマリアージュの体調不良は長引くだろうし、休めば女王選の痛手となる。どちらも正しく、そして妥協できなかった。
ヒースは冷やかに言った。
「体調不良がわからぬように顔を作ってください。これは貴女の仕事です。ダイ」
「……かしこまりました、リヴォート様」
ダイは慇懃無礼に一礼して、踵の音高々に執務室を去った。
扉を閉じる間際、馬鹿! と盛大に悪態をつくのは忘れなかった。
その声は悔しさ滲んで掠れていた。
(そりゃわかりますよわかりますけどあんなふうに命令しなくたっていいじゃないですか)
ヒースの言い分はわかる。理解もできる。だからこそ余計に腹立たしい。
「いいわよやるわよ」
ダイが戻ると、先ほどまで寝台の中でぐずぐずしていた主人も、諦め顔で身を起こした。
「まさかホントに言いに行くとは思わなかったし」
「そりゃ言いに行きますよ」
花街では些細な体調不良が死に直結する。貴族の方が薬は簡単に手に入るとはいえ、例外ではないはずだ。そうなれば女王選どころではない。
「で、なんて言われたの?」
「マリアージュ様の体調不良がわからないように化粧しておけって言われました」
頬を紅潮させたままぷりぷりするダイに、マリアージュは可笑しそうに声を立てた。何を笑いたくなるのかさっぱりわからない。
椅子に腰かけたマリアージュの髪を化粧の邪魔にならぬよう纏めていく。ティティアンナがマリアージュの膝を繊毛のひざ掛けでゆっくり覆った。
「衣服も露出の少ない温かでゆったりとしたものにいたしましょうね」
「任せるわ……」
「化粧の最中寝ていてくださって大丈夫ですよ」
(こうなったら、本当に体調不良がわからないようにしますよ!)
化粧師としての意地だった。
マリアージュの気合もあって、一日は何事もなく過ぎた。
むしろいつもよりも大人しいと、紳士たちに評判が良かったほどに。
一日の行事を終え、マリアージュの化粧も手入れも終わり、ふらふら自室へ向かう道すがら、ばったり代行の男と鉢合わせした。
「……おつかれさまです」
掠れた声で挨拶を述べ、男が通り過ぎるのを待つ。
だが彼は怪訝そうに目を細めると、ふいにダイの額に手を伸ばした。
「……っ、なんなんですか?」
「……もしかして、貴女、ずっと熱があったんですか?」
発熱した額に男のひやりとした手が心地よい。
が、朝の一件をまだ根に持っていたダイは、その手を振り払って低く呻いた。
「だったらなんです?」
「……でも朝は」
「体調不良がわからないように化粧をしてただけです。自分の顔にも」
怒りで熱が上がると、顔が赤らんでしまうのは仕方がなかったが。声も一日中掠れっぱなしだった。ダイを少年と勘違いしている使用人たちからは、とうとう変声期か、と尋ねられるほど。
「ディアナ」
こんな時ばかり、名を呼ぶのは、卑怯だ。
鼻の奥に詰まる熱を感じながら、ダイは吐き捨てた。
「離してください私眠いんですから」
礼を失していることはわかっている。しかし理由もなく距離を隔てられるようになり、日頃堪えている鬱憤が、堰を切ったように溢れて止まらなかった。友人という立場を捨て、あくまで上司と部下の立場にこだわるというのなら、徹底していてほしかった。甘い言葉はいらないのだ。
そうでなければまた。
男の冷たさに傷つく。
伸びてきた男の手をもう一度拒絶し、一礼したダイは、就寝の挨拶を述べてその場から逃げるつもりだった。
「お休みなさいませ。リヴォートさ、まっ!?」
が、身体を襲った浮遊感に、言葉の語尾が裏返る。
男の腕が、ダイの身体を抱き上げている。
その肩が、ダイの目の前にあった。
「リヴォート様!」
「寝ててください。運びますから」
「結構です!」
「静かに。声が響きますよ。皆を起こしたいんですか?」
「貴方が下ろしてくださればいいだけの話です!」
「本当にうるさいですね。口を塞がれたいんですか?」
布を突っ込みますよ、との、剣呑な脅しにダイは唇を引き結んだ。
「リヴォートさま、わたし、ちゃんとあるけます」
ヒースの腕は、しかとダイを横抱きに抱いている。背に回された手の指先が、首筋の肌にそのひやりとした温度をダイに伝えていた。
「……ヒース」
「ディアナ」
ぽん、と子をあやすように、その手がダイの背を叩いた。
「もう寝なさい」
微睡みを連れてくる掠れた声は、独特の甘さを宿している。
男は唇の動きだけで、すみません、と呟いた。それが今朝の諍いを示しているのか、彼が冷えた態度をとり続けることへの詫びなのかはわからなかった。
ダイはヒースの首に腕を回して縋り付いた。頬を付けた男の首は体温高く、発熱するダイの肌と溶け合うようだ。
最後の最後で、彼はやさしい。
ざんこくなおとこだ。男の背に一瞬だけ爪を立て、ダイはことりと意識を落とす。
震えた瞼から、透明な滴がひとかけら零れ、男の指がいとおしげにそれを拭った。