
70 立花が咲く
「霞さん」
都のはんなりとしたイントネーションで呼びかけられても、雪はそれが自身のことだと認識することができなかった。
「霞さぁん」
二度目はことさら柔らかく、優しげな響きをしていて、その独特の苛立ちの表し方が、ようやっと雪に女の存在を気づかせた。
箒で玄関先を掃く手を止め、身体を起こした雪は驚きに目を丸くした。結城紬の上に輪奈ビロードの黒が美しい黒の道行と、えんじ色のファーショールを重ねた婦人である。年は雪より十、年上。最後に顔を合わせてから優に二桁の年数がたっていたが、すぐにわかった。
「しずか姉さん……」
雪之丞静は雪の異母姉のひとりである。
雪が生家たる雪之丞家を出るきっかけとなった義母の三番目の娘だった。
雪が名を呼ぶと、静は険を和らげて小首をかしげる。
「あら、姉とわたくしを呼んでくれはるんやな、霞さん」
「ドウゾ」
音もなく華が静の前に茶を置いた。ただしのその挙措は彼の日頃のそれからは考えられないほど乱暴だった。この場に朔がいれば――しばらく同居人だった彼女は結婚していまは結婚して一駅離れたマンションで暮らしている――驚きに転がってしまうだろう。雪のパートナーである華岡真純はへらへらしているようでいて、動きはいつも繊細で丁寧なのである。
「ゴユックリ」
雪が異母姉とふたりにしたほしいと予め頼んでいたので、華は眼光鋭く静を一瞥して退き、起坐で一礼したのち、客間の障子をしゅっと閉じた。
店に出る引き戸の音がしたので、本当にふたりきりにしてくれたようだ。
「お茶をどうぞ、姉さん」
寒かったでしょう、と雪が促すと、静はほうじ茶の入った器をゆっくりと取り上げた。
「えぇ香り。どこのん?」
「金沢です」
「あぁ、棒茶ね」
「すみません。玉露とかお抹茶とかは、うちにはおいていなくて……」
「そないに心は狭ぁあらしません。……おいしいわ」
一口つけたあと、ふっと息を吐き、静が表情を緩ませる。
それでも雪は落ち着かなかった。灯油ヒーターをつけたばかりの部屋はまだ寒くて、なのに背に冷や汗すら感じてしまう。
「そないに緊張せんでよろし。用事を済ませたらすぐ帰りますえ」
「……ここの住所はご存知だったんですね」
「勇作おじさまに教えていただきました。……おじさまはお元気?」
「えぇ。ゴルフに熱中しておられますよ――お会いになったのでは?」
「便りのやり取りだけです。……勇作おじさまも雪之丞とはそないにかかわりを持ちとうなかったんやろ」
勇作は雪之丞家と縁深い古い家の元当主である。御年七十越えだが手広く事業を行うかくしゃくとした老人で、雪と華のこの店を支度し、最初の客たちを紹介してくれたのも彼だった。雪の恩人中の恩人だ。
「母が亡くなりました」
唐突に静が言った。雪は瞠目した。
彼女は顔色を変えず静かに茶碗を傾けている。
「……いつ?」
「四十九日はすみました」
「僕に……戻ってこいと?」
「まさか。戻ってきてもえぇですよ。ご当主(おとうさま)は心待ちにしてますからね」
「戻りませんよ」
「わかってます。でも、菫さんのお墓ぐらい参りたいのではなくて?」
菫は雪の実母である。
十六で嫁ぎ、十年、子ができないことに悩み続け、そしてある日、夫の十数年にもわたる裏切りを知った。
雪を生み、物心つくころに儚くなった母。
雪之丞家の当主には本命の女がいた。家の外で三人の娘を設けていた。菫がなくなってすぐ、その女と娘たちを雪之丞家に引き入れ、もろもろあって、雪は勇作の手を借りて家を出たのだ。
「ほかの姉さんたちは?」
「蘭はイギリスにいます。旦那さんがえぇひとで、ずいぶん丸くなりました。遭ったとしても昔のようなことにはなりませんやろ。泉はねぇ。いまは雪之丞からは締め出されてます。ご当主と母にいちばん似たんは、泉やったねぇ」
雪之丞の実質の当主は静だという。
「……家に寄れとはいいませんから、菫さんのとこに顔ぐらい出して御上げなさい。墓を移したいんやったら、手続きします」
静は利休鞄の中から名刺入れを取り出し、一枚の紙をすっと雪へと滑らせた。
聞き覚えのない会社名、役職名と、静の名、住所、メールアドレスが並ぶ厚手の和紙の隅に、手書きで携帯電話の番号が記載されていた。
雪が名刺を確認している間に静がぐるりと室内を見回す。
「えぇ部屋やね。椿もえぇように生けてはるわ。静さんが生けてはるの?」
「はい。掃除も僕が」
「真純にさせへんの?」
「ふたりでします。彼は使用人ではありませんから」
家事はすべて分担する。仕事も二人でしている。人生を分け合っている。
「うらやましいこと」
ふぅ、と、姉は息をついて立ち上がった。
「ほな、お暇します。お茶、ごちそうさまでした」
「あ、雪ちゃん!」
姉を玄関に送る途中、赤ん坊を抱えた朔に廊下で鉢合わせした。どうやら来ていたらしい。
「失礼いたしました! お客様?」
「もうおいとまするところですから、おかまいなく」
姉がことさら優しい声で朔に言った。
「お先に失礼いたします……。雪ちゃん! 華ちゃんにも言ったんだけど、ちょっと奥の部屋をお借りします!」
ふやぁああ、と、泣き始める赤子とマザーズバッグを抱えて、朔が廊下を走る。あれはおしめ替えだな、と、雪は苦笑した。
結婚して、妊娠して、子供を産んでも、朔はよくこの家に来る。実家みたいに。
朔を見送ったあと、今度は店に続く戸が勢いよく開いた。今度は華が顔を出す。
「ユキちゃん! 朔ちゃんに見せよいうとった、紗綾の袋、どこにしもうた?」
「三番の箪笥の上から二番目です」
「あー、あそこか! ありがと!」
暖簾が翻り、華が店内に戻る。開きっぱなしの戸から、こんにちは、と、なじみの客の声がする。
「悉皆(しっかい)に出してた訪問着、取りに来たんですけど――……」
「にぎやかなこと」
玄関先で静がつぶやいた。
「いつもこんな調子?」
「えぇ。……このあたりは、活気があるんです」
古い商店街の一角に雪の店はある。
ここの商店街は入口のパン屋も人気だし、クラブやら宝飾店やらピアノがやたらめったらうまいバーやらが密集している。
住人も他人の事情には深入りしない、けれども情に厚い人たちが集まっていて、暮らしやすいところである。
「霞さん、雪って呼ばれてはるんやね」
「えぇ」
霞という名前が嫌いだった。父がつけたというからなおさらである。
名前を変えようか、と思っていたころに、朔に出会って、雪と霞の頭文字だけなら、立花(おはな)が咲く名前だね、と彼女が言った。
それからずっと、雪と呼ばれている。
「家の名はそれほど嫌いではありません」
静が次の当主になるというのなら、なおさら。
静は何も言わない。
子どものころからずっとそうだ。表立って味方にはならなかったが、義母やほかの異母姉のように雪を蔑まなかった。
雪の現状を勇作に知らせてくれたのも彼女だとあとから聞いた。
「姉さん」
道行に袖を通す姉に雪は言った。
「お茶を送ってもよいですか?」
姉は驚いた顔をして、一瞬で消える雪の華のようなかすかさで、ほほ笑んだ。