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第三章 鈍さと幼さ 2


「うわぁ楽しそうですねぇ」
「……ウル」
 すべきであるのはその反応ではないだろうと、エイは眉間に手を当てながら肩を落とした。元暗部出身の副官は、そんな過去を臭わせないほどに楽天家だ。その上、こちらが真面目に仕事をしようとすれば露骨に眉をしかめるが、こういった仕事から離れることには諸手を挙げて賛成する。普通逆ではなかろうかと、天を仰いで考えてみなくもないエイだった。
「楽しそうとかそういう問題じゃないよ」
「予定なら大丈夫ですよ? 午後の視察や会食は抜かすことができませんが、それ以外なら」
「そうではなくて」
 だから違うだろうと、エイは副官の言葉を強い語調で遮った。だがウルもけろりとしたものだ。
「以前にも申し上げましたが、カンウ様は働きすぎですので、陛下の目がないときぐらいちょっと息抜きにお仕事から離れてみてもいいんですよぉ」
「子守は息抜きではないと激しく思うけど」
「でももう引き受けてしまったんですよね? それに陛下からの命と全く無関係というわけではないんですからいいじゃないですか。医者が全く見当たらない城で動くよりも、腕のいい医者がいるなら押さえておいたほうがいい。そういう意図での動きでしょう?」
「嘘も方便」
「物はいいようと言って下さい」
 高杯に水を注ぎいれながらしれっと笑う副官に、エイは盛大なため息を落とした。
「それで、頼んでいたほうは?」
「子供たちの護衛のほうですか?」
 高杯を受けとりながら頷く。喉に落とした水は生ぬるかった。
「仰る通り、奇妙な輩が子供たちを監視しているようです。泳がせていますが……どうして気がついたんですか?」
「一緒に薬を売り歩いたとき、薬の値を下げろという暴徒に襲われたのだけれど、妙に手馴れた相手がいて」
「梟ですか?」
「確証はないけれども、その系統であるという感じはしたね」
 侵入者を表す鼠と同じ符号で、梟は夜闇に生きる狩人、暗殺者を意味する。ヒノトに引きずられて薬草を売り歩いていたあの朝のことだ。襲い来る暴徒の中には、不審な動きをするものがいた。動きが度を過ぎて素人臭い。かと思えば、狙いは確実に急所をついている。玄人がわざと素人の真似をし、浮浪者に紛れて襲ってきたと考えるほうが普通であった。幾度か不審な視線も感じた。
「この国では薬師は違法なんだろう?」
 エイはヒノトの言葉を思い出していた。医療の国の名前に恥じぬように、作り出された制度が、かえって新しい医師の登録を阻んでいるという馬鹿馬鹿しい話。
「医師狩りの人間ですかねぇ」
 ウルが思案の呟きを漏らした。
「けれど彼らに得がないと思うんですよね。医師一人狩ったところで、何が変わるものでもない。衛兵も、むしろ医療行為を見逃して、薬に融通をつけてもらうほうが断然いいでしょうし」
「何故あんな子供に」
 梟などがついて、狙いを定めているのだろう。
「それは追々わかることだとは思いますが」
「……だね」
 ヒノトを含む、子供達が狙われ、監視されている理由。それは十中八九、リヒトにある。
 あの白い薬師には、彼女が隠し持つ一振りの古い短剣以外に、まだ何かがあるのだろう。
「何はともあれ、頑張ってくださいね」
 にこりと微笑む側近に、何を、とエイは首を傾げた。
「決まっているじゃないですか」
 子守ですよ、と彼は続ける。
「今のうちに息ぬきを沢山しておきましょうね」
 そう言って晴れやかに笑う側近に、エイは思わず眩暈を覚えた。


「エイ!」
 唐突に視界に逆さで飛び込んできた少女の顔に、エイは驚きのあまり背中から倒れてしまいそうになった。声すらも上げることが出来ずに目を見開いて、幼さを引きずる少女の顔をまじまじと凝視する。その顔は紛れもなく逆さで、天地がひっくり返ったかと一瞬本気で考え込んでしまった。その後、本気で考え込んだ自分を、阿呆だと思い、頭を抱えたくなったわけだが。
「ヒノト。頭に血が上りますよ」
「平気じゃ」
「の、まえに滑り落ちたら危ないですから、縁にいるんだったら降りてきなさい」
 エイが叱咤すれば、ヒノトは不満そうに頬を膨らませながらも、屋根のふちを掴んで落下速度を落としつつ、ふわりとエイの目の前に着地した。相変わらず、身の軽い少女である。彼女はエイの傍らにすとんと腰を落とすと、膝の上に頬杖をついてエイの作業を眺め始めた。
「何をしているのじゃ?」
 問うてくる少女の声音は、不思議そうである。
 子供たちの衣服一抱えを、灰を放り込んだ水で満たされた桶の中でざぶざぶと洗いながら、エイはこちらが問いたい、と思った。
「見てわかりませんか。洗濯ですよ」
 本当に、今一体自分は何をやっているのだろう。思わず天を仰がずにはいられない自分がいる。傍らで洗い終わった衣服を絞るヒノトの表情は怪訝そうだった。
「いやそれはわかるが、何故にお主がやっておるのじゃ?」
「ぼうっと見ているだけというのも、馬鹿馬鹿しいでしょう」
「むぅ。真面目じゃなエイ」
「別に真面目でもなんでもなく、退屈が嫌いなだけです」
「不憫な性分じゃな」
「放っておいてくださいよ」
 苛立ちを込めて衣服の布と布をこすり合わせていると、ヒノトが豪快に傍らで笑った。けらけらけらと、彼女の声は晴れた空によく通る。エイは耳元で弾けた笑いに、嘆息した。屈託のない無邪気そのものの彼女の笑い声は、負っている責務等々のことをエイの頭の中から消し去ってしまうのだ。いつの間にか微笑を浮かべている自分を発見しては、エイは己に呆れ返るしかなかった。
 エイがリヒトに、件の水煙草の成分の分析と、中毒に対する処方箋を依頼した見返りにと頼まれた子供達の世話。
 一人静かであるために、エイを生贄に差し出そうとしたか。子供を相手に頭を痛める自分をみて隠れて笑う魂胆か。どちらにしてもリヒトは非常に意地が悪い。
 彼らは確かに子供だが、子守がいるような年代でもないのだ。よくいえば、護衛代わりなのだろう。
 この場所に通うようになってから、既に数日が経過している。その間、決してエイ自身にも、時間がたっぷりあるわけではなかった。
 実際暇であったのはこの国にきて最初の二日三日だけで、あとは外交の仕事が詰まっている。王との謁見は相変わらず許されないが、この国の視察も公式な手続きにのっとって行わなければならなかったし――さすがに部下にことを押し付けて一人町を散策していました、とはいえない――加えて、役人たちとの会合やら会食やら。政治の討論会もあり、新しく取り立てられた役人たちの講師役も務めるように依頼されている。
 それでもエイが半日程度時間をあけてのほほんとしていられるのは、皇帝が自分につけた非常に優秀――そしてある意味、意識的に問題ありなのではないかと思われる、ウルのお陰だった。
 よってここ最近、エイは早朝から昼過ぎまではヒノトらの元で過ごし、それからは城に戻って仕事、翌日再びヒノトらの元で、ということを繰り返している。正直言って、かなりきつい、予定の組み方だった。城からこの貧民窟へは、距離がある。水路を使えば徒歩よりはかなり時間が短縮されるとはいっても、片道一刻近くかかるのだ。それでもエイは日々リヒトの言いつけ通り、この場所に日参していた。
 子供たちの子守とはいっても、特に何をしたらよいか指定されているわけではない。昼寝でもしていてもかまわないのだが、どうも自分の性分に合わないのだ。他人が働いているなか、自分ひとり惰眠を貪ることなどできない。こんなときは、少しばかり自分の、疲れを引きずってでも何かしていないと落ち着かない性分が呪わしかった。
「エイ、今日も昼までなのか?」
 エイを単なる気ままな旅人と思っているらしいヒノトは、どうしてそんなに忙しいのかと訝しがる。午後からも遊べと頻繁にねだりに来るその姿は子供そのものだった。大人びているのだかそうでないのだかよく判らない娘である。
「昼までですよ」
 最後に洗った衣服を力いっぱい絞りながら、エイは答えた。零れ落ちる灰色の雫が、足元に円形の重なり合った模様を描き出す。その文様はヒノトが土塊を蹴りだしたことによってかき消された。彼女はエイの返答が不満なのか、頬を膨らませて口先を尖らせている。
「つまらないのぅ」
 エイを見上げる彼女の瞳は恨めしそうであった。
「一体何をしているのじゃこの間まではほっつき歩いているだけだったくせに」
「ま、いろいろやることあるんですよ。ヒノト、そちらの服、貸してください。干しますから」
「……妾も行く」
 手を伸ばしたエイから彼女は洗濯物の入った籠を逆に奪い取り、足早に駆け出した。平屋の傍らに平行に建てられた二本の細い円柱の間に、彼女は器用に縄を渡す。エイはヒノトの足元に置かれた籠のなかから洗濯物を拾い上げて、足に叩きつけながらそれを広げた。ぱん、という布のはためく音。絞りきれていなかったらしい雫が、指先に落ちて砕け散る。
「薬草を干していたのではなかったのですか?」
 ヒノトが平屋の屋上で作業をしていたことは知っている。朝から彼女は、屋根の上に広げた[むしろ]の上に、束にした薬草を並べていた。
「とっくに終わったわ。また半刻ほどした後、ひっくり返さなければならぬがの」
「大変ですね」
「別に。あんなもの、人の懐を失敬することに比べれば容易いことよ」
 ヒノトが白い歯が覗かせて自慢げに言うさまに、エイは思わず肩を落とした。
「自慢にはならないですけどね」
「何故じゃ? スリじゃて立派な技能であるぞ」
「胸を張って誇って欲しい職ではないですね。ヒノトは薬師にはならないのですか?」
「リヒトのようにか?」
「えぇ」
 もちろん、と少女は笑った。そして次の瞬間、その笑いは自嘲めいたものに摩り替わっていた。エイは、ヒノトに向き直る。華奢な少女の肩は、諦めのためだろうか、小さく落とされていた。
「なれるものならな」
「勉強しているといっていたでしょう。薬も作れるのでしょう?」
「……ほんの初歩じゃ。薬師になるには程遠いわ」
「初歩でもすごいですよ。私は薬のことなどわかりませんからね」
 御殿医の、リョシュンを思い出す。皺枯れた老人の手が、まるで魔法のように薬を調合していく様を。自分には到底理解できない。魔術も同じくだ。知識はあるが、扱うことはできない。自分にはからきし、あぁいった物事に対する才能がないのであると思う。だからこそ、それを行うことの出来る人間は尊敬に値した。
「本当にそう思うのか?」
「えぇ」
 ヒノトの問いに頷いてやると、少女は満面の笑顔を見せた。
 エイはしわくちゃの洗濯物を広げつつ、機嫌をよくしたらしい少女の言葉に耳を傾けた。少女の声音は鈴を振ったような響きだ。耳障りがとてもよい。
「なら、なら、懸命に勉強すればリヒトのようになれるかのう。そうしたら、薬で金を稼いで皆を養っていけるかのぅ?」
「さぁ。それはどうか判りませんけどね」
 笑いながらそう返すと、少女は頬を膨らませた。
「才能がないと思うておるのじゃな」
「そんなことは誰も言っていません。ただ、未来はわからないといっただけです。ですがヒノトは初歩的な薬なら作れるのでしょう? それを作って売ったりはしないのですか? スリよりもよほど効率のよい稼げる仕事だと思いますが」
「……リヒトがそれを許さん。作れるとはいうても、売り物には程遠いというのが、リヒトの弁じゃ」
「なるほど」
 身内ならばよいが、他人に売るものはきちんとしたものを、という意図か。それともヒノトが人の命に関わるには、まだ早いという意図か。なんにせよ、リヒトは感心できる医者だと思った。真似事ばかりで中身の伴わない藪医者は、貧民窟には吐いて捨てるほどいるというのに。
 それと同時に疑問が残る。彼女ほどの薬師が、なぜこのような場所に腰を据えているのか。
 数日間子供たちに子守の名目で付き合うと同時に、エイは薬師の女を観察してきた。その手際は、何時見ても見事なもの。そして薬の効果はどれをとっても覿面[てきめん]であるようだ。先日、草でうっかりと指先を切ってしまったエイに、リヒトが差し出した血止めの効果は、水の帝国の御殿医が調合したものと寸分変わりがないどころか、それ以上の効果をもたらしていた。
 しばらくの間、布地を叩く音だけが辺りを支配した。時折、風に混じって子供たちの笑い声が聞こえる。元気な子供たちだ。気だるいばかりの貧民窟に、全くといっていいほどそぐわない笑い。エイは物悲しいと思った。そぐわなすぎて、物悲しい。明るすぎるといっていい彼らの笑い声は、暗い未来を体現する大人たちに対する、か細い悲鳴にも似ている。
「あやつらは」
 ヒノトがエイの衣服の裾を不意に引いた。首をかしげながら、エイは少女を見下ろす。彼女は空虚を宿した眼差しで、遠くで笑う彼女の家族を眺めていた。
「皆、口減らしで捨てられていた奴らじゃ。妾が一緒に連れて行くと、リヒトに駄々をこねた。妾が奴らの分まで稼ぐからというて」
 エイの衣服の裾をつかむ手は、青ざめている。ねっとりとした暑さが自分たちを包み込んでいるというのに、彼女の手は氷水に晒したかのように血の気を失っていた。躊躇いながら触れた手は、雪と紛うほどの冷たさを宿して。エイはゆっくりと、包むように握りこんだが、彼女はそれに気付かないのか、唇を震わせて言葉の続きを紡いでいた。
「じゃが結局は、リヒトの稼ぎに頼るしかない。妾の稼ぎなど、小指の爪の先ほどもない。リヒトは少しずつ少しずつ、薬の代金を吊り上げる。貧しき人にも平等に、薬を分け与え治療を施す医者であったのに。妾の我侭が、リヒトをリヒトが望む医の道から遠ざける」
「ヒノト」
「……金がほしいの。みんなが餓えぬ世界ならよいのに」
 ぽつりと落とされた少女の言葉は、エイの胸中に波紋を落とし、広げた。彼女が吐き出した科白は、聞き覚えのあるものだった。
『皆が餓えなければいいのに』
 かつてそう呟いたのは自分自身だった。握り締めていたのは、枯れ枝のように瑞々しさを失った、ひび割れた母の手だった。その肌に水分を与えるように、自分の[まなこ]に握った彼女の手の甲を押し付けたのだ。体中の数少ない水分を搾り出すようにして、涙をにじませていた、自分の目。喉が常に渇き、空腹は空腹であると認識できぬほどに慣れたものになっていたころ。
『皆満たされていたら、きっと他の人に対しても優しくなれますよね。母さん』
 皆餓えているから、呪いを信じるのだと。他者に対して疑心を抱き。他者を容易く裏切り裏切られ。
 母はそうねと頷くこともなかったし、違うと首を振ることもなかった。既に身体には蛆がたかり、見開かれた目は何も映さない。
 優しい世界が欲しいと思った。餓えない世界が欲しいと思った。だから、自分に学ぶ機会が与えられたとき、真っ直ぐに自分は[まつりごと]の世界を目指すことに決めたのだ。
 自分の手で、それを実現したかった。
 自分の手で、それが実現できるほど、現実は決して、甘くはなかったけれども。
 手が届かない。世界が見えない。重たい、責務だけがただ肩にのしかかっていく。
 こうして、何気ない日常に触れていると、ふと、疑問が、胸の奥に澱となって沈殿するのだ。
 政を選び取ったのは、過ちであったのでは、ないかと。
「エイ?」
 少女の呼び声に我に返ったエイは、弾かれたように傍らの少女を見下ろした。ひび割れて硬くなっている少女の指が、エイの手を握り締めている。エイは、その指先を握りなおした。風に翻る、干したばかりの洗濯物に視線をやりながら。
「散歩にでもいきますか」
「……え?」
「洗濯も終わりましたしね。たまにはいいでしょう。今日は畑の仕事も、薬草売りの仕事も、何もないのでしょう?」
 エイはヒノトの服からヒノトの手を外して、足元の籠を拾い上げる。きょとんと目を瞬かせて、見上げてくる少女に対して、エイは首をかしげた。
「いきませんか。私は今日は少し早めにお暇させていただくつもりなのですが」
 ヒノトがついてこないというのなら、そのまま真っ直ぐ、城に帰るつもりである。
 少女は反応をみせず、どこか呆然として、立ち尽くしている。エイは肩をすくめ、籠を小脇に抱えなおした。
「い、いく!」
 どん、と。
 踵を返しかけたエイの背に、少女が勢いよく飛びついてきた。背中に急に課せられた重みと衝撃に息を詰まらせ、咳き込みながら躓きそうになるのをどうにか踏みとどまる。ヒノトが背中にしがみついてきた拍子に手放した籠が、足元でくるりと円を描いて止まった。呼吸を整え、胸元を押さえながら恨めしさに背後を振りかえったエイは、頬を紅潮させながら喜色を満面に浮かべる少女に、怒る気力を萎えさせた。
「いく! 妾が町を案内してやるぞエイちょっと待っておれリヒトに出かけるというてくる」
 いく、の後、息継ぎすらしていない。
 一息でそうまくし立てたヒノトは、小兎のように飛び跳ねて平屋の中へと姿を消した。散歩がそんなに嬉しいのか。周囲に花でも背負っていそうな雰囲気である。
 若い娘の考えることはわからない。年寄りめいた考えに首をひねりつつ、エイは歩き出した拍子にうっかり籠を蹴り飛ばした。重石もなにもない籠は、軽々と風に飛ばされ地面を転がって行く。このままでは沼に落ちると、籠の行く末を目測したエイは、慌ててそれを追いかけた。


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